2009年04月08日(水)03時09分-K
女は寝られない理由を、ベッドの下に男がいるからだということにすることに決めた。そして男にさっさと出て行って欲しい旨を告げた。男は、自分はここを出てはいく所がない、ここでしか自分は生きていけないのだ、と抗弁した。ではどうしろというのか、と女は寝返りを打ち、壁を見つめながら言った。こういうのはどうだろう、と囁く男の声に耳を傾けながら、もう一度目をつぶってみた。君はベッドの下で寝ようとしている私が、寝られない理由として仮定した女性なのだ。そうすれば、君が実際には存在しないベッドの下の男に悩む理由はなくなる、と男は囁き続ける。なるほど、と女は考える。ベッドの上の女がベッドの下の男が理由で寝られない、というのより、ベッドの下の男がベッドの上の女が理由で寝られない、というほうがリアリティがあるかもしれない、と。
男は置いたものが置いた場所に無かったり、閉じたはずのドアが開いていたりするのを、この部屋にもう一人誰かが住んでいるからだ、と想像した。寂しい男である男は、それが女であれば良いと考えた。毎日顔かたちを想像するだけで、日が暮れてしまった。しかしその内、女がどうして自分の前に姿を現さないのかが気になり始めた。もしかしたら恥ずかしがりやなのか、もしくは勝手にすんでいることを気に病んでいるのか、それともある種のゲームのつもりなのか。もし前者の二つなら、そうではないといってやりたかったし、後者なら付き合ってやってもいい、と思った。どちらにしろ、女を見つけ出さなくてはいけない。毎日、戸棚や部屋のドアを開けたり閉めたり、部屋をぐるぐる回ったり、隙間に顔を突っ込んだりしているうちに日が暮れた。それに疲れると、次は不意打ちをするために、物入れの中やベッドの下に身を隠し、女が油断して姿を現すのを待った。しかしいつも疲れて寝てしまうのだった。そして夢の中で、女と会話するのだ。
男と女がそのとき話し合っていたのは、どちらかが部屋から出て仕事に行かなくては行けないという話だった。そして仕事に行くのはもちろん現実に存在している側でなくてはいけない、とどちらかが言い始めた。なぜなら、もし現実に存在していない側が仕事にいったら、それはもちろん現実には存在しない仕事で、支給される給料も存在しない物なのだから、それで買えるのは存在しないものばかりである。それは困る、と存在していない側が言った。別に困らないのではないか、と存在している側が言った。どちらかが現実に存在しているのか彼らにも分からなくなり始めたころの話である。
あるとき、鋏の螺子が外れてしまい、二つの刃が分離してしまった。二人のうちの片方がもう片方にその刃のうちの片方を投げわたし、言った。これで殺しあおう。もし殺されたほうが現実なら、殺した幻想のほうも同時に消える。もし幻想が殺されたなら、現実の側は残るだろう。どちらにしろ、ある種の解決にはなっている。それを聞いてもう片方は言った、渡された刃を眺めながら。鋏はこのように使うものではない。二つで一つのものだ。我々に必要なのは殺しあうことではなく、愛し合うことではないのか、と。それに答えて言うには、鋏の二つの刃が実はお互いに殺意を抱いていないとなぜ言えるのか。鋏という道具が、二つの刃の殺し合いを僅かにずらすことによって成立している、危ういものであるとは考えられないのか、と。
男は考えた。夢を見る夢。夢を見ないという夢。眠れないという夢。今夢を見ているという夢。今現実だという夢。今夢を見ているという現実。今現実であるという現実。眠れないという現実。寝ているという現実。夢なのか現実なのか分からなくなってしまったという夢。夢なのか現実なのか分からなくなってしまったという現実。夢の中で夢を見ているという夢。夢の中で現実を生きているという夢。夢の中で夢を見ているという現実。夢の中で現実を生きているという現実。現実の中で夢を見ているという夢。夢の中で夢なのか現実なのか分からなくなったという現実。夢なのか現実なのか分からなくなってしまったものの中で夢を見たり見なかったりするという現実。夢の中で見ている夢の中で寝られないせいで、夢の中で不眠症になってしまい、現実の中で夢なのか現実なのか分からなくなってしまい、寝られなくなったしまうという夢。そしてこんなことを考えているうちに眠くなってしまう私、と女は考えた。
本当に何もすることが無かったので、女はマスターベーションをすることにした。男がベッドの下で自分の声を聞いていると想像しながら。もしかしたら男は自身の物をその利き手で掴んでしごいているのかもしれない。そう考えると少しは興奮することが出来るような気がしたのだ。実際には男はベッドのしたではなくクローゼットの中にいた。またベッドの下にいる想像上の男がしていることは残念ながら、利き手で一物をしごくことではなく手紙を書くことだった。クローゼットの中にいる男が何をしていたのかは分からない。実際の人物がしていることは、想像上の人物がしていることと違って、概ねよく分からないのだ。
想像上の女と手紙のやり取りを始めてどれくらいになるかを男は思い出せなかった。女は相変わらず不眠症で、その理由を男のせいにしている。男は腹を立てた。想像上の人物のくせにどうして思うとおりにならないのであろうか、と。男は女を殺すことにした。手始めに手紙をすべて処分した。これで女の存在の証拠は無くなる。これにより女の存在を抹消することが出来る。しかし、もしかしたら手紙を処分することにより、今までその中に閉じ込めていた女が外に出てくるのではないかと、男は恐れた。存在を消されかかった女が逆にこちらの存在を消しにかかってくるのではないか、とも男は恐れた。また、存在の証拠を消せば存在が消える、という理屈が間違っているのではないか、とも考えた。さらには、今自分が消してしまったのは自分の存在の証拠なのではないか、とも考えられた。すると消えるのは自分ではないだろうか、それとも消えないのか、もしかしたらもう消えているのだろうか、とも。そもそも、手紙などどこにあるのか。自分がどこに手紙を出すというのか。誰も知り合いなどいないのに。想像上の知り合いすらいない。想像上の手紙すら出すことは出来ない。誰かに認識されることはもちろん、誰かに想像されることすらない。誰かの想像上の知り合いになることすら適わない。現実の事物だけでなく、想像上の事物とだって一切の関係を結べない。そんな俺が手紙など、冗談にもならない。それは言いすぎだと思う、と女はベッドに腰掛けてうつむく男の肩に軽く手を置いて言った。冗談くらいにはなる、と。
男がそのときした話はこんな風だった。あるところに男がいたんだが、厳密には男はどこにもいなかった。なぜならその世界には男しかいなかった、というよりもその世界にはその男の精神しか存在せず、それ以外のすべてはその精神が作り出した虚像にすぎなかった。その虚像の中に女はいた。その男とその女は恋に落ちた。しかし、男はその女が自分の作り出した虚像に過ぎないと知っていた。だが恋に落ちるのにそれはたいした障害にはならなかった。ここでもう一つの世界が登場する。その世界にはある女しかいなかった、つまり、女の精神しか存在しなかった。それ以外のすべてはそれが作り出した虚像にすぎなかった。その世界にはある男がいて、その男と女は恋に落ちた。その女も、その男が自分の作り出した虚像に過ぎないことを知っていたが、それは恋に落ちる理由にすらなりえた。ここで誰も知りえない話が始まる。その男は最初の世界の男とそっくりであり、その女はその男の世界の女とそっくりであった。そして二つの世界は存在するのがその男であるかその女であるかを除いて全くそっくり同じであった。しかし二つの世界は全く別の世界である。「関係」、とは同じ世界にいて初めて結ぶことが出来るものだから、二つの世界にはなんの関係もない。よって一つの世界に存在する男と、もう一つの世界の男の虚像とは全くなんの関係もない。同様に一つの世界に存在する女と、もう一つの世界の女の虚像の間にはなんらの関係もありえない。だが、それは二人が恋に落ちるのに、妨げになるのだろうか。女はそのとき、その話を聞いていたか、聞いていなかったか、そもそもそこにいなかったのいずれかだった。
もし私が不眠症の夢を見る過眠症患者だったなら、実際にはよく眠れているんだから何も心配することはない。でも、私が過眠症の夢を見る不眠症患者だったなら、本当はよく眠れないんだから、問題ありということになる。でも、私は過眠症の夢なんか見ない。つまり……つまり、一体なんだろう。と、女は言った。僕達は二人とも、幽霊みたいなものだ。と、男は言った。そして女の体を抱きしめようとした。女のいる部屋の隣の部屋で。世の中にはうまくいかないやり方のほうが多い。