適当作品案内

2009年01月05日(月) 18時05分-K

なんとなく作品ガイドを作ってみる。
何の役にも立たないこと保障つき。
方針は「表現」だと思うものは、小説だろうが漫画だろうが映画だろうがゲームだろうが音楽だろうがCMだろうがTV番組だろうがウェブサイトだろうが事件だろうがお構いなし。要は僕が「いいな」と思ったものを書く。
書き方はテーマを設けてそこに作品を分類する。一言コメントを付ける。別のテーマに同じ作品が出てきてもOK。
後は適当、データは書きたいときは書く。
そもそもこういうことを考えることはすきなのだが、いざ書くとなるとしっかりしたものを書こうとしてかけなくなっていたので、無理やり適当に書いてみる。

血みどろ臓物

 ・死霊のはらわた(映画)
 死霊に取り付かれた女が口から白濁液を吐いたり、コマ撮り撮影で肉体がグチョグチョ崩壊するのがなにしろスカトロチックで気持ち悪い。気持ち悪すぎて笑える。サム・ライミのデビュー作

 ・サンゲリア(映画)
 ストーリーはよく分からないし、ショックシーンもタイミングがあらかじめ予期できるし、理屈に合わないカットがいくつもあるし、ロメロの『ゾンビ』と何の関係も無いのに原題が『Zombi 2』だし、それで『ゾンビ』のイタリアでの配給権を持ってるアルジェンテに文句を言われると監督のフルチは「ゾンビは昔からある言葉だからいい」という意味不明の言い訳をして(じゃあ「2」って何?)、映画学校の先輩だからという理由でアルジェンテを黙らし(ちなみに頭が痛いことにこの別に「1」があるわけでもない映画の続編『サンゲリア 2』の原題はもちろん『Zombi 3』でしかもこれとは別に『Zombi 3』という映画もあってそれには1も2も無い)というような映画で、スプラッタファン以外まったくお勧めができないけど、嫌いじゃない。なぜなら僕はフルチの映画の面白がり方を分かっているから。フルチの映画は「怖い」とか「どきどきする」とか普通のホラー映画の要素を切り詰める代わりに、あらゆる努力のベクトルが「気持ち悪い」の方向を向いているのだ。400年以上前の墓からはいずりだしてきたゾンビ(よく腐らずに残っていたな)たちのドロドロに溶けきった顔に集るミミズのクオリティに感動するのだ。
 あとフルチといったら「眼球破壊」なのだが、この映画でも壊れたドアからゾンビに引きずり出されるシーンでドアの木枠の木片が眼球にゆっくり突き刺さる「眼球串刺し」シーンがあり、フルチファンは「ああ、やっぱりあったか」と思う仕掛けです。しかしなんで目をつぶらないんだろ。
 あとあと、ミア・ファロウのそっくりさんがでてくるのにも注目。

 ・悪魔のはらわた(映画)
 内臓は美しい。時として人間よりも。

 ・ホスピタル(漫画)
 みんなグチョグチョのヌルヌルになってしまえばいいんだ。天才外科医「ハーバード・西」が死んでるものも生きてるものも、なんだか分からないものも、切っては縫いつけ、ますますなんだか分からないものにする、傑作医療ギャグマンガ。『天才バカボン』にも似たような話があったけど、これはその発展系。赤塚不二夫の影響でギャグマンガを描いているおそらく現在唯一の人物。

 ・黒魔館の惨劇(小説)
 スプラッタ映画評論家でもある友成純一の書いた小説だけあって、血みどろシーンは目を見張るね!

 ・ロマン(小説)
 すべてをぶち壊せ。

マッド・サイエンティスト

 ・Devo(音楽)
 変な格好をして変な歌を歌うバンド。人類は実は進化しているのではなく退化(De-evolution)しているという真実を皆に知らしめるために歌う。リーダーのマーク・マザーズバーは、ロック史においてジョン・レノンに並ぶ、メガネ君だと思う。風貌も歌もマッド・サイエンティフィック。

 ・見捨てないでデイジー(漫画)
 永野のりこの出世作であり、その後の彼女の作品のアーキタイプ。一目ぼれした女の子が自分に電波で命令していると思い込みその子を「デイジー」と名付け、「僕の名前を書いたから僕のだ!」とのたまい、ホルマリン漬けにしようとしたり、脳に電極誘うとしたりする天才科学者レイディオアクティブ高校生「歩野零二郎(てくの れいじろう)」と彼に振り回される普通の女の子「松沢ひとみ」のアレでソレなえんがちょSFラブコメディ。だいたいラブコメのパターンは高橋留美子が発明と同時に出し尽くしたのであるが、要は「くっつく理由」と「くっつかない理由」の按配によってラブコメは成立するということ。ところがこの漫画のすごい所はスタート地点において「くっつかない理由」はバーゲンだが、「くっつく理由」は皆無ということ。しかし、ゴール地点においてはこの漫画は無理やりラブコメを成立させ、あまっさえ、ハッピーエンドにしてしまうのだ。その決め手はこれ意向の永野漫画の隠れたテーマである、「母性」。夫が突然職を辞めて家でごろごろしているので子供を背負って出版社に持ち込んで漫画家になった作者の「こいつはあたしなんだ。人との付き合い方が分からなくて時どき無茶をするけど、ほんとは寂しいだけなんだ!」という思いが結晶化した主人公を、「こいつだって幸せになっていいじゃないか」と作者の母性の結晶化のヒロインが包み込むという、作品に没入している身には感動だけど、冷静な目で見るととんでもない作品だよな、と思える力技。その構図はメジャーデビュー作『God Save the すげこま君』においてより様式化され、もう職人芸となっている。彼女の作品は心が弱っているときに読むと思わず救われそうになるので怖いです。ハチャメチャでマニアックでしかもリリカルってのは、彼女以外にはいないのでは。

 ・岸和田博士の科学的愛情(漫画)
 無茶苦茶に絵がうまい上に、無茶苦茶に話がくだらなく、無茶苦茶にパワフル。リアルな肉体が持っている生理的嫌悪感をギャグに昇華することができる数少ない人物。最近ガンダムパロディしか描いていないから寂しい。

 ・博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(映画)
 キューブリックで一番面白いのはこれなんじゃないのかな。ピーター・セラーズの一人三役もすばらしいけど、何よりすごいのはカウボーイ専門スリム・ビケンズの演じるキングコング機長である。ダルそうな顔をしていた彼が、核攻撃命令を受けた途端にカウボーイハットを被って、きりりとした顔になる所も笑えるが、もちろんこれからも語り続けられ続けるであろう「原爆ロデオ」は見ずには死ねない。私は昔ストレンジラブ博士の物まねの練習をしたことがある。
 あとテリー・サザーンの名前も覚えておくべきだな。

 ・死霊のしたたり(映画)
 映画史に残るプッツン医学生ハーバード・ウェスト君登場。変な薬でどんどん死体を蘇らせちゃえ。首の取れた校長先生が自分の首を持って裸に剥いた女学生の体をぺろぺろ舐めるシーンに爆笑。薬のやりすぎで、内臓が爆発して、飛び出した大腸でぐるぐる巻きになるシーンに悶絶。もちろんこれが唐沢なをきの怪作『ホスピタル』を生むことになる。一応ラブクラフト原作なんだよね、どうでもいいけど。

悪趣味

 ・ピンク・フラミンゴ(映画)
 湯気の出てるしたてほやほやの犬のウンコを食う映画。ドラァグ・クィーンのディヴァインの存在感だけでも見る価値あり。男女鶏の3Pとか、床や机や食器をペロペロ舐めるシーンとか、性器に長いソーセージを結びつけて人に見せ付けるとか、悪趣味であろうとする以外の意図を感じることができない、悪趣味映画の金字塔。一番すごいのはケツの穴ダンス。ほんとにケツの穴が開いたり閉じたりしてダンスするんだよ。どんな鍛え方をしたらあんなことができるようになるんだろう。
 ある種の作品は「作品」としてではなく「事件」としてみるのが正しかったりするんだけど、これは多分後者。

暴力

 ・悪魔のいけにえ(映画)
 女性の死体を掘り起こして剥いだ皮で、家具のカヴァーを作ったり、女装セットを作ったりしていたエド・ゲインをアイディアの源泉にした映画の中でも特にこれが好きだ。剥いだ皮で作った仮面を被る「レザー・フェイス」がチェインソーなどという人を解体するのにとても向かなさそうな代物を唸らせながら追っかけてくるのは、怖いというより唖然。
 それまでのホラー映画には独自の文法があり、それはようは「何かが起こると予感させておいて、それと微妙にタイミングをずらして何かを起こす」と短く表現できる。これを別の表現の仕方をすれば、ヒッチコックのサスペンス映画における「ダイナマイト理論」つまり「映画を見るものに観客席の下で爆発の時を待つダイナマイトを見せる。主人公はそれを探すが見つからない。その間も観客はのどかに試合を見せる。映画を見るものはそれを見てドキドキする」という手法になる。これにより我々は文字通り緊張感の中に釣り下げられる(サスペンス)。ところが80年代に現れたB級スプラッタ映画の一部はそれとは別の文法を持っていた。それは「より大きいショックを与えるためにはいかなる予期も与えてはいけない。小手先の演出で怖がらせるのではなく、血糊と肉片の量によって、ひたすら観客に生理的ショックを与えるのだ」というもの。そのような作品の中でも記念碑的なものがこの「悪魔のいけにえ」なのだ。まず本作品を見るものは怖いと思う前に何が起こっているのかよく分からなくて、固まってしまうであろう。一つ一つの出来事が唐突で怖がる準備もできていないからだ。そしてそのうちにこのあらゆる意味で、見るものの神経に快さを与える意図の無い画面構成とストーリーに驚愕するのだ。意味も何も無い暴力の横溢。そして暴力的な「ホラー映画の文法」の破壊。この映画の開いた口が塞がらないラストシーンを見たとき、人は感動するだろうか、ふざけとんのか、と怒り出すだろうか。

 ・バクネヤング(漫画)
 ただすべてをぶち壊そうとする男と、それを止めようとする何人もの人物の物語である。そして驚くばかりの暴力である。人は誰でも暴力に希望を持つ。それはもしかしたら現状を打破してくれるかもしれない力であるからだ。しかしもちろんそれはある種の勘違いに過ぎない。暴力の後には希望は無い。絶対的な暴力の後には何も残らない。しかし、やはり既存のものが圧倒的な暴力に屈する様を見るのにはやはり快感が従う。しかし、それはやはりすぐに失望に終わるはかない快感である。この漫画も、雑誌連載分では何処までこの漫画は行く気なのだろうかと、全身総毛立つような期待を込めて見ていたのだが、完結編において現れたのは、「破壊し続けることはできないから、もう一回秩序を作ろう」という当たり前の言われなくても分かっている話で、ここでこの作品の輝きは死んでしまう。そしてその新しい秩序とやらは、見慣れた、何も新しいとこなど無い代物なのだ。
こんなことしている場合じゃ本当に無いんだけどね。
最終更新:2014年02月17日 13:14