2011年05月03日 (火) 02時52分 - 黒木三蔵
(夜、うつくしい魂は涕いて、
――かの女こそ正当なのに―― 中原中也)
夜、美しい魂は涕いて――かの女こそありきたりなのに――、夜、美しい魂は涕いて、もう死んだっていいようと呟くのであった。とはいえ彼女が自ら命を絶つことなど決してないのである。自殺とは果たして自らを殺すことなのか、それとも犯罪者なき殺人なのだろうか。ふとそんな疑念に煩わされることもあったが、この頃においてはさして問題でもないのだと思うようになった。それよりも注視すべきは死を固定項に閉じ込めようとする全くの別の意志についてなのである。幼い日々より独り遊びが得意ではあったが、孤独そのものと上手な関係を結ぶことができるようになったのは中学卒業の間近になってからだ。彼女にとって憂鬱や哀しみが排他的ではなく、寧ろ肯定的かつ包括的な機能を持つということはもはや珍しいことでもない。自らの身体の表面で、それらの感情、というよりは機械を運動させることは一つの悦楽である。彼女は独りになることを覚えた。誰もいないところで笑い、意味もなく路上を駆け、仄明るい部屋で静かに無為なるままに過ごすことを知り、そうした時間を大事にするようになった。特に夢想を縦横無尽に張り巡らすことは、場所や時を問わず彼女を楽しませる。多様な表象が絶えず相結びつき、自らの皮膚の上を滑って行く。やがて意識はそれ自身に対しても指向性を持つようになり、すると身体の輪郭が失われていくような、そんな錯覚に陥るのだ。彼女は自我なるものが融け、かの同一性なるものも分裂し、外的な事物と未分化するその感触を好んだ。それは偏在の悦びだった。
そこにおいて彼女は性別を持たないか、或いは両性具有者なのである。生物とは本来的にそういうものなのだろう。社会体か乃至言語上において女性は男根を去勢され、男性は子宮と卵巣とを去勢されている。だがそれは飽く迄それを強要する力の下においてにしか過ぎない。事実彼女は、こうした悪意から自らを遠ざけることを体よく学んだ。子供は皆孤児である。そこで彼らから孤独を奪おうとするのは、畢竟教育学者の関心だ。多くの場合、その企ては成功する。孤独者はまるで永遠に外部にいるかのようであり、健康であるとは秩序の内部における生活それ自体に他ならなくなる。だが実際の単独者とは内部と外部を自由に行き来する一人の軽業師であり、体系とは全体の包括というよりも寧ろ境界線そのものだ。彼女は言語を攪乱する術を知っていた。そして憂鬱は全てを自らに接続する一機械であった。彼女においては女性性が幾らか上回っているだけで、自分の中にも男性が潜んでいることを知っていた。だからといってそれを禁忌であると感じ、穢であると思うことなぞ有り得なかった。寧ろ性の錯綜とは、去勢によって始まるのではないか。そんなことさえ考えていた。
そしておそらく、去勢手術の際に残滓として生み出されるのが自我なのではないか。彼女はいつだってこの自我たる者に煩わされてきた。孤独である権利を奪い、不必要な項ばかりを押し付け、時に極端な選択を迫るのはまさにこれなのだ。諸々の機械を安定化した流れの中に放り込み、結果としてその機能を破壊してしまう。全ての事物は排他的となり、目的と原因、全体と外延においてのみその存在を得ることとなる。ここにおいて憂鬱は明確な要因を含有せねばならないし、哀しみや苛立ちは対象を持たなければならない。元々そんなものはなかったにも拘わらず、である。憂鬱は自ずと繁殖を続ける植物であり、それを統べる者や強制する者はどこにもいない。感覚はそれ自体が包含的な独身者であり、つまり哀しみは吐き気であると同時に頭痛であり、眩暈であり、憤怒であり、それは懐疑的な義侠心であって、而して悦びなのである。感情は決して別々の多項により成り立つものでなく、寧ろ互いに侵犯し合う強度なのだ。どうしてここに外部からの因子が入り込むのだろうか。またいつ他者を対象に据えるというのだろうか、かかる強度は常に変化し接続を繰り返す巨大な無意識だというのに。憂鬱が否定的な陰翳を持ち始めるのは、まさにこの意味においてなのである。つまり憂鬱そのものが対象化されて硬化した項の中に閉じ込められた時、悲劇は始まるのである。常に劇作家はこうした策略を練っているのだ。本来、全ての対人関係は一時的な隣席の繋がりでしかない。併し実際にはその繋がりは引き伸ばされ、あらゆる場所に残骸を振り撒き、かくして自己同一化を企てている。或る日、彼女はあらゆる垣根を跳び越えて闊達に歩き回る一人の少女であった。だが自己同一性は、それを不健全なる傾向として、若しくは青年期の悩みや倒錯の一般的帰結として解決しようとするのである。だが出発点においてどこにも問題は与えられていなかった。
彼女に生と死との命題を与えるのも自我の業である。大衆が孤独の領土を侵犯し言語が翻訳を制圧する時、倒錯の奸計は成功するのである。彼女は自らが損なわれつつあるのを知っていった。少なくともそれは問題ではなかった。だが他者がここに入り込むと話は全く変わってしまう。彼女の身体は小さな箱の中に押し込められ、関節は不自然に曲がり、細胞は刻々と腐っていく。自我は時として最も身近な他人であり、それは能動的な無為や繁茂する意志の表面を削り取ることに長けている。しかもそうしたことは全てまず侵入により始まるのだ。彼女はふとした瞬間から目的の欠如を気にかけるようになり、時間や因果律のパラドックス、その陥穽へと自ら落ちていく。それは本当に何のきっかけもなく起こり得る。或る夜彼女は独りで部屋の椅子に腰をかけていた。彼女は孤独であるが故に健康であった。併し気付けば涙が頬を伝い、自分が惨めで薄汚い矮躯を曝け出しているとしか考えられなくなってしまう。どうしてかかる事象が起こるのかは分からない、というのも原因とは常に後から挿入される項に他ならないからだ。だがここで問題となっているのは、突如として欠如なるものが現前することである。而して因子と結果の概念を用いることは当然不可能なのだ。彼女は諸々の欠如の上を反復するようになる。身体は手荒く揉みくたにされ、猜疑ばかりが増幅する。自我は彼女を裁判にかけ、弁護士を与えないままその罪を洗いざらい糾弾する。そして最後には遂に究極の問題、死刑か無罪かを問い質すようになるのである。陪審員は皆総じて死刑を要求する。彼女もまた、救われるのであれば死をも欲するようになる(おお我が御神よ、仏陀、乃至は阿弥陀如来様、私は悪い人間でした。今漸くそれに気付かされたのです)。だが別の場所で、これらを総じて根本より斥けろと反駁する声が上がる。罪なんてどこにもありはしなかった、ただ判決があるばかりだ。彼女は罪を犯さなかったのではなく、寧ろその穢において潔白なのだ。而して弾劾裁判が始まるが、そこに裁判員はおらず、聴衆もおらず、被告すらもいない。ただ裁判所の機能を断絶する為にのみそれは開かれている。かくして残る問題は生と死のみである。自我は改めてこう宣告する、お前は生きなければならないのだ、生きることは義務に他ならないと。しかも彼女は実際としてそれを知っているのである。生きることは権利ではない。だがそれを欲することにより、即ち肯定することによってのみ、生はその様相を変え行為そのものとなるのである。そしてここにおいて死は生の極限ではない。なぜならば死もまた生なのである。彼女は死を欲するが、それは自我における手法と全く形式を異にしており、それは生を望むのと同値なのだ。そして生もまた孤独者であり自我の侵入を拒むものであれば、このことは死についても適用されねばならないだろう。彼女は抑圧を企む全ての言語を遠ざけ、或いは自らをそこから隔離する。憂鬱、悦楽、性などが畢竟身体を横断するものとして保存され、それそのものを縛する他者の目から隠される。斯かる上に彼女は生それ自体を生き、死を許容することとなるのだ。この時彼女の身体の上に精神や器官なぞは存在しない、ただ輪郭だけが、透明色の輪郭だけが残されているのである(即ちこれは言語の勝利であろうか、或いは彼女の敗北であろうか、否、否、否、否否否否否否否否)。
在りし日の事である。彼女は土手の上に立っていた。それは夜の出来事であり、周囲はしんとして誰もいなかった。足許には短い雑草が茂り、所々でその下の黒い土が剥き出しになっていた。目の前にはかつて通っていた中学校があり、近くに電燈は疎らで、街中においてそこだけが一段階暗かった。彼女は過去に何度も往復した坂を見下ろし、それから校舎の壁を見遣った。殆どの窓の向こうでは灯りが落とされていたが、一つだけまだ明るい部屋があり、そこだけが暗闇の中ぼうと浮かび上がっていた。時折湿り気を帯びた風が吹き、木々の梢がその度に揺れた。彼女は何も思い出してはいなかった。通っていた学校はもはや見慣れぬ建築物となってしまっていた。二つの棟を繋ぐ渡り廊下や、校舎からグラウンドへ続くあの細い道を自分が歩いていたのだと思うと、彼女には可笑しな心地がした。彼女は校内の随所に自分が歩いているのを見つけた。併しどうしてもそれは他人事のようにしか知覚することができなかった。彼女は俄かに、かつての自分が現在たる時間を侵そうとしているのではないかという奇妙な焦燥に駆られた。実際それは容易に起こり得そうであり、しかも一度隆起すると過去は奔流となって一斉に押し寄せてくるに違いないのである。彼女は土手を立ち去った。由のない疚しさが背骨に絡みついた。
かつて彼女は一切の悦びだった。自恃さえあれば良いのだ。そう呟きながら彼女は肥大する自尊心を、腫瘍の如く身体に張り付くそれを恨んでいた。全てを失い、以て実在を手に入れた。彼女は兄姉を知らぬまま育った妹であった。
少女がいま校庭の隅に佇んだのは
其処には花畑があつて菖蒲の花が咲いてるからです
菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした
しとしと雨はあとからあとから降つて
花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます
その有様をジツと見てると
なんとも不思議な気がして来ます
山も校舎も空の下に
やがてしづかな回転をはじめ
花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終わつてしまつた 夢のやうな気がしてきます
(一、二行目:「妹よ」中原中也、『中原中也全詩集』角川文庫。
最後より十二行(空行含まず):「少女と雨」中原中也、同上)