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鬱屈とした朝

2008年03月01日(土) 22時35分-カンパニール

 テレビをつけた時、血液型占いは既に終了していた。
 ならば全ての番組は茶番であり、視聴する価値など毛ほども無いと確信して私は目を背けようとした。ただ、画面に大きく映し出された女性キャスターのけだるげな目が私の心に留まり、なんとかその衝動を霧消させることができた。
 午前中はどの局も同じようにワイドショー然とした名ばかりの報道番組を垂れ流すばかり。いずれも現代社会を嘆き、若者や子供を愚弄し、情勢不安を煽るだけのくだらない代物だ。
 今日も今日とて切り替わったVTRは動物園。なんでも、ちょっとばかしみょうちくりんな挙措をする獣がいるらしい。まるで見世物小屋。そんな取材に金をかけるくらいなら、モザンビークの幼児たちにワクチンを送るがいい。
 そして現れたのがアライグマのオスカル君(5歳)だ。どうせ立ったり座ったりキスしたり勝手に檻から出たりするくらいのものだろう。こんな児戯にスポンサー料を出すくらいなら、シエラレオネの難民たちに書き損じはがきを贈るがいい。
 だが予想に反して、このオスカル君(ヘブライ語で「神と剣」という意味)は、私の錆び付いた琴線を大いに震わせて、あまつさえ閉じた目を開かせる調べを奏でたのである。
 長細いマイクを携えたレポーターはおおよそこのように言った。
「さて実はこのオスカル君、なんと檻の中で鬱屈してくれるというんです」
 私はその女の発した「うっくつ」という音に首をかしげて字引を取り出したものの、やはり「鬱屈」しかあるまいとしてテレビに向き直った。その後に展開された光景はまことに筆舌に尽くしがたいものであったが、私が受けた衝撃の万一でも伝えたく、あえて筆舌に尽くすことを試みようと思う。
 それは確かに鬱屈としか言いようの無い様で、例えるなら前屈に似ていた。ただ、いかんせんごく相対的な例えであって、アジャンター石窟に比べれば前屈に似ているという程度のものである。右足と左手が奇妙に交差し、仰向けとうつ伏せのちょうど中間の体勢が精妙なバランスでもって成立していた。右手と左足は少しく諧謔的で、長座体前屈と立位体前屈のまさに折衷といった風体が私の胸を貫いた。重ねて言うが、オスカル君(北米原産)はどこから注視しても文句の付けようの無いほど鬱屈していた。
 考えてみれば当然とも思える。彼らは全き無辜の身にもかかわらず、生来鉄の檻に収監され、何すること無く、ひねもす人々の好奇の目にさらされ続けるのだ。かくまでに鬱屈を醸成させうる暮らしがあるだろうか。間断無い精神的圧搾に耐え忍んできた彼の心中を察し、私はひどく打ちひしがれた。いくばくの生き甲斐をも持たず、専ら機械的な給仕に生かされる生活を想像して、心底戦慄した。こうして取るに足らないことで毎日を塞ぎ込んでいる自分の軟弱さを恥じた。
 と同時に、オスカル君(特定外来生物)の鬱屈をへらへらしながら眺め回している人間たちに格別な怒りを覚えた。畜生の類ですら備える感受性を、どういう了見で私たちが理解できないことがあるのか。私は一方的にしろ彼との非常な心の疎通を感じ、彼を苦しみから解放してやりたいという希求、あるいは解放してやろうという気概が俄然湧き起こった。それが堅固な決意に変わるまでにそれほど時を要すことは無かった。

 以上が、私をして日々の鬱屈から脱却せしめるに至った経緯であることをここに付記しておく。

だめだこりゃ。
最終更新:2014年02月17日 12:19