2009年07月31日(金)14時31分-17+1
枕元のケータイに知らない相手から電話がかかってきている。画面には090から始まる十一桁。知人の電話番号はみな登録していたはずだ。誰だろう、と僕は安易に通話ボタンを押す。十一桁の番号が消え、僕よりもいくらか年配の男が画面上に現れる。男は椅子に腰掛けている。男はいきなりピストルを自分のこめかみに当てる。僕が思わず目を背けようとするが間に合わない。銃声。真っ赤に染まる壁。無抵抗に倒れる首から下。衝撃的な映像。しばらく呆然としていると、隣の客間で誰かが笑っているのが聞こえる。客間のドアを開けるとそこには先ほどの男が。破裂しているはずの頭がこちらを向く。にたりとした表情に嫌悪感。「ちょっとあなた誰なんですか」僕は問う。「ほら、以前ビールの件でお会いした」彼は答える。そうだったかな、そういえばそんな気もするような、と僕も考え直す。「でも何であんなことを」「いやいや、ちょっと挨拶代わりに、ね」訳がわからない。
訳がわからないまま目が覚めた。
悪夢を見たとすぐに思った。
枕元のケータイを手に取るのがすこし怖い。それでも確認したけれど、もちろん知らない相手から電話がかかっていることもなく、着信ありの表示もなかった。待ち受け画面はいつものデジタル時計だった。予定より三十分ほど早く目覚めたようだった。
二度寝するには微妙な時間と気分なので、ケータイの目覚まし機能をオフにして僕はベッドから起き上がる。照明の、ひとつだけ点けっぱなしにしていたナツメ球を消して、蚊取り線香のコンセントも抜く。眠気を紛らわすために頭を掻いた。寝癖はそれほどひどくないようだ。
あの男は誰だったんだろう。知らない顔。
僕のケータイは古くて、テレビ電話なんてできない。
間取りから考えても、隣に客間など存在しない。うちは1LDKだ。
ビールの件って何だ? 僕はアルコール以前にそもそも炭酸が飲めない。
説明のつかないことや納得のできないことが、あたかもそれが当然であるかのように起こっていて、そのままに受けとめられている。それが一番の悪夢なのかもしれない。いやいや、それ現実でも多々あるし。
そうだ、今日のスピーチはそんな感じのアレでいってみようかな、とぼんやり思案しながらキッチンへずるずる移動する。僕の勤めている会社では朝礼があって、毎朝持ち回りで誰かがスピーチの真似事をするのだ。正直言って悪しき習慣だ。提案したやつだけがやっていればいいと強く思うが、今日の当番となっている以上はともかくスピーチを考えないわけにはいかない。めんどうくさくて先延ばしにしていたけれど。
テーマ、不可思議な事象が平然とまかり通ることの危険性について。
「……三分もしゃべれる気がしないな」
ふつーにむずい。
そう呟いて、冷蔵庫の扉を開ける。ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。そろそろ意識がはっきりとしてきた。ようやっと僕の一日が始まるわけだ。
あらかじめ定められていた食べものをあらかじめ定められた通りの順番で取り出す。まず、上の段からマーガリン。真ん中の段から八枚切り食パン。下の段から未開封の野菜ジュース。最後に扉の裏にある棚から、LCTのビンを取り出した。
大荷物を抱えたまま、冷蔵庫の扉を器用に左肩で閉める。そのとき、野菜室に一瞬視線をやってしまった。うっかり中身を想像してしまい、すぐ目をそらす。
野菜室から目をそらし続けて、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。どんな食材が入っていたか、それはいつ買ったものだったか。忘却の彼方という言葉がふさわしい。野菜室は魔窟。特に持ち主が一人暮らしの男なら尚更だ。
……一人暮らしの男?
一人暮らしの男。一人暮らしの男。
嫌なことを思い出してしまった。そうだった、僕は一人暮らしだったんだ。一人暮らしになったんだった。あの子と別れて、また一人暮らしに戻ったんだった。
「そりゃ独り言が多くなるわけだ。変な悪夢も見るわけだ」
蘇ってしまった一昨日の夜を食パンの袋で振り払う。立ち去るあの子の残像をため息で吹き飛ばす。それから何事もなかったかのように居間へ向かった。実際、僕の外側では何も起こっていない。
今日も職場で別れたあの子と顔を合わせる。
すくなくとも、同じ空間で呼吸する。
憂鬱だ。
いや、そんなことよりスピーチを考えないと。
どうしよう。
悩みつつ、両腕の中にあるものものたちをテーブルの上に移す。食パンを一枚だけ持って、すぐにまたキッチンに戻る。なんだかあまりスマートな動きじゃないな、と自分がすこし嫌になった。オーブントースターに食パンを放り込んでダイヤルをひねる。トーストができるまでの待ち時間に、皿とコップとスプーンをテーブルに用意する。つまりもう一度居間に行くことになる。明かりも点けずに、キッチンと居間を行ったり来たり。ますます手際が悪いが、いつものルーチンを崩す気にはなれない。いつだって。
ああ、そういえば、あの子はいつだって、まったく何もやらなかった。朝食は外で食べる派で、同じ勤務先だというのに、毎日僕より一時間は早く出かけていた。生活リズムがずれていた。たまにうちで食べることがあっても、出来合いのものばかりだった。料理のできない女だったのだ。だから、一昨日以前と以後で、僕の朝はまるで変わっていない。
「だからスピーチを考えろってば」
ぶぶぶびぶぶびぶぶ、とオーブントースターのタイマーが鳴った。
トーストの香ばしい匂いが鼻を、そして空きっ腹を刺激する。火傷しないように気をつけて皿にのせる。適度に焦げ目がついていて、いい下地だ。椅子に座って、穏やかにそう思う。さて、スピーチの話題は時事問題にするのが適当だろう。目についたニュースのひとつでも挙げればいい。どうせ聞きかじりの知識で構わない。
そうやってよこしまに考えをめぐらせながらも、手は休まず動いている。コップに野菜ジュースを注いでまずは一杯。マーガリン用のバターナイフをうっかり忘れていたので、代わりにスプーンでトーストにまんべんなく塗りつける。美味しそうにてかてかしているトースト。それにしてもマーガリン用のバターナイフって変な表現だな。
次はLCTだ。LCTのビンは変わったデザインをしている。ねじれてよじれてくびれたロールケーキのよう。マーガリンの鈍くさい方舟型と比べて、ずいぶんとお洒落だ。握ると冷たくてきもちいい。側面にレトロなフォントで彫られている『リキツド・クリスタル・フオア・トオスト』を滑り止めにして、固いふたを開ける。
中にはネマティク液晶がぎっしりと詰まっている。
液晶。
ネマティクの意味は知らないけれど、成分表示にそう書いてあるからにはおそらくそういう液晶の種類があるのだろう。増粘剤としてデキストリンも含まれているところはジャムと同じだ。よく暇つぶしに何でもかんでもラベルを読んだりするから覚えている。
さっき使ったスプーンでLCTをひとすくい。
LCTは、きらきらと。
そして、たらたらと。
なんとも言えない暗い色。
どんな色を言っても正解のような色。
鏡は何色でしょうか、という問いを連想する。
そんな色。
そこに、スプーンに残っていたマーガリンの、黄みがかった白がにじむ。
にじむ、ようだけど。
なじまない。
トーストにたらすと、LCTは静かに薄く広がっていった。まるで水面みたいだ。スプーンの底でなぞればなぞるほど、なんとも言えない暗い色がトーストを覆っていく。けっしてマーガリンはその邪魔をしない。きれいな層に分かれて、液晶トーストのできあがりだ。
やがて、トーストの熱がLCTに伝導する。
薄暗い部屋の中で、LCTは一瞬だけ青白く輝いた。かと思うと、じんわりと画を映し出す。いや、それは映像だ。あたかもカメラの焦点を合わせているかのように、映像は次第にはっきりと、色鮮やかになっていく。液晶トースト上に、スーツ姿の女性が確認できるようになる。
「おっ、ちょうどいいや」
チャンネルを回すまでもなく、ニュース番組が放送されていた。スーツ姿の女性は、有名な女子アナだった。女子アナと言うにはあんまり女子女子していない格好だけど。いや、そんな言い方をしたら、液晶トーストの向こう側の彼女に失礼かもしれない。
テロップから推測するに、どうやら現在の話題は、タイのとある労働団体が実はナショナルセンターとやらでもあって近日何かの大会を開いてどうのこうの……らしい。わけが分からない。グローバルな話は苦手だ。専門外だ。それは僕にとってギリシャ語です、と意味もなく英語でわめきたくなる。
スピーチには別のニュースを採用しようと思ったものの、なかなかタイの話題は終わらない。ザッピングするのも手間なのでそのまま辛抱して観つづけていると、ふと液晶トーストの右上が気になった。
じっと凝視する。
「…………やっぱり、心なしか、だんだん大きくなっているような気がするな」
そこには『アナログ』の四文字があった。
LCTのビンのレトロなフォントとは違って、普通の丸ゴシック。色も凡俗な白。この表示が最近、巨大化してきているように思えてならない。そのうちトースト全体が『アナログ』の文字で埋まって、何にも見えなくなってしまうのでは。ふん、そんなこと、全然面白くもなんともない。
――なんともなかったね、君といても。ずっと。
そう、連想ゲームのように浮かび上がってくる。唐突に僕の胸を貫くそれは一昨日の科白だった。昨日も職場のどこかで聞こえてきた、あの子のハスキーボイスだった。
別れの言葉だった。
そして痛い指摘だった。
悪い冗談のようでさえあった。
でも、それは事実だった。
「……っとに、まったく」
ああ、ああ、ああああ、どうして僕は。何でまた。今考えるべきは今日のスピーチなのに。もう、あの子のことは過ぎたことなのに。どうして、こんなにも、気を、とられ、るの、だ…………ろう!
がぶ。
やり場のない負の感情を、僕は目の前の朝食にぶつけた。すなわち、液晶トーストに勢いよくかじりついた。LCTの独特のなめらかさ、マーガリンの塩気、トーストの表面の歯ごたえ、中のしっとりした食感、それらが順番に口中へ飛び込んでくる。かじったときの音が心地よかった。そのまま咀嚼する。よく味わって、やがて飲み込む。いつも通り、味はまったくもって普通である。そこそこの美味しさ。
後には、四分の一ほど欠けた液晶トーストが残された。
それでも何の支障もなく、ニュースを映しつづけている。まだ海外のトピックは終わっていない。
欠けた四分の一はちょうど右上の部分で、『アナログ』の四文字は今や影も形もない。だけど、僕のやり場のない負の感情は、いまだに立派な形をとどめていて、大きく影を引いていた。ちっとも治まってなんかいやしなかった。
心は未練に満ちあふれていた。
「ちくしょう」
なけなしの食欲がすっかり減衰した僕は、気休めに野菜ジュースをもう一杯飲んで喉を潤した。ついでにペットボトルのラベルを丁寧に読んだ。海外ニュースから話題が変わるまでの暇つぶしだ。
ラベルによると、『三十一種類のベジタブルと七種類のフルーツが現代人の健康をやさしくサポート』らしい。ベジタブル:にんじん、ほうれん草、アスパラガス、パプリカ、小松菜、かぼちゃ、キャベツ、紫キャベツ、ケール、クレソン、プチヴェール、だいこん、ピート……。単調な表示が僕を無心にする。キャベツという言葉に軽く引っかかったのは、おそらく野菜室の中身に関連している。忘れよう。
ひととおり読み終えたら、ついでのついでに、今度はLCTのビンに手を伸ばす。ビンの下半分を覆う、セロハンのごとく薄い半透明のラベル。そんな綺麗なラベルを見て、まず目についたのは以下のような謳い文句だった。
『LCTはあなたのライフスタイルを一新させます!』
僕は、思いを巡らす。
何度も暇つぶしに読んだことのあるラベル。必然的に充分見慣れているはずのキャッチコピー。それなのに今朝に限ってとりわけ目についたのは、たぶん、このキャッチコピーが真っ赤な嘘だからなんだろう。LCTがまだ新製品として流通していたときには、LCTというかつての夢の新技術が驚嘆と関心を持って出迎えられたときには、おそらくこのキャッチコピーどおりの現実だったのだろうけど。
今は違う。
そう、改めて自覚した。
「そうだ。きっと、そうなんだ……」
僕のライフスタイルはまったく一新されていない。
僕の生活はちっとも変わっていない。
LCTがあろうと、なかろうと。
あの子がいようと、いなかろうと。
たとえ、どんなに不可思議なことが起きても、起こらなくても。
それ以前と、それ以降で、変化というものがない。
僕は変化しようとしない。
いつまでも野菜室を開けずに、目をそらしたり。手際が悪いと分かっていつつも、朝食の手順を改善しようとしなかったり。液晶トーストが見たいものと違う番組を映しているのに、面倒くさがってザッピングしなかったり。別れても、いようといなかろうと変わらなくても、それでもずっとあの子に未練たらたらだったり。
LCTと同じ。
たらたら、だ。
説明のつかないことや納得のできないことが、あたかもそれが当然であるかのように起こっていて、そのままに受けとめられている。それは僕だけが体験することではなく、誰もが現実で多々目の当たりにする悪夢だ。しかし、言い方を換えれば、こういうことでもある。どんなに不可思議で、説明つかないことや納得できないことが起こっても、それは当然のものとされ、そのままに受けとめられるので、結局生活はまったく何も変わらないのだ。誰のライフスタイルも、一新されないのだ。
それもそれで、果たして悪夢なのだろうか?
「……一分もしゃべれる気がしないな」
ふつーにむずい。
そう呟いて、だいぶ冷めつつある液晶トーストを見やると、やっと海外ニュースは終わったようだった。テロップによると、次はどうやら政治の話題に移るらしい。それならスピーチにもしやすいだろう。ずいぶんと好都合だ。スーツ姿の女子アナが、これから始まる政治コーナーのゲストとして、何かの専門家らしき年配の男を紹介する。
「うん?」
登場した専門家らしき年配の男に、どことなく見覚えがあるような予感がした。
すこし考えて、思い当たる。
そうだ。
今朝の変な悪夢に現れた男だ。
そいつと顔が酷似しているような気がしたので、専門家らしき年配の男の容貌を改めて確認しようとしたが、専門家らしき年配の男はすぐに自分の席へ移動してしまう。不幸にも、さっきかじった右上のところにちょうど彼の頭が位置するようになったので、もう確認できなくなってしまった。何かいいニュースでもあったのか、首から下だけがいやらしく笑っている。ああ、これだから液晶トーストは。
9月の合評会の提出候補作です。