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あなたの自殺請け負います『自殺請負人修正版』

2008年03月29日(土) 01時26分-さっちん

 私は薄暗い映画館の中にいた。目の前いっぱいに広がるスクリーンには映像が映し出されている。スピーカーから大きな音がながれ、私の鼓膜を刺激する。客の入りはそれほど多くなく、どちらかといったら街中にたたずむ寂れた映画館といったところだろうか。
 私はさっきまで一緒にいた男の子の顔を思い出して、自然と涙が溢れた。目の前のスクリーンが涙でぼやけて、手の甲に涙が落ち黒いシミを作る。
 感動の映画を見ているわけでもない……。二人で笑いたいと思った。あの子はどんな顔で笑うのかな……。
 二人で見るはずだった映画……二人で見るはずだった映画を私は一人で見ている。ただ、それだけなのに、なんでこんなに悲しくなっちゃうんだろ……涙が止まらないよ。
(ねぇ、何で泣いてるの……そんな悲しい顔しないでよ……僕は楽しかったよ、生きてて初めて、楽しいっていうこと知ったんだ……だから泣かないで、僕はいつでも隣にいるから)
 瞳から涙が溢れ、小さく握った拳に涙が落ちる。
 握った拳が包まれるように、温かくなった。
(笑うのに勇気なんていらないよ)
 ゛ほら・・・ねっ゛

 私の手の中には、弾丸のこもった銃が握られている。母から貰った、大切な形見だった。
「一週間、経ちましたね……」
 目の前の、男の子が言った。その言葉がなにを意味しているのか、私にはわかる。
 また……私は助けてあげられなかった。それは私の責任なのかもしれない。
「あなたと過ごした一週間は僕にとって大切な宝物……最後になっちゃったけど、凄く嬉しかった」
 男の子は少し照れたように、私に言った。私は溢れ出しそうな気持ちを抑えて、笑った。
「私も、あなたと過ごせた一週間は、大切な思い出になった、ありがとう」
 私はあえて、思い出という言葉を使った。
「今までありがとう……約束通り僕を殺して下さい」
 私は震える手で必死に銃を握りなおす。銃の先端が小刻みに震えている。
「なんで……もぅ、殺したくないのに」
 堪えていた感情があふれ出し、瞳から涙がこぼれた。男の子に見えないように顔をかがめた。
 男の子が心配そうに私を見ている。
「ごめんなさい……」
 申し訳なさそうに呟く声が聞こえる。
「いいよ、わかってるから、これが私の仕事だから」
 自分の仕事と無理やり自分に言い聞かせ、私は涙を拭いて、一週間前に交わした約束を果たすため、男の子のひたいへ銃を向けた。
 人差し指にかかった引き金は冷たくて、心まで冷め切ってしまうのではないかと思うほどに冷たかった。
 男の子は、安心したように、そっと目をつむる。私は引き金を引いた。
 パスっと乾いた音が響く。

 私は自分の仕事を果たしたのに、再び涙が頬をつたう。
「ごめんね……助けてあげられなかった」
 そして……さよなら……。

 私の仕事は人を殺すこと、いくら美化したところで、そのことは変わらない。
 人を殺す感覚、その感覚に慣れることはなかった。人を殺すたびに私は泣いていた、自分の中で大切なものが、少しずつ壊れていくような気がした。
 人は涙を流すたびに強くなると、聞いたことがある……出会いがあるから別れがある。そんな言葉は所詮、奇麗事に過ぎない。私はこんな別れを望んでいなかった。

 突然ポケットの中で、バイブレーションが震えた。
 人を殺す感覚と同じように携帯電話がポケットの中で震える感覚にも慣れることはなかった。私に次の仕事を与えるポケットの中のバイブレーション……人を殺すことに慣れるまで、私はこの感覚に慣れることはないだろう。
 私はその振動が不快でポケットの中の携帯電話を引っ張り出す。メールが来たことを知らせるメッセージがディスプレイに表示されていた。
 メールに一通り目を通す。また新しい仕事の依頼だ。また……また私は一週間後に、一つの命を奪うだろう。
 だけど私に拒否権はない、母がずっとそうしてきたように……。
 自分の仕事と暗示をかけて、私は街にある大きな病院に向った。
 こんな悲しい想いをするのは、私だけでいい。私は多くの罪を背負って、多くの命を奪って生きてきた。
 母も同じような気持ちで、こんな仕事をしていたのだろう……それだけが、たった一つの、私の救いだった。

 日が落ちてから随分と時間が経った。街を包んでいた光も徐々に小さくなって、人々が眠りについたことを教えてくれる。
 私は腕時計を見て時間を確認した。短い針と長い針が、いちばん上で交わっている。
「12時か……」
 夜空を見上げると、月が綺麗な円形をかたどり、夜空に散りばめられたように星が輝いている。
 夜が深まったことを見計らい病院へと潜入する。病院にはまだいくつかの明かりが灯っていたのだが、夜勤の看護士が残っているくらいだろう。
 こういう仕事柄、人に顔を見られるのは好ましくない。私の足は自然と早足になっていた。

 病院の中は薄暗く独特のにおいが鼻孔をくすぐる。鼻の奥をツンと刺す薬品のにおい……あまり気持ちの良いものではない。
 時折看護士の会話や患者のいびきが廊下にまで聞こえる。私は足音をたてないように、目的の部屋へと足を進めた。

 個人病棟の前で私は足を緩めた。
「この辺りのはずだ……」
 一つ一つ、部屋の番号を確認していく……301『野田 菜華』、302『日野 明恵』、303『五月雨 時雨』……
 薄暗い廊下に目が慣れ、ドアにかかったプレートを確認するのに、あまり苦労はしなかった。
 私は目的の部屋の前で足を止める、305号室の部屋の前、ドアには『藤本 翔』と書かれたプレートがぶら下がっていた。
 気持ちを落ち着かせるように深呼吸をしたあと、ドアを開いた。

 部屋の中は薄暗く、窓から差し込む月の光以外に、部屋を照らし出す明かりはなかった。
 それでも辺りを確認するには充分だった。ドアを閉めた後に、ふぅーっと息を吐く。どうにか人目にふれずここまでたどり着けた、安心からだろう。
 部屋の中は、病棟ということもあり、生活感の感じられない殺風景な部屋だった。ベットとテレビ以外に目に付くものは、数冊の本と花瓶ぐらいだった。
 ベットの上には人影があった。上半身だけを起してこちらを見ている。
「だれ……」
 人影は私にやっと届くような小さな声で言う、よく通る綺麗な声だった。
「あら……あなたから私にメールを送ったのに、覚えてないの?」
 私の言葉に人影は少し考えるような形に変わる。そして思い出したように手を叩いた。
「あ……ごめんなさい、自分からメール送って、だれ……はないですよね」
 人影は楽しそうに、私に話しかける。私の仕事は目の前の男の子を一週間後に殺すこと……そしてこれが男の子の望み。
 そのはずなのに男の子の声は楽しそうに話しかけてきた。そのことに少しの矛盾を感じた。
 今までの仕事でこんなにも゛生き生き゛と話しかけてくる人は、いなかったからだ。
 私には、なぜこの子が私にメールを送ったのか、なぜ死にたいと思うのかわからなかった。

「死神さん……ですよね?」
 男の子は私の顔色をうかがうように言う。男の子は私のことを死神と言った。私は確かに死神かもしれない……人の命を奪うこと、それが私の仕事なのだから……そしてこの子の命も……。
「どうしたの? 悲しそうな顔してる」
 男の子は心配そうに、私の顔を覗き込んだ。
「ううん、何でもない……そうね、私は死神」
 出来るだけ不安を隠すように、笑顔をつくる。
「初めまして、死神さん」
 私と同じように男の子も、私へと笑顔をつくる。
「初めまして……藤本 翔くん」
 私の言葉を聞いたとたん、翔の顔が笑顔から驚きへと変わる。目を丸くしてこっちを見ていた。
「な……なんで、僕の名前を知ってるの?」
 驚きの顔は、やがて興味津々の眼差しへと変わっていた。
 表情がころころ変わって、可笑しくて、私はちょっとからかうことにしてみた。
「実はね、私……人の顔見ただけで、名前がわかるんだよ……」
「凄い! すごいよ! なんでそんなことできるの?」
 翔が顔を輝かせて、私に詰め寄ってくる。私はその反応が可笑しくて、おもわずクスッと笑ってしまう。ほんとに信じるとは思っていなかったからだ。
「ねぇ、ねぇ、どうやったらできるの? 僕にもできる?」
 そんな私に構わず、翔は素直に驚いているようだった。そんなにも驚くとは思っていなかった。私は堪えきれず声を出して笑う。
「どうしたの?」
 そんな私の姿を、翔は不思議そうに見ていた。自分がからかわれていることに、気付いていない……このままだとちょっと可哀想な気もするし、そろそろタネを明かしてもいいかな。
「あはは、ドアの前に『藤本 翔』ってプレートが、かかってたよ」
「えっ!?」
 翔は、私の言葉を聞いてしばらく呆けていたが、言葉の意味を理解したのか、ベットから降りて、部屋の外へと出て行く。
 そして不機嫌そうな顔で、ふたたび部屋に戻ってきた。からかわれているのに、やっと気付いたようだ。私は不機嫌そうな顔に声をかける。
「あはは、おかえり、翔くん」
 私は満面の笑みで翔を出迎える。
「おかえり……じゃないよ!」
 翔は頬を、プゥー、っと膨らませて言った。
「あはは、ごめんね」
「ほんとに顔見ただけで、名前がわかるのかなって、信じたのに……」
 翔はそこで一度言葉を区切り、少し上目使いに私を見つめる。普通は信じないと思うのだが、翔はきっと純粋なのだろう。
「それに……それに僕、まだ名前、知らないのに……」
 翔は私の顔をうかがうように、見上げて言った。もしかして私の名前を教えてほしいのだろうか?
「えっ、私の名前?」
 私の言葉を聞いて、嬉しそうに翔が頷いた。
「うん、よかったら、名前、教えてほしいな」
 そっか、私は翔の名前知ってるけど、私はまだ、ちゃんと自己紹介してなかった。
 こうして改めて自己紹介するのは、少し照れくさい。私は自分の気持ちを落ち着かせるように、深呼吸をする。

「初めまして、私は゛自殺請負人゛岬 洋子と申します」

 自殺請負人……それが私の仕事だった。自殺請負人って響だけはいいけど……あまりよくないけど……さっき翔が私のことを゛死神゛って言った。自殺請負人も言い換えれば、死神と同じようなもの……人の命を奪うことになんの変わりもない。
 自殺請負人と死神の違いは、自殺したくてもできない人を、私が代わりに殺す……ただそれだけの違いだった。人の命を奪っている事に、なんの違いもなかった。

 私は、ふぅー、っと息を吐いた。いつまでたっても、自分の自己紹介をすることに、慣れずにいる。私は自分の仕事があまり好きではない、だからだろう、自己紹介をするときに必要以上に緊張してしまう。
 そんな私の姿に気付いたのか、翔はさっきまでの不機嫌そうな顔を笑顔に変えて、楽しそうに笑った。
「岬 洋子さん、綺麗な名前ですね」
 翔は私の名前を綺麗な名前と言ったけど、私自身、自分の名前を綺麗だとも、変わった名前だとも思ったことがなかった。どこにでも転がっている、例えば、山田 花子くらいに平凡な名前にしか思えなかった。
「私の名前なんて、どこにでも転がっているような、平凡な名前よ」
 私は仕事柄、いくつか自分の名前を持っていたのだが、翔に教えた名前は紛れもなく母親がつけてくれた名前だ。依頼人には、いつも自分の本名を教えるようにしていた。
「そんなことない、洋子って凄く綺麗な名前だよ……あっ、洋子さん」
 呼び捨てにしていることに気付いて、慌てて言い直す。私の顔色をうかがうように、翔が私を見つめた。
 自分の名前を褒められて、悪い気はしなかった。
「クスッ、いいよ、洋子で」
 こんなに笑ったのも久しぶりかもしれない、普段あまり笑うこともなかった。
 私の言葉を聞いて、翔がパッと顔を輝かせた。
「ありがと、洋子……僕のことも、翔でいいよ」
 あまり名前で呼ばれることに慣れていなかった私は、火照った顔を隠すように「うん」と頷いた。

 部屋の中を照らす明かりは、夜空の向こうにある月の光。いつもより空が晴れて、暗闇の中をいくつもの星がまたたく。
 月の光は太陽に比べて、どこか弱々しく、綺麗だった。夜に生きる人間に太陽の光は強すぎて、私には必要ないものだった。
 月のように冷たい心と、寂しさ、孤独……それが私が生きていく為に必要な、すべてだった。
 窓から入る月の光、私にはそれだけで充分だった。

 自殺請負人という仕事は、自殺したいと願う人がいて初めて成立する。
 自殺したいと願う人が私にメールを送り、私が代わりに自殺を請け負う、これがはじめに交わされる約束だった。私がメールを受けたときから、契約が成立し、私は自殺志願者が一週間後に願うことを実行する。
 自殺したいと願う人がいて初めて私の仕事が成立する。だから一週間後、自殺したいと願う人がいなかったなら、私の仕事は成立しない。自殺志願者にとっての最後の望み、最後の希望は、私だった。
 だけど私が助けてあげられた人は、今まで一人もいない……私が見せてあげられるのは、希望ではなく、夢なのだから……夢から覚めた人間は、また同じような日常を繰り返す。私の仕事は゛夢から覚める前に、夢の世界で命を終わらせること゛だった。

 私と翔はしばらく、薄暗い部屋の中で話をした。話したといっても、主に私が話すばかりで翔がそれを聞きながら、時々相槌を打つ。翔には聞きたいことがたくさんあった。なぜ私にメールを送ったのか、なぜ死にたいと思うのか。
 だけど私はまず、自分のことを話した。私の仕事のことが主だ、私がメールを受けた時点から契約は成立し、翔には必然的に契約内容を伝える義務がある。翔は私の話を真剣に聞いていた。
 一通り私が話し終えると、それまで黙って聞いていた翔が口を開く。
「仕事の内容は一通りわかりました。喉、乾いてない? お茶くらいしかないけど……」
 私は翔の言葉で自分が思ったよりも長い時間話していたことに気付いた。口の中がぱさぱさする。
「ごめんね、長話ししちゃって、少し喉渇いたかな……お茶、貰える?」
 私は少し照れながら笑って答えた。翔は私の言葉を聞いて、嬉しそうに笑った。
「ちょっと待ってて……んしょ……」
 そう言って、翔はベットから降りようとする。
「いいよ、私が取ってくる、翔はベットに座って待ってて」
 私はイスから立ち上がり辺りを見渡す。
「冷蔵庫、どこにあるの?」
 薄暗い部屋に目が慣れたといっても、部屋にあるものはぼんやりとしか確認できない。
 冷蔵庫らしいものはいくつかあったが、それがテレビなのか、冷蔵庫なのか、それとももっと別のものなのかもしれない。
 カチカチっと音がしたあと、部屋が急に明るくなる。困っている私を見かねて、翔が電気をつけてくれたのだ。
「ほら、入り口のちょっと左にある、黒っぽいのですよ」
 翔がそう言って、部屋の隅にある小さな黒い箱を指差す。
「あぁ、これね、ありがと」
 取っ手が二つついた小さな冷蔵庫を開けると、中からひんやりとした空気が流れた。
 冷蔵庫の奥に何本か、自動販売機で売っているような缶のお茶がある、私はその中から缶を二本取り出した。緑色のラベルで健康で美人になれそうなウーロン茶と、茶色いラベルの紅茶だ。
「翔はどっちがいい?」
 ウーロン茶と紅茶の缶を両手に持って、私は翔の前へ差し出す。
「ウーロン茶貰いますね」
 翔がウーロン茶を選ぶことはなんとなくわかっていた。確信を持っていたわけではないが、冷蔵庫の中にウーロン茶の缶がたくさんあったからだ。
「じゃぁ、私は紅茶、貰うね」
 お茶を啜る音だけが部屋にこだまする、乾いた口に潤いが戻った。
 私は紅茶を半分ぐらい飲んだ後、テーブルに缶を置き、翔に話しかけた。
「今度は、私から質問」
 私の話は一通り終わったけど、まだ翔の話を聞いていない。翔には、聞きたいことがたくさんあった。
 なぜ私にメールを送ったのか、なぜ死にたいと思うのか……だけどなかなか次の言葉が切り出せない……聞くのが怖かった。
 こんなこと初めてだった。翔は普通の男の子に見えて、幸せそうに笑う、どこにでもあるような、幸せを持っているように見えたから。
 私はその疑問を口にして、今と同じように翔と話す自信がなかった。
 本当はわかってた、聞かないといけないこと……それは、私が翔にしてあげれる唯一のことなのだから……。
「僕が、メールを送った、理由ですか?」
「えっ?」
 思っていたことを、言い当てられて、私は驚いた。
「言い出しにくそうだったから、なんとなくわかりました」
 翔は驚いている私の顔を見て言った。表情はいつもと同じなのに、少し悲しそうに見えた。
「そっか……私の心が読めるのかと思ったよ」
「さっきの仕返しです」
 そう言って翔は笑った、私は笑わなかった。
「よかったら、教えてくれる? 私にメールを送った理由」
 私は覚悟を決めて、翔に言った。翔は少し考えるような仕草をした後に口を開く。
「洋子は、夢って、見る?」
 夢? どういうことだろう、夢が私にメールを送った理由となにか関係があるのだろうか。
「寝ているときに見る夢のこと?」
 翔は私の言葉に頷く、私はほとんど夢を見た記憶なんてない、たまに見る夢は、私が自殺請負人になったときの夢。母といた幼い日の記憶。
「夢ならたまに見る……」
 とても悲しい夢を見る……と続きを言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。夢の中で母はいつも笑っていて、とても悲しい夢のはずなのに、どこか温かい夢だった。
「夢と私にメールを送った理由が、関係あるの?」
 小さく頷いたような気がした。
「関係、あるのかどうか、僕にもよくわからないんです」
 翔はそこで言葉を区切り、後を続ける。
「ただ……ただ今日、夢を見たんです……きっと明日も同じ夢を見て、昨日も同じ夢を見たと思う……」
「思うって、どういうこと?」
 毎日同じ夢を見るってことなのだろう……だけど翔の言葉は、どこか曖昧な気がした。
「ほら、夢って、目が覚めちゃうと忘れちゃうじゃないですか? ただ、悲しい夢だったってことだけ覚えてて……他は全部忘れちゃう」
 翔は私からわざと視線を外して話した。嘘をつくのが下手な子だと思った。
 夢の内容を思い出したくないのか、単に言いたくないのか分からないけど、本当は夢の内容を全部覚えているのだろう。だから私は何も言わなかった。
 言いたいときがくれば、そのうち翔の方から夢のことを話してくれるだろう。

 部屋の明かりで気付かなかったが、いつのまにか窓の外は薄暗い世界から目覚めようとしていた。
 小鳥の声が耳に響き、私は思ったよりも長く話していたことに気付いた。
「少し、長話をしちゃったね」
 そう言って部屋を出ようとドアを開いたときだった。不意に背中から翔の声が聞こえた。
「……あなたに殺された人は、幸せですね……」
 背中から聞こえた翔の声は、さっきまでの透き通る綺麗な声ではなく、寂しく弱々しい子供の声だった。
 私はいつもと違う声に驚いて振り返った。部屋の中には少し俯いて、寂しそうな表情を浮かべる翔がいた。
「あっ……なんでもないです、また明日も来てくれますか?」
 振り向いている私に気付いたのか、翔は慌てて笑顔を作った。私も笑顔で翔に答える。
「うん、約束するよ」
 そう言って、私はまた翔に背を向け病室のドアを閉めた。
 体から力が抜けて、背中にドアの感触を感じた。寄りかかるようにドアにもたれ、私は俯いていた。
「うぅ……」
 口元から嗚咽が漏れる。我慢していた涙が頬伝う、どこかくすぐったく感じる。
 私……ちゃんと、仕事……できるのかな。
 私……ちゃんと、翔……殺せるのかな。
 私にとってはいつものことなのに、いつもいつもバカみたいに助けたくなって、助けられたことなんて一度もないのに、翔のことを助けたいと思ってる。

 病院の外は真っ黒のアスファルトが病院の外へと続いている、真夏の風も明け方は肌寒く感じられ薄着をしていると風邪を引くかもしれない。
 所々に木が植えてあり、風が吹くたびにザザザと音をたてて揺れた。
 私は病院にとめていたバイクのキーをポケットから取り出す。バイクにまたがるとシートについた夜露がジーンズに馴染む。
 エンジン始動のセルはなく、足元についたチョークを引き、右足についたキックを蹴る。何度目かのキックでエンジンがかかり、タバコの煙に似た白い息を吐く。
 ツースト独特のエンジン音がフルフェイスを通して伝わってくる、身軽なボディーに積み込まれたエンジンはじゃじゃ馬のように扱いづらい。
 右手に力を込めて、白い息を後方になびかせながら、バイクを発進させた。

 明け方の道路は思ったよりもすいていた。バイクを走らせて私の住むアパートに着くまで、数台の車とすれ違った。
 一台目は真っ黒のスポーツカー、薄暗い世界に溶け込んだかのような色だったが、エンジンサウンドだけがその存在を主張している。私とどこか似ている気がした。
 二台目はVIPカーだろうか……バイクに乗っていてもわかるほどのボリュームで音楽を垂れ流していた。乗っている者はいいのだろうが、周りの人間は迷惑極まりない。
 私はアパートの前でバイクを止めた。私がバイクに乗っている理由の一つに、このアパートに車を止めるほどの駐車スペースがなかった事があげられる。
 私は自転車が置かれいてる場所までバイクを押して行く、いつものように自転車が数台と見慣れたアメリカンバイクが一台止まっていた。
 バイクの持ち主の名は神崎 優人、裏の職業は情報屋、表の職業は探偵、情報屋と探偵がどう違うのか私には理解できないが、彼の情報には私も随分助けられている。
 新しい仕事が入った事を事前に伝えているので、私の部屋で、私の帰りを珈琲でも啜りながら待っているのだろう。

 バイクの鍵を抜き、二階にある自分の部屋へと向かう。私宛の郵便受けには、昨日まではなかった広告がはみ出している。私は広告を取り出し、ろくに中を見ないまま隣の郵便受けへと突っ込んだ。
 階段を忍び足で上がるのも、私の習性だった。二階の手前から二番目にある部屋が私の部屋。部屋の前まで行き、鍵を取り出そうとポケットに手を入れた。
「そっか、今日は鍵を開ける必要はないんだ」
 部屋の中にいる優人の存在を思い出し、軽くドアをノックする。いつもは誰もいない自分のアパート、ノックをするのはどこか変な感じがした。
 返事は返ってこなかったが、それもいつものこと。私はドアノブをまわして中へと入る。
 1LDKの生活空間を感じさせない空間が広がっている、備え付けの冷蔵庫も、電力を無駄に消費するだけのもの、邪魔なだけだった。
 リビングにはソファーに腰掛けた優人の姿がある、手に煙草を挟み珈琲を啜っている。
「おかえり、遅かったな」
 優人は私の方に顔も向けず、珈琲カップをテーブルに置く。薄っすらと湯気がたっていた。
「そうでもないさ、今日は始まったばかりだろ?」
 部屋の時計は午前四時を指していた。
「笑えない冗談だな、女子高生の朝帰りの言い訳でも、もう少し考えた返答が返ってくるさ」
 そう言って煙草を口に含む、先っぽが赤く浮かび上がり灰が床へと落ちる。こいつが来るたび毎回床を掃除しないといけないのは、どうしたものか。
「腹減ってないか? どうせ、飯もろくに食ってないだろう」
 優人は名前の通り優しい男だった。普段サングラスをかけている事が多く、近寄りがたい印象を与えるが実際のところは違った。私だけ特別に優しいわけでもなく、老若男女分け隔てなく優しい。優人の周りには常に誰かがいた。
 街で会ったときにも私は大抵一人なのだが、優人が一人でいるところを見かけたことがない。男より女と一緒に歩いていることが多かったが、優人は「特定の女は作らない」と言っていた。女は大抵、好意の視線を向けていたのだが、優人の表情はサングラスで伺えない。これも彼の優しさだと気付いたのは、つい最近のことだった。私もサングラスを取った彼の姿を見たことが無い。
 私は革ジャンを脱ぎながら「別にいいよ」とだけ言った。
 実際昼を食べてから何も口にしていない。だが、腹が減っているという感覚はあまりなかった。
 腹が減っているか分からないが、私より正直なのは、私の腹の虫だったようだ。
 私が答えたすぐ後に、ぎゅるるるる、と私の腹が鳴った。どうやらタイミングだけは心得ているようだ。
「ふはは、腹は正直だな……いいよ、何か買ってきてやるさ」
 私は頬に熱を感じながら「うん、ありがと」とだけ答える。当たり前だが私も一応は女の子、こんな性格だが若干18歳の乙女なのだ。人前で腹が鳴ると恥ずかしい、華も恥らう純粋無垢な乙女なのだ。
 優人は私の反応を見ながら、笑顔を浮かべる。
「恥らうような玉でもないだろ?」
 私の顔がますます熱を帯びる。
「いいから、さっさと買って来い! ほら、ダッシュダッシュ!」
「へいへい……」
 優人は私に背を向け、軽く手を上げて気のない返事をした後に玄関から出て行く。
「あっ、そうそう、何か食べたいものあるか?」
 玄関から顔だけ覗かせて優人が言った。
「別に、何でもいいよ」
「何でもいいよ、が一番困るんだけどな、じゃぁ、嫌いなものは何だ?」
 優人の口元が苦笑いをする。当然サングラスの奥に隠れた表情は伺えない。
「そうだね、納豆以外なら大丈夫、あっ……ちょっと待って、魚介類もできたら食べたくないし、甘いものもダメ、だからと言って辛いものも好きじゃない……」
「お前……何食って生きてんだ?」
 優人が呆れたように言った。
「別に嫌いってだけで食べれないわけじゃないよ、それにまだ四つしか言ってないじゃん、嫌いなもの四つって意外に少ないと思うよ」
「それ、笑えない冗談だな」
 と優人が笑った。
「了解、できるだけその四つは避けるさ、ちょろっと、行ってくる」
 アパートのドアがバタンと音をたてて閉まった。私は机の上に置いてある優人の煙草を一本取り出した。
 法律では、18歳だと煙草は吸えないらしい。20歳を過ぎないと煙草が吸えないのは一般常識らしい、だが私がその事を知ったのはつい先日のことだった。
 いつものように煙草を買いに、近くの自販機へと向かった。いつも買っている煙草のボタンを押したのだが、いつまで経っても出てこない。よく見ると赤々と売切の文字が浮かび上がっている。私は仕方なく、他のどの煙草を買おうかと迷っている視界の隅に、小さなポスターが貼ってある事に気付いた。
 ちょうど煙草が並んだすぐ下だ、今までそんなポスターが貼ってあることすら気付かなかった。
 その内容を見ると『未成年者喫煙禁止法』の文字、そのとき初めて未成年者が煙草を禁止されていると知った。私は煙草を15歳から吸っていたのだが、今まで気付かなかった。それも凄いと思うが、まぁ、今更、止められるはずもないんだけどね。
 私はポスターを見なかったことにして、適当にボタンを押して煙草を取り出し、足早にその場を後にした。

 煙草を口にくわえて、オイルライターで火をつける。一瞬だが香水の甘い匂いがした。
 オイルライターに二、三回香水を振り掛けると、煙草に火を点けたとき香水の香りがすると聞いたことがある。
 ソファーに腰掛け白い煙を吐き出す。しばらくして、バイクのエンジン音が聞こえてきた。私のバイクと違い、重低音の空気を震わすような音だった。
 私はすぐに、優人のバイクの音だと気付いた。何度か空ぶかしをした後、エンジン音が遠ざかっていく。
 一人だけになった部屋を少し広く感じた。いつもこの部屋に一人でいるのだが、それとは少し違った寂しさだった。
「早く優人、帰ってこないかな」
 私の声が部屋に響く、自分でもそんなこと言うつもりはなかったのに、自然と口から出た言葉だった。
「何言ってんだろ、私……さっき出て行ったばかりなのに……」
 優人の出て行ったドアをボーっと眺めながら、私はもう一度煙草を口に含んだ。

 待っている時間が退屈でテレビをつけたが、こんな早朝に面白い番組はやっていない。チャンネルを回すが、ピーっと電子音が流れるか天気予報が映るくらいだ。
 それでも、気分を紛らわすのにはいいかもしれないと、天気予報にチャンネルを合わせた。
 煙草を灰皿に押し付けて、ソファーに横になる。
 こんな体勢で寝たら、起きたときには体中が痛くなっているだろう。私の意志とは反して瞼が重たくなっていく。
 少しだけ眠ろうと思いつつ、私は目を閉じた。

『私は母親を怨んでいた。いつもいつも自分勝手な母親を怨んでいた。私一人をこの世に残して、逝ってしまった母親を怨んだ。優しく微笑みかける母親を怨んだ。もしかしたら、母親は怨まれることを望んでいたのかもしれない。私には、まだ……わからない』

 目の前には緑色の草原が広がっている。くるぶし辺りまで伸びた芝生が、地平線まで広がっていた。
 空は雲ひとつない、いい天気。空を遠く感じた。空の中を気持ち良さそうに数羽の鳥が、飛んでいる。翼を広げて風に逆らわず、黒い羽をはばたかせた。
 この空も、この草原も、果てしなく続いている気がした。
 くるぶしまで伸びた芝生が風に揺れるたび、ざわざわ音がして私の足をくすぐる。くすぐったいけど嫌な感じはしなかった。
 お母さんは少し離れたところから、私の姿を見て微笑んでいた。私は嬉しくなって、お母さんのいる方に駆け出した。
 足が足に引っ掛かって、私は転んだ。芝生の絨毯が私の体を受け止めてくれて痛くはなかった。
「大丈夫? 痛くなかった?」
「うん、大丈夫、洋子、泣かないもん」
 私は起き上がって、今度はゆっくりとお母さんのいる方へ歩き出す。
「洋子は強い子だね」
「うん、洋子、強い子だもん、えへへ」
 お母さんに褒められた気がして、嬉しくなった。
 私はお母さんのことが大好きだった。お父さんは私が産まれるずっと前に凄く遠くに行っちゃったって、お母さんが何度か話してくれた。私とお母さんはずっと二人だった。だから私は、お父さんを知らない……だけどそのぶん、お母さんの優しさを知っていた。
「お母さん」
 私は座っているお母さんに抱きついた。お母さんの手が私の頭をゆっくりと撫でてくれる。
「ほら、顔に泥、ついてるわよ」
 お母さんが顔の泥を払ってくれる。さっき転んだときに泥がついたみたいだ。
「いいもん、洋子、自分でできるもん」
 私は立ち上がって、自分の服を何度か手の平で払った。手で払うたびに服についた砂埃がふわっと浮き上がった。

 お母さんがどこかに連れて行ってくれるのは、珍しいことだった。「今日はお婆ちゃんの墓参りをしよう」昨日の夜にお母さんはそう言って、朝早くからお弁当を作っていた。
 私はお婆ちゃんのことを知らない、だけどお母さんと一緒にお墓参りをするのが楽しみだった。お母さんはいつも仕事が忙しくて、家にいることなんて滅多になかった。
 お母さんの仕事は自殺請負人「どんな仕事?」って私が聞くと、お母さんは微笑みながら「人を助ける仕事よ」と言っていた。
 お母さんと出かけるのが楽しみで、昨日はあまり眠れなかった。
 目をごしごし擦ると「眠たいの?」とお母さんが声をかけてくる。私は眠たかったけど「ううん、眠たくない」と答えた。せっかくお母さんと一緒にいるのに、寝て過ごしたらなんだかもったいない気がした。
「じゃぁ、お弁当食べたら、少し寝ようか」
 お母さんは少し離れた場所に止めた車へと走っていく、お弁当は車の陰に置いてあった。こんな天気のいい日は、車の中に置いておくと腐って食べられなくなるみたい。
 大きな風呂敷に入ったお弁当を、お母さんが抱えて持ってくる。風呂敷をほどくと中から三段ほどの重箱が現れた。
 一段目と二段目に、玉子焼きやから揚げなどのおかずが入っていた。三段目にはおにぎりが入っている、風呂敷に三つの箱を順番に並べていく。どれも美味しそうだった。
 お母さんが紙の皿へとおかずを取っていく。から揚げにミートボールに玉子焼き、私の好きなものばかりだ。
「はい、これは洋子のぶんね」
 私が好きなものばかりが乗った皿を、お母さんは渡してくれた。
「わぁ、洋子の好きなもの、ばっかりだ」
 から揚げに割り箸を突き刺して口元までもっていく、私はまだ箸が上手に使えない。割り箸に刺したとき、から揚げがパリっと音をたてた。
 から揚げを口の中に頬張る、外はかりっとしてて、中は柔らかかった。
「これ、おいひいよ」
 美味しいと言ったつもりなのだが、食べながらだとうまく喋れない。
「美味しいでしょ、頑張ったんだからね、お母さん」
 お母さんは嬉しそうに微笑んで、腕を少し折り曲げガッツポーズをした。私は嬉しかった、私の言葉でお母さんが笑顔になってくれたんだ、そう思うと凄く嬉しかった。
「この玉子焼き、甘くておいしい」
 本当にどれも美味しかった。
「お母さんは、食べないの?」
 お母さんはずっと私の方を見てて、お弁当を食べていなかった。それに食べるところを見られるのは、なんだか恥ずかしかった。
「お母さんも食べるよー、から揚げ全部食べちゃうもん」
 そう言ってから揚げを次々と紙の皿に取っていく。
「わっ、わっ、全部はダメだよ、私もまだ食べるもん」
 私は慌ててから揚げに箸を伸ばした。
「じゃぁ、私はミートボール全部食べよ」
「わっ、ミートボールも全部はダメだよ、私も食べる」

 二人で食べきれないほどの量があったのだが、既に重箱の中は空っぽになっていた。
 そのかわり私のお腹はいっぱいになった。もうこれ以上は食べられない。
「ふぅー、食べた食べた、洋子もお腹いっぱい?」
 お母さんは両腕を空に突き出して、欠伸をしながら言った。お母さんもお腹いっぱいみたいだ。
「うん、洋子もお腹いっぱい」
 言い終わると自然に欠伸が出る。瞼が重たくなって、風景もぼんやりと見えた。お腹いっぱいになると眠くなる。
『お母様、見てますか? 沙耶はこんなに大きくなりました。私にも子供ができました。この子の名前は洋子、私と同じくらいに優しい子供に育ってますよ、私も母になりました。だからかな、今ではお母様のことが少しだけわかる気がするんです』
 私の意識はここで途切れた。

 低いバイクの音で私は目覚めた。ソファーの寝心地は最悪、少し寝ただけなのに首が痛くなっている。
 テレビに映し出されていた天気予報は終わり、かわりに朝のニュースが映っている。
 テレビの左上に表示されている時刻は4時32分、約20分寝たことになる。明らかに寝たりない、頭はまだ冴えないままだった。
 片手で口元を押さえながら欠伸をする、中途半端に寝たせいか、体はだるく頭も働かない。
 バイクの音が近づいてくる、どうやら優人が買い物を終えて戻ってきたようだ。
 私は煙草を口にくわえて、寝起きの一本に火をつけた。とうぶん煙草はやめられそうにない。
 階段をこつこつと上がってくる音が部屋に響く、一時の後、コンコンと控えめな音が部屋に響いた。
「悪い、遅くなった。腹、減ってるだろ?」
 ガチャとドアを開ける音が響いて、コンビニ袋を抱えた優人が部屋へと入ってくる。
「あぁ、やっと帰ってきた、優人遅いよ」
 ほんとは「待っていた」と言いたかったのだが、そんな言葉いえるはずもなく、私はそっけなく優人に返事をした。
「結構苦労したんだぞ、納豆と魚介類と辛いものと甘いものが入ってない弁当を探すのも」
 買い物袋から弁当を取り出す。赤っぽい容器に入ったコンビニ弁当、ラップにテープが貼ってあり商品名が書かれている。
『海鮮納豆卵丼』商品名を聞いただけで、どんな弁当か容易に想像がつくような弁当だった。
「なんのつもり? これ、笑えない冗談?」
「軽い冗談さ、別に怒んなくてもいいだろ? これは俺の弁当、お前の弁当はこっちさ」
 商品名『ビックリ弁当!』ラップに透けて中身が見えるが、白いご飯にすき焼き、ポテトサラダといたって普通の弁当だった。
 私にはさっきの弁当の方がビックリ弁当だと思った。コンビニ弁当でいちいち驚きたくないのだが……。

「……それで、本題だが」
 私は箸を置き、久しぶりの飯を中断させる。本題というのはもちろん今回の依頼人『藤本 翔』のことだ。
「あぁ、食いながらでいい、今回の依頼人の話を聞かせてくれ」
 普段の優人からは想像できないくらいの真剣な声で聞いてくる、これが仕事の話をするときの優人だった。
「今回の依頼人、名前は藤本 翔、現在椿病院の個人病棟305号室で暮らしている、見た感じ優しそうな男の子。病院に入院しているが、私は彼が何の病気で病院に入院しているのか知らない」
「名前は藤本 翔だな、その名前をどこかで耳にした覚えがあるんだが、悪い、覚えていな」
 優人が申し訳なさそうに呟いた。
「話を続けるよ」
「あぁ」
「彼が言った言葉について、少し不思議な部分があったの」
「どんなところだ?」
「私が彼にメールを送った理由を聞いたときに、彼は悲しい夢を見ると言った。それが理由と直接関係があるのかわからない……だけどその夢を毎日見ると言っていた。同じ夢を毎日見るって少し変じゃない?」
 優人は少し考える素振りをしてみせた。
「そうだな、明らかに変だろう、それで夢の内容は?」
「それは、まだ、聞いていない……なんとなく聞かれたくなさそうだったから、ほら、悲しい夢ってあまり人に話したくないよね?」
 私はさっき見た自分の夢を思い出し、そう言った。優人はどこか不全としない表情をしていたが、納得はしてくれたようだ。
「わかった、調べてみるさ、男の子のことについて、それと男の子の言った夢の内容について」
 優人の声が普段の声に戻った。
「だけど、あまり期待はしないでくれよ、夢ってのは本人しかわからないものだし、藤本 翔についてはいくらか調べれられると思うが、夢の方は最悪の場合、全然調べられない可能性もある」
「わかってるよ、ありがと、翔のことだけでも、私、知りたいから」
 本当は全部私が聞かなきゃいけないこと、こんなこと頼んでる自分が少し卑怯な気がした。
 私の言葉を聞いて、優人が呟くように言った。
「お前、また、その翔って子のこと、助けたいって思ってるのか?」
「うん、当たり前じゃん!」
 私はできるだけ不安を隠すように、明るく笑って言った。


 コンビニ弁当を食べた後、すぐに優人は出て行った。表仕事の探偵も結構忙しいらしい。
 一人残された私は、特にすることもなく煙草に火をつけた。
「最近、量が増えてきたな」
 灰皿の中は、吸殻でいっぱいになっている。
 私は一口だけ煙草を吸って、長いままの煙草を灰皿へと押し付けた。
 しばらく煙を上げながら、やがて灰皿の中で火が消えた。
 部屋にある窓からは、朝日が差し込んでいる、寝るには少し遅い時間だった。いくら夜の生活をしているといっても、昼間はぐっすり眠れない、何時間寝てもあまり疲れも取れないし、規則正しい生活とは無縁の私だった。
「今日も行くって、約束したからね」
 私は翔と交わした約束を思い出していた。今日も絶対に会いに行くっていう約束だ。
「少しは眠らないと、さすがに辛い……」
 眠たくなかったが、瞼を閉じているといつか眠れるだろう。そう思って瞼を閉じる。
 思っていたよりも体は疲れていたみたいで、私が瞼を閉じてから数分としないうちに眠気が襲ってきて、私の意識が途切れる。

 私は昨日より少し早い時間に家を出て、病院へと向かった。腕時計は午後十時を指している、病院は既にいくつかの明かりを残して暗くなっていた。
 昨日より明かりの点いている部屋が多いけど、顔を見られる心配もない。見られたところで、普通にしていればいいだけだ。ただ、夜遅くに部外者がいるとやはり目に付くだろう、顔を覚えられるのは厄介だった。
 だけど私自身、早く翔に会いたい気持ちでいっぱいだった。
 私は昨日と同じように病院へと侵入する。もちろん正面玄関から入ったりはしない、音をたてないように廊下の窓の鍵を開けて、そこから中へと入る。
 病院の窓は大抵、窓の内側にロックのついた簡単な作りになっていた。
 問題はここから、窓から入っているところを誰かに見られたら、それこそ事だ。廊下の奥まで見渡して、人影がないことを確認して、窓を開けて中へと入る。

 翔のいる病室の前まで行って、私は気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。このドアの向こう側に翔がいると思うと自然に鼓動が早くなる。
 コンコンっと静かにノックをして、ドアに手をかける、ひんやりとした感触が手の平全体に伝わってきた。
「こんばんは、翔、昨日よりちょっと早いけど、約束通り来たよ」
 部屋の中は昨日と同じく電気はついていない、薄暗い部屋の中に翔いた。ベットから上半身だけを起して、私の方を笑顔で見つめ、首をちょっとかしげた。
「だれ……ですか?」
 笑顔のままで翔が言った。
「えっ?」
 翔の方を見るが、依然として笑顔のままだった。私は冗談を言っているのだろうと思った。
「ほら、忘れちゃった? 私だよ、洋子だよ」
「洋子……さん?」
 私の名前を聞いて翔はまた首をかしげる、本当に覚えてないのかもしれないと不安になった。
「どうしたの? 翔、ほら、昨日会ったじゃない」
 もしかしたら薄暗くて顔が見えなかっただけ……そう思って、私は翔のほうへ近づこうとした。
 その瞬間、翔の顔から笑顔が消えた。
「こないで! こっちにこないでよ!」
「もぅ、どうしちゃったのよ」
 私はできるだけ優しく声をかけて、翔に触れようと手を伸ばした。
 その瞬間、パンっと乾いた音だけが部屋に響き、私は何が起こったのか一瞬理解できなかった。
 伸ばした手にじんわりと痛みを感じる、その痛みで、私の手は翔の手によって叩かれたのだと理解した。
「……っつ」
 手はあまり痛くなかった。だけど心の中が締め付けられるように痛くなった。
「……あっ」
 翔は自分がしたことを理解できないように、呆けている。そして
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 と何度も謝った。怒られるのを怖がっている子供のように、頭を両手でかばって何度も謝った。
 私は翔の頭にそっと手を置いて、優しくなでた。今度は手で触れることができた。
「いいよ、怒ってない」
 私の声を聞いて翔が顔をあげた。私は翔の顔を見て優しく微笑んだ。
「僕、覚えてないんです、洋子さんのこと……」
 翔が私の顔色をうかがうように言った。
「そっか、忘れちゃったか、うーん、じゃぁ、自己紹介するね」
 昨日は二人でたくさん話をした、私にとっても翔にとっても忘れられない一日だったと思う。だけど翔は忘れていた、理由はわからない、だけど今の翔は確かに私のことを覚えていなかった。
 私はスーッと息を吸った。自分が緊張しているのがよくわかる、二回も自己紹介をするとは思っていなかったからだ。
「改めて、こんばんは、私は゛自殺請負人゛の岬 洋子と申します」
 私は照れ隠しに、笑ってみせた。
「自殺請負人?」
 その言葉に、翔は首をかしげた。私のことを覚えてないのなら、覚えていなくても当然かもしれない。
「あぁ、それは私の仕事、簡単に言ったら死神みたいなものね」
 翔は体を一瞬ビクンッと震わせて、さっきと同じような、怯えた目で私を見つめた。
「死神さんは、僕を……僕を殺しに来たの?」
「違うよ、違うよ……あっ、でも違わないか……翔は昨日、私にメールを送ったこと、覚えてる?」
「ううん、ごめんなさい、覚えてないです」
 翔は申し訳なさそうに言った。
 私は「コホン」と咳払いを一つした後に、昨日と同じように自分のことを話し始める。私の゛自殺請負人゛という仕事のこと、翔が私にメールを送ったこと、そして私が一週間後に翔を殺すこと、そして死にたくないと願えば殺さないこと、全部を翔に話した。
 翔は昨日と同じように私の話を真剣に聞いていた。
「だから覚えているだけでいい、私に話してほしい」
 私は最後にそう付け加えた。
 翔は意を決したように口を開く。
「僕、記憶がないんです。昨日のことすら覚えたいないんです」
 なんとなくわかっていたことだけど、改めて翔の口から聞くと少し違って聞こえた。
「記憶がないって、いつからの記憶?」
 記憶喪失の人でもずっと昔のこと、例えば子供の時の記憶はあるらしい。だから翔も覚えている昔のことがあると思った。
「それも、わかりません……ただ、ただ目が覚めたらここにいて、自分が何で病院にいるのかもわからなかった。夢の続きを見ているのだと思ったんです。はじめはここが病院だともわかりませんでした。ほら、そこにある時計」
 翔は枕元を指す、暗くてよく見えなかったが、そこには確かに時計らしきものがあった。
「その時計でちょうど九時に看護婦さんが入ってきたんです。だからここが病院だと、そのとき初めてわかったんです」
「なんで自分が病院にいるのか、病院での記憶は全然ないってことね」
 翔はこくんと頷いた。
「今でも少し、これが夢の続きなんじゃないかって思ってます。怖い夢を見てて、目が覚めたら知らない病院にいた。僕の覚えているのはこれくらいしなかいんです。ごめんなさい」
「ううん、ありがと、よかったら怖い夢のこと、私に教えてくれる」
 翔は少しためらって、しばらくして口を開いた。
「夢は、誰かが子供に向かって怒っている夢でした。子供はその人に一生懸命謝っているのに、その人はとても子供に怒っているようで、一生懸命謝ってる子供に向って手を振り上げ、そのまま子供めがけてその手が振り下ろして、その後目の前が真っ暗になって……子供の悲鳴が聞こえて……やめて、やめてって、何度も聞こえて……うぅ……泣き叫ぶ子供の声が何度も……うっく……その後に、鈍い音が聞こえて……僕は嫌で耳を塞いだのに……子供の悲鳴が……ぐっ……耳の中で……何度も、何度も聞こえて……耳を塞いでるのに……うぅ……何で聞こえるのって……うっく……やがて、その声が……うぅ……だんだん小さく……なって」
 翔は泣いていた。私は涙を流す翔をそっと抱き寄せ、両手で頭を包み込む。
「ごめんね、もう大丈夫だから、もうわかったから」
 私はそんな翔の姿を見ていられなかった。
「ごめんね、ごめんね、もう、話さなくてもいいから」
 翔の泣く姿を見ていられなかった。翔にとっては思い出したくない記憶、私は聞いたことを後悔していた。
 翔は私の胸の中で少し安心したのか、呼吸を整えて……そしてまた、夢の続きを話しはじめた。
「気がつくと……うっく……病院の天井を見上げてて……夢で……良かったって……安心するんです……ごめんね……うぅ……なんでこんなときに……僕、泣いちゃうんだろ……」
 翔は私の胸の中で、うっく、うっく、と嗚咽を漏らしながら大声で泣き始めた。
「嫌だよ……なんで僕ばっかり……教えてよ……僕が誰なのか、知ってたら教えてよ! うわぁぁぁ……嫌だ、嫌だよ……うぅ……こんな夢、もう見たくない……うわぁぁぁん」
 温かい涙が服に染み込んで、頭を包み込むように両手で抱いていた。泣き声が直接、私の胸に振動して、翔がどれだけ怖い思いをしていたのか考えただけで、私の胸は締め付けられるように痛かった。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね、思い出せちゃって……」
 私には、それだけしか言えなかった。病室には翔の鳴き声だけが何度もこだまして、私は翔の頭を優しく撫でた。
「うっく……もう少し……このままで……いさせてください」
 そこで一度、翔は言葉を区切った。
「僕、毎日あの夢を見るって、お医者さんが言ってた。そして昨日のことは全部忘れて、毎日忘れて、覚えているのは、あんな夢のことだけ……ほんとに僕、何者なんですかね? 嫌だよ僕……覚えてるのが、覚えているのが怖い夢のことだけ……嫌だよ……うぅ……」
 私は翔の頭を撫でながら「ごめんね、ごめんね」と何度も言った。こんなことしても意味がないのに、明日になれば全部忘れているのに、私はこうしていたかった。また、助けてあげられないと思った。一緒にいるだけでいい、それで翔が幸せを少しでも感じてくれるのなら、覚えていなくてもいい、忘れてもいい、だから私は今日の思い出になろうと決めた。

 どれだけ時間が過ぎただろうか、翔は泣き疲れたのかスヤスヤ寝息を立てて、私の胸の中で安心したように眠っていた。
 私は翔を起こさないようにそっとベットに寝かせた。私が翔に触れようとしたときの怯えたような反応、翔の夢の話、そして忘れていく毎日。
 翔はずっと一人だったんだと思う、だから私にメールを送ったんだ。私もその想いに答えようと思う、もう翔は一人ぼっちじゃないんだよって、明日もその次の日も教えてあげたい、それが翔にできるたった一つのことのように思えた。

 私は翔の寝顔をしばらく見ていた。とても幸せそうな寝顔だった。
 そして病室から出ようとしたときだった。
「僕、忘れないから、洋子さんのこと、絶対に忘れないから……」と翔が言った。
 私は驚いて振り返ったのだが、翔は寝息をたてて眠っていた。寝言で言った言葉だった。それでも私は嬉しかった。
 だから私も翔に返事を返した。
「おやすみなさい、今日の翔」と。そして病室のドアを音をたてないようにそっと閉めた。

 病院の廊下に人影がないことを確認して、入るときに使った窓から外へと出た。もちろんその後に鍵をかけるのを忘れずに、鍵がかかるときの小さな音でさえ心臓が高鳴る。
 病院から出た後に一度だけ病院の方を振り返った。窓の光に少しの違和感を感じたが、私はそのまま昨日と同じ場所に止めたバイクまで足を速める。
 昨日より早い時間だったようで、辺りは真っ暗だった。バイクにまたがりエンジンをかけると、真っ暗だった空間をバイクのライトが照らした。エンジン音だけが辺りに響き私はバイクを発進させた。
 今日もアパートに帰るまで数台の車とすれ違った。真っ暗だったせいか車の色まではわからなかった。

 アパートに着き、いつものように駐車場へとバイクを押していく、今日も駐車場には優人のバイクがあった。
 駐車場といっても自転車を止めるためのもの、いたってシンプルな作りで雨を防ぐ機能だけしかなかった。ところどころ錆びていて、白い塗装が剥げ茶色い色を目立たせる、その駐車場の一番端っこに優人のバイクは置いてあった。他に置く人の邪魔にならないようにとの優人の配慮だろう、私は優人のバイクの隣にバイクを止めて鍵を抜いた。
 部屋のドアをノックしてもやはり返事は返ってこない、私はドアノブをまわしドアを開けた。
「おかえり、洋子、今日は随分と早いな」
 部屋には昨日と同じように、ソファーに腰掛け珈琲を啜っている優人がいた。
 腕時計を確認すると、午前一時を指していた。確かに昨日よりは早い時間だった。
「良い子はとっくに、寝てる時間よ」
「良い子の俺は、眠ることもせず、ご主人様の帰りを待ってたんだが」
 胸を張って言い切る優人、私は声を出して笑った。
「あはは、その台詞、メイド風に言ってみてよ」
 優人は苦笑する。
「悪い、俺にそんな趣味はないさ」
 私にも当然ながらそんな趣味はなかったが、少しからかってみようと思って言った言葉だった。

「そんなことより……」
 優人の声色が変わる、仕事の話をするときの口調だった。私はこの声を聞くと緊張してしまう。
「藤本 翔のことについて、いろいろ調べてみた。夢の内容と断言は出来ないが、それらしい情報も手に入った」
「ほんと! 教えて」
 私は優人に詰め寄っていた。
「ただな、教える前に一つ聞きたいことがある、お前は翔のこと、助けたいと思っているのか?」
「それ、昨日も聞いたよ、当然に決まってんじゃん」
 私の言葉を聞いて、優人の表情が少し暗いものへと変わった。
「こんなこと言いたくないが、今回ばかりはどうにもならないだろ?」
「どうして……どうしてそんなこと言うの? 何で助けられないってわかるの?」
「いや……」
 優人はそこで一度言葉を区切って、言いにくそうに後を続ける。
「だって、翔はお前のこと、覚えていなかった、そうだろ?」
「えっ?」
 一瞬なんで優人が知っているのかわからなかったが、翔のことを調べてもらうように依頼したのだ。知っていてもおかしくない。
「助けられないとわかっていて、どうして自分が辛い想いをしてまで助けようとするんだ」
「そんなことない!」
 私は大声で言った。助けられないのは、自分でもわかっていることだった。だけど、それを認めたくない自分がどこかにいて、それを認めたら本当に助けられない気がしていた。だから私だけは、助けられると信じていたかった。
「確かに私のこと、忘れてた。明日になったらまた、私のこと忘れていると思う、だけど、だけどね、思い出は作れるんだよ、思い出はきっと心に残ってると思うんだ……それって、助けるとは違うのかな?」
 優人が溜め息を吐く、私の言葉に呆れているのかもしれない。
「そうか……お前は本当に、それでいいのか?」
 優人の言葉はどこか私を気遣った言葉に聞こえた、また辛い思いをするのは私なのだから。
「それが゛自殺請負人゛の仕事だよ」
 私は不安を隠すように笑って言った。ただの強がりかもしれないけど、それが翔を助けてあげることに繋がるのなら、私は精一杯、翔と楽しい思い出を作りたい、私は翔がメールを送った日から心に決めていたことだった。
「そうだったな、ただ、覚えておいてほしい、お前のことを心配している人間もこの世にいるってことだ」
 優人が私を心配してくれているってことだろう、私は優人の優しさが嬉しくて、好きだった。
 だけど私は、いつもみたいに笑って答えた。
「なにそれ、もしかして愛の告白だったり?」
「ただ、心配しているだけだ、悲しみをいくつも背負って生きていけるほど、人は強くないからな」
 そこで優人は言葉を区切った。
「すまない、変なことを聞いたな、藤本 翔についてだが、両親は十年ほど前に離婚している、そのとき翔は母親に引き取られた。ここまではよくある話だ。離婚を切欠に母親は翔に暴力を振るうようになった。相当酷い暴力だったらしい、何度か病院に入院したとカルテが残っていた。今から三年前、翔は母親を殺した。そのときニュースになって、俺も翔の名前に聞き覚えがあったのはそのせいだ。殺す直前まで酷い暴力をうけていたらしい、そして翔は包丁で母親を刺し殺した。病院での検死の結果、全身に二十八ヵ所刺された跡があり、即死。ただ、一つおかしなことがあってな、翔は刺した後にすぐ病院に電話をかけている、誰かが倒れてる、凄い怪我してて、血がいっぱい出てる、早く来て……と。自分の母親を誰かって言うのは少しおかしくないか? それから後だ、翔が日々記憶を失っていくようになったのは、ショックによる短期の記憶障害と病院のカルテには記している……だが三年経った今でも翔は記憶を日々忘れていく、原因は不明、そのかわりと言ってはなんだが、毎日のように翔は同じ夢を見ているようになった。母親を殺したときの記憶だろうとカルテには記してあった、俺が調べれたのはここまでだ」
 私は翔が話した夢のことを思い出していた。必死に謝る子供、そして容赦無く殴りつける母親、翔はそんな夢を毎日見てる。翔が夢の話をしたとき、本当に怯えるように泣いていた。
「……うそ」
 優人の情報に偽りがないのはわかっていた。ただ、私は優人の調べた情報がとても信じられなかった。でもその情報通りだと、何事も上手く説明できる。
 最初に出会った日に言った。不自然な夢の話、私に対しての怯えるような行動、すべてが上手く説明できた。
 だけど納得いかない、翔が人を殺すような人間ではないし、ましてや自分の母親を殺したとはとても信じられなかった。
「認めたくないかもしれないが、真実だ」
「わかってる! わかってるわよ、そんなこと」
 私はおもわず怒鳴った。私が認めなかったとしてもそれが真実だってことぐらい、わかっていた。
「ごめんね、でもわかってる、認める、認めないじゃなくて……それが、真実だってわかってるから、ごめんね、今日はもう、帰って」
「あぁ」
 優人はそれだけ言い残し、玄関から外へと出て行った。
 私はその背中を見ることもなく、目の前のテレビをぼんやりと見ていた。もちろんテレビはついていない、一人になりたかった。
 翔は今までずっと母親に暴行を加えられ、そして今でも同じ毎日を夢の中で繰り返している、私にはその苦しみがわからなかった。ただ、その苦しみから助けたいと思った、だけど翔を殺す以外に助ける方法が思いつかなかった。
 私は煙草に火をつけた、肺の奥まで煙を吸って、白い息を吐き出す。少しは落ち着いて考えられると思った。
「ごめんね、助ける方法、思いつかないや……ごめんね」
 私の頬を涙が伝う、やはり殺すこと以外に思いつかない、別れの時をわかってて私は翔と向き合わないといけない、今までと同じように翔と向き合っていく自信がなかった。一週間経ったら、きっと翔は「殺して」と頼むだろう、それがわかってても私は翔と向き合わなくちゃいけない。
 それは私にとって残酷なことだった。

『母親はいつも身勝手だった。勝手に私を産んで、勝手に私を幸せにして、勝手に全部押し付けて、そして、勝手に死んでしまった』

 吹き抜ける風が私のワンピースを揺らした。アスファルトは黒く湿っていて、ついさっきまで雨が降っていたことを証明する。
 足に履いたサンダルが歩くたびにピチャピチャと音をたてて、水しぶきを上げた。お母さんからのプレゼントのサンダルだった。
 黒い雲の隙間からいくつか光が差し込んで、地上を照らしている。雨が上がってこれから晴れることを教えてくれた。
 夏の雨上がりは異様に湿っぽくて蒸し暑く、私の腕はしっとりと汗で濡れていた。
「あっ、もう、折角の誕生日プレゼントなのに」
 お母さんが呆れたように言った。
「だってね、洋子、早くプレゼントのサンダルが履きたかったんだもん」
 今日は私の八歳の誕生日だった。誕生日にケーキを食べた思い出もなかったが、お母さんはいつも誕生日にはプレゼントをくれた。
 去年は大きなクマのぬいぐるみだった。今も寝るときに抱いて寝ていた。私と同じくらい大きくて、少し大きすぎるくらい、どちらかと言ったら私の方が抱かれて寝ているみたいだった。
 そのときにもお母さんは今と同じように、呆れたような顔をしていた。
 だけどお母さんからの大切なプレゼントだったから、私はずっと一緒に寝ていた。お母さんが隣にいるみたいでなんだか安心できた。
「お転婆なのは、昔のお母さんにそっくりね」
「お母さんと洋子は似てるの?」
「そっくりよ、お母さんの子供だからね」
 私はお母さんに似ていると言われて嬉しかった。お父さんのことは知らないけど、お母さんは「洋子は、お父さんにそっくりね」とよく言っていた。
 私はどんなところが似ているのか気になって、お母さんに聞いてみた、そしたら「全部かな」と曖昧に答えた。
 私はお父さんのことを知らないけど、お母さんがお父さんの話をするときは少し寂しそうな顔になった。だから私はお父さんに似ていると言われるのを、あまり好きではなかった。
「夏の雨上がりは、暑いわね」
 お母さんはそう言って、ポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭いた。
「洋子は暑くない? ほら、太陽さんも出てきたし、蒸し暑いでしょ」
「ううん、大丈夫、このサンダル履いて、お散歩してくる」
 少し額は汗ばんでいたけど、お母さんの買ってくれたサンダルを早く誰かに見てもらいたかった。
「ちょっと待ってなさい」
 お母さんはそう言って、近くを流れる川まで走って行って屈んだ。私はどうしたんだろうと思ったけど、お母さんはすぐに帰ってきた。
 さっきのハンカチが濡れていて、水が滴っている。ハンカチを濡らしに川まで走って行ったのだ。
 お母さんはハンカチを軽く絞って、私の額に当てた。ひんやりとして気持ちよかった。
「気持ちいい」
 私が言うとお母さんは、優しく微笑んだ。
「そう、良かった、お母さんも一緒に散歩してもいい?」
「うん、あっ! 見て見て、空に虹がかかってる」
 空は徐々に青色を取り戻し、目の前いっぱいに綺麗な虹がかかっていた。私は空の虹を指差してお母さんに言った。
『お母様、見てますか、沙耶はこんなに大きくなりました。子供も今日で八歳になります。あと二年ですね、私はお母様に聞きたいことがたくさんあります。お父様のこと、お母様のこと、それに私のことも聞いてほしい、お母様に会える日を心待ちにしています』
「どうしたの? お母さん」
 お母さんは空を見上げたまま、何か考え事をしているように見えた。
「そうね、洋子ももうすぐ十歳だから、十歳になったら大人の仲間入りね」
 そう言ってウインクをする。なぜ十歳になったら大人の仲間入りなのか、このときにはまだ、わからなかった。
「うん、洋子、早く十歳になりたい」
 私がそう答えると、お母さんは何故だか少し寂しそうな顔をした。


 次の日、私はソファーの上で目を覚ました。最近はソファーで寝ることが習慣になりつつあった。一応この部屋にも押入れがあり、布団もそこへ入れてある。
 当然ながらソファーで寝るより格段に寝心地はよかった。この習慣を早く直さないとと思いつつも、布団を敷く労力を考えると、ついつい甘えてしまう。
 それに考え事をするのは、いつもソファーの上だった。
「最近は、悩んでばかりだな」
 翔は私のことを忘れていた。そのとき私は、記憶のなくなる原因なんて考えなかった。もちろん精神的なものだと思っていた。だから楽しい思い出をたくさん作れば記憶も戻ると思った。記憶が戻れば死ななくていいと思っていた。
 昨日の優人の情報を聞いて、例え記憶が戻ったとしても、翔の記憶の中には辛い思い出しかない事を知った。記憶が戻っても翔の答えは変わらないだろう。
 ただ、一つだけ、もし翔が昔の事を忘れたままで、これからのことだけ思い出に残ったとしたら、もしかしたら助かるかもしれないと思った。そんな都合の良い事が起こるわけがない、だた、助ける方法は他に無いように思えた。
 絶対に助けられないと思っていた、だけど、助ける方法がたった一つだけ見つかったように思えて嬉しかった。
 私は今日も、翔に会いに病院へ行くことを決めた。

 夜になるのを待って、私はアパートを出た。外は昼の暑さを忘れ、夜は少し肌寒く感じる。バイクに乗っているから余計にそう感じた。風を切る音がヘルメットに伝わって、革ジャンがばたばたと音をたてて揺れた。
 病院に着いたのは午後十時、翔のいる部屋辺りに、ぽつんと一部屋だけ明かりがついていた。まだ寝るには少し早い時間だし、さして気にするようなことでもなかったが、私は少し気になった。翔にこっそりと会っている事が誰かに知れたなら、会いに行けれない。翔を助けた場合は問題ないのだが、翔を助けられない場合、真っ先に夜中に進入する私の存在が疑われるに違いなかった。
 私は病院に入ることなく、少し様子を伺うことにした。

 病院の明かりは徐々にその数を減らしていった。だがその明かりは一時間経った今でもついたままだった。疑惑が少しずつ確信へと変わる。
 あそこには、私を待っている誰かがいる、もちろん偶然の可能性が大きい、だけど用心して無駄ということはないだろう。翔に会いたい気持ちを抑え、私はもう少し待ってみることにした。
 また一時間が経った。だけどまだ明かりは消えていない。
 私は意を決して病院へと侵入する、もちろん見つかることを考慮して今日はいつもより慎重になっていた。昨日と同じ窓から入るときも、出来るだけ音をたてずに鍵を開ける。カチッと鍵が開く音がするだけで異常に早く心臓が鼓動した。
 私は廊下に入って窓を閉めた。出るときの事を考えて鍵は開けたままにしておいた。
 廊下を歩くときは、とっさに身を隠せるところを探しながら歩いた。
 そして三階の翔の部屋の前までやってきた。部屋のドアの隙間から光が漏れていた。中の様子を伺うようにドアに耳を当てたが何も聞こえなかった。
 ドアを少し開いて中の様子を伺う、明るいところから暗いところはよく見えないが、暗いところから明るいところはよく見える。万が一、看護士か医者が中にいたとしても、顔まで見られる心配はないと思ったからだ。
 部屋の中は、ベットに寝転びながら本を読んでいる翔の姿があった。それ以外に人影はなかった。
 私はホッと胸を撫で下ろしてドアを開いた。
 翔はドアが開いたことに気付いたのか、本を読む手を止めて、こっちを見ていた。
「こんばんは、翔、私は自殺請負人の岬 洋子、とりあえず覚えて無いと思うから、自己紹介ね」
 私は簡単に自己紹介をした。さっきほどには緊張しないが、それでも結構緊張する。
 翔は私の姿を見て、楽しそうに笑った。
「洋子さん、いつも緊張しながら、自己紹介するんですね」
 翔は私の方を見ながらそう言った。
「……えっ?」
 翔の言葉は初めて会った人に向ける言葉ではなく、私の事を知っているような言葉だった。
「どうして……」
 私の頭の中は真っ白になっていた。翔には昨日の記憶すらない、なのに私の事を覚えているはずがなかった。
「僕、昨日の事、覚えてるんです。何故かわかんないけど、ちゃんと記憶に残ってるんです」
 そう言って翔は恥ずかしそうに笑った。
 私の頭の中が真っ白になった。もし全部思い出していたら、きっと私は助けられないと思ったからだ。
「でも昨日のことしか覚えてなくて、それ以外のことはやっぱり思い出せないんです」
 翔は申し訳なさそうに言ったけど、私は安心していた。
「ううん、昨日のことだけでいいよ、それ以外は思い出さなくていい」
 私は翔に抱きついた。何度も「よかった、よかったね」と繰り返しながら翔の腕に包まれていた。
 私は翔を助けてあげたいと思った。それが絶望的に思えて、どうしようもなかった。だけど今の翔は私の事を覚えてくれてる。それだけで胸の中がいっぱいになるくらいに嬉しかった。明日になれば忘れている可能性だって無い訳じゃない、でも助けたいと思う心が通じたように思えた。
 翔の事助けられるかもしれない、これから毎日二人でたくさんの楽しい思い出を作っていけば、絶対に助けられる。
 私は翔の胸の中で泣いていた。嬉しかった、本当に助けてあげられる。
「私、本気になっていいんだよね、助けたいと思っていいんだよね」
 助けられない、そう思うと知らず知らずのうちに自分の心を制御していたことに気付いた。でももう何もいらない、心の中の壁はなくなって、自分の気持ちを真っ直ぐに伝えられる。私は翔を助けたい。
「どうしちゃったんですか?」
 急に私に抱きつかれて、翔は少し照れたような表情を浮かべた。
「ううん、何でもないよ」
 翔の体から体を離し、出来るだけの笑顔を作り私は言った。
「ほら、ちょっと、嬉しかっただけだよ」
 濡れた頬を袖でぬぐうと袖にたくさんの涙が付いた。昨日翔が私に抱きついたとき、私は嬉しかった。今の翔もそんな気持ちなのだと思う。私と翔の気持ちが少し近づいたように感じた。

『母親はいつも笑っていた。私の記憶の中にある母親はいつも笑っていて、一緒にご飯を食べたとき、一緒に出掛けたとき、一緒に寝たとき、そして死ぬときだって゛あの人゛は笑っていた……』

 私が十歳の誕生日を迎えた時だった。お母さんはいつものように手作りのショートケーキを作って、お母さんと私の二人で食べた。お母さんの作るものはなんでも美味しかった。十歳の誕生日を私は心待ちにしていた。お母さんの言った大人の仲間入りのとしだったからだ。私はその意味も知らずに、ずっと十歳になるのを楽しみに待っていた。
「今日が洋子の十歳の誕生日だよ」
 私は嬉しくて昨日はあまり眠れなかった。去年の誕生日プレゼントはお母さんの愛着していたネックレスだった。そのとき私は戸惑った、いつも愛着しているネックレスを私が貰ってもいいのだろうかと迷った。お母さんに「これ、いいの?」と聞くと、お母さんは「いいよ、そのネックレスはね、私がこの世に生きていた証だから」と笑いながら言った。
「これが洋子の十歳の誕生日プレゼント」
 そう言ってお母さんは私に少し大きな箱を手渡す。大きさはちょうど私の肩幅くらいだった。私が受け取るとお母さんは嬉しそうに微笑んだ。箱は私には少し重たくて、何が入っているのか気になった。
「ねえ、ねえ、開けてもいい?」
「いいよ、開けてみて」
 箱にはリボンなどの飾りもなく所々が磨り減っていた。今までのプレゼントはリボンが付いてたり、可愛い袋だった。私の十歳の誕生日に渡すものは昔から決まっていたみたいに、今までのプレゼントとは違って古ぼけた箱に入っていた。
 私は箱を開けて驚いた。そんな私の反応をお母さんは複雑そうな面持ちで見つめている。
「どうして……これ、お母さんの大切な物、なんでこんなものが十歳のプレゼントなの?」
 それの使い方は知っていた。でも私には、その使い道を知らない。
「ごめんね」とお母さんは謝った。
 そしてその後に「これを渡すことが私の最後の仕事、それで私を殺して」と言った。
 古ぼけた箱の中に入っていたプレゼントは、お母さんの愛用していた拳銃だった。
「どうして……」
 お母さんの言った言葉が信じられなかった。何かの聞き間違いだと思いたかった。
「それが洋子の初めての仕事なの……私は、多くの命を奪った。自殺請負人としての仕事をたくさん果たしてきた。私のしてきたことは決して許されないこと」
「違うよ! お母さんの仕事は、人を助ける仕事だもん、洋子、ちゃんとお母さんの仕事知ってるもん」
 私の言葉にお母さんは小さく首を横に振った。その瞬間私の瞳から涙がこぼれた。
「私の仕事は人を殺すこと、助けることじゃない……だけど洋子には、たくさんの人を助けてほしい」
「違う、違う、聞きたくない! お母さんは人を助ける仕事って言ったもん、それはお母さんの仕事だもん」
「自殺請負人は、確かに人を助ける仕事」
「だったら、なんで……」
 お母さんは私に微笑みながら「洋子の初めての仕事は、私を助けることだから」と言った。
 私は殺すことが助けることなんて思えなかった。生きることが助けることだと思った。
「洋子、もう、わがままも言わない、いい子になる、新しい服も、なんにもいらないから……お母さんそうしたら助かるよ……洋子、いい子になるもん、お母さんの迷惑にならないように、いい子になるもん……だから、だから……」
 お母さんは首を横に振った。お母さんは拳銃を自分の方へ向けて握った。
「あっ……」
 その手と重ねるように私の手を取って、拳銃へと重ねた。拳銃は私の手には少し大きく、重たかった。
 引き金に指が掛かり、私の指を押さえるようにお母さんの指が重なる。私は一生懸命に抵抗した。だけど私の力なんかで防げる訳がなかった。人が死ぬときは以外にあっけないものだった、小さな音が部屋に響きお母さんの服が赤く染まっていく。
「やだよ、やだよ、洋子一人にしないでよ、お母さんいなくなっちゃいやだよ」
 私は泣いていた。こんなにも瞳から涙が出るのか、と驚く位たくさんの涙が出た。一人になるのが怖くて、何より自分の一番大切な人を自分の手で殺したと感じるのが、怖かった。
 だけど泣いている私を見てお母さんは笑っていた。いつものように、朝起きてきて「おはよう」と挨拶をするような笑顔で、二人で笑っていたあの時の笑顔で私を見ている。
「洋子、よく聞いて、これからたくさんの悲しい事があなたを待っているの、私が死ぬことよりも、もっともっと悲しいこと……だけどね決して諦めないで、その人達を助けてあげて、洋子ならきっと大丈夫、出来るから」
 お母さんの声は弱々しかった。私の所為だと思うと余計に辛かった。私がお母さんを助けてあげられなかった。
「洋子、出来ないよ、お母さんがいなかったら何も出来ないよ……やだよ、死んじゃやだよ」
 持っていた拳銃が床に落ちる、私は小さな両手で必死にお母さんの傷口を押さえた。手の平にべっとりと血の纏わり付く感触がある、押さえても押さえても指の間から赤い血が滴り落ちる。
「洋子は優しい子……だからきっと大丈夫」
 その言葉を最後にお母さんは目を閉じた。

『私は母親を怨んできた。いつも私に優しくて、いつも自分勝手で、最後の最後まで笑っていた母親を怨んできた』

 鳥の声が聞こえ、私の意識は徐々に戻りつつあった。薄っすらと瞼を開けると白い天井がぼんやりと姿を現す。嫌な夢を見た所為か手に少しの粘り気があった。
「あっ、起きました?」
 焦点の合わない視線には薄っすらと霞む天井が見える。自分のアパートとは違った綺麗な天井だった。どうやら病院でそのまま眠ってしまったらしい、声のした方に首だけ動かすとぼんやりとだが翔の姿が見えた。翔はパイプ椅子に座ってこちらを見ている様だった。
「ごめん、いつの間にか寝ちゃってた」
 ろれつの回らない舌でそれだけ言うと、翔は椅子から立ち上がり私のいる方へと歩いてくる。ベッドの手前で立ち止まり、私は天井をバックに翔の顔を捉えた。視界も徐々に良好なものへと変化して、翔が笑顔を向けている事に気づいた。
「昨日の洋子さん、可愛かったですよ」
「なっ!」
 翔の言葉は私を起すには充分な威力を要していた。視界の真ん中にある翔の顔は、私の反応を面白がっているのか、相変わらず笑顔のままだった。私は火照った顔と未だに冴えない頭(その原因はさっきの翔の言葉にあるのだが)で昨日の事を思い出そうとしていた。
 そう言えば嬉しさのあまり翔に抱きついたような覚えがある……。
 私の頬はさっきよりもさらに熱を帯びた。私の頬は今、真っ赤に染まっているであろう事が容易に想像できた。
「あっ」
 翔の視線と私の視線がぴったりと合う、しまったと思った。今更視線を逸らしても、なんだか余計に恥ずかしいし、このまま見詰め合うのは避けたい。私はとっさに両手でグイッと布団を引っ張り上げて顔を隠した。この行為自体が恥ずかしさを表している、だが赤く染まった顔を見られるより幾分かマシだった。
「また寝ないで下さいよ、洋子さん」
 翔は私の体ごと布団を揺らしてそう言った。
「寝ない、寝ないからもう少し待ってよ」
 出来るだけ平静を装って言ったのだが、私の顔は未だに真っ赤なままに違いない。心臓の音もいつもより大きく感じられる。
「早く起きないと、看護婦さん来ちゃいますよ」
 翔は子供を起すような口調で平然と言った。
「マジ?」
 私は布団を被ったまま翔に尋ねる。
「うん、凄くマジです」
 私は枕元にある時計を確認した。時間は九時十分前を指している。翔の話だと大体九時に看護士がこの部屋を訪れるという、時間が多少前後するだろうが逆に言えば、今この瞬間看護士がこの部屋を訪れても不思議は無い。
 一刻の有余も無いと判断した私は、布団から出て翔の隣を通り過ぎる。一瞬だがすれ違う時に翔の顔を伺った、翔の顔は作り笑いの奥に寂しさを宿した……そんな顔をしていた。ドアの前まで行き私は翔の方を振り返る。
「ごめんね、時間が無いみたいだから」
 翔は相変わらず、さっきと同じ笑顔を私に向けている。
「いいですよ、昨日はたくさん洋子さんの寝顔、見れましたし」
 私は翔に再び背を向けた。もちろん顔の熱が再発してしまったのと、時間が無いからだ。私は目の前のドアを開き一言だけ翔に言った。
「また、今晩」
「うん、待ってますね」
 翔の声を聞いた後に静かにドアを閉めた。

 翔と初めて会ってから一週間が過ぎた。私は翔と過ごした日々を思い返していた。
 そういえば翔と会って一度だけ外へ出掛けた事があった。太陽が沈む前に会ったのはこの時が最初で最後だった。私は翔を連れて街の中を歩く、私の隣を歩いている翔は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見ていた。あの日から翔の記憶が無くなる事は無かった。そして昔の記憶も思い出すことは無かった。
「あれは、なんですか? 不思議な形をしてる」
 翔は自動販売機を指差しながら言った。翔の瞳には見るもの全てが新鮮に映るのだろう、街を走る車、立ち並ぶビル、見慣れている風景も翔と一緒だと少し違って見えた。
「ああ、あれは自動販売機だよ、お金を入れてボタンを押すと、飲み物が出てくるんだよ」
 どうやら翔は私の言葉に納得していなかった。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか……あっ、僕が知らないからって、からかってないですか?」
 自動販売機まで距離で十メートルくらいあった。私は翔の手をとって自動販売機まで走り出す。
「あっ、洋子さん?」
 考えてみれば翔と手を繋ぐのは初めてだった。翔はいきなりの事で戸惑っているようだ、頬を赤く染めている。
「そこまで言うんなら、試してみようよ」
 自動販売機の前で足を止めて、ポケットから財布を取り出す。
「ねぇ、翔はどれが飲みたい?」
「えっ、そんな急に言われても……僕このお茶しか飲んだことないですし」
 このお茶というのは、病院の冷蔵庫の中に入っていたお茶だ。
「折角だから、もっと違うの飲もうよ」
 私の言葉に翔は真剣に悩んでいた。自動販売機と睨めっこをしながら、自分の飲みたい物を探している。
「うーん、僕、洋子さんと一緒の飲み物がいいな」
 しばらく悩んだ後にそう言った。
「じゃあ、これね」
 私はレモンティーのボタンを押した。下の受け取り口から押したボタンと同じ飲み物が出てくる。続けてもう一回同じボタンを押す。下の受け取り口から出てきた飲み物を取り出すと、翔は驚いていた。本当に出てくると思っていなかったのだろう。
「ほらね、嘘じゃなかったでしょ」
 私は両手にレモンティーを持って言った。
「はい、これは翔のぶんね」
 私はレモンティーを翔に手渡した。

 レモンティーを飲みながらしばらく街を歩いていた。これから何処に行こうか私は考えながら歩いていた。隣を歩く翔は今までで、一番楽しそうに見えた。
「洋子さん、これってデートって言うんでしょ」
 私は口に含んでいたレモンティーを、辺りに撒き散らした。翔が突然変なことを言うからだ。
「デートって好きな人とやるものだし、ほら、私と翔って姉弟にしか見えないし」
 言葉とは裏腹に、私の頬は熱を帯びていた。きっと真っ赤な顔をしているのだろう。
「そんなことないですよ、僕だってもっと大人に見える……と思うけど」
 翔も照れているらしく、頬赤く染めて言った。
「でも僕、デートってしたことないから、どんなことしたらいいのかわからなくて」
「姉弟で遊ぶところなら、買い物や公園じゃないかな?」
 私の言葉が不満だったのか、翔が頬を膨らませる。
「姉弟じゃないもん、デートだもん」
「あはは、そうだったね、ごめんごめん」
 私はデートで行きそうな所を考えてみた。デートなら遊園地や映画館が妥当なところかな。デートしたことないし、私にはそれくらいしか思いつかない。
「それじゃ、映画館に行こうよ」
 私は翔の手を握った。
「えっ」
 翔は驚いたように、私の握った手を見詰ていた。映画館って言葉に驚いたのか、急に手を握ったから驚いたのかわからないが、翔の顔はさっきの顔とは対照的に、笑顔と変わっていた。
「デートするんでしょ? 早く行こうよ」
「うん」
 私達は映画館へ向けて、足を進めた。

 薄暗い空間の中に私達はいる、ときどきスピーカーから大きな音が流れ、私の眠りを妨げた。目の前のスクリーンには、主人公らしき男の子が傷ついた子犬を抱き上げているシーンが映っていた。確か映画のタイトルは『傷ついた命』だったような気がする。感動系の映画として有名みたいだけど、私はこういう映画を見ていると、決まって眠くなる。
 翔の方を見ると、スクリーンから目を離さずに、小さく拳を握り締めていた。
 そして……私の意識は……だんだんと闇の中へ落ちていった。

「ふぁ~」
 薄暗い映画館から外へ出ると、太陽の光が容赦なく私を襲う。欠伸をしながら眠たい瞼をこする。
「さっきの映画、凄く面白かったですね」
 太陽に負けないくらいの笑顔で翔が言った。
「うーん……どうだろう」
 半分以上寝ていて内容はあまり頭に入っていない、でも、もっと面白い映画を私は知っていた。
「もっと面白い映画ならたくさんあるよ」
「ほんとうに?」
 翔が顔を輝かせる。
「うん、今度は私のオススメ映画を見に行こうよ」
「やった、約束ですよ」
「うん、約束ね」
 私は翔の手を取り歩き出した。これからたくさん二人で思い出を作りたいと願いながら……。

 翔と出会ってから一週間が過ぎた。長かったような短かったような不思議な時間だった。今日は約束の日、私は嬉しかった。翔が私に向けてくれる笑顔、私は翔を助けてあげられたんだって思うと嬉しかった。これからはもっとたくさんの思い出を作ってあげられる、私はもっと翔の隣にいたいと思った。
「一週間、経ちましたね」
 翔は恥ずかしそうに、私に言った。
「僕……僕ね、答えを出す前に、聞いて欲しい話があるんです、ちょっと恥ずかしいことですし、なんだか照れちゃいますね」
 多分、翔も私と同じ気持ちなのだと思った。そして翔はゆっくりと話し始めた。
「僕……洋子さんに出会って本当に良かった。洋子さんと出会ってたくさん変わりました。いろいろと、本当にたくさん変わったんです。
 今までは、ただ単に死にたいと思ってました。自分じゃ死ぬ勇気ないから……だからメールを送って僕を殺してほしかった。卑怯ですね、こんなの……でも、今は少し違うんです」
 答えは聞かなくても分かっていた。翔の顔を見ていると以前とは全然違った、ホントに心のそこから楽しそうに笑っているように見えた。
「僕が夢を見るって言ったとき、泣いている僕を洋子さんは優しく包んでくれた。そのとき思ったんです……この人のことだけは忘れたくない、この人の暖かさだけは、なにがあっても忘れないって決めたんです。絶対に忘れたくなかった。本当に洋子さんは僕に優しくしてくれて、たくさん思い出をくれて、本当に大切な僕の思い出……僕は死ぬまで絶対に洋子のことを忘れないって心に決めたんです。きっと゛寝たらまた忘れてしまう゛それが恐かった……」
「えっ……」
 私は言葉を失った。翔の言っている言葉が理解できなかった。
 ううん、理解できなかったんじゃない、理解したくなかった。翔は私の事、覚えてたんじゃない、忘れたんじゃない。
「嘘……でしょ……」
 私の言葉に、翔は静かに首を横に振った。私の瞳から涙が流れ出した。
「嘘って言ってよ……なんでよ……なんでなの、やっと幸せになれると思ったのに、これからたくさん思い出つくっていこうって、決めたのに……」
「ううん、ごめんなさい、今まで嘘ついてて……だけど僕、忘れたくなかった。寝たフリをしてでも洋子さんのこと覚えていたかった。僕、頑張ったから、約束の日までちゃんと頑張ったから゛だから、もう頑張らなくてもいいよね゛
 僕、幸せだった。凄く幸せだった。洋子さんとたくさん思い出つくったよ、映画も一緒に見た、手も繋いだ。たくさん思い出できたんだよ、だから僕は……」
「そんなの、いつでも繋ぐから、手ぐらい、いつでも繋ぐから……また一緒に映画見ようって約束したよね、これから、たくさん思い出つくって行こうよ……私のことなんて忘れてもいい……だから……私はずっと側にいるから……」
 翔はゆっくりと首を横に振った。
「それじゃ、ダメなんです。その言葉に甘えたら僕は……何度も大切な人を傷つけちゃう、洋子さんを何度も傷つけちゃう、それだけは絶対にやっちゃいけないことなんです。それに忘れちゃったら、また元の自分に戻ってしまう……だから、だから僕が洋子さんのこと、覚えているうちに、僕が洋子さんのこと忘れる前に、僕を゛殺してください゛」
 翔の瞳は、死を覚悟した人がみせる瞳だった。私はそっと銃を構えた。
「なんでよ……やだよ……殺したくない、やっぱり出来ないよ、私……翔を殺すなんて出来ない」
 手に持った銃が震える、必死に抑えようとしても止まらない。私の手にそっと、翔の手が重なる。温かい手に包まれるように、私の手を包み込んだ。
「やだよこんなの……私を一人にしないでよ……置いて行かないでよ、ずっとずっと、一緒にいれると思ったのに、ずっと一緒にいたかったのに、私を一人にしないでよ……」
「ごめんね……僕のこと、忘れてください……僕、凄く幸せだったから……たくさんの幸せを貰ったから」
 引き金を握った私の指を、ゆっくりと重ねるように押さえる。そして、渇いた音が辺りに響いた。
 私の胸に、そっと翔が倒れた。涙が溢れて止まらなかった。
「ねぇ……泣いてるの? 僕、幸せだったよ……洋子さんと出会えて……初めて幸せって感じたんだ、初めて幸せを貰ったんだ……だから、ねっ……泣かないで……」
 ゆっくりと、私の頬に手を伸ばす。
「洋子の涙……温かい……」
 そして私の頬から翔の手がゆっくりと遠ざかった。
「翔……ねぇ、翔……お願い……私を一人にしないでよ……翔ー!」
 翔は私の腕の中で、ゆっくりと瞼を閉じて眠った。
 ごめんね、最後に、最後なのに、泣くばかりしちゃって……。ごめんね、助けてあげられなかった……。涙をハンカチで拭う、拭っても次から次に溢れ出る。私のポケットの中には、二枚、映画のチケットが入っていた。

 アパートに帰ると優人のバイクがあった。今日もまた来ているのだろう。私はいつものように階段を上がって、自分の部屋へと入った。優人はソファーに座って私の帰りをまっていた。優人も今日が約束の日だと知っている、だから何も言わなかった。私も何も言わずに優人の隣に腰掛けた。多分、私の顔色とかで、今日の事をわかっているのだろう……優人は優しい男だった。
「泣きたい時には、強がったりせずに、泣いたらいいさ」
 翔はいつも笑っていた。初めて出会ったとき、子供のように無邪気に笑って、子供のように何も知らないくらいに真っ直ぐで、全部自分で背負って、罪を受け入れて、怒って、泣いて……そして、最後の最後まで翔は笑っていた。
「ごめんね……胸、貸して」
 私は優人に抱きつくように、涙を流した。
「ごめんね……うぅ……私、助けれなかった……また……助けれなかった……ごめんね、ごねんね……」
「そんなことない、洋子はよく頑張ったさ」
 優人の手が私の頭を優しく撫でた。優人の優しさが包まれるように温かく感じた。
「もう少し……このままでいさせて」
「ああ、ゆっくりでいい、洋子が望むなら、望むだけこのままでいるさ」
 優人はいつだって優しくて、罪を背負った私を温かく包んでくれた。まるでお母さんのように温かかった。
「ありがと……優人」

 私の仕事は自殺請負人、私が見せてあげられるのは、希望ではなく、夢だった……夢から覚めた人間は、また同じような日常を繰り返す。私の仕事は゛夢から覚める前に、夢の世界で命を終わらせること゛……だけど、それが助けるってことと同じなら、私は夢を見せてあげたいと思う、それが自分にとってどれだけ辛い夢であったとしても……。

 私のポケットの中で携帯電話が音をたてて震えた。


 それから八年の月日が過ぎた。私は母親の墓参りをするために、芝生が一面を覆う場へと来ていた。ここに来るのは何年ぶりだろうか……私は母親を怨んでいた、だから墓参りなんて一度もしたことがなかった。母親の気持ちをわかる子供は少ないって聞いたことがある、だけど今の私にはお母さんの気持ちが少しだけわかったような気がする。
 お母さんもこんな気持ちで私と一緒に墓参りをしたのだろうか? そう思うとなんだか不思議な感じだった。
 母親を私は絶対に許さないと思っていた。私にいつも笑いかける母親を怨んで、私に殺してほしいと願った母親を怨んでいた。でも今なら少しだけ、あの時のお母さんの気持ちがわかるような気がする……それは多分、私が母親になったからだろう。
『ねぇ、見てますか、お母様……洋子はこんなにも大きくなりました。私にも子供ができました。この子の名前は耶子、お母様の名前と私の名前を一文字ずつ使って耶子です。耶子は私と同じくらいに優しい子供に育ってますよ、もちろんお母様と同じくらいに優しい子供です。耶子も今日で七歳になります。あと三年ですね、私はお母様に聞きたいことがたくさんあります。お父様のこと、お母様のこと、それに私のことも聞いてほしい、お母様に会える日を心待ちにしています』
 私の顔を覗き込むように、小さな女の子が見上げていた。
「どうしたの、ママ」
「ううん、なんでもないの……少し昔のことを思い出していただけ」
 私は女の子に向けて笑顔で言った。お母様がそうしてくれたように。
「それより耶子、お腹すいたよ、早くご飯食べようよ」
「少し早いけどお昼にしましょうか、耶子は何が食べたい?」
 私は早起きをして作ったお弁当を広げる。
「耶子ね、玉子焼きが食べたい」
 そう言って女の子は微笑んだ。

 女の子の名前は『耶子』終わらない悲しみを受け継ぐ子供。
小説を書きはじめて1年くらいの時に書いた作品……映画化の候補まで行ったけど、まだ可能性があるらしい
最終更新:2014年02月17日 12:28