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捨てられない

2011年04月30日 (土) 12時22分 - 渋江照彦

 

「ねえ、どうしてそんなに難しい顔をしているの?」
 神経質にパソコンのキーボードを叩いている僕に、女が優しく声をかけてくる。
 だが、僕の決心が揺らぐ事は無い。
 無視を決め込んで、一心不乱にキーボードを叩き続ける。
 「そんな顔されると、アタシとっても寂しいな」
 女が少し拗ねた様な口をきく。
 その声を聞いてしまうと、本当に心が折れそうになるのだが、それでも心を鬼にして、僕は女の方を見向きもしない。
 ――横を向いたらいけない、横を向いたらいけない……。
 心の中で同じ言葉をお経の様に繰り返す。
 「ねえヒロシ君、こっちを向いてよ」
 何時の間に僕の名前を覚えたのだろう、女はそう言いながら、フッと吐息を真横からかけて来る。
 女の息が頬に当たるのが判る。
 鼻孔を擽る甘い香り。
 堪らない。
 思わず横を向いて、女を慰めてやりたくなる。
 でも。
 ――横を向いたらいけない、横を向いたらいけない……。
 前よりも一層激しく、僕はその言葉を反芻する。
 そうだ、仕事に集中しなけらば。
 揺らぐ心を鎮めつつ、僕はキーボードをこれでもかという位に強く叩き続ける。
 「ねえ、どうして此方を向いてくれないの?アタシの事、嫌いになっちゃったの?」
 女がそう呟く様に言った。
 もう、泣きそうな声になっている。
 そして。
 ――アタシ、ヒロシ君の事がこんなに好きなのに……。
 甘えた声で言われてしまった。
 その声の下では、僕の決心など簡単に崩れ去ってしいそうになる。
 だから、僕は決心が崩れる前に真横を振り向いて、大声で怒鳴っていた。
 「うるさい、お前なんか大っ嫌いだ」
 すると、女はみるみる内に目に涙を溜めて、
 「酷い……酷いよ……」
 そう呟くと、それっきり何も言わなくなってしまった。
 嗚呼、堪らない。
 本当ならこんな物はとっとと捨てるべきなのだろう。
 だが、この女の顔を見てしまうと。
 どうしても、捨てられない。
 ――嗚呼、悪い事を言ってしまった。謝らないと。
 僕はそう思いながら、壁にかかった女の肖像画をジッと見つめ続けた。

最終更新:2012年09月21日 13:41