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現代の怪談

2008年09月10日(水) 17時40分-K

 人通りのない路地から走り出るとそこは大通りで、真夜中でもかなり明るく、私はどうにかこうにか呼吸を整える余裕を取り戻せた。ちょうど、流し運転のタクシーが通りかかる。道路に飛び出さんばかりにそのタクシーを止め、運転手がドアを開けるのも待たずに中に飛び込む。急いで家の住所を言おうとするが、肺に少しでも空気を送り込もうとするのとぶつかり合って、どちらもうまくいかない。それでも運転手は聞き取れたらしく、緩やかに車を発進させた。
 「お客さん、ずいぶん急いでらしたみたいですけど、大丈夫ですか?」
 「ああ、もう大丈夫だ」
 私は今さっき起きたことを思い出し、またパニックを起こしそうになる心臓を寝かしつけるために胸に手を当てて、大きく深呼吸をした。混乱しきった頭を、何とか正常運転に戻そうとする。そもそもあれは本当に起きたことなのだろうか。あんなことがありえるのだろうか。確かに見た、と言う感覚は残っている。いまだに引かない汗と、カチカチ鳴り続ける歯がその証拠だ。だが、あのくらい路地裏では圧倒的な現実感を持てる出来事でも、大通りの通り過ぎ続ける街灯、コンビニエンスストアやファミリーレストランの灯り、各種量販店のけばけばしいデコレーションの下では、その魔力を失ってしまう。あれは見間違いだったのだろう。そうとしか考えられない。そう考えるべきなのだ。心の奥底のしこりを無視して、そう自分に言い聞かせ続けると、少しずつ楽になっていく。
 「お客さん顔が青いですよ、ほんとに大丈夫ですか」
 運転手の心配そうな声が聞こえる。そうだ、こんなことは冗談にしてしまおう。こんなありきたりでどこにでも転がっている話、口に出した途端に、いやそれどころか舌の上で転がした途端に冗談になってしまうだろう。
 「それがね、運転手さん」
 できる限り、深刻めかした声で喋る。わざとらしいくらいに。
 「出たんですよ」
 「出たって何が?」
 「運転手さん、こんな月のない晩に出るものと言ったら限られてくるでしょう」
 そういうと運転手は高らかに笑った。
 「月がないったって、こんな街中じゃ何にも変わりゃしないけどねぇ。でも、あんたの語りはなかなか堂に入ってるよ。で何が出たんだい? 月のない晩に出るったら、夜盗か幽霊か、ってとこだけど、いまの夜盗は年中無休だから、候補はさらに絞れてくるね」
 ノリが良くて助かる。喋りながらも的確な運転で、タクシーは大通りから外れて少し小さめの道路に入っていった。
 「さっきこの車を拾ったところの、路地の向こう側にね、表からは見えにくい所にちょっとした飲み屋があるんですよ。ほんと、わざわざ見つけにくい所に立っているみたいな店なんだけど、そこの主人がなかなか話の分かるやつで、僕は良くそこに行って、主人と話しながら飲むんですよ。で、今日もそうしてたんです。それで時間も押し迫ってきたってんで、帰ろうとしたんですけど、いつもより酔っ払ってしまったのかもしれないが、道を間違えてしまった様なんです。ああ、今は大丈夫。もうすっかり醒めちまって、今は素面同然だから、話の信憑性に影響はないです」
 言っても言わんでも大差なさそうな言い訳をしていると、運転手が
 「それでどうしたんです?」
 と先を促してきた。
 「そしたらですね、ちょうど路地が十字路みたいに交差している所がありましてね、そこにですね、笑わずに聞いてくださいよ、女の人が蹲っていたんですよ」
 運転手は別に笑わずに聞いている。合いの手も入らないのは無言で、続けろ、と言ってるんだなと思うことにする。
 「普段だったら、気にしながらも通り過ぎちゃう所なんですけど、酔ってていい気分だったこともあるかもしれないし、実際あんな暗い夜道で女の人が一人いるのは危険極まりないんで、話しかけてみようとしたんです。『あの、大丈夫ですか』って。するとその女の人、両手で顔を覆ってぎゃあぎゃあ泣いてるんです。まさに身も世もないって感じで。それで背中をさすりながら、こういうのは今の世はセクハラになりかねないんで、素面ならやらなかったんでしょうけど、『何がそんなに悲しいのかは知らないけど、こんな所にいたら危ないし、とりあえず明るい所まで行こうよ』って言ったんです。いや、下心はなかったんですよ。本当です」
 運転手は黙ったままだ。神妙に聞いているのかもしれないが、そろそろ何らかの突込みがほしい所だ。まじめに聞かれると、妙な気分になる。道路はそろそろ住宅街に入ろうと言う所で、派手な電飾は影を潜め、この時間だと一定間隔の街灯以外何もなく、人影もない。
 「するとその女の人が言うんです。化粧品会社の不良品がどうのこうのとか、騙されたとか、そのう、ひどい顔だとか、そんなことをね。うわごとめいたことなんで気にしなかったんですけど、とりあえず場所を変えようと、肩を貸すみたいに無理やり体を起こさせるとですね、その、最初は長い髪が顔に掛かってって、よく見えなかったんだけど、その、その女の人の顔が……」
 うまく言えなくて口ごもる。冗談にしてしまおう、という計画は途中まで成功していたはずだ。ところがここまで来て、核心が近づいてくるにつれて、先ほど見たことがもう一度頭の中で呼び起こされて、冗談ですまなくなってしまった。都会のけたたましい騒音ときらびやかなイルミネーションの効力が切れてきているのかもしれない。またこの運転手の雰囲気もおかしい。最初は食いつきがいいと思ったのに、途中から黙って聞いているばかりで口を挟まない。まるでこちらの言うことに何か思う所があるみたいだ。
 あそこを通り過ぎたらもうすぐ家だ、という橋が見えてきた。黒々とした水が不気味に光る。
 「それでどうしたんですか?」
 「えっ?」
 そうだ、話の途中だった。家が近づいてきたのでほっとしてしまっていたのだ。そうだ、本当に見たことを話す必要はない。何か適当な作り話でもしてお茶を濁そう。それがいい。と思って、口を開こうとしたとき、運転手が声でそれをさえぎった。
 「その女の人ってもしかして……」
 そして後部座席に身を乗り出しながら、こう言った。
 「こんな顔じゃありませんでした?」
 それは顔なんてものじゃなかった。本来目鼻があるはずの場所にはのっぺりした皮膚があるばかりで、磨いたように一切の凹凸がなかった。あの時見たものの再現だ。
 私は思わず叫んだ。
 「運転手さん、前見て! 前!」
 「へ?」
 橋の欄干が目の前に迫っていた。運転手は急いで前に向き直ってハンドルを握るが、急に何かに気付いたように、ぺたぺた自分の顔を触ると、
 「あれっ、目がないから前が見えないや」
 と呟いた。次の瞬間、タクシーは欄干を突き破り、空を飛んだ。川岸の土手が近づいてくるとこまでは覚えている。次の記憶は病院のベッドの上だ。
 奇跡的にも私はかすり傷程度の怪我ですんでしまった。事故自体はタクシーがぺしゃんこになるような激しいものだったらしい。それはそうだ。タクシーは飛ぶようには作られていない。運転手は即死だそうだ。特に顔の損傷はひどく、遺体確認ができないほどだったらしい。事故原因は不明のままだ。
 このことは誰にも話していない。これに懲りたからだ。
考えたのはずいぶんまえだが、作品化していないことに気付いた。
最終更新:2014年02月17日 13:07