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生死肉骨

2008年03月09日(日) 17時20分-R





 この世に神など無い。
 少なくとも、私を救おうという稀有な存在などありはしない。
 ならば。
 ならば、私は、そんなもの――要らない。



序章  宣告

 エステイラ族は、脆弱だった。それ故に、争えば破れ、蹂躙され、滅亡の途を辿っているのは誰の目にも明らかであった。
 しかし、彼らはその道理を捻じ曲げた。
 エステイラの神話にこう記述がある。
 『彼らはそれを神と崇め、望むもの全てを貢物として捧ぐことを誓った。
  そして神は、彼らに死を恐れぬ戦士を遣わした。
  戦士達はどこまでも敵を追い、滅し尽くした。
  神は契りが守られる限り、戦士達は彼らに勝利をもたらすだろうと告げた』と。
 エステイラの信じる神は、その名を口にすることを許さず、よってただ「神」とだけ記されている。
 しかし、その後のエステイラの残忍極まりない侵略――エステイラの民にとっては、神に奉じる「聖戦」と残されている――を見ると、彼らが信仰した神はむしろ魔に近いものであるように思われる。とはいえ、エステイラの民が歴史の彼方へと消え去った今となっては、それを確かめるすべは無いのだが。
 そう、神に戦勝を約束されていたはずのエステイラの民は、その神の与えた戦士によって、長き暴虐の日々に終止符を打たれたのである。彼らの、その力への過信と驕りのために。そしてたった一度、神との誓いを違えたために。
 運命は無慈悲だ。
 エステイラの民にではなく、亡国の戦士にでもなく、この世界の命運そのものに対して、あまりにも残酷だ。
 ここに、絶望的な未来へと続く物語は始まりを告げる。



第一章  畜生

 夜――館は狂宴の只中にあった。燃え盛る松明の明かりの中で、美しく飾られていたはずの皿は無造作に掻き乱され、人も床も問わず流れ出た酒のにおいが鼻をつき、半裸の男と女が至る所に転がって妖しく蠢いている。そして炎の照り返しを受けて、金銀宝玉がギラギラと照り輝いていた。
 浅ましいな――ガラクタ同然に打ち捨てられ、それでもなお己を主張して光をはね返す財宝の姿を見、男はそう思った。ならば、それに群がり奪い合う輩は獣にすら劣るのだろう。
 だが、現実は――
 ギリ、と男は唇を噛み締めた。あの醜態を見せ付けられるたびに思い知る、己の立場。あの下卑た連中にすら蔑まれる自分は、おそらく一個の生物ですらない。一族郎党、皆がただの塵芥に過ぎない現実に対して男が出来る事は、嘆くことと悪態をつくことぐらいだった。

 『マリス・ステラ』――それがあの男の名であり、ステラの族長の名であり、エステイラの運命を変える鍵となった人物の名である。

「それにしましても、まっこと素晴らしい」
「プランシ様のアストラルに敵う者はおりませんなぁ」
「本当に、まったくもってあやかりたいものでございまする」
 そんな澱んだ空気を割って響く声、声、声。それらは全て、この宴の主に向かって投げかけられたものだ。
「いやいや、これも全てエステイラを導く神のご加護の賜物で――そもそも開祖であるデトヒ様の直系であるわれらアカンザスタ一族にとって神を崇めるのは至極当然――」
 後はお決まりの口上だ。如何に己の一族が優れているか、どれほど神に対して信仰を持っているのか、授かったアストラルは歴代で最強と言えるだろうとか、聞くに値しない自慢話だ。そして、それに応えて歯の浮くような褒め言葉とおべっかが絶え間無く続く。さらに彼の一族と血の繋がりがある連中が便乗して讃えられ、富豪らが差し出す貢物(宝玉だとか美女だとか珍味だとか)を掻っ攫ってゆく。
 同じエステイラの民であるはずなのに、どうしてこうも差があるのだろうか。
 何も無い。
 だから何も出来ない。
 ――それがエステイラの真実だった。
 エステイラにおいては力こそが絶対である。
 正確には、アストラルと称される神の戦士の強さが全てだった。アストラルがいない一族など、エステイラの民を名乗ることすらおこがましいとされるほどに。
 その点から言えば、ステラはエステイラの民ではない。
 勇猛な戦士は開祖デトヒの時代に既に失い、戦士を孕む巫女も歴代で数えるほどしかおらず、彼女らの宿した戦士はアストラルとなることなく散っていったからだ。
 たった一つ、彼らステラ一族に残されているのヘ、目も眩むような美貌のみ。だが当然それらは、強者に狙われるために存在しているようなものだった。身を守るすべになどなるはずもなく、むしろ彼らの身を危険に晒すものでしかなかったのだ。
 それゆえ、彼らの生き様は決まっていた――犯され、奪われ、失い、貪り、捨てられる。
 すべては、権力に捧げられるために。そう、今は特に、マリスの目の前に踏ん反り返る醜いケダモノのために。
「楽しんでいるか? マリス」
 取り巻きを引き連れて現れたのは、最強の戦士オンニ・アストラルを有する最高権力者、プランシ・アカンザスタその人だった。
 豪奢な絹も、輝く金細工も、何故この男にかかるとこんなにも下卑た安っぽい物に見えるのだろうか――その下卑た笑い顔を見るにつけ、腹の底から嫌悪と憎悪が沸きあがってくる。が、彼はそれをおくびも表情に出さず、「えぇ、おかげさまで」とだけ返した。
「戦功の無い一族までこのような華やかな宴に呼ぶとは」
「プランシ様のお心の広さにはまったくもって感服いたしますぞ」
 プランシが一言発するたびに、取り巻きが媚びへつらってご機嫌取りをする。そのおかげで直にプランシに話し掛けられない状態であるのが、マリスにとってはまだ救いであった。
 こんな男に従いたくはないが、奴が一族の存亡を握っている限り、族長に選択肢は無い。出来るだけ関わらないように身を潜め、自分に興味を持たぬように祈りながら、黙って耐えるしかないのだ。
「しかしまぁ、」
 ふと、取り巻き連中が、まるで汚物を見るがごとき視線をマリスへと投げ掛けた。
「何という厚顔無恥な一族であることよ」
「そもそも、アストラルも持たずにエステイラの民を名乗るなど、どうかしているというもの」
「あまつさえ聖戦の祝いの席にのうのうと現れるとは、いささか信じられませんな」
 うっとおしい取り巻きの言葉も、相手にすると付け上がるだけだ。無視を決め込む。
「しかし、私めなれば、恥ずかしさのあまり死んでしまうでしょうに」
「醜態を晒してでも生き長らえたいとはねぇ」
 アストラルを侵略の駒として使い、戦わずして彼らのもたらす益を貪るだけの連中が何をほざいているのか――マリスは無表情のまま、罵詈雑言で盛り上がっている一団から目を逸らした。
 付き合っていられない。
 この騒ぎの中では誰も自分のことなど構うまい――マリスはそっとその場から離れようとし、目ざとくプランシに見咎められてしまった。
「おや、マリス、どちらへ?」
 わざとらしく大声で呼び止められる。散在していた皆の注目が、一気に自分へと集まったのを、マリスはハッキリと感じた。
「いえ、ただこのような下賎の者がおっては皆様の興が冷めようと思いまして・・・私とて、場の空気ぐらいは読めますので」
 とりあえず、自分はこの場にいないほうが良いと受け取った、と誤魔化す。そのまま退席したかったが、今の状況では、マリスがここにいるべきか否かは、絶対者プランシの言葉によって決まる。
「まぁ待て、マリス」
 思ったとおり、獲物を逃がすまいと、プランシが笑みを浮かべながら近付いて来る。
 何をさせる気であれ、よからぬことには違いあるまい。腹を据え、マリスは少しだけプランシに向き直った。
「何でございましょう」
 言いつつプランシの前に頭を垂れ、手を組んで顔を隠し――とりあえず、これで直に奴の顔を見ずにすむ――権力者の次の言葉を待った。
「うむ・・・此度の遠征の戦果は、オンニの八面六臂の活躍もあり、実に華々しくてな」
 たっぷりと間を取り、プランシは一語一句をいやらしく強調しながら自賛する。待ってましたとばかりに口を開こうとする取り巻きを手で制し、彼はマリスに向かって顎をしゃくった。権力者プランシに対する賛辞を述べよということなのだろう。
「・・・おめでとうございます」
「うむ」
 そうですか、で済ませるわけにもいかず、かといってこんな下衆を讃える気にもならず、マリスは当たり障りの無い言葉で茶を濁した。
「・・・」
 プランシは、まだ足りぬと無言の催促をする。
「さすが最強の戦士、オンニ・アストラル様を誇るアカンザスタ一族、かような卑賤の者にまでお目溢しを頂けるとは思いもよりませんで」
 それだけか?とでも言いたげな面を殴ってやれたらどれほど心が晴れるだろうか――出来るはずのない願い押し殺し、マリスは考えた。こんな外道を賛美する言葉など持ち合わせてなどいないが、思考を止めようとする頭を必死に動かしながら言葉を捜す。
「まさにこの世の華、天下の栄光も思いのままですな。私めも是非ご威光にあやかりたく――」
 巻き起こる嘲笑。
 考えるからつらいのだ。何も考えてはいけない。
「つきましては・・・」
 だが、喉が詰まる。言葉が震える。台詞が途切れる。
「・・・つきましては――」
 何か適当な言葉はないか、何でもいいから。
「――是非とも我が妹巫女のために、」
 とっさに出た言葉がそれだった。畜生、言わなければ良かった――マリスはそう悔やんだが、もう遅い。
「・・・祝いの御言葉を頂きとうございます」
 大嘘だ。
 巫女は戦士を生むことが出来る希望の星、こんな連中に名を呼んでほしくない。
 しかし、マリスの後悔とは裏腹に、プランシを始めとして誰一人、彼女の名前を口にすることはなかった。
「妹巫女・・・?」
 いかにもわざとらしく、プランシはとぼけている。
「はて、貴殿の一族に巫女などおったか?」
 ――やはりこうくるか――ギュッと唇を噛み締めながら、マリスは固く目を閉じた。居なかったことにする気だ。
「最近、物忘れが激しくてなぁ・・・何か知っているか?」
 プランシは芝居めいた振る舞いで取り巻きに向かって首をかしげ、「存じませんなぁ」の答えに満足げにうなずく。
「すまんが、誰ぞその者の名前を言えるか?」
 どっと沸き起こる笑い声。
「妄想もここまで来ればご立派でしょうなぁ」
「いやはや、さすがはエステイラの面汚し、誰も信じぬ虚言を弄するとはねぇ」
 プランシの否定の言を待ち構えていたのであろう、取り巻き達の見下した笑み。
 こうなることはわかっていたとはいえ、マリスにとってこの仕打ちはこたえた。自分が事実を捻じ曲げて喋っているとされた中傷のためではなく、ステラ一族の巫女など誰も認知しないという事実のために。
 巫女が戦士を生むには儀式を執り行わなければならない。
 本来ならば皆が平等に使用できるはずの祭壇は、今や権力者の私物と化している。何かしらの貢物で気を惹き、使わせて頂けるという許可が必要なのだ。
 それが、そもそも巫女など知らないとされれば、どうなるか。儀式執行のために権力者に贈らねばならない貢物が一回、余計に増えることになる。マリスを始め、ステラ一族はそれに見合うだけのものは持ち合わせていない。
 ――どうすればいい、どうすれば――
 足がふらつき、体重を支えきれなくなって、マリスはひざをついた。
「涙まで流して・・・演技派よのぉ」
「そうまでしてまで妄言を信じて欲しいとは、人はあそこまで落ちぶれるものなのだなぁ」
「同感ですぞ。泣けば心お優しいプランシ様が情けをかけてくださるだろうという魂胆が手にとるように見えまするぞ」
 嘲られて、マリスははじめて己が涙していることに気がついた。絶えることのない失笑に紛れ、誰かの「上辺を取り繕っても心がこもっておりませんな」という声が耳に入る。
「まぁ、良いわ」
 プランシの声が響き、マリスは意識を目の前の男に戻した。
「先にも言ったが、此度の戦果は実に素晴らしくてな。そこでお前にも、少ないが何かとらせようと考えたのだ」
 溝(どぶ)に捨てるようなものだ――そうこぼした男が、次の瞬間、下を向いているマリスの視界に倒れ込んできた。プランシの気に障ったのだろう、「決してそのようなつもりでは」と詫び続ける男の腹にカカトの一撃がめり込んで、男は静かになった。
「他に何かあるものは?」
 足しか見えないが、声から察するに叔父のユディだろう。最近、プランシの取り巻きの中でも抜群の地位を得ている。噂によれば、自らがプランシに継ぐ権力者であるといわんばかりの振る舞いをしているらしい。もっとも、それがマリスの置かれている状況を好転させてくれるものではない以上、彼にとってはどうだっていいことであった――後に彼が、何故ユディがそれほどまでの地位を築くことが出来たのかを、身をもって知るまでは。「失礼、話の腰を折りましたな」
「よい、ユディ――皆も良いな、これはこのプランシ・アカンザスタが決めたことだ」
 気まずい雰囲気だったが、誰も彼に反抗できない。権力に取り入りたいと思うなら、なおさらだ。そのことを確認すると、プランシは満足げに、「うむ」と唸った。
「ついては、この――」
「結構です」
 自慢げに戦利品を取り出すプランシの言葉をさえぎり、マリスは言い切った。
「聞けば、私よりもそれを手にするに相応しい御方が大勢いらっしゃる様子。なれば、戦功無き私がそれを頂く理由がどこにありましょう」
「このプランシが授けると言っているのだ。不服か?」
 蹴り倒されるか、踏み付けられるか、返答如何によっては制裁という名の暴力が振るわれるのは承知の上だ。それでも、役に立たない装飾品よりも必要なものがある。
「私が欲しいのは、儀式の執行許可のみでございます」
 暫く、しん、と静まり返った後、爆笑が巻き起こった。腹を抱えたり、目じりの涙を拭いてみせたり、マリスを指差したり、周りの者と悪口を言い合ったり――あまりにもうるさかったので、マリスはプランシが自分の目と鼻の先まで近付いて来たことに気付かなかった。視界に芋虫のような指が見えたかと思うや否や、マリスの視界は床から引き剥がされてしまった。
「――!」
 小さく叫び声をあげそうになった口の中に、プランシの指が突っ込まれる。
「マぁリスぅ~」
 ぐりぐりとマリスの口内をこね回しながら、プランシがにたぁと笑った。舌に押し付けられるぶよぶよした塊への嫌悪に嗚咽が漏れる。
「言っただろう? お前の一族に、巫女などいない・・・んん、少なくとも、このままではいたことが思い出せんだろうなぁ・・・」
 がまのような顔を歪めながら、プランシは一層にたにたと笑う。
 ――畜生、死ねばいいのに。マリスは心の底からそう願った。彼の一族に対してプランシが働いてきた非道の数々が、白くなった視界に次々と映し出される。
 父が自らの命を絶ったのも。
 母が処刑という名の元で色狂いの奴隷にされたのも。
 姉が正気を失したのも。
 全部、
 プランシ・アカンザスタ、
 この男のせい。
 なのに――
「どぉした、マリス・・・言いたいことがあるなら申してみよ」
 何も出来ない。
 自分の身一つ、守ることが出来ない。
 あまりの気持ち悪さに、体が凍りついたように動かない。悔しさのあまり目から涙が零れ、頬を濡らす。だがその姿はひどく扇情的で、かえってプランシを喜ばせるだけだ。ベロリと舌で涙を舐めとられ、おぞましさのあまり体が震える。
「儀式の執行許可、考えてやってもいいぞ・・・お前の出方次第ではな」
 『出方次第』――その意図するところは否が応でもわかった。プランシの空いたもう片方の手が、マリスの腰から下へ、なぶるように動く。全身を蛭が這い回っているかのようなゾッとする感覚に、マリスはギュッと目を瞑った。しかし、それに耐えなければ掴みかけた希望すら零れ落ちてしまう。族長である以上、自分よりも優先させるべきは一族のことだ。
 ところが、覚悟を決めたマリスの予想に反し、プランシは手の動きを止めた。それどころか、プランシは乱れかけたマリスの衣服をそっと正したのだ――別に何かされることを期待されていたわけではなく、何もされないほうが良いに決まっているのだが――あまりにも、ありえない行動だ。
 怪訝に思うマリスの耳に、落胆のどよめきが聞こえて納得した――プランシは羨望されるのをこの上なく好む男だ。価値あるもの、珍しいものは自分の手元に残し、他人にただで見せようとはしない。今まで散々手を尽くしても得られなかったものが、ようやく手に入ろうかという時に、むざむざそれを見せびらかしたくなかったのだろう。当然、それが意味するのは、最悪の行為が先延ばしになったということだけだ。
「さて、皆の者」
 無造作にマリスの口から指を引き抜きながら、プランシがざわつく取り巻きに向き直る。
「聞いたとおり、マリスは少々酔っているようでな・・・戦利品については今宵、宅にてゆっくりと話し合うことにした」
 ゲェゲェとむせ返っていたマリスは、その言葉を聞いて、自分の周りから光が消え、底無しの暗闇に落ち込んでいくかのような絶望に襲われた。まだ今ここで見世物になっていた方が良かったかもしれない。あんな奴と二人きりで、何をされるか想像したくもない。
 マリスが呆然としていると、プランシの話もそこそこに、取り巻き達が妙にそわそわしながら暗がりへ散っていった。
「(――あぁ、醜いな)」
 大方、マリスの艶かしい姿を見て興奮したのだろう。ここには美しい女もたくさんいる。すぐさま、方々から荒い息遣いが聞こえてきた。
 あの中には、母だった女もいるのだろう。
 母だけではない。あそこにいるのは、略奪してきた美女と、ステラ族の女がほとんどだ。彼女らは憎しみも怨みも忘れ、与えられる快楽を貪るだけの人形に成り果てている。
 生きるためには、そうするしかないから。
「(――自分も、ああなってしまうのだろうか)」
 ぼんやりと、そう思う。
 世が世なら誇ることも出来るその容姿も、今の彼にとっては邪魔でしかなかった。殴られ、蹴られ、踏み付けられ、なじられるのもつらいだろうが、服を破かれ、押さえつけられ、嬲られる苦しみはより耐え難いものだった。
 ――ならば、ああなってしまえばいいのではないか――
 熱に浮かされているような足取りのまま、マリスはふらふらと部屋を出ていた。その背後からは、聞くに堪えない奇声が上がり続けている。
 ――ああして何も考えずに生きられれば、それは『幸せ』なのでは――
「・・・嫌だ・・・」
 奪われるだけの美しさなど要らない。
 欲しいのは、身を守れる強さ。心を捨てずに生きられる世界。
 ――そんなものエステイラには無いとわかっていても、僅かな希望に賭け、身を捧げてしまう愚か者――それが、マリス・ステラだ。
「・・・畜生・・・」
 遥か遠くから、乱交の破廉恥騒ぎが響く。耳障りで、胸を抉られるような、不快な音。
 どうしようもない。あまりにも無力なのだ。同族一人すら、救えない。
 ボロボロと、溜まった涙が止め処無く流れる。
 打ちひしがれるマリスを、月も嘲笑っているのだろう。夜を裂くような光の爪が、一際眩しく、ギラギラと光っていた。



第二章 贄

 戦士誕生の儀式――それはエステイラの民でなければ蛮行にしか見えぬだろう。
 かつてデトヒはこう神に誓った。
 我々に、勇にして暴、死すら恐れず、戦いのためのみに生きる神の戦士を授けて欲しい、もし戦士を遣わしていただけるのならば、我らは新たな命を宿す者を貴方様に捧げましょう、と。
 その証としてデトヒは、臨月であった妻の腹を裂き、我が子に刃を突き立てたのである。神はそれを認め、子の肉より戦士を創り上げ、デトヒに与えた。戦士アストラルは大いに戦い、敵を殲滅し、神の元へ戻ったとされている。
 さらにデトヒは問うた。
 新たな戦士はどのようにして遣わされるのでしょうや、と。
 神はデトヒに、五つの制約を守るよう誓わせた。
 ひとつ、神を疑ってはならぬこと――神の名を騙る悪魔を信じず、唯一絶対である神を崇めなければならない。
 ひとつ、エステイラの血を尊ぶこと――他の民草の忌まわしい血を、エステイラに混ぜてはならない。
 ひとつ、巫女は神の花嫁として純潔を守ること――穢れ無き巫女の胎にのみ、戦士たり得る器は育つ。
 ひとつ、祭壇を構え神の名の下で儀式を行うこと――誤れば生まれるは人間の力しか持たぬ肉のみ。
 ひとつ、神の子である戦士を汚(けが)してはならぬこと――神の枷が外れた戦士は人間へと堕ち、力を己がためのみに振るうようになる。
 それらを代々守り続ければ、エステイラは神の加護の元、如何なる強固な軍であれ、打ち破ることが出来る戦士を授かるであろう、と。
 この伝承にのっとり、エステイラの民は自らの一族の命運を一人の少女に託すようになった。彼女の内に戦士の器を宿させ、時が来れば子諸共に命を捧げ、一族の守り主となる戦士を誕生させるのだ。
 時を経るにつれ、戦士の優劣が一族の盛衰に繋がるようになると、彼らはこぞって戦士を生み出した。しかし、その中で戦士として大成するものは少なく、『神の戦士』を意味する『アストラル』を冠するものは数えるほどしかいなかった。こうして権力争いは収束し、覆し難い階級が存在する社会が築かれたのである。
 早くに戦士を失うも、その美しさのために権力者の玩具として生き延びさせられているステラ一族にとって、人間としての尊厳を取り戻すことはかねてよりの悲願であり、それを成し遂げんとする女達の決意は鬼気迫るものであった。無論、ステラ一族の希望であるマリスの妹巫女、マリア・ステラも例外ではない。
 ――戦士を生めぬ女などただの雌――それが彼女の口癖だった。そしてそれは現実に、ステラ族の女性の末路でもある。
 現実を、運命を、変えなければならない。
 だがそのためには、巫女であるマリアの命を捧げなければならない。掛け替えの無い、愛する家族を失わなければならない――

「――様、お兄様」
 度重なる呼びかけに、マリスはようやくハッとした。
「あ・・・どうかしたのか、マリア」
「それはこちらの台詞ですわ、お兄様。戻られてからずいぶんぼんやりなさって・・・また何か良からぬことを思っているのではありませんか」
 口調は柔らかだったが、持ち前の気の強さゆえの少々きつい喋り方は普段の彼女と何ら変わらない。数日後に死ぬことが決まっているとは思えないほど、いつも通りだ。ただ、身重ゆえに寝台から身を起こすことが出来ぬことを除けば。
「・・・いいや」
 そんな彼女を見てしまえば、今まで何度も喉元まで出掛かった「一緒に逃げないか」という言葉は霧散してしまう。
 逃げるだなんて、お気を確かに、お兄様――と、きっと彼女は唖然とするだろう。今まで私共がどれほど惨い仕打ちを受けてきたのか、お兄様も忘れたわけではございませんでしょう?――そうやって諭そうとするに決まっている。
 言われるまでもなく、忘れることなど出来はしない。外に一歩出るだけで、何かしら酷い目にあうのだから。まだかろうじて貞操が守られているのは、プランシがマリスに執着しているからだ。だから誰もマリスに対してはっきりとは手を出さない――死にたくはないから。ただそれも、今夜までとなりそうだが。
「・・・そんなに変な様子だったか?」
「ええ」
 心配をかけまいとしていても、あっさりと見抜かれてしまう度胸のなさに、思わず溜息が漏れる。
「おっしゃってくださいまし、お兄様。言葉にするだけでずいぶんと楽になると聞きます。そんな悩みなどくだらぬことだとマリアが言って差し上げますわ」
「・・・死に臨むお前に言われたくないよ」
「まぁ! 言ってくださいましたわね」
 マリアは少しムッとしたように唇を噛み、ふいとそっぽを向いてしまう。
「マリアはヘソを曲げましたわよ。もうお兄様の心配なぞしてあげません」
「そうかい、それは困ったな」
 クスクス、と笑うマリアにつられて、マリスも少し笑った。ほんの少しだけ笑って、ふぅ、と息を吐く。
「――マリア、そのままで聞いて欲しい。聞くだけでいい、返事は・・・要らないから」
 わかりました、というように背筋を伸ばすマリアの後姿に向かって、マリスはついに言った。
「一緒に、ここから逃げないか?」
 沈黙。
 顔は見えないが、不甲斐ない族長に呆れ果てているに違いない。自分から言い出しておいて馬鹿馬鹿しいが、居た堪れない気持ちになってくる。
「――ごめん。冗談が過ぎた」
「そうですわね。族長としては言ってはならないことですもの。一族の期待を投げ出して生きたいだなんて、二度とおっしゃらないでくださいまし」
 予想していたとはいえ、キッパリと言い切られると胸がギュッと縮む思いがする。
「そうだな・・・どうかしていた」
 どうも気分が滅入る。あの狂宴から戻ってから、前向きな気持ちが微塵も起こらない。ひたすら弱気になるばかりだ。
「一時(いっとき)の気の迷いだ。忘れてくれ」
「それでも、お兄様、肉親として言わせていただけましたならば・・・」
 思いがけない一言に驚くマリスの耳に、すぅ、とマリアが軽く息を吸い込む音が聞こえる。
 彼女は言うかどうか暫く逡巡した様子で黙っていたが、「嬉しゅうございましたわ」とだけ早口で呟いた。
「――マリアは聖女にはなれませんわ。一族のために喜んで死ぬことなど、とても・・・」
「マリア・・・」
「それでも、マリアには好きな人がおりますの」
「初耳だぞ!?」
 驚きのあまり大声で叫んでしまい、マリスはとっさに自分の口を押さえた。極力声を抑えながら、マリアに尋ねる。
「誰なんだ、それは?」
「・・・一族のどなたか、とだけ」
 よくよく考えてみればそれも当然だった。マリアは巫女となってから一歩も外に出ていないのだ。それに、巫女となる以前に遭遇した一族以外の男はケダモノでしかなかった。しかし、ステラの男はマリスを含め、数えるほどしかいない。だとすれば一体誰なのだろう?
「余計な詮索はおやめくださいまし、お兄様」
 女の勘、とかいうやつなのだろうか。マリアはまるでマリスの心を見透かしているかのように振舞う。
「所詮は叶わぬ想いです」
「そう、か」
「マリアはその方の幸せを願うがために、お兄様の優しさを拒絶いたします・・・そして、それが一族のためにもなるのですわ」
 背中越しで見えない彼女の顔には、どんな表情が浮かんでいるのだろう。胸に秘めた想いを伝えることなく、死なねばならない運命に対して、何を思っているのだろう。
「お兄様、マリアは――」
「だぁいじょぶですわぁ、心配性ですのねぇ」
 素っ頓狂な聞き慣れた声が響き、マリスは扉の方へ振り返った。マリアも同じように振り向いて、扉に視線を投げている。
「お姉様!」
 声を上げたのは、マリアが先だった。
 マリスはというと、いつもにも増して酷い有様の彼女の姿に、すっかり声を失っていた。
 そこには、マリアと瓜二つの美しい女性が立っていた。だが彼女がマリアと決定的に違うのは、その瞳はどこにも焦点があっておらず、顔にも体にもアザや怪我が見え、服であった布切れが申し訳程度に肢体に張り付いていることだ。そのような状態であっても特別目を惹く美貌が、かえって惨状を際立たせている。
 しかし、当の本人はそのようなことなどお構いなしに、もつれた足で二人の元へと駆け寄ると、最後は転ぶようにしてマリアの寝台の足元に飛び込んだ。
「マリス、お帰りなさいましぃ」
「・・・ただいま」
「お姉様、マリスはもう弟ではありませんことよ。ステラの族長ですわ。きちんと『お兄様』とお呼びしなければ」
「そぉでしたわねぇ、お兄様、マリス、マリヤ、マリスはお兄様、マリアは、マリアは? マリアは巫女様ですの? マリヤですの?」
「マリアは、マリアですわ。それと、お姉さまは、マリヤですわよ」
「うん、マリア、マリヤですわぁ」
 ニコニコと、子供のようにマリヤが笑う。彼女の乱れた髪をマリアが優しく撫で付けている様は、さながら親子のようにも感じられる――本当は双子の姉妹なのだが。
 そう、マリヤとマリアは美しい双子の姉妹だった。二人はマリスの姉にあたる――兄と呼ばれるようになったのは、族長になったからだ。弟とはいえ、長を呼び捨てることは出来ないからと、そう呼ばれるようになった。
 ともかく、二人は一つの魂を割ったかのように似通っており、とても仲が良かった。巫女になる時も一緒、のはずだった。
 悲劇はある日、唐突に二人を襲った。
 咲き誇る二つの花は、巫女として純潔を守るには、あまりにも可憐過ぎたのだ。片方は無残にも手折られ、花びらを散らされた。もう片方は、あと少しで同じ運命になるところを、かろうじて助かった。
 戦士を生めぬ女などただの雌――ステラにとってそれが真理だ。
 マリヤが暴漢から解放され、ようやく自我を取り戻した時、彼女は悪夢のような現実を知った。
 茫然自失のまままんじりともしなかった彼女は、不意にはらはらと涙を流した。それが滝のように激しく頬をを濡らすようになると、彼女は喉が潰れんばかりの大声で泣き喚き、叫び散らした。そして最後には獣の咆哮が高笑いへと変わり――マリヤはもうマリヤではなくなってしまった。
 二人を襲ったのはアカンザスタ一族だった。
 そして娘を守るために彼らに歯向かった母は、処刑という名目で連れて行かれてしまった。正しいかどうかなど問題ではない。大切なのは、どちらが権力を持っているのか、それだけだ。
 だが、それではまだステラのアカンザスタに対する非礼を埋めるには足りぬと、アカンザスタの長プランシはマリスを差し出すよう彼の父に要求した。彼は息子を守るため、族長の座を息子に譲り、自ら命を絶った。族長ともなれば、簡単に手を出すことは出来ぬだろうと、淡い望みに賭けたのだ。
 残されたのはまだ幼さの残る兄弟だけだった。
 マリスは族長となった。
 マリアは巫女となった。
 そしてマリヤは――
「さあ、お姉様、そのようなお姿では身が凍えましょう。湯につかり、服を着替えていらっしゃいな」
「やですぅ、マリヤはまだマリアのとこにいますぅ」
「もう、我侭が過ぎましてよ、お姉様」
 慈愛、悔恨、憐憫、苦悩、嫌悪――マリアの姉を見る瞳には様々な感情が入り混じっていた。彼女にとってマリヤは鏡であり、自分なのだ。状況がわずかに異なれば、立場は逆だったに違いない――そう思えば思うほど、さらに心が乱れるのだ。
「マリアー、何かつらいことがあるのですかぁ? 顔が悪いですぅ」
「あら、マリアはそんなに酷い顔になっておりましたかしら?」
「なっておりましたかしら」
 うふふ、と焦点の定まらない目でマリアを見上げながら、マリヤが笑う。
「大丈夫、何かあったらマリヤがマリアを守ってあげますわぁ。赤ちゃんだって、代わりに産んで差し上げますですよぉ~。だから安心するがよろしいのですわぁ」
 マリヤの言葉に他意は無い。
 儀式を控え、マリヤにはマリアが不安がっているように見えたのだろう。それを励まそうとしているだけだ。
「・・・お姉様・・・戦士は、巫女でなければ・・・生めませんわ」
「そうでしたわぁ、じゃぁー、マリヤには無理でございましたわねぇ、役に立たないお姉さんでごめんなさいなのですわぁ」
「・・・」
 何も言葉が出てこなかった。
 マリヤは忘れているのだ――自分が巫女となろうとしていたことを。そしてその道が、他人の些細な私欲によって絶たれてしまったことを。それを覚えていては生きていけないから、だから彼女は自らの心ごと、記憶を壊したのだ。
「お姉様、マリアは・・・マリアは、大丈夫ですわ。どうぞご心配なされませぬよう」
 赤ちゃん赤ちゃん、とうっとりしながらマリアの腹を撫でていたマリヤは、「そうですわねぇ」と独りごちながらマリアの腹に頭を乗せた。
「お祈りもいたしましたし、うん、これで何が何でも、大丈夫ですわぁ。ね、マリヤ?」
「お祈り・・・?」
 こくこく、と頷きながら、マリヤは「神様にお願いしましたの」と呟いた。
「祭壇にねぇ、行ったら門番の人がいましたのよ。お祈りさせてくださいって。でもねぇ、言うこと聞いたら入れてやるって言いましたのに、自分が入ってばかりでマリヤは出されてしまったんですの。ウソつきでしたの。けれども、その時に隙間から見えましたのよぉ、少し。神様が。神様、赤ちゃんが無事に生まれますようにって、お祈りしましたわぁ。ちょっとだけでしたけれど、しっかりお祈りしましたもの。だから大丈夫ですのよ、マリア、心配しないでよろしくてよ」
 それを聞けば、マリヤの有様も合点がいく。彼女の言う『お祈り』と引き換えに、門番が何を要求したのか――ベトベトに汚れた彼女の体がそれを如実に物語っていた。
「そう、でしたの・・・」
 『ありがとう』――マリアはおそらくそう言おうとしたのだろう。あるいは『ごめんなさい』かもしれない。だが、彼女の口から言葉は出なかった。ぶるぶると震える唇から漏れるのは、押し殺したすすり泣きだけ。
 唐突に振り向いたマリアの笑顔に、マリスはどきりとした。儚くも美しい少女のそれから、狂気にも通じる頑なな決意を燃やすそれへと、彼女の笑みが変じたからである。
「マリアは戦士を生みます。必ず」
「あ、あぁ」
「ステラ一族を守れるほどに強いアストラルとなる戦士を、この身から生まれさせてみせますわ」
 ギラギラと目を輝かせる彼女は、マリスの姉であるマリアではなく、ステラ一族の巫女であるマリアだった。自分は戦士を生むために産まれてきたのだと、その目が語っている。それを阻もうとする邪魔な物は全て打ち捨ててしまえる覚悟を備えている、強く恐ろしい意志。それは臆病な本当の自分を覆い隠す、頑強な鎧。
 たとえ何かが間違っていると感じても、口にしてはいけない。世界には、そこで生きるために必要な規則があるのだ。それを揺るがしてはいけない。
「お任せくださりませ、お兄様」
 にこ、と微笑むマリアに、マリスはぎこちなく笑顔を返した。自分はまだ、中途半端だ。一人の無力な男であることを引き摺ったまま、ステラ族長として一族の命運を担おうだなどと、甘いことを。
「――そう、だな。頼んだよ、マリア」
「どちらへ? お兄様」
 戻ってきたばかりなのに席を立つマリスに違和感を感じたのだろう。マリアは怪訝そうな目つきで彼を見ていた。
「・・・宴を抜け出してきた」
 だからもう戻らなければ――そう暗に告げる。まさか本当のことを言うわけにはいかない。たとえ勘付かれたとしても、相手が察するのと、自分から教えるのでは大違いだ。
「帰りはいつになるか・・・ただ、なるべく早く戻るつもりだから。心配は要らない」
「かしこまりましたわ」
 顔を上げたマリアと目が合い、マリスは気まずそうに目を伏せた。何もかも捨てて逃げ出したいのは自分だけだ。マリアを誘ったのも、優しさからというよりも、一人で皆に背を向けたくないという卑怯な思いからだ。
 ――もう、逃げない。いや、逃げられないから覚悟を決めただけ。
「行ってくるよ」
 お気をつけて――マリアの言葉を背に、マリスは足早に部屋を出た。マリヤも何か声をかけていたようだったが、彼の耳には届かなかった。
 それからどうやって移動したのかは、彼の記憶に無い。ただ何かから逃げるように走って走って、最も逃げ出したい場所へ辿り着いてしまったことだけは確かだった。
 何も捨てずに得られる希望など無い――こうしてマリスは、悪夢の淵へと踏み入れることとなった。
 もっとも、彼はすぐにこう思い知るのだ――夢として覚めることの無い悪夢は、地獄に他ならないのだ、と。



第三章  望

 マリスがふと目を覚ますと、二人の姉の姿が見えた。
 何だ、夢か――マリスはぼんやりする頭で思う。帰るどころか部屋に監禁され、おぞましい行為を繰り返されるうちに、彼は夢に逃げるようになっていた。自分の帰りを待ちわびているであろうマリアとマリヤに、「ただいま」と言う夢――
「お兄様・・・」
 マリアの手が、優しく彼の頭をなでる。
「大丈夫、大丈夫・・・ね」
 温かい感触は、マリヤが抱き締めてくれているからだ。
「・・・ただいま・・・」
 たとえ己が作り出した虚構であったとしても、二人に会えるのならば構わない。ただもう少しだけ、こうしていられれば――
 彼がようやく、望んでいた夢のままの状況が夢ではなく、現実であることに気づいたのは、それから丸一日経った後のことである。その時の彼の喜びはこの上なく、彼の短い一生の中で最も幸せを感じた瞬間でもあった。
 しかし喜びもつかの間、彼はすぐさまマリアと別れなければならないことを知った。儀式まであと三日と無かったからである。
 姉との間に残された時間が僅かでしかないというつらさはあったが、忙しさにかまけて数日前の悪夢を思い出さずに済んだのは、マリスにとってはむしろ良かったのかもしれない。
 しかしながら、もともと儀式の日取りは族長が決めるものだ。それなのに何故、こんなにも早い時期に――場合によっては族長不在のまま――儀式が行われかねない状況になっていたのか。
 それはマリスが出かけてから何の便りも無いまま、かなりの日数が過ぎた頃のことだ。突然、叔父のユディがマリアの元を訪れたのだ――行方の知れない族長の代理として、彼が儀式を執り行う、と。もちろん、マリアは断固拒否した。自らの死と引き換えに生まれた戦士を、ユディがどうするつもりなのかは容易に想像できたからである。
 しかし、儀式を行わなければ巫女であるマリアの存在意義は無くなってしまう。そしてステラ族の希望もまた、消えることになる。そのため、ギリギリまで待ってもマリスが戻らなければ、という条件でユディの提案を受け入れざるを得なかったのである。
 たった一つ、ユディにとっての誤算は、マリヤを視野に入れてなかったことだ。マリスを助けに行くことが出来る者は誰もいない――そう決め付けていたのは間違いだったのだ。
 結果から言えば、マリスが戻ってこれたのはマリヤのおかげだ。彼女が運良くプランシの留守中に屋敷へ辿り着き、たまたま鍵がかけられていなかった監禁部屋に入り込み、まだ歩くことが出来たマリスを、幸運なことに誰にも見咎められずに外へ連れ出し家へ戻ったのだ――まずありえない出来事だったが、実際にマリスは助かり、どうにか理性を取り戻すことが出来たのである。
 こうしてユディの目論見は失敗したかのように見えた。
 だが、ユディは狡猾な男だった。一つの策が失敗すれば更なる手を講じるだけ。そして次の謀略は儀式の直前、突如としてマリス達三人に牙を向いたのである。

 その日、マリアの顔色がいつもにもまして悪いのは、儀式によって自身が命を落とすという残酷なしきたりに心が乱されているからだ、とマリスは思っていた。それに加え、身を清めるためにここ数日は水しか口にしていない。やつれるのも無理の無い話だ。
「マリア――」
 声をかけようにも、出て来るのは彼女を失いたくないという思いだけ。いざ別れが現実味を帯びてみると、気丈に振舞うことなど出来なかった。
「やはり、ここは――」
「いいえ、お兄様」
 しかし、マリスの言葉を遮り、マリアは弱々しいながらもハッキリとした口調で彼に言った。
「マリアはこのために生を受けたのです」
 そう断言されれば、マリスには何も言い返す言葉が無い。ただ、「わかった」とこたえるのが精一杯だった。彼が彼女にしてあげられることは、静かに見守り、最後まで見届けることだけなのだと、彼は悟った。一方のマリアもまた、これ以上マリスとマリヤに余計な気遣いをさせたくないと、じくじくと体を蝕む痛みに黙って耐えていた。
 そうして――悲劇は起こった。

 儀式の間には、彼ら三人だけが入った。
 神官も執行者もいない、祭具も飾られていない、がらんとした部屋――そこは、祭壇が無ければただのからっぽの空間だった。
 顔面蒼白のマリアが台の上に寝そべり、マリスが祭壇に上がった。マリヤは珍しく静かに、マリアの傍らに控えていた。
 マリスが神官として呪文を唱え始める。儀式は何事も無く進行しているように見えた。しかし――
   けほっ
 マリアの口から突然、耐えかねたように小さな咳が漏れた。それが合図だったかのように、彼女は激しく咳き込みだした。
   げほっ ごほっ ぐ、ゲホッ ゲボッ――ビチャッ
 ついに彼女は血を吐きながら苦しみだし、彼女の傍らでその手を握り締めていたマリヤがただ事でない妹の様子にパニックを起こして「お兄様ぁ! マリアが!」と叫んだ。
「マリア!?」
 本来ならば、呪文を捧げている神官は何があろうと詠唱を止めてはならない。それが守れないということは、儀式そのものが中止されたことを意味する。しかしこの瞬間、マリスはそのような規則にまで思いが至るほど冷静ではなかった。慌ててマリアの元へと駆け寄る。
「マリアがおかしいの、お兄様! やめて、やめて!!」
 見れば、血まみれの手が短剣を高々とかざし、今にも振り下ろさんとしているところだった。その手がマリアのものであることにマリスが気付いたのと、刃が彼女の腹に突き立てられたのはほぼ同時だった。
 止める暇があればこそ――柔らかな肉に深々と短刀が突き刺さり、力一杯切り開いていく様を、マリスはまざまざと見せ付けられた。
 彼女の手からもぎ取る前に短剣は音を立てて地面に落ち、切り裂かれた腹からは鮮血が噴き出し三人を赤く染める。
 呆然とするマリスの目の前で、彼女の二本の腕が自身の腹をまさぐった。腸の中から柔らかな肉の塊を取り出すと、弱々しく持ち上げてみせた。それは人の形をしているようだったが、グズグズとただれた腐りかけた肉だった。
 ――赤子だった物。
 ――希望になるはずだった絶望。
「ぁ・・・あぁ・・・ぁ・・・う、ぁ・・・」
 がふっ、げぼっ、と喉に詰まった血を押し出しながら、マリアが呻いた。堰を切って溢れ出す涙が赤と混じり合って流れていく。無慈悲に突き付けられた結末に、マリアはただ涙するしかなかった。
 巫女でありながら、任をまっとう出来ずに死なねばならない――最も恐れていたことが現実になってしまった。
「に、さま・・・ごめ、な・・・さ・・・」
 どれだけ謝っても詫び足りない。
 唯一の望みだったのに。そのためにマリスもマリヤも傷付いたというのに。
 ことごとく、無駄にしてしまった。
「・・・マ、リア・・・は・・・・・・」
 マリスが幸せに生きていけるのならば、マリヤが失った心を取り戻せるのならば、自分の命など失っても構わなかった。二人がまっとうな人生を送り、そして時々自分のことを思い出してくれるのならば、マリアにとってそれが生まれてきた意味になるのだと信じていた。こんなことになるだなんて、思ってもみなかった。
 どうか許してください――それだけではない。言いたい事はまだまだたくさんあった。なのに、舌が動かない、声が出ない。力が抜けていく。
「もういい、マリア! 喋るんじゃない!」
「マリアぁ、だめなの、だめだよぉ!」
 マリスの必死の叫び声も、マリヤの泣き声も、彼方から響いてくるようでマリアはよく聞き取れなかった。体中を駆け巡っていた激痛も、次第に和らいでくる。
 ――二人の泣き顔に、マリアは力無く微笑んだ。
 
 ――どうか、許して――
 
 その最期の言葉は届いたのだろうか。マリアにそれを確かめるすべは無い。ただそっと瞳を閉じて、二度と覚めることのない深い眠りにつくだけ。
 ――それだけのことだった。

 マリア、マリア――マリヤが何度呼んでも、妹は返事をしなくなってしまった。
 妹は言っていた――赤ちゃんが死んでしまったから戦士は生まれない。僅かな希望を壊してしまって、本当にごめんなさい、と。
「マリアは悪くないですわよ・・・」
 そっと、マリヤはマリアの腕にいる、赤ちゃんになれなかった物に触れた。
 温かい、いや、熱いぐらいだ――そっと抱き上げる。
 体中真っ赤で、力を込めれば崩れてしまいそうだが、赤ちゃんはきっと皆こういうものなのだ――マリヤは確信した。
「赤ちゃん、生きてる」
 そんなはずは、と言いかけたマリスに向かって、マリヤはにっこりと笑いかけた。
「生きてる」
 生きてる、生きてる、生きてる――マリアは無駄死になんかしていない。あれほどお願いしたのに、神様がそんな酷いことをするはずがない。
 この子は必ず、立派な戦士になる。
「マリヤ!?」
 電光石火の早業で、マリヤは胸に赤子を抱いたまま祭壇を駆け上がっていた。その時、マリスは規則を思い出した――呪文を途中で放棄してしまった以上、どう足掻いても儀式は再開できない。何もかも、終わってしまったのだ。
「マリヤ、もうよすんだ!」
「だぁいじょぶですわぁ、お兄様・・・神様はみんなを幸せにするためにいらっしゃるんですのよ」
 屈託の無いマリヤの笑顔。普段決して合うことの無い瞳の焦点が、しっかりとマリスを見据えている。それに気圧されたかのように、マリスの足は全く動かなくなってしまった。止めなければいけない、と急く思いとは裏腹に、金縛りにあっているかのように体がピクリともしないのだ。
「大いなる神よ! 願わくばこの命と引き換えに我らに戦士を授けたまえ!」
 定められた文言とはかけ離れた台詞を口にしながら、マリヤが短剣を手に取った。振りかざされた刃にギラリと光が反射する。
 いけない、マリヤ――マリスは声にならない叫び声をあげた。その子を捧げても戦士は生まれない――
 凍りつくマリスの視線の先で、血飛沫が上がった。
 まるで時間がゆっくりになったかのように、全ての動きがハッキリと見えた。仰け反るようにして後ろに倒れ込むマリヤ、彼女の胸元に埋まっている短刀、飛び散る赤い雫、グズグズと溶け出す祭壇の肉塊、揺らめく炎、地面に叩き付けられるマリヤ――
 彼女が差し出した命は赤子のものではなかった。
 捧げたのは、彼女自身の命。
 何故こんなことを――そう問おうにも、刃は彼女の心の臓を貫き、倒れ付した彼女の体からは血という血が流れ出している。そして、赤の海に沈む彼女の瞳には、一欠けらの光も宿ってはいなかった。

 残されたのはマリス一人だけだった。
 茫然自失のまま、彼はただそこにいた。あまりのショックに、悲しみを覚えることも無い。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう――彼の脳裏にうっすらと疑問が湧き上がる。しかし完全に思考を停止している彼の中で、その疑問もぼんやりと消えていった。
 そうして暫くの間、見るとはなしに祭壇を見ていた彼の目に、突然信じがたい光景が飛び込んできた。
 まず、闇が訪れた。ふいに火が消え、辺りが静寂と暗闇に包まれる。
 何が起こったのか理解しようとしない彼の視線の先に、光が現れた。蝋燭の灯りよりも儚く弱々しいそれは、ゆらゆらと色を変え明滅する。次第に光は人一人と同じほどの大きさまで膨れ上がり、一層輝きを増していく。そして、眩しくて目を閉じてしまうほどの光を放つまでになると、まるでつぼみのようにふわりと花開いていった。
 そこには人がうずくまっていた。
 沈みゆく夕日を映す海のように朱から紺へと色が変わる髪は長く、そしてその肢体が描く美しく柔らかな曲線は女性のように見えた。
 彼女がゆらりと立ち上がると包んでいた光の膜が破れ、かけらを振り撒きながらキラキラと暗がりへとけていった。だが光を失ってなお、彼女の姿は闇の中に映え、何も考えられずにいたマリスすら心を奪われた。
 長い髪が波間にたゆとうようにゆれ、輝くような青白い肌はどこも滑らかだ。妖しく煌く山吹色の瞳に引き込まれると、彼女のことしか考えられなくなってしまう。
 人ならざる者の誕生――
 それは、後に亡国の戦士として恐れられる呪われた命が、この世に生を受けた瞬間であった。

 どれほどの間、二人は見詰め合っていたのだろう。ドーンという轟音と揺れで、マリスはやっと我に返った。音がしたのは扉の方向だ。咄嗟に振り向く。
「やはりここにいたのかぁ、マリス・ステラ」
 打ち壊された扉の先で待ち構えていた人物に、マリスは驚愕した。
「叔父上・・・何故ここに?」
 勤めて冷静を装いながらマリスは尋ねたが、叔父であるユディの返事は言葉ではなかった。叔父が顎をしゃくると、マリスは突然地面に叩き伏せられた。注意を叔父にしか向けていなかった彼の背後に、いつの間にやら屈強な男が立っていたのだ。抵抗する暇も無く、ガッチリと押さえ込まれてしまう。
「マリス、マリス、マリス~・・・手間ぁかけさせてくれたなぁ、ア?」
 突っ伏しているマリスの顎元に爪先をねじ込んで、無理矢理顔を上げさせる。せめてもの抵抗、マリスはキッとユディを睨み付けた。
「何だその顔は? 族長に向かってそんな顔していいのかぁ?」
「族、長・・・誰がお前なんか!」
 譲った覚えは無い。それに、先日の宴に族長として出席するよう求められたのは叔父ではなく自分だった。しかし、不適に笑うユディの自信はどこから来るのか――その答えは彼の次の言葉にあった。
「別に前族長の意向はどうだっていい。権力のある人間が直に任命しさえすればな!」
 マリスは愕然とした。そして悟った。
 何故、叔父がやたらとプランシに気に入られていたのか。
 つまり、叔父は権力の見返りとして、甥であるマリスを――
「・・・売ったのか・・・私をあの野郎に売ったんだな!」
「残念、お前だけじゃないんだな~・・・クソ兄貴の妻も、その娘二人も、息子も、全部キレイさっぱり売り渡してやったんだよ!」
 衝撃のあまり全てが真っ白に埋め尽くされたマリスの前で、かかかかか、と高らかにユディは笑った。
「そぉーよ、戦士を生む巫女になんかなってもらっちゃ困るから襲わせたってのに失敗するわ、クソ兄貴がお前を守るためか知らんが族長を譲り渡すわ、俺が手回しにどれほど苦労したか知ってんのかよ!? おまけにようやく族長気取りのガキを色魔爺に飼わせるようにしてやったってのに逃げ出しやがって――おかげでまた変体爺の顔を拝まなきゃならなくなるし、戦士は誕生しそうになるし、お前はどこまで俺の邪魔をする気だ、ア!? わざわざ腹の子供だけ死ぬように毒盛ってよー、希望の糸を断ち切ってやりゃ巫女様も晴れて母親の仲間入りするはずだったのに・・・自殺だぁ? ついでにバカ女も後追いしやがって、残ったのは♂だけってどういうことだ、クソ野郎! お前が計画無視して勝手な行動するせいで、テメェの姉ちゃん二人が死んじまったんじゃねぇか!! マリスと姉二人を差し上げますって宣言した俺の立場を考えやがれ!!」
 ユディは自分で思い出しておきながら理不尽に怒り、その鬱憤を惨めな格好を晒しているマリスにぶつけていた。しかし、真実を知ってしまったマリスは何も感じることが出来なかった――許容量を遥かに超えてしまったたった一つの感情に、心が押し潰されてしまったからだ。
 無抵抗のマリスを諦めの境地と見て取ったユディは、勝ち誇ったように口を開いた。
「けどまぁ、お前の非礼も許してやるよ・・・族長様は心が広いんでね」
 にたぁ、と笑った彼の視線の先には、つい先ほど生まれたばかりの美しい戦士の姿があった。彼女は暗がりの中でも輝いているかのように、皆の目を惹く。
「あれを狒々爺に差し出せば・・・♀二匹の穴埋めを補って釣りが出るだろうからなぁ――あのクソ爺には勿体無いが・・・いずれ取り戻すだけだ――そうとも、俺はいずれすべてを手に入れる――そういう意味じゃあ、あんな素晴らしいモノが出来たんだ、あの♀二匹も少しは役に立ったってことだよなぁ~」
「・・・」
 ぼそり、マリスは呟いた。
 
 ――殺してやる――
 
 まるで他人事のように、彼は自らの声を聞く。
 
 ――殺シテやる――
 ――殺シテヤル――
 
 ――殺 シ テ ヤ ル――
 
「うぅあ、がぁああああああああああああああああ!!!」

 雄叫びと共に、マリスはユディに襲い掛かった。まさか人間が戦士の力を凌駕するとは思ってもみなかったのだろう、勝ち誇っていたユディは拘束を振りほどいたマリスの痛烈な一撃を食らって吹き飛んだ。彼は壁に嫌というほど体を打ち付け、ぐったりと床に倒れ込んでしまった。しかし、追い討ちをかけようと飛び掛ったマリスを他の戦士が何とか押しとどめたため、ユディはアバラを何本か折るだけで済んだのだ。
 その後も暫くマリスは戦士達を振り払いかねない勢いで暴れていたが、突然糸が切れた傀儡のようにふっつりと動かなくなってしまった。体中の筋肉と腱を酷使し、骨に負担をかけすぎたためだ。
 そこに残されたのはマリスの姿をした肉体――憎悪という尽きることの無い力によって動き続ける、哀れな抜け殻――そう、それは既にマリスではなかった。救いの無い絶望の中、彼は己の命を捨てたのだ。
 だがそれは、傍から見ればさしたる変化ではなかった。ただ彼も他の者と同様、正気を失ってしまったのだと。
 それゆえに、彼の残した深すぎる憎しみは誰にも悟られることなく増え続け、いつしかエステイラの世そのものへと向けられることになる――日々溜まり続ける毒がいずれ病となり、死を招くように――ゆっくりと、しかし確実に、それは破滅の時を待つのであった。



第四章  愚挙
 
 ユディがステラの族長に納まってから数日後、些細な事件が起こった。
 プランシの死と、アカンザスタの新たな族長の誕生である。つまり、絶対権力者が代替わりしたのである。そしてその原因は、ユディがプランシに差し出した二人――マリスと戦士の少女にあった。
 だが多くの者にとって、その事件は取り入る対象が変化しただけのことでしかなかった。また一部の者にとっても、権力の座に納まれなかったということでしかない。だからこそ、新たな権力者によって詳細が闇へと葬られてしまった、この事件がもつ意味の大きさを知るものは誰もいないのである。

 それは儀式の翌日のことだった。
 ステラの新族長となったユディは、かねてよりの密約のためプランシの元を訪れた。マリスに負わされた傷の状態は悪く、安静が必要であったが、権力者にとって重要なのは取り巻きの容態ではなく、取り巻きが持ってくる貢物である。プランシの機嫌を損ねれば、ユディが苦労して積み上げてきた計画がすべて水の泡と化してしまう――ユディは最後の最後まで自分の邪魔をする甥に悪態をつきながらも、怪我をおして参上したのである。
「待ちわびたぞ、ユディ・・・あまりにも遅いとつい疑ってしまうものだ」
「準備に時間がかかりましたので・・・」
 両脇から支えられてようやく立っていられるユディに微塵も関心を払うことなく、プランシは貢物を値踏みしていた。
「一人足りぬようだが?」
「補って余りあるものをお持ちいたしました」
 ふむ――生返事をしながら、プランシは一人目の顔にかかっているヴェールを剥いだ。
 そこにはプランシが待ち望んでいたものがあった。男でありながら女よりも美しい、稀代の美少年の姿が。
「おお、マリスか」
 喜色満面のプランシに、とりあえずユディはほっとした。プランシがやたらとマリスに執着する理由はわからないが、何があっても生きたマリスを連れてこなければ、権力を得るどころか命を失いかねなかったからだ。アバラの礼をせずに耐えた甲斐があったというもの――
「ユディ」
 唐突に名前を呼ばれ、ユディはどきりとした。
 まさか気に入らなかったのか?――マリスは前日からずっと心神喪失状態だ。他の者と同様、もう戻ることはあるまい。今更「人形は要らん」などと馬鹿げたことを言い出すのではないか――戦々恐々と身構えていたユディだったが、杞憂に終わった。
「――何が欲しい」
 脈絡の無いプランシの言葉の理由はすぐにわかった。
 もう一人のヴェールが取り外されている――ステラの戦士として生まれた少女。彼は彼女にすっかり魅せられているのだ。その姿を見てしまうと、何に変えても彼女を手に入れなければならない気がしてくる。たとえ命を失っても構わないと、痛烈に思ってしまうのだ。現に、彼女の後姿しか見えないはずのユディすら、みすみす手放したくないという思いに駆られている。
「――では、族長就任の証文と、戦士を二人――」
 どうにかユディは言おうと決めていた台詞を口にした。いずれ取り戻せばいいのだ――そう自分に言い聞かせながら。
 結局その日、ユディは投げ捨てられた証文を手に、彼の両側に控える二人の戦士に支えられながら帰っていったのである。
 こうして、普段どおりのやりとりは終わった――しかし、プランシが死亡することとなったこの事件は、権力者とその取り巻きの間のいつものような取引が始まりだったのである。ユディがそれを察したのは、すべてが終わった後のことだ。


 エステイラの守り手である戦士は、たった一つの理由によって存在している。
 
 ――敵をすべて殺し尽くす――
 
 何故なら、それこそがデトヒが神に求めた『戦士』だからである。戦うためのみにある命。エステイラの民ならざる存在を抹殺する、残酷な力を持つもの。エステイラの忠実な僕(しもべ)。神の子。
 だからこそ、彼らを辱めることは許されない。彼らから戦いを奪えば、それはすでに『戦士』ではない。神から与えられた力を無碍にすること、それは神を冒涜することと同義である。
 しかし、ステラの戦士として生まれたそれは、あまりにも蠱惑的だった。まるで積年の一族の恨みがそのまま具現化されたかのように、妖しく人の心を惹き付け、惑わせた。
 戦わせ、傷を付けるにはあまりにも惜しい――彼女の姿を見た者は、神への背信ともなりかねない思いを抱いてしまう。
 しかし彼女はまごうことなく、戦うために誕生したのだ。たとえ儀式が正しく行われず、不完全な肉体のままであろうとも、彼女は『戦士』なのである。敵の血を浴び、命が擦り切れるまで戦い続ける宿命にある。
 ところが、何もかもを意のままに出来るようになると、人間は時として自らを神のように考えてしまう。プランシ・アカンザスタはまさにその典型であった。
 彼は戦士の存在理由を奪おうとした。いや、それだけではない。彼は愚かにも、戦士に対し身を捧げるよう求めたのだ。
「――お前は、美しいな・・・」
 すっかり少女の虜となったプランシが呟いた。その手は早くも彼女のまとう衣服にかけられている。
「戦士などならずとも良い、お前は――」
 荒い息遣いで、プランシは彼女の体を撫で回した。最早、彼の頭に彼女が戦士として生まれたという事実は存在しなかった。マリスと同じく、快楽に興じるために貢がれた美しい玩具のようにしか彼女を見ることが出来なくなっていたのだ。
 そしてプランシは、ついに、言ってはならぬことを口にしてしまった。
 
「お前はただ、私に体を捧げていれば良い」
 
 刹那、少女の瞳の奥で、ゆら、と闇が踊った。
「――愚か者――」
 桃を思わせる柔らかな唇から、顔に似つかわしくない、重く凄みのある低い声が響く。
「――プランシ・アカンザスタ――お前のせいだ――ありがとう――」
 呆気に取られているプランシの眼前で、ミシミシと空気が歪んだ。その中心で、身動き一つせず、なすがままになっていた少女の体中の筋肉が収縮し始める。
 彼女がゆっくりと顔を上げると、無表情のままだった美しく整った面立ちが、仮面を剥いでいくかのように狂喜の笑みを浮かべていった。
「――これでもう、私は――」
 にぃっ、と少女の口の端が釣り上がる。そのまま大きく口が開かれてゆく。すぅ、と息を吸い込み、叫び声が響いた。
「自由だ!!」
 体中に巻きつけられていた見えない鎖を引き千切るかのごとく、少女は力強く手足を開いた。その勢いで衝撃波が発生し、家具も人も問わず一絡げに壁へと打ちつけられる。
「あは、ひゃは、あひゃひゃひゃはあははっひゃひゃひゃひゃ!!」
 一気にがらんとしてしまった部屋に、彼女の高笑いがこだましていた。ギラリと輝くその双眸には暴力的な喜びの色が宿っている。ブン、と振り下ろした右腕は既に人間のそれではなく、戦士の武器である赤い巨大な刃へと変じていた。そしてそれが向けられたのは、悲鳴を上げながら壁際を逃げ惑うプランシに他ならなかったのだ。
「――死ね」
「ま、待て貴様! このプランシを誰だと思っている! 貴様の主なのだぞ!」
 普段の威張り散らした態度が嘘のように慌てふためくプランシに、彼女は見下したような視線を向けている。
「敵は皆殺し・・・私以外は全部敵・・・」
 単純な三段論法から導き出される答えは一言だけだった。
「殺ス」
 彼女は地を蹴り、高々と跳んだ。彼女が刃と化した右手を振り下ろすと、プランシが隠れていた石の柱がスパリと真っ二つに割れる。その影では、意味のわからない言葉を喚きながらプランシが転げ回っていた。
 その時、固く閉じられた扉がドン、ドンと揺れた。部屋の外に控えている戦士が異常を察知したのだろう、何とかこじ開けて中に入ろうとしているようだ。しかし少女はそちらには一瞥もくれずに、じわじわとプランシに迫っていった。
「逃げるなよ・・・死ね」
 刃を振り回す動きは俊敏だったが、少女の足取りは緩慢だった。まるで獲物をいたぶるかのように――だが、そうこうしているうちにも、扉の歪みは次第に大きくなっている。
 逃げ切れれば助かる――プランシがそう希望を見出した刹那、彼の腕に激痛が走った。絶叫を上げる彼の二の腕はパックリと裂け、ドロドロと血が流れている。少女は己の刃から滴る血に舌を這わせ、身も凍るような不気味な笑顔をプランシに向けた。
「た、助け――」
 じたばたと手を伸ばした先に、何か弾力のあるものが触った。人間の足――少女と一緒に連れ込んだもう一人――マリスの足だ。刹那、プランシはぼんやりと突っ立っていた彼を引き摺り倒すと、自分の前に盾のように構えて声を張り上げた。
「おい、貴様! こいつは貴様の生みの親だ! 殺せるものなら――」
 殺してみろ――プランシが言い終わる前に、少女の手の刃が彼目掛けて突き出された。
「うるさい」
 掠めただけでも肌が切れる。しかし二撃目が襲い掛かる寸前、プランシはマリスの陰に隠れた。するとどうだ、今まで好き勝手に刃を振り回していた少女の動きが止まったではないか。
「!?」
 透明な鎧に阻まれているかのように、少女の刃はマリスの喉に触れる直前で固まっていた。彼女は自分の意思に反してピクリとも動かない右手に混乱しているらしく、刃を突き出そうと必死だ。驚きと焦りの入り混じった表情でマリスを睨み付け、もう一撃繰り出そうと腕を振り上げたところで――ビクリと体が震えた。
「なン・・・」
 ガクン、と足の力が抜け、少女は硬直したまま地面へ叩き付けられていた。その背には矢が深々と刺さっている。そして彼女が立ち上がろうと腕に力を込めた、次の瞬間。
   ザンッ
 鮮血を撒き散らしながら、真っ白な腕がくるくると中を舞った。痛みに耐えかねたのだろう、獣の咆哮に似た少女の悲鳴が轟いた。
 命からがらプランシが二人の人間の下から這い出すと、そこでは待ち望んでいた救世主である戦士達が、暴れ狂う少女を血まみれになりながら押さえつけているという、残酷な光景が広がっていた。
「――お怪我は」
「見ればわかるだろう、あるとも!」
 怒りに任せ、プランシは目の前の戦士――オンニ・アストラルを力の限り殴りつけた。当然、彼は何の抵抗もしない。最強と称され、神の戦士である『アストラル』であるオンニも、主には絶対服従なのだ。
 やはり戦士はこうでなければな――虫の標本よろしく、四肢を剣や槍で繋ぎ止められ身動きが出来なくなっている少女を、プランシは足で蹴り飛ばした。
「ギャアギャアとやかましい! 黙らせてやれ――いや、やはりいい」
 自身の怪我の痛みを忘れ、プランシは、にまぁ、といやらしい笑みを浮かべた。先程までとはうって変わり、形勢が完全に逆転した今、彼の頭にあるのは彼女への報復だけだった。
「このプランシを虚仮にした罰だ・・・好きなだけ叫べ。こちらの気分が晴れる。おい」
 手近にいた別の戦士に、プランシは命じた――手は要らん、切り落とせ。すぐさま、彼女の残された腕が鈍い音と共に分断される。さらに彼は命じる――足も要らん。ブチブチと肉が千切られ、すらりと伸びていた足が胴体からもぎ取られ、辺りを一層赤く染めた。
「戦士はこれぐらいでは死なんだろう、ん?」
 断末魔の叫び声を心地よく聞きながら、プランシは彼女の頭を思い切り踏み付けた。ぱしゃ、と彼女の美貌が容赦無く血溜りに沈む。
「まだこの程度では済まさんぞ。逆らう力が無くなるまで苦しめてやる。早く大人しくなった方が良いぞ? そうしたら我慢した褒美として直々に可愛がってやる・・・」
 瞳孔を見開き、激しく痙攣する少女のおぞましい姿を見ながら、プランシは舌なめずりをした。とても人間とは思えない外道の行為だったが、止めるものは誰もいなかった。
 しかし――
 たった一人だけ、プランシの忠実な下僕でなく、かつ自由に動くことが出来た人物がいた。
 プランシの油断は、凶悪な殺戮者が少女だけだと思っていたことだ。実際その場にはもう一人、どす黒い憎悪を心に秘め、復讐の牙を砥いでいる者がいたのだ。
 マリス・ステラ――彼はおもむろに立ち上がると、戦士の腰にぶら下がっている剣をすらりと抜き放った。何も気付かないままのプランシに、マリスは死角からゆっくりと接近する。
 そして。
   ひゅん
 風を切る音。直後にドカッという鈍い音と、そしてもう一人分の断末魔の叫びが響いた。首筋の動脈が断ち切られたのだろう、おびただしい量の血が噴き出し天井も壁も床もことごとく赤に染める。
 あまりにも唐突な出来事に、ただ苦しみのたうつだけのプランシ。しかし、マリスはそんな彼に、何度も何度も容赦無く刃を振り下ろし続けた。悲鳴が次第に聞こえなくなり、自分自身が血に濡れそぼっても、マリスは淡々と動作を続けていた。彼がようやく手を止めたのは、人間だったものが、ただの刻まれた肉片に変わり果ててしまってからであった。べしゃ、と彼の手から剣が滑り落ちた時、豪華絢爛だったはずの部屋は肉と腸が散乱する血生臭い箱と化していた。
 戦士達は愚直なまでに忠実だ。彼らが従うのは主の言葉、そしてそれ以上に、神に与えられた役目。マリスの不意打ちで瀕死の重傷を負ったプランシは戦士達に言ったのだ――マリスを殺せ、と。しかし彼らは神よりこう役目を与えられている――エステイラの民に手をかけてはならない、と。禁を破り狂戦士となった少女を除き、戦士達はエステイラの民を傷つけることは出来ないのだ。
 ゆえに、相反する命令に戦士達は従わず、『何もしない』ことを選んだ。
 そして主が事切れた後、その場にいるもう一人のエステイラの民を暫定の主としてその言に従うのは、彼らにとって至極当然のことだったのである。
「はなせ」
 先程主を殺したばかりの男にそう命じられ、彼らは押さえつけていた少女から離れた。両手足を生きたままもがれるという耐え難い痛みから逃れるためだろう、彼女はカッと目を見開いたまま、完全に気を失っている。しかし、たとえ頭と胴体しか残されていなくとも、常人でない体は彼女に死の安らぎを与えはしなかったようだ。
「ひどい・・・どうして、こんな・・・」
 見るも無残な少女の姿にマリスはうなだれ、何事かブツブツとつぶやいていた。が、彼はにわかに立ち上がると、バシャバシャと血溜まりを駆け巡りながら、奪われた彼女の両腕と両足を集め始めた。
「なおる、なおるよ・・・なおしてあげるから・・・」
 脂を踏み付け、肉片を蹴り飛ばしながら、彼は少女の体を探していた。彼自身でグチャグチャにしてしまった誰かさんの体に混じってしまって、少女の体をその中から判別するのは難しかったが、どうにかすべて見つけ出すことが出来たようだった。そして、布でぐるぐると巻きつけただけという不安定な状態ながら、少女の体に手と足が戻ったのである。
「・・・ここにいると、あぶない・・・にげなきゃ」
 ともすると取れてしまいそうな少女の体を気遣いながら、マリスは彼女をそっと抱き上げた。
「にげる・・・? どこに・・・? どこへ・・・?」
 ブツブツ、彼はただただ自問していた。帰る場所など無い――それは彼にもわかっていたのだ。それでも、ここに留まることは危険だということも、彼は察していた。
 ならば、どこへ行けばいいのか――?
「どこかへ」
 曖昧ながらも答えを得た彼は、揺れる足取りで出口に向かった。
「どけ」
 そう命じられれば、戦士達は塞いでいた扉の前から退く。
 どこかへ、どこかへ――マリスは呪文のようにその言葉を繰り返しながら、ひっそりと夜の闇に消えていった。

 ――それから数日ほど経った後、ユディは完治していない体を引き摺って、再びこの場所を訪れた――プランシ・アカンザスタの死を聞いたためである。噂は風よりも早く飛び交うものだ。そして彼には、すぐにでもそこへ直行しなければならない理由があった。
 それは、自らが絶対権力者となるためである。
 事実、彼の目論見は成功した。彼は驚くべき方法によってプランシの跡を継ぎ、アカンザスタの族長となったのである。
 彼の手にはプランシ直筆の『族長就任の証文』があった。彼はその威力を遺憾無く発揮したのである。
 無論これはステラの族長となることを認めるためのものだったのだが、抜け目の無いユディはそれを利用しやすいものへと書き換えさせていた。プランシ亡き後に自分が実権を握れるようにと、彼にこう文言を書かせたのだ。
 ――私、プランシ・アカンザスタは、友であるユディを族長に任ずる――
 こうして権力者のお墨付きを得たユディは一躍絶対権力者の座に上り詰め、エステイラ滅亡までのひと時、支配者として君臨した。
 そして彼はまた、プランシを殺した犯人を知る。
 マリス・ステラ――惨劇の現場にいながら、唯一生き残った人物。叔父であるユディを殺すと宣告した少年。だがその行方は一向にわからないままであった。
 ユディは確かにマリスを恐れていたが、ある部分では見くびってもいた。小僧一人に何が出来るものか、と。それゆえ彼は甥を放置し、顧みることは無かったのである。
 
 ――以上が、プランシの死に隠された、未曾有の事件のあらましである。
 それから数年の間、エステイラは今までと変わらず栄え続けていた。未来永劫、エステイラの繁栄は揺るがないと思われるほどに。
 だがその間も時は流れ続ける。そして時と共に変わっていくものもまた、存在するのである。



第五章

特になし
最終更新:2014年02月17日 12:20