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雨の足跡

2011年04月22日 (金) 20時13分 - すばる

 

六月も下旬に入った梅雨の真っただ中、連日降り頻る雨で空気はむらっけを含み、雨傘は布地が乾く間もなく駆り出される。農家には必要だのと言われても、大概の人間にとっては鬱陶しい以外のなにものでもない。跳ね返った水で靴の中まで濡れ、下手をすれば服までびしょびしょになる。家の中でも、部屋干しした洗濯物がかび臭さを伴った湿気を放っている。空はよどみ、そのもとの光景も暗く濁った色彩をしている。
その中をぽつりと歩く彼女の姿は柳の下の幽霊に近いものすらある。実際、彼女は学校で幽霊と呼ばれていた。ならば、その幽霊に近づくそのものは何者だろうか。グレーの合羽を着こみ、目深にかぶったフードで顔は見えない。いや、そうでなくてもその面は見えまい。ただ一つ確かなのは、その者が右手で鈍い光の刃を握っていることだけだ。
 「お化けが不審者に襲われたって?」
昼休み、浅井保はどこからか仕入れてきた噂を振ってきた。彼女の欠席が三日続いた日のことだ。どこからか漏れたその噂はすでに結構広まってして、いささか新鮮味に欠ける。目下飛び回っているのは、昨日第二中学の生徒が襲われた話で、次は第三中学だのという推理ともいえない推理をだれしもがしているところだった。しかしそうとは知らない保は、それをいかにも自慢げに話すのだ。それは鬱陶しい以外のなにものでもないのだが、あえてそれを指摘するものは誰もいまい。実際、須藤崇もげんなりした顔を見せまいとしながら、保の言葉を聞き流していた。付き合いの悪い保にとって崇は数少ない友人の一人だ。社交的で積極的な崇と、内気でどこか暗いところのある保がなぜ仲がいいのか周りからは疑問に思われてもいるが、広く友好的な反面深く誰かと付き合うことのない崇もまた、保に似たところがある。そのあたりに通じることがあるのかもしれないが、少なくとも今はあまり乗り気ではない。崇はポーズとしてその話題に加わっていたが、本当はそんなことまったくもって興味がない。そういうことに疎い保ならこの話題はないと思っていたので、少々幻滅していた。彼女はもともと目立たない生徒だったので、たといいなくなったとしてもそれほどの違いはない。別に大けがをしたとか殺されたというわけではなく、単にショックで学校を休んでいるだけらしいし、そもそも自分とは関係のないことなのでそんな大騒ぎするようなことではない。そんなくだらないことでばか騒ぎするのは疲れるだけだと、保が熱心に話しているのも忘れて大きく欠伸をしてしまった。当然、そのせいで嫌な空気が流れ、その話自体もお開きになった。しかし、その話はそのわずか数時間後、それまでよりもさらに派手に花開くのであった。
 帰りのホームルームの後、担任が、放送があるといった瞬間に大半の生徒は察しただろう。その期待を裏切ることなく、ほどなくしてその不審者のことが流れる。その内容というのはもう大方生徒の間にも出回っており、本当にどこで聞いたんだといまさらながらに感心するほどだ。放送はその後、登下校にあたっての諸注意に変わり、朝夕の部活動を一時停止するというものにいたった。それを聞いた瞬間、数人が歓声を漏らす。不謹慎だと批判する崇もまた、内心それを喜んでいた。練習はただでさえきついし、雨の日が多いので筋トレをやらされる確率も上がる。そう考えると、その男に感謝したくもなる。だけどなかにはこれからどこか遊びに行こうと話しているつわものもいて、そういう人たちには不快感を覚えずにはいられない。何とも身勝手な言い分に、吐き気すら覚える。
 翌日、ようやっと登校してきた幽霊こと苅部紫は早速質問攻めにあった。気弱で根暗な紫は、突然の周囲の変化に圧倒されつつもそれらの質問にはきちんと答える。あだ名からもうかがえるように影の薄い彼女がこんなふうに話題の中心になるなんてことは、一生に一度あるかないか、紫には、左腕に巻いた包帯が何かの勲章にすら見えた。
何が楽しいんだよ、けがまでさせられて。崇はそんな紫を怪訝そうに見つめる。彼にとっては、すでに教室の空気そのものが異常だ、昨日までは付き合いとして興味のあるふりをしていたけれど、もはやそれをするのも耐えられないとばかりに頬杖をついている。対していつもそうしているはずの保は、今回に限って皆と同じ娯楽に興じた。崇にはそれが理解できなかった。紫やほかの生徒のこともそうなんだけど、何よりも保の豹変ぶりに驚いている。ハイになっているとでもいうべきか、日頃溜まった鬱憤を吐き出すかのように、保は周りのものと一緒になって騒ぎ立てている。もしかしたら昨日自慢げに古い噂を話したのがよほどショックだったのかもしれない。それで熱心に会話に加わっているというのなら、少しは納得できなくもない。紫の声は小さく、ここからでは何を言っているかなど毛頭わからない。窓を打ちつける雨の音のほうがよほどよく聞こえる。まあそんなことには興味ないが、気がつけばなんとなく聞き耳を立てている自分がいる。どこかで惹かれているところがあるのか、単に娯楽がないだけなのかは分からないけど、なんとなく自分自身に腹が立つ。興味ないなんて言うのは、単に格好つけたいだけなんじゃないかと誰かが呟くような気がした。でも今からそれに交わろうとするなんて、それこそ格好悪い。何を話しているのか知りたいもどかしさはあるけれど、遠目に観察するにとどめることにした。
 その話に新たな進展があったのはそれから五日後、六月の最後の日のことだった。誰しもが予想した通り今度は第三中学の女子生徒が襲われた。だけどそんなことはもう記憶の片隅に追いやられ、かわりにこれまでよりも奇的な話が出回った。この、襲われた女子生徒というのがまた恐ろしくおしゃべりで、その日のうちに第三中学の大半と、一部の第一、第二中学の女子の間に広まっていた。おかげでだれが命名したのかは知らないが、翌日にはすでに雨鬼なる異名が出回っていた。当初はその内容の奇抜さに半信半疑だったものも多いが、それを聞いた紫が確かそうだったといったことで妙に信憑性を増し、それが追い風になったのかその話はやけに早く広まっていった。おかげで傍観を決め込んだ崇の耳にも再三その話は入ってきた。おかげで保はまたしても無意味な独擅場を披露する羽目になったわけだが、崇はそれを聞き流しながら内心で批判していた。ばかばかしい、そうやってああいう輩はエスカレートしていくんだな。崇の目には、彼らが楽しんでいるようにしか見えなかった。お祭りで浮かれる子供と大差ない。それは時とともに色褪せ、衰えていくものだから、こんな噂話などたちまち忘れ去られてしまうだろう。そう考えると、テレビや新聞で報じられるニュースもまた娯楽として消費されていっているのかもしれない。対岸の火事は、もしかしたら美しく見えるものなのかもしれない。崇は内心舌打ちをする。学校は社会の縮図だとどこかで聞いたことがある。ならば、人間の社会というのはなんてくだらないものだろう。嘘っぱちの、冷えきった関係、なんて、空っぽなんだろう。
崇が遺体で見つかったのは、その日の夜のことだった。
 降り頻る雨は滝のようで、傘はすでに用をなしていない。教室へと向かう廊下でやけに濡れているのも気のせいではないだろう。しかしそんなものは、渡り廊下の悲惨さに比べたらたいしたことはない。そこはすでに風雨の領域で、たとい傘を用いたとしても濡れずに通り抜けるのは至難の技だろう。機関銃を乱射したかのように打ちつける雨粒で窓は今にも砕かれそうで、そんなだから教室の中はより一層暗かった。まるで声をどこかに忘れてきてしまったかのように、誰も、何も発しない。新たにその集団に加わった保も、まるで音を立てることがタブーであるかのように無言で自分の席に着く。なんとなく、その空気は居づらかった。だけど一方でこの場に居続けないといけないような気がして、ただ時が過ぎるのを待つ。周りの者は皆魂を取られた抜け殻のようで、自身もまた金縛りにかけられたように動くことができない。瞬きをすることすら嫌悪の対象であるような気がする。やがて世界はゆっくりと廻り始め、人形は人間に戻った。それでも、あの話をすることそれ自体が禁忌であるかのように、皆一様にその話題を避けた。罪悪感と共犯意識に絡め取られ、誰もが皆、同様のうしろめたさを背負っている。その後、誰も雨鬼などという言葉を口にすることはなかった。まるでそんな言葉はもともと存在しなかったかのように。

最終更新:2012年09月21日 13:31