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図書館

2009年10月07日(水)22時10分-カンパニール

 一階

 それは巨大な……巨大などという形容はいかんせんごく相対的・主観的な概念でして、私にはその正確な巨大さを述べ尽くす術はありませんけれども、とにかく巨大なエントランスでありました。
 そして長大な……長大などという以下略。長大なカウンターが延々と続いていて、これならゆうに770人が同時に本を借りられると私は感心してしまいました。
 ただ、そこには私たち訪問者を迎えるべき職員の姿が全くもって皆無でした(後からわかったことですが、職員どころか諸々全部ひっくるめて、その頃建物内にいたのは私たった一人だったのです!)。不思議と不思議に思いませんでした。高々と伸び上がる天井、ところどころ黒染みの湧く絨毯の床、石灰質の壁。そのどれを取っても、一個の共同的建築として不動の確からしさを内包していて、その安定、安心感がそうさせたのかもしれません。
 立派な図書館だなぁ。
 そうつぶやいた自分の言葉で、初めて私は、自分が図書館にいるのだということを知りました。いや、すばらしい図書館だ。文化の殿堂だ。知識の城砦だ。いやいやまったく、すばらしい。
 私はふわふわとした気持ちを丸め込み、おもむろに内部へと進みだしました。
 広々とした閲覧室には、完全な整然と数学的アスペクト比で配置された棚が1:1.618のリズムで律動しておりました。手前に四人掛けのテーブルといす、個人が勉強するためのデスクなどが設えてあり、そして奥には大きな書架が五段のスペースにところ狭しと本を抱えています。ずらっと並んだ等間隔の中にさらにもう一段小さな等間隔が組み合わさる幾何学性。私の身の丈をゆうに越すそれらは、その毅然さとは対照的に淡く柔らかな輪郭の影を落としています。什器たちのまっすぐで行儀のいい外面と、その裏に潜む、人間たちが残していった手垢のごとき情念を象徴するように。
 私は一つを定めて覗いてみました。
 寸分の隙も無くびっしりと並んでいる様々な本。その一冊一冊が形態や色彩の段違いにより生んだ不ぞろいな内部は凝結した私の鼓動、直線と直角で彩られた優美な稜線を想起させました。さながら〝凍れる音楽〟なのでした。
 本の上部と棚の仕切りとの隙間に指を入れ、たまっているよどんだ空気をかき出しながら、段々が織り成す起伏を楽しみました。棚の端から端まで、夢中で背表紙をなぞっていると、指の腹が熱くなります。私には、それがとても内的なエネルギーに感ぜられて、ごく局所的にでも痛みを伴うほどの摩擦力が上等なマジックみたいに思えるのでした。私が指を動かすから熱が生まれるのには違い無いのですけれども、私以外の何らかの力もまた一緒に働いているような気がしてならないのでした。私は机や床の絨毯も同様にこすってみましたが、やはり本がいっとう熱くなるようです。無闇によそ様の持ち物を傷めてはならない、と頭では理解していても、からだは、とりわけ指の腹は刺激を求め続けるのです。
 しばらく私は遊びました。やっとこさ飽いてくると、急にそわそわしてきました。一通り、きょろきょろ周囲を見渡してみます。誰かに見られているかもしれないと思うと、ちょっと恥ずかしくなってきたのです。
 しかし、ここにも人はいません。あるのは錬鉄と木目、それから紙のにおいだけです。私はふと、思いました。
 はて?
 私はなぜここにいるのだろう? 何を探しに来たのだろう?
 単調な疑問が頭の中をメルクマールとなって浮遊します。目がくるくる回る。
 私は狼狽しました。これらの事柄に対する答えが何かとてつもなく重要な用件であるような気がして、取りも直さずそれをきっぱりさっぱり忘れてしまった自分は度し難い愚か者に違い無いという確信が私を支配しつつあるのでした。私は誰かに謝りたくなりましたがそれも叶いません。そして次第に現在の状況、もぬけの殻の図書館というものが暗示する意味が凄絶な破壊力をもって心の鎧戸をぶっ叩くのです。
 ドンドンガンガンドンガンドン! ココヲアケテクダサイ ココヲアケテクダサイ
 私は必死の思いで内側から扉を背中で押さえつけ、へたり込んだままがくがく歯を震わせていました。
 ドンドンガンガンドンガンドン! アケナサイ アケナサイ アケナサイ
 今にも決壊しそうな恐怖。きつく目を閉じながら、私は頭を抱えました。耳を塞ぎ、言葉にならない声を発し続けました。そうしているうちに何やら得体の知れない強迫的な観念が脳髄の中心で生まれ出てきて、きっとこれが今の私にとっての蜘蛛の糸ではないか、この不可解な場に私を存在せしめている理由ではないかといった考えがみるみる堅固な要塞を築いていくのでした。
 ドンドンガンガンドンガンドン! ドンドンガンガンドンガンドン! ドンドンガンガン……。
 そこで、私ははっと覚醒しました。いつの間にやら眠ってしまっていたのです。頭を振り振り周囲を見回すと、耳鳴りがしました。どこからどこまでが夢だったのかしらんと訝りましたが、からだは未だ図書館にあるようです。手近ないすを支えにしてゆっくり立ち上がり、私は寝ぼけまなこを瞬かせました。照明の届かぬ暗がりがやけに目に付いてしまいます。どのくらい意識を失っていたのでしょうか。時間感覚すらはっきりしません。
 まったく突然の出来事でした。前後不覚に陥った感覚が、五里霧中に踏み入った領域の暗黒を彷徨する私の姿を脳裏に投影します。どうしよう。どうしよう。今のは白昼夢? 病的な幻覚? いずれにせよ、著しい異常さを孕んだ凶兆には変わりありません。私は途方に暮れました。
 身に覚えの無い恐怖。それは悪夢そのものよりも、「身に覚えが無い」という点にこそ恐怖の要諦があるのかもしれない……。
 例えば、私たちは夢を見る。夢の中ではたいてい非現実的なことが起こるから、びっくりしたり意外に思ったりする。誰しもあることです。
 けれども、考えてみてください。自分自身の夢なのだから、その内容を無意識的に創作しているのも、自分自身以外の何者でもないのです。私の作り出したストーリーに、私が驚く……。
 この感覚、これはいったいどういうわけだろう?
 自作自演? 自業自得? 自画自賛? どれも少しずつ違いますが、少しずつ似ています。
 私の中の別の私が、私にとって意外な話を嬉々として考えている……。いや、「意外」という言葉自体がおかしい。私の「意」の「外」に私が存在するはずはないのだから。
 では、「私」とは何? 誰?
 ともすると、夢の世界には、私でない「何か」の介在する余地があるのでしょうか? 神と呼ぶべき、あるいは夢魔と呼ぶべき超自然的な「何か」が、眠っている横で耳元にささやきかけてくる図。想像するだけでも恐ろしい。
 そもそも、さっき私が経験したシチュエーションは夢なのでしょうか? それとも幻?
 夢と幻。その差はどこに?
 夢と幻。その狭間には……?
 頭がじんじん疼く。思考をまだ整理できていないようです。
 とは言え、こんな不安に苛まれたままじいっとしていることもできず、差し当たって私は、〝自分が何を探しているのか〟を探し出すためにこのラビュリンスを巡ることにしたのです。

 幕間劇・階段

階段は難無く見つかりました。手狭な作りで、大人二人がやっとすれ違える程度の横幅が暗い急勾配を成していました。
繰り返しますが、ずいぶん暗かったのです。たぶん常夜灯がそのまま昼間も点いているだけなのでしょう。そして急だったのです。手すりにしがみ付きながら上らねばなりませんでした。
酔っているのかしらん? 上下の感覚が引き伸ばされた世界を歩くようでした。一段一段進むごとに傾斜がきつくなってきているのです。錯覚ではない、はずですが。
階段が、私を拒んでいるのでしょうか? これ以上行かせまいとして。それは善意でしょうか? 悪意でしょうか? そもそも誰の意思? 図書館の意思。仮に図書館だとしよう。図書館が私の行く手を阻もうとしているとして、この先にあるのは危険? それとも希望? 図りかねる。図りかねるぞ……。
私は、ゲートルをすねから取っ払ってしまいたい衝動に駆られました。痛い。鬱血しているに違い無い。雪が隙間に入り込まぬようきつく巻きすぎたのがまずかったのだ。
そして寒い。手元の気温計は軽く氷点下を下回っております。氷点下を下回る? 氷点、つまり零度を下回っているから氷点下であって、「氷点下を下回る」という表現は日本語としておかしくないかしらん? よしんば「氷点を下回る」は正しいとしても。
それにしても疲れた。そろそろ八合目あたりに着いてくれないと、割に合わないよ。いつまでも山頂へはたどり着けずに、目指すのはいつも八合目。
目を見開いていることすらままならぬ激しい吹雪の中、一行は険しい山道をひたすら登ります。先頭を行く私は、時折振り返って、ちゃんと自分の影が後をついてきてくれているか確認します。はるか遠くの麓から、無限に連なる影。たった一人のキャラバン。
視線を前方に戻す頃には、いつの間にか尾根を越えていました。そこは一面の砂地で、広大な斜面が絶えず風に巻かれて流動していました。砂漠。乾燥。じりじり照り付ける熱気。これが音に聞く不毛!
それらを知覚しだした途端に、踏みしめていた両足が砂に埋もれていきます。理性を立脚させるための足場を失った人間の、その哀れな表情を想像してみてください。私の顔は真実そうなりました。必死に周囲をかき分けかき分け、ずぶずぶずぶずぶ流砂の海を泳ぎますけれども、当然のごとくどんどんどん飲み込まれてしまいます。
二分と経たずほとんど全身が地中の餌食です。初めは顔面蒼白でうろたえていた私も、どす黒い諦めの心境になってきました。何だかどうでもよくなってきた。引力は際限無く私を落下させ、圧縮させていきます。真っ暗なダストシュートの内部。死なせてくれるなら、早くそうしてくれ。呼吸を奪われたままで生きるのはいやだ。駄目なら駄目で、それでいい。早く! 早く! ええい、ままよ!
幻の中でさえ、私は孤独……。
砂は私の体液を吸って固まりました。抵抗をやめたからだは、何か大きな内臓にでも包まれているかのようで、いやに生物めいた空間の蠕動によって地上に吐き出されました。砂丘はすべすべした図書館の階段に変じていました。
その時にはもう、別に痛くも寒くも疲れてもいませんでした。あるのは無気力な倦怠と言い知れない喪失感だけです。
深くは考えないことにしました。
「わからない」という状態には二つの種類があります。一つは純粋に勉強不足でわからない。これはひとえに自分自身の責任であって誰が、あるいは何が悪いというわけではない。もう一つは答えを得るために不可欠な要素が全て出そろっていないためにわからない、ということです。これは私に落ち度は無い。あるとすれば、「わからない」ということでなく、それらの要素を未だ見出しきれていない点、顕在化していない状況に問題がある。
そして、現在の「わからない」は、きっと後者の状態であろうと思ったのです。
私は自らの身を昇華させます。何の変哲も無い、規則的な歩調で。

 二階

 やっとのことで薄暗い踊り場を抜けると、階下に輪をかけて大量の本で空間は埋め尽くされ、まさに汗牛充棟といった有り様でした。私は東向きの入り口から左に折れていって、並んだ棚の脇を通る長い回廊を歩き出しました。等間隔に歩くような速さで流れていくうずたかい書物の畝々……。その間、閲覧用の細い路地には埃まみれの闇が沈殿していて……。
 ふと、私は立ち止まりました。横目に眺めていた視界の端に一瞬、人影のようなものがよぎったからです。二、三歩後じさりして最前の光景を検めます。そこには、ただ黒々とした深淵と向かい側の窓から差し込むかすかな光が静かに溶け合っているばかりで、これといって変わった様子はありません。
私はしばらくまんじりとその絵画的な美しさを見つめていました。全てはそうなのかもしれない。存在なんて。ちらちらと垣間見えるだけで、それで結構。自分の手の届く範囲を触ることさえできれば、ほかはあっても無くても変わらない。触らないんだから。
私の見た美しい女性の影が、一瞬の、単なる錯覚に過ぎないとしても、それは私にとって美しい女性に間違い無く、その髪、その足、その香りまでもありありと……。
彼女は完全で、ライ麦畑を優雅に踊り続ける一本の光線なのです。輝きながら流れる軌跡は、空虚であると同時に彼女そのものであり、私の激しい恋心を揺さぶるには充分な色香を備えています。
しまいには、わしゃわしゃ髪を洗う音までも聞こえてきました。湿って、艶めいた長い黒髪。白いうなじをヤシの木の陰から恐る恐る見つめながら、私ははやる動悸を抑えることができません。バス用の小さなスツールに座る彼女の若い肌。泡の滴る背中。肩甲骨。つまりは、裸身。覗きは犯罪です。幼い私。
洗い終えると、春一番が強く吹き付けてきて、はらはらと水気を帯びた髪をなびかせます。飛散する水滴。毅然と風上へ顔を向ける彼女。その、自然乾燥の爽快さと言ったら……。
 シャンプーの残り香をかすかに感じながら、私は再び歩き始めました。ですが、何十歩も行かないうちに突き当りまで来てしまいました。引き返すのも億劫で、建物全体の角、壁と壁とが垂直な継ぎ目を表して収束している点を求め(そこに私の終着点までもあるような気がして)、遠心的な軌道を描きながら進むことにしました。
 腕を真横に伸ばし、壁の平面を伝っていくと、精密なまっすぐさを備えた歩調を維持できるのでした。これは存外に有益な発見でした。基本的な心身の平衡すら保てない今の私を壁の堅さと頼もしさがすっかり安心させてくれるからです。
 心身の平衡……。平衡とはバランスです。私のからだは右と左のバランスをとって何とか正しく歩こうとしています。では心は? 心の天秤の右と左には何が乗っているのでしょう? 私は考えます。右の腕、左の脚。左の顎、右の汗。
 そして何より、常に頭に据えておかなければならないのは、これが私の探すものにほんの髪の毛ほどでも関わりがあるのかという一事でした。心の天秤に乗せる分銅、あるいは文鎮のようなものを欲しているなら、図書館ではなく病院で鎮静剤でももらってこればよいのです。大した面倒ではないはずなのです……。
 どうにも割り切れない問題に直面すると、私はこんがらがって身動きがとれなくなってしまう質のようでした。何か至極単純なことを失念しているということだけはしっかりと憶えていて、それが歯に挟まったままだから私を苛立たせるのでした。
 単純な疑問。単純な答え……。
 本棚がきれいな二列縦隊を成して鎮座しています。私はちょうどその最前列(あるいは最後尾)の中央でそれらを睥睨しながら、独り黙考しました。美しいパースが向こう側の収束点まで延びていて、壮観な気持ちを私に抱かせるのでした。なんてたくさんの本なのだろう。これほどの知識の集積は天下広しといえどもそうはあるまい。私はそれらが自分の持ちものでないとは理解しつつも、誇らしくなってきました。
 そう、図書館は知の砂山なのだ。殊勝な誰かが長年かけて積み上げてきた微細な粒子の結晶物。殊勝なほかの誰かの供物とするため、一つ一つの思索、一句一句の言葉を組み上げた一冊の書物。一棟の図書館。
 その表面を撫でるのは私……。
 そこまで来て私は、正しいかどうかはわかりませんが、確かに単純なある解決法を考案しました。
 私は意気揚々と来た道を戻り(壁と壁の継ぎ目のことは都合よく忘れて)、階段を駆け上がりました。


幕間劇・テラスおよび壁に掛かった大きな絵

 先にお断りしておきたいのですが、後から思い返してみると、二階から三階へ移動する間、ここら辺りの情景は、私にとってかなり曖昧な記憶なのです。湧き起こっては消える夢幻の連鎖に、いささか心身が膠着していたのかもしれません。辟易していたのかもしれません。
 とにかく、記述に不明瞭な箇所がよしんばあるとしたら、それが私の覚えている限りの全てだということをご承知しておいていただきたいのです。
 私は階段を上って三階へ行く前に、一度、二階のテラスへ出ました。ここは非常に不可思議な点です。なぜなら、これから先のお話、三階の窓を開けて外の景色を眺めようとした時、私は初めてそれを目にする気でいたのです。下の階で「テラスに出た」という記憶は確かにあっても、それが「外の景色を見た」という事実とどうしても結び付けられない、そう表現するのが適当なようです。
 おそらく、正面玄関のちょうど真上の位置にテラスはせり出していたと思います。私は室内の探索途中にそれを見つけ、何の気なしに足を向けました。その時には、まだ外世界の情報を渇望する気持ちが微塵も湧かなかったのです。
 だから景色を背にして、石の手すりに腰掛けました。すると、向かい側、通路を挟んだ白塗りの壁に大きな油絵が掛けられていたのです。
 この絵のイメージだけは鮮明に覚えています。戦争の絵です。抽象的な図形や原色で描かれた作品でしたが、それが凄惨な戦いを表していることだけは直感的にわかりました。
 日暮れ間近のソンム河畔。その荒涼とした原野。
 ひゅん、と右目の上を何かが飛び過ぎました。地面に落ちたそれを一瞥してみると、味方の空薬莢でした。切れたまぶたから血が一筋、視界を妨げるように流れ出しました。拭うことさえはばかられる疲労。片目を閉じたまま、突撃は続きます。
 あの塹壕の下に敵はいる。殺すべき、敵。誰だっていい。語り合うことができるなら。ほら、「拳で語り合う」って言うじゃないか。胡散臭いメロドラマ。きっと銃剣でだっておんなじ効果が得られるでしょうよ。
 それにはとりあえず、銃剣の切っ先が届く距離まで近付かねばなりますまい。だから私は、奇声を発しながら、弾雨に逆らって走ります。でも半マイルの死線はどこまで行ってもいっかな縮まりません。前言撤回、やっぱり、ライフルで語り合うのも悪くないかな。
 ザックザックザック。軍靴の音。次第にリズムが高鳴って、自分が走っているのがわかります。ザクザクザクザク。肩が、胸が、上下する。ハイスピード。ホッホッホッホッ。息が上がる。ランナーズハイ。ガタガタガタガタ。おや? 何の音かしらん? 右斜め後方より迫ってくるプレッシャー。ゴトガタガタガリリリリ。あれ? 確認しようにも、右側が見えないぞ? 目が開かない。なぜかしらん?
 ガタタガリリリゴタガタガタガタガタガタタタタ!
 それは耳を劈くような轟音に膨れ上がり、私はそれに追われている気がして、それが何かは未だ分明してはいないんですけれども、それそれ、それだよ、と思い当たる節が確かどこかにあったような、喉元まで込み上げて甲状腺に引っかかっているような……。
 不審な塊は土煙を巻き上げながら、ついに私を追い越していきました。
 機関銃をものともしない装甲。悪路をものともしない無限軌道。一兵卒に過ぎない私はもとより、何物をも、何者をも、ものともしない圧倒的戦力。重戦車。六ポンド砲。
 マークⅠだ!
 マークⅠ。
 マークⅠ?
 って何?
 ………………。
 そこまでです。そこで戦場のシーンは唐突に途切れています。そこから先は何もありません。真っ白です。ただ、記憶喪失というわけでもなさそうなのです。
 いっとう奇妙なのは、これらの情景が時系列の連続性から全く切り離されてしまっている点です。前述したように二階から三階へ移動する間のできごとだったとは思うのですが、一方でテラスなんかへ寄らずにまっすぐ階段を上った覚えもあるのです。しかも前者よりもはっきりとした確からしさを伴って。
独立した場面として厳存しているのです。まるで頭の後ろに付箋でも貼り付けられているかのように。
異物感。

 三階

 この建物は、中心にある階段室とトイレを囲むように書架スペースが確保されている構造でした。だから、私は常にこの図書館の雰囲気に浸りながら散策することができました。
 ゆっくりと外周を一回りしてから、私は心当てに背の高い棚の中段から一冊のハードカバーを抜き取りました。
 盲点、と表現するのが適当でしょうか? わからないことがあれば調べればよかったのです。そのための資料ならいくらでもあるのですから。
 私は緑色のつるつるした表紙を撫でてはひっくり返し、じっくり品定めしました。パラパラと数ページめくり、内容を確認しました。全て白紙でした。
 私は苦笑を漏らしつつも隣の棚からまた無造作に引き抜き、同じ所作をしました。結果も同じでした。
 溢れんばかりの沈黙の洪水。掃いて捨てるほどに積み上げられた無用の長物の山。その事実は急激に私の期待を萎縮させ、もはや豊熟とした諦観と悲愴とが不可逆的に重層されていって、一個の袋小路としての閉塞感を虚飾された心へ永久に進路付けるのでした。
 やりきれない思いを引き裂いてやりたくなりましたが、本に罪はありません。あるとすれば私の早合点の浅慮に非があるわけで、その至らなさを彼らに転嫁するなどというのは愚挙以外の何物でもないのです。
 私は嘆願します。後生です! どうかこの乳飲み子の命だけでもお助けください!
 私はたった一人証言台に立ち尽くして、精一杯の弁護を展開します。あとほんの少し待っていただければ、大麦の収穫が始まります! そうしさえすれば、きっと耳をそろえてお返ししますから!
 高い高い陪審員席から見下ろす人々の姿は、背後のステンドグラスの逆光におぼろげなシルエットを落とすばかりで、その表情をうかがい知ることはできません。
 カツカツ。木槌の非常な、乾いた無感動を思わせるような音が法廷内に響き渡り、拒否、拒否、拒否の大合唱がまるで礼拝堂のゴスペルのごとく壮麗な旋律で私の周囲を圧すのでした。それははっきりとした視覚を伴って過敏気味な神経を苛みました。螺旋を描きながらすり鉢状に拡大していく声の波、波、波……。
 ぐわんぐわんと頭がひねくり回り、私はひるんで、思わず目を開けました。元の図書館でした。どうやら立ったまま失神してしまっていたようです。
 いよいよ体調すらも危ぶまれてきて、かけらでもよいから自らの正気らしさを見つけ出したくなった私は外へ目を向けました。度重なる不可思議にすっかり当てられて自信を失った今、内的な部分にそれを創出するのが極めて困難に思われたからです。
 腰から上の視界をそのまま矩形に切り取ったような窓はブラインドに全面遮られています。その死角に広がる光景を夢想しながら、私はある大事な問題を思い出しました。階段はこの階で終わっていたはずですから、おそらくここは最上階なのです。それほどの見晴らしから世界の全貌を閲することができたとしたら、全ての答えがわかるのではないかしらん? いっぺんにハリボテが倒れちまうんじゃないかしらん? 少なくとも、図書館の周辺にはどんな種類の樹木が群生しているのか一目で総覧できるに違いありません。
 そう思うと、私が窓を開け放して景色を眺めるという何気ない行動が、絶対無辺の正義、一種の宗教的謹厳さを備えた儀式のような感じが湧いてきました。恐る恐る伸ばした指先のかすかな震え。それがブラインドの把手をゆっくりと捉え、突然、無慈悲に、一息に引っ張り上げてしまえる恍惚……。
 私は息を呑みました。意を決してコンロに火をかけると、舌打ちみたいな音を迸らせて青白い炎がメラメラとメラメラとメラメラとメラメラと―――いけない! 私は黙然と叫びました。
 まただ。また私は―――。
 突発性の夢中遊行の中で理性を集中し、かろうじて客観性を回復した私は、何とかして現実に、あの図書館の静謐に潜む安寧の下に戻ろうとしてもがきました。眼前に浮かび上がった炎は、それが幻だと念じれば輪郭からすうっとおぼろになっていき、しかしすんでのところで覚醒の芽は得体の知れない虚脱感に摘み取られてしまうのでした。これほどまでに強く私に訴えかけてくるイメージの正体……。
 過去の記憶なのだろうか……?
 ふとその考えに突き当たると、今まで疎ましくまとわりついていたはずの映像が、私という存在を特定するための貴重な手がかりのように思えてきて、必死にこの情景を凝視しようとする自分が俄然立ち現れました。
 キッチン? キッチンだろうか? コンロがあるのだから。キッチン。な、何を暗示して―――。
 ところが数秒もしないうちに、見回した部屋の隅から強烈な光が溢れてきて、それは瞬く間に味気無い窓枠の形へと変じたのです。私は驚いて、ブラインドの取っ手に手をかけたまましばらく棒立ちになっていました。
 ……いえ、よくよく考えれば、無理もありません。朦朧状態での〝目を凝らす〟という行為の意味するところは、極めて覚醒感覚に近い意識の操作に相違無いのですから……。
「あ…ぁ…」
 やることなすことことごとく裏目に出ているのではなかろうか。私は迷いました。方策は限定された箱庭に群がる黒虫のように散り散りになっては蛇行を繰り返し、私の貧弱な着想力ではどうにも追いきれなくなってしまいます。
 崩壊の予兆……。この不安定な位置に膠着し続けることは危険かもしれない。心理的にも、物理的にも。
 そう思った私は、停滞の原因を打破せんとなるたけここから離れようと決心しました。突発性の高所恐怖症です。視覚的な刺激は無くとも、私が高所にいるという確固たる指標――階数表示が私を千尋の谷の突端へ押しやるのです。


 幕間劇・エレベータ

 私はよろめきながら思わず段差に蹴躓きました。こんな覚束無い足取りでは、到底地上までの階段を下りてゆける自信がありません。
 沈んだ気持ちで階段口の脇にへたり込んだ時、背中の壁に違和的な感触が当たって、私は振り向きました。
 重たげな扉。下向き矢印のボタン。エレベータ。人類にできる精一杯のワープ航法。
 こんなところにあったかしらん? 考えるより早く、震える指先が自動的な所作で自動的な自動ドアを自動開放しました。自動的に進み入ると、私は行き先を思案しました。お客さん、どちらへ? 渋谷へ。上海へ。星々の荒野へ。半マイル四方の密閉空間は私をどこへでも連れて行けるような気がして……。
 兵士は執拗に私の腰骨を銃身で小突きます。さっさと歩け! ドイツ語なんて僕にはわからないよ。哀れな人々の行列は地平線の彼方を越え、延々と永遠に深淵を取り巻いています。それらは全てコンクリートの立方体に吸い込まれていって、私の番も間近です。
 涙がこらえきれなくなってきました。後から後から目頭の貴重な水分が溢れて溢れて……。何だろう? この名状しがたい深い気持ちは? 二人ほど前の幼い少年が、弟か妹なのでしょう、乳飲み児を背負って並んでいるのが見えるのです! 嗚呼! 見る間に私までも収容所に詰め込まれて……。
 ブウウーーーーンン……ンン……。大きな時計が鳴っている……。ブ……ンン……。
 狭い。苦しい。今度の夢は長すぎる。ガス噴射。カウントダウン。3、2、1……。
 アナウンスに合わせ、ポッと灯りが点りました。3階、2階、1階……。お客さん、どちらへ? 私にはその数字の羅列のさらに下、「B」の文字がボタンの上に白く浮き立っているのが目に付きました。脈打っているような……。何の略だろう? バックベアード?
 私は誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫のごとく「B」のボタンを押しました。

 地階

 エレベータの強引な重心移動に作用反作用の法則もあいまって、私は逃げ場の無いコンテナの中で思い切り吐きました。ひどくもの悲しい荒涼感。
 チン、とまるでエレベータが目的地に着いた時のような音がして、再び扉は開かれました。最下層であるはずの一階の、さらに下の階層……。
 私は足を踏み入れました。
 そこは窓の無い、それがためにずいぶんと薄暗い地下書庫でした。図書館の地下構造というものをとんと想定しておりませんでしたけれども、決して素っ頓狂な話ではありません。まいて昨今の土建技術の目覚ましい発展ぶりは言い及ぶまでもあらじ、至極妥当性に富んだ建築形態と申さねばなりますまい。
 私の航跡を追うようにして、沈黙していた蛍光灯が点っていきました。十メートルほど進んで振り返ると、尾を引いた光の筋が煌々と続いているのでした。私はふっ、と嘆息します。溶鉱炉の中にでも入れられた気分。どろどろになった私の魂が図書館の静謐さ、けだるさ、有機的無機性などと渾然と融合して内側から覆いかぶさってくるのです。
 私が現在探索しているのは、私自身の失われた記憶であろうことは薄々感付いてきました。では、この図書館は意識の構築物ではなかろうか、という結論が私の意識に意識的に構築されつつあったのです。パラドキシカルな二重意識。そう仮定すれば、検分した蔵書がことごとく白紙であった理由も充分頷けるものとなります。そこに記すべきトピックやレコードは既に私の中で散逸してしまっているのですから。
 そう。なんだかつじつまが合う感じがしてきました。この図書館内で、めくるめく苦悩に対する最善の処方箋を得られるとすれば、それは意識の深層、誰の視線にも手垢にも触れず大切に保管されてきた禁帯出の記憶以外に無いはずです。そしてそれこそすなわち最重要の記憶でしょう。
 つまり、そこはここ、それはこれです。
知恵の輪がカチリと外れ、ほっぺたのこぶがポツリと落ち、ジグソーパズルの最後の一片がコトリとはまった心地。難しい高次方程式から虚数解をも漏らさず割り出した時のあの高揚感。
 私はジェットコースターみたいに浮き沈みを繰り返す情緒がついに佳境を迎えたのを直観しました。この先は、ただ猛スピードで急転直下の坂道を、息せき切って駆け抜けるのみ……。
 きっと分厚い辞書だぞ。いや、設計図かな? それとも哲学書? 見つけてやろう。見つけてやろう。とにかく私は必死だったのです。やっと点灯した希望の光を消さぬように。幻想の迷宮から脱出するために。
 探検するうち、この階がほかのフロアとは大きく異なった造作であることに気付きました。先刻まで巡ってきた場所は多少棚の配置など違いこそすれ、基本的な室内の形はどれも同じでした。ところが、私が今いるこのカタコンベは、無数の書物が壁と化して乱立してはいるものの、明らかに広々としています。
 この変化は私の予感をいっそう好転させました。ここに何も無ければ絶望しなければならない不安よりも、ほかのどこにも無いのだからきっとここにあるはずだという期待が強くなってきました。比べうる他者の存在。快い不透明さ。
 やがて終端に着きました。私の足元を保証すべき平面、頑丈な普請のタイルが唐突に無くなり、その先をスプーンで抉り取ったようなくぼみが口を開けていました。少なくとも私が涵養してきた図書館に対しての常軌を外れた機構です。大空洞。
 それが地下鉄道のトンネルであると知ったのは、切り立った崖の底の常闇に線路を認めた時でした。なぜ? どこかからそこかへと連なる一本のレール。緩やかにカーブを描くそれはいずことも知れない彼方へと。茫漠とした未来へと。つながっているのだろうか?
 情報が欲しい。手近な棚から取り出してみようかとよっぽど考えましたが、そこに重なるまっさらな白紙の束を目の当たりにした時のことを夢想すると、どうしても踏ん切りがつけられずにいたのです。楽観に陶酔するならするで、充分な裏付けが欲しいのです。最後の手段なのです。不確かな推論に身をやつすのは。朽ち果ててしまいそうな、狂おしいほどの誘惑。
 いや、無理にでも心を移さなければ。新しい眺めに。図書館の地下に鉄道を通すという大事業を合理的に説明するロジック。
 それは?
 わからない。
 だんだん腹が立っているのです。何一つわからない。果たして私だけのせいなのでしょうか? 上手くいかないのは? 無力なのは? 疎外されるのは? わからない。それすら……。
 静かな耳鳴りが始まりました。呼び声。もっとよく聞かせておくれ。嗚呼、やっぱり、次第に大きくなっていく。近づいて。無数の反響。輪になって。
 刹那、八両編成の陣風が吹き抜けました。よどんだ空調の生暖かさが清冽な朝の冷気に。眩いヘッドライトが尾を引くテールライトの瞬きに。私は乱れる髪もそのままに、トンネルの先に消えていった急行列車の残響にいつまでも耳を澄ましていました。その圧倒的な迫力よりも私を驚かしたのは、乗客の存在です。他者! 想像していたよりはるかに大きな、身を貫くような喜びに私は打たれました。
 世界がにわかに帯びた色。それは青! 突き抜けていく空の色! 私はまだ見ぬ歓楽でいっぱいの外宇宙に思いを馳せました。人々の後を追いかけて、裸足で闇に飛び込んでいきたい衝動に駆られました。車内に溢れた通勤者たち。こちらに気付いたかしらん? その強固なまでの無表情は、注視する間も無い一瞬の邂逅に誇張されてしまった点も多分にあるでしょうけれども、私の驚きを何倍にもさせました。外郭一枚を隔てるのみで高速遡行を続けるコンクリート、あるいはカーブに差しかかった車輪とレールとが奏でる悲鳴、それら死の連想をのべつ幕無し聞きながら平然としていられる強さ。ポジティブなイメージ。
 駅のホームに立つと、埃に似た空気の粒子が電光を乱反射して輝くのが見えました。死を恐れない、歯牙にもかけない、そうした心に(傍目だからそう見えたに過ぎないとしても)羨望が湧きました。弱い私。不安と不信に埋もれて身じろぐことすらあたわず、眩惑的な夢にすがる私。
 何でもかんでも一緒くたにして打ち砕くための勇気が欲しくて……。
「少し……聞いて…………」
 声。幻聴、ではないような……。
「君は、急ぐの……?」
 確かな声帯振動音。急いで周囲を見回したって誰もいません。いったい、どこから……?
 程無くそれはわかりました。誇大妄想気味の真実。私は本たちの元へ駆け寄りました。そこいら中から見守っていてくれたんだね。聞かせておくれ。もっともっと。本物の声。力の限り産声を上げる嬰児らの中から、ほぼ正中の位置、革の背表紙に手をかけました。従容とした挙措でそれを開いてむさぼるように読みました。読める。読めるぞ。片っ端から、読もう。片側の、端から。
 それは何日にも何年にも及びました。

 * * *

 図書館のにおいが好きでした。染み込んだカルム。どんなに真新しく小ぎれいで整っていても、新品の本だけで書架が収まるはずも無く。私が手にしたその世界は、きっと誰かが書いたはずで、刷ったはずで、買ったはずで売ったはずで、きっと誰かが読んだはずで。圧縮された人々の営みが目に浮かぶようで。そういう、孤独の中で孤独を見失えるような、乾いた紙のにおいが好きでした。
 そうです。自分で書いた本を自分で読むほど虚しいことはありません。自分の記憶を自分で思うほど。
 そうです。孤独なのです。根本にあるのは。私が誰かに読んでほしかったのか。あるいは、誰かが私に読んでほしかったのか。私の物語を。あるいは、誰かの物語を。
 他者の、存在。
 助けてください助けてください助けてください、と二重三重に交差する闇の中で、ついに私は理解したのです。瞳の奥の荒涼とした砂漠には美しい、完全な感情がただ潤すのではなく、その不毛を愛でるために存在していることを。
 端的に言ってしまえば、あの幻世界は記憶ではなかったのです。少なくとも、私の記憶では。いや、記憶ですらなかったのかもしれません。物語、だったのかも。
物語。私はその数々のフィルムを上映するキネトスコープ。
物語。虚構と現実の狭間に断続しています。
 今ならはっきりと聞こえる。
「図書館が私なのではない。私が図書館なのだ」
 私の口から発せられる、私以外の誰かの声。
「世界が私なのではない。私が世界なのだ」
「不条理が私なのではない。私が不条理なのだ」
「諦観が私なのではない。私が諦観なのだ」
 様々な、けたたましい、快哉が延々と響く中、私は黙読をやめませんでした。鼻から下は自らの統御を離れて、自動機械のように呪文を唱えています。

 図書館になった、私。私になった、図書館。

〈了〉
 


今月の合評会用の作品です。長いです。そして若干イミフです。

最終更新:2014年02月17日 13:46