2008年08月04日(月) 22時43分-カンパニール
みさこは山で生まれて山で育って、これまで一度も海を見たことがありませんでした。テレビもまだ見ない時代ですので、そういう意味では、みさこの海はとても美しいものでした。
今日もみさこは海に潜って、ぷかぷかとからだを浮かべています。祖父の昔話でできたみさこの海は黄色くて大きくて生暖かくて、いつも光できらきらしていました。みさこ以外には誰もいません。みさこは気持ちよさそうに北極星の上をすぃーと泳いでいきます。海中を漂う星々を頼りに、海を渡ります。
祖父が、天の川は海に続いていると言っていました。そこを目指すのです。海から川へと、そしていつか山に帰りたいとみさこは思っていました。
そうしているところへ突然、朝と母との呼び声がしてきて、みさこはようやく目を覚ます決心をしました。
今年の夏、家族で海へ行くと聞いた時、一番に喜んだのがみさこでした。その日からみさこは毎晩のように海を想いました。流れることなく、ただ静かにたまっている水を想いました。世界一大きな浴槽を想いました。きれいな弧を描く水平線を想いました。その全てがみさこの海にはあって、小さな胸の期待をますます膨らませるのでした。そのどれもを信ずるには十分な無垢さをもってみさこの心は青い葉で満たされていました。純真でした。言い換えれば、少女でした。彼女の夢に連なる途上に一切の疑念や障害は無くて、ただ未来への底知れない期待と希望とが奔放なタペストリを広げてゆくのでした。ベッドの上でシーツをかき分けて泳ぐのでした。
車の中でもみさこは泳ぎ続けました。母や祖母と楽しく話しながら、心はぶくぶくと潜行していきました。緊張して息を止めて、続かなくなったら素早く息継ぎするのです。それでどこまでも行ける気がしました。誰も笑顔でした。ドライブは快調です。
内海の海岸は音に聞く美しさで、きっとみさこの望みを満たしてくれるに違いありません。溺れたいのです。寄せては返る歓喜の奔流に。甘い体験に。
車が止まり、駐車場の硬いアスファルトの上に足を下ろしたみさこは、たまらず走り出しました。歩道に出て急ターン、勾配のある小径を抜けると、海岸への道は一直線です。あの防波堤を越えれば、みさこの海があるはずで、もちろんみさこもそれを直感的に理解していて、だから居たたまれなくて走ったのです。
大通りへ出ると、交差点がみさこの進路を完全に遮っていました。ビュンビュン走る車の列が居丈高にみさこを威嚇します。けれども、信号機なんて待っていられません。胸の高鳴りが、ラスト一周の鐘をひっきりなしに打ち続けていて、レースは最高潮で、このままでは破裂してしまいそうでした。どうにも立ち止まることは許されないようです。
みさこは意を決して、決した意が先なのかからだが動いたのが先なのかわかりませんけれども、まっすぐ信じた方向へ突進しました。命の間隙を縫ってみさこの意志が舞います。それは、半透明の残像を伴って道路上を駆ける一条の光線をみさこの胸に想起させて、実際みさこはそうでした。永遠とも思える一瞬の後に、びっくりするほどの熱量を持ったみさこのからだはからがらそこから抜け出して、道路を渡り切ったようでした。
そのままみさこは息も絶え絶えに、コンクリの壁を跳ねるようにして飛びました。
大空は文句無しの快晴で、簡単に言えば最高でした。みさこの視界一杯に広がった漠々たる海は、黄色く温かいスープを湛えていて、みさこの瞳に反射してさんさんと輝きました。海がありました。海しかありませんでした。みさこは叫びました。叫んで走りました。
踏み入った砂浜の心地はまるでミルクプリンです。地表を伝う反動に飛び跳ねると、容易く惑星の大気を脱出できそうでした。お母さんの胎内に合わせた水温はみさこを安らがせました。もう膝まで浸かる位置にいました。そうして、しばらくみさこは足元から海の精気を吸い上げました。
そこはもう、みさこの海でした。想いのまま、海です。頭上を旋回する白い鳥が西風に乗って、渚から沖へと青い軌跡を残しながら飛んでゆくのが見えました。みさこを祝福しているようでした。海水に浸かった足元で、みゃあ、と鳴き声がしました。海猫でした。海猫はいつもみさこが可愛がっている友達で、器用に水をかきかき泳ぐのが特技でした。瑠璃色の短い毛並みは撫で付けられたようにつややかに照り輝いているのでした。そこへ海牛が現れました。海牛はみさこを背中に乗せると、のっそりとした足取りで動き出しました。波紋を同心円状に描き出しながら、時々モーモーと呻くのでした。甘酸っぱくてみずみずしい海ぶどうをほおばりながら、みさこは眼下を見下ろしました。その腕には海猫が抱えられています。黄金色の水面に黄金色のみさこと黄金色の海猫とが並んで映っていて、笑顔でした。実に、楽しそうです。ずんずん海牛は大海原へ漕ぎ出していって、見る見る海岸の町は水平線の下に沈んでいきました。けれどもなぜか、不安はありません。喜びや更なる希望がいっぱいのみさこの心には、そういう感情を差し挟む余地が無いのでしょう。ベテルギウスを越え、アンタレスを横切って、天の川を遡るのです。その源、美しい緑の山々にきっとあるはずの故郷を目指すのです。
ドクン、ドクン。祖父が言いました。波にゆらゆら揺られるのがまた気持ちいいんだ。ドクン、ドクン。みさこは嬉しくなって祖父の腕の中で思い切り伸びをしました。ドクン、ドクン。強くしなやかな筋肉の力がみさこを抱きしめて、二の腕に浮き上がった血管を脈打つ血潮は規則的なリズムでもってみさこに祖父の温かさを浸透させるのでした。ドクン、ドクン。波音がいつまでも続きました。
ふぅ。
最終更新:2014年02月17日 13:01