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La Marche de L'histoire

2012年02月23日 (木) 00時49分-エンディミオン

 マルシェ。
 それが僕とセレーネ、しがない剣術指南役と一国の姫君が、互いの心を認め合うための合図だった。剣を交えれば、彼女がどんな気持ちで僕に向かっているのか、なぜだか伝わってくるような気がして。きっと同じ様に僕の想いも、切っ先から痛い程伝わっていた事だろう。少なくとも僕はそう信じていたい。だから、だからこそ僕には、自分の心の内をそのまま押し留めておく事なんて、到底出来なかった。
「その様な申し出、聞き届けるわけにはいきません。私はこの国の王位継承者。貴公はその私に剣術を指南する身。その意味を、貴公はお分かりか」
「しかしセレーネ様の剣からは、私を本気で切ろうとする意志が感じられません」
「なっ……愚かな事を」
 率直に「愛しています」と伝えると、面を外し少し上気したその表情は、堂々と構えようとしながらも、しかし動揺の色を禁じ得ない様子だった。汗を拭い、結い目からほつれた金色の前髪をかき上げる姿は勇ましいが、うっすらと頬を赤らめながらも言葉を探す様はいじらしい。町を歩いている少女達と何ら変わらない。愛の告白に眉尻を下げる彼女を見て僕は思った。しかしそれでも、彼女の言葉通り、確かに彼女は「姫君」で。しばらくすると、普段の平静をすっかり取り戻し、僕に一言。
「己の立場を理解していれば、その様な言葉は出てきますまい」
 ワントーン低い声。どこか寂しげな声でそう言って自室に、僕の知り得ない世界に帰ってしまうのであった。
 この国では珍しい撫子の花が、窓際で季節外れに咲いていた。


            *


 最後の世界大戦から半世紀。東側諸国を牛耳っていた大国が崩壊してから数年が過ぎ、世界には仮初の平穏が訪れていた。未だ「平和」という理想からは程遠いものの、血の歴史はひとまずの区切りを見せ、一部の人々の表情には長らく消えていた笑顔の灯が再びともり始めている。互いに牽制し合っていた国々が結びつき、始まりを告げた新たな時代。「雨間の飯事」とは、よく言ったものだ。
 この国にも、凪いだ空が着実に広がっている。空港に降り立った時、最も目を引いたのは、人々の朗らかな笑顔だった。もといた国。何もかもが十分すぎた国の人々の笑顔となんら変わらない笑顔を見つけられて、僕は嬉しかった。ほっと胸を撫で下ろす事が出来た。なによりそれが「本物」だった事が僕を救ってくれたのだ。この国ならやっていけるかもしれないという思いが、歩を進める度に湧き上がった――
 「この国――シヴァルラス公国は、面積五万平方キロメートル、人口三百万人を有する、いわゆる小国である。農民階級が人口の七割を占め、非農勤労者が二割。残りの一割に、貴族階級、兵士、その他が続く。なお、兵士の数は約一万人であるが、それとは別に、貴族の子弟乃至卓越した実力を有すると認められた者は、『騎士』の爵位を王から与えられ、『騎士団』に配属される。約五百人からなる精鋭集団である。最高レベルの戦術、兵器の扱いに加え、更に剣術や騎士としての素養も要求される。無論、後述した能力は現代の戦争において必ずしも必要とされるものではない。しかし彼らはシヴァルラス公国の代表としての役割も帯びており、そのために、先の技術を欠く事は出来ないのである。なお、兵士は議会の管理下にあるが、騎士団はその上部組織である枢密院の直轄とされており、時には王から直接命令を下される事もあった。
 議会制民主主義、二院制をとっているが、貴族階級の存在する国としては珍しく、政治体系において貴族と平民は区別されていない。それに対するせめてもの抵抗だったのだろう。両院の上部機関として法案や政治指針に意見を述べる、枢密院と呼ばれる組織が十人程の貴族によって運営されている。筆頭貴族ノブレス卿をはじめ、枢密院構成員の過半数以上は穏健派であるとの話だが、詳細については誰も、少なくとも庶民階級の者は誰も知らなかった。これはゴシップに近い噂だが、王ですら全てを把握しきれていないらしい。
 王は稀に見る賢君として知られている。枢密院が王に対して常に従順である理由は、そこにある。しかし、王の後ろ姿を見るだけで国民が歓声を上げるその由縁について述べるためには、この国の歴史に関して、少々細かく振り返らねばならない。
 今から二百年程前。各国で市民革命がおこり、多くの血が流れていた頃に、しかしこの国でその様な惨劇が生ずる事は遂に無かった。その時代の王は、自ら憲法を起草し、主権を国民の手に委ねたのである。もちろん、その頃の国民主権とはいわゆる『ナシオン主権』であるから、制限選挙等によって完全な国民主権は実現されていなかった。階級制度が維持され、議員のほとんどが貴族とブルジョアジーから選出されていた事も事実である。しかし、今から二百年も前にその様な事を為したのは、まさに先駆的であったと言うより他はない。
 だが一方でその事実は、皮肉にもシヴァルラス公国とそこに住む国民にとって、プラスとはなり得なかった。極めて平和的に主権を得た国民は、革命の志気を削がれた事も相まって、進歩を欲する事を忘れてしまった。資本主義が発展しても、石炭資源の豊富なこの国で貧困はほとんど生じず、結果、何も起きなかった。労働運動が本格化する事も、社会主義思想が台頭する事も無く。本当に何も起きなかった。国史の教科書を編纂する者は相当に困った事だろう。これが、いわゆる『失われた百五十年』である。
 その硬直を打ち破ったのが、現代の王であった。進歩を忘れ、百五十年もの間世界から制度的に隔絶されていたこの国の状況を憂えた王は、その空白を一挙に埋める事を決断したのである。第一に、貴族の反対を押し切り、政治体制の改革に着手した。体制を変えるためには、まずその枠組みを作り直さなければならない。よって憲法を改正し、ナシオン主権体制からプープル主権体制への転換を図った。そしてそれに基づいて、新たに普通選挙を規定、実施し、同時に貴族院を廃止して純粋な二院制とした。
 次に行ったのは経済体制の改革である。この国ではかねてから、具体的に言えば産業革命が本格化した百五十年ほど前から、大規模な福祉体制が敷かれていた。同時期に発見された膨大な石炭資源、五十年程前に採掘が始まった石油資源を背景に、多少の税を払えば贅沢な暮らしが出来るという枠組みが定着していたのである。しかし王はその制度、更には石炭・石油資源に依存する事をも拒絶し、『農業立国』を掲げ、社会資本を整備する事、一定以上の農産物を生産した者の税を軽減する事を勅令として議会に下達した。王にどの様な真意があったのかは分からないし、長い目で見てその政策がいかなる意味を持つのか、現時点では知りようもない。しかしその政策は、少なくとも現在の見地から判断すると、果たして大成功をおさめたのであった。上層階級の農民にはそれだけ高率の税が課されたが、その分彼らは必死に働き、結果、この十年の間に農業生産高は二倍以上となった。林檎に関して言えば、世界で有数の輸出高を誇るまでに成長したのである。
 王は稀に見る賢君として知られている。その由縁は、以上の業績だけを見ても明らかだろう。王が国民からの絶大な支持を得たのは、この様な次第である」
 ――五年前の記憶が蘇る。祖国を捨てたという事実は後ろめたい過去として僕を責め続けていた。しかしそれでも、あの国に戻ろうとは思わない。もうあの国には未来を見いだせないのだ。何もかもが十分すぎたあの国は、僕に苦痛しか与えてはくれなかった。
 やめよう。もうあの国の事を語るのは。僕の祖国はこの場所、シヴァルラス公国以外のどこでもないのだから。決めたじゃないか。この国できっと、自らの進むべき道を見つけると。


 ちょうど五年間。長い道のりだった。この場所を祖国と呼べるようになった僕は、それを許してくれたこの国に報いるために、そして幼き日々より修練に励んだ剣術の腕を生かすために、騎士団に身を捧げる事を決意した。けれどその選択は一方で、僕には恐怖しかもたらし得なかった。異境の地からやってきた自分が受け入れられるのか、そもそも自分の技術はこの国でも通用するのか。様々な疑問がそのまま恐怖となって、僕を苦しめた。だから。その日から僕は、暇を見つけては剣を抜き、騎士団の実力という見えない敵と戦い続けた。いくらやっても、僕にはただ「足手まとい」という悪魔がしがみついてくるばかりで。

 ――愛など、国を背負うという使命を帯びた私には、足かせ以外の何物でもない。

 しかし不安とは裏腹に、僕が騎士として名をあげるまでに、時間はそう長くはかからなかった。長らく戦いから離れていた騎士団は形骸化し、内部では腐敗が深刻化していたのだ。貴族の子息達はもちろん、志願して入団したのであろう平民達でさえ、修練を怠り、ただ無下に日々を過ごすばかりで。一人ひたすらに汗を流し階級を上げていく僕に、冷たい視線を浴びせ続けていた。

 ――そもそも貴公は、男女が睦むその意味を、愛の意味を理解しているのですか? 私には分からない。その先に何も見えはしない。

 「長い道のり」とはその後ここまで、彼女の隣に立つまでの三年間だった。
 この国では、騎士団の実質的な権限は副団長が握る。なぜなら古くからのしきたりで、騎士団長は王族、特に王位継承者の剣術指南役を兼務する事になっており、該当する王族がいなければ空きポストになるからだ。実際、僕がこの国に来てからずっとその席は空いていた。しかしいざ、セレーネが指南を受けるべき年齢に達すると、貴族達は他国からやってきた僕がセレーネの傍に仕える事をよしとしなかった。「他国のスパイではないのか?」、「信用出来るわけがない」。僕へのプレッシャーは日増しに大きくなっていった。

 ――色恋沙汰など……私には必要ない。

 三年後。それは各方面からの圧力が、僕の修練にまで影響を及ぼし始めた時だった。もうダメかもしれない。この国に身を捧げると誓った。けれど国が僕を拒絶するなら、どうしようもないじゃないか。思い悩む僕に、玉座の間で王がおっしゃった言葉。
「佐藤隆将をセレーネの剣術指南役として正式に召し抱える事とする」
 国民の絶大な支持を得ている王に、正面から逆らえる貴族がいなかったのだろう。果たしてそれはあっさり議会と枢密院の全会一致を持って承認された。いったいなぜ、王がその様な決断をしたのか、僕には未だに分からない。ただ玉座の間で宣下を受けた後、去り際に見せたほんの少しの微笑は、今でも鮮明に覚えている。


「父上の意向だとおっしゃるのか? 貴公は私が思っていたより、ずっと卑怯だったようですね」
「そうじゃない。僕はただセレーネの……セレーネ様のお気持ちを――」
「……はぁ。セレーネで構いません。二人だけの時は」
 「二人だけ」という言葉が少し嬉しかった。相変わらず素っ気ない語り口だが、最近は随分気を許してくれるようになった。鋭い突きを見せる剣さばきからも刺々しさは消えて、安心感に似たものが伝わってくるような気がする。一時の休息の折にも背筋をピンと伸ばす彼女が、しかし同時に汗ばむうなじを不用意に晒す姿は、僕に不純なドキドキと、純粋な喜びをもたらしていた。
 僕が想像していたお姫様とは、随分違っていた。「王女」という言葉の響きから僕が連想していたのは、あの、大泥棒に心を盗まれたお姫様のような、慎ましやかな姿。籠の鳥という言葉は好きじゃないけれど、一番しっくりくるとも思っていた。貴族社会の中で頂点に極めて近い位置にいながら、一方でそれ故に向けられる見えない視線や力に耐え、抗う。健気な細腕こそが、僕にとっての王女だったのだ。
 ――セレーネは違った。後ろで一つに結び、左の前髪をおろしたプラチナブロンド。そして透き通るように真っ白な柔肌。想定の範囲に収まったのは、ここまでだった。激しい動きの中でほつれた髪をかき上げると、汗の滴が朝日を反射して光る。艶やかな唇から慎ましやかな言葉が紡がれる事はないし、優しさに溢れた頬笑みなど見かけた事すらない。ただ「もっと堂々と立てませんか」とか「男らしくありませんね」といった言葉が鞘から抜かれるだけ。そして、真っすぐすぎる視線に射抜かれるだけだった。
 それは決して「期待はずれ」という意味じゃない。むしろ正反対だ。確かに彼女の内面を初めて垣間見た時は、少し尻込みした。その姿があまりに意外で、なおかつ威圧的だと感じてしまったから。でも、ほんの少し考えただけで僕の考えは変わり、彼女を嫌いになる事はなかった。嫌いになれるはずがなかったんだ。僕の抱いていたイメージは偏ったもの。酷くバイアスがかかったものだった。それに、今も向けられている鋭い視線の中に、僕はこの上なく愛しいものを見つけてしまった。もといた国では見つけられなかったもの、この国で一番輝くものが、僕の一番大切なものになったんだ。
 格好だって同じだった。たとえ彼女が今この時の様に、華やかさなど欠片もない無機質な練習着を身にまとい、なおかつ汗に濡れていたとしても、僕の心に驚きや違和感が生まれる事は、もうありはしない。以前の「王女」というイメージを捨て、「彼女」を知った僕は、むしろ練習着の方が似つかわしいとさえ思った。王宮でドレスをまとっている時の彼女の表情を思い出すと、その思いはより確かなものになる。もちろん、ぴったりと肌に張りつく灰色の練習着が、彼女のラインをくっきりと描き出すという、ちょっぴり邪な理由も、そこにはあったのだけれど。
「父上は――」
 競技場の外から、小鳥のさえずりが聞こえた。朝の太陽が窓越しに僕達を照らし、清々しい気持ちが心に溢れる。窓の向こうを見渡すと、白樺の木々とその葉――黄色く染まった葉が風に揺れている姿が目に入った。どこかものさびしい雰囲気を醸す光景だった。けれど僕の気持ちは沈む事無く、むしろ対照的に高揚するばかりで。なにより一日を、二人きりの稽古から始められる事が幸せだった。
「父上は貴公をからかっておられるのでしょう。他国の一庶民であった貴方に何が出来るのかと。昔から酔狂な方ですから」
「セレーネはどう思ってるの?」
「私?」
「セレーネにとっても、僕はまだ『他国』の人間なのかな。何も出来ない、帰って欲しいって、思ってる?」
「それは……」
 僕を見つめていた彼女の瞳が、何度も左右に揺れる。視線が合うと、どうしようもないほど困惑の表情を浮かべて。それはもしかしたら彼女ではなく、僕自身が、真っ直ぐに見つめようとしながらも、しかし心の中ではとても不安だったからかもしれない。「国を背負うという使命」と自分が天秤に掛けられたらどうなるか。その答えに名乗りを上げる自信が、僕にはまだ無かった。逡巡は多分、両方にあったんだ。
「私はあなたが分からない。なぜそうまでして、私の心の奥深くに踏み込んで来ようとするのか。あなたを冷たく突き放すだけの私に、どうして」
 それは君が好きだから、と返す前に、しかし彼女は背を向けてしまった。「私は何を……」。小さく呟きながら。結局その日、セレーネは体調不良を理由に稽古を途中で切り上げ、夕刻を迎え僕が城を出てゆくまでの間、一度も姿を現さなかった。

 * * *

 たとえ指南する相手がいなくとも、剣術指南役は毎日登城しなければならない。それはこの役目に就いた際、王から下達された決定事項である。例外は無い。だが実際早朝に登城し、着替えただけで何もせぬまま下城の刻限を待つのは、随分辛い仕打ちだった。一人で剣を振るおうかとも思ったが、やめた。剣を振り上げた時、空を切る音がいやに響いて、孤独を痛感させたのだ。
 僕はあの日以来、セレーネと剣を交えていない。いやそれどころか、まるで僕を避けているかのように、彼女の姿は、その影すらも僕の視界には入らなかった。普段は稽古の時に加えて、王宮の廊下や帰り道の途中にある庭園で顔を合わせる事も多かったのに、その日常は完全にかき消えていた。同じなのは、時が流れれば夕空が顔を見せるという事だけ。無論、一日を前よりもずっと長く感じたし、僕が見たかったのは、えんじに染まる夕空の表情ではなかったのだが。
 どうやら今日も綺麗な夕空を見られるらしい。雲一つ無い青空がわざわざ教えてくれる。王宮へ通じる門をくぐり、途中で二股に分かれる道を、僕は右に曲がった。左に曲がれば王宮に辿り着く。普段からそちらの道を使うのは貴族か王宮の関係者くらいだが、僕は帰り道としてよく利用していた。競技場から王宮に通じる秘密の小道を抜けて、セレーネに会いに行った日の帰りに。他国の使者なども通るからだろう、この国の特産物でもある林檎の木が道沿いに植えられ、ちょうど今頃の時期になると仄かな香りと共に大きな実を付ける。
 その一方で、今の僕のように右へ曲がれば、まるで違う風景が目の前に現れる。こちらの道は競技場にしか通じておらず、結果として貴族の馬車も車も通らないため、左手の道と比べると随分道幅が狭い。もちろん林檎など植えられておらず、周りにはただただ山脈が広がるだけだった。傾斜もきつく、「山道」とさえ呼べるようなこの道を僕が使い続けているのは、やはり最短距離だから、としか言いようが無い。左に曲がって王宮を経由すれば、多分、二倍程の時間がかかるのではないか。と、言っていて気が付いた。確か昨日もこうして、自分の行動を正当化していた気がする。
「お待ちしておりました」
 メイドの少女はそう言って僕に練習着など、普段稽古で使うものを渡し、そそくさと僕が通ってきた道を下っていった。「あっちに近道が」と言おうとしたのは何回目だろう。しかし僕は彼女が、セレーネお付きのメイドである事を知っていて、だからその度に、セレーネに会いに行っている事を咎められるのではないか、と思って結局言い出せなかった。
 練習着と一緒にもらった鍵で競技場の大きな鉄の扉を開くと、ひんやりした空気が頬をかすめた。重い物は何も持っていないから汗はかかないし、そんな季節でもないのだけれど、何となく嬉しかった。
 着替えを済ませた僕は、とりあえず競技場の中でジョギングを始めた。指南役とはいっても、稽古では油断する事は出来ない。特にセレーネは当初と比べると見違える程上達している。これは別に彼女が王位継承者だからとか、彼女への好意にほだされて盲目になっているというわけじゃない。少なくともそう「思う」。だからこうして体を動かす事は、決してルーティーンな作業とはなりえないのだ。もちろん、彼女が今日、僕の前に現れてくれるのかは、全く分からないのだけれど。
 うっすらと汗をかいたところで区切りをつけ、隅に置いておいたタオルを手に取る。セレーネの指南を始めた当初は、練習着の他は鍵しか渡されなかったのだが、どうやらあのメイドの少女が気をきかせてくれたようだ。ふと、彼女の顔を思い出し、またふと、ある思いに駆られた。
 そうだ、彼女なら……。
 しかしこの時は心に留める事にして、僕は競技場の中心に座り、目を閉じた。

 独りになって二日が過ぎ、三日目を迎えている。
『愛など、国を背負うという使命を帯びた私には、足かせ以外の何物でもない』
 彼女に課せられた使命。それはいずれ首長としてこの国を治めるという、生まれながらにして与えられた道。きっと、いや間違いなく剣術指南役や騎士団長とは比べ物にならない程の責任が、彼女の背中にのしかかるのだろう。僕の知り得ない世界の中で、知り得ないものを、彼女は背負う事になる。

 ――己の立場を理解していれば、その様な言葉は出てきますまい。

 もどかしい思いが胸の奥に広がる。見えない壁が目の前にそびえ立ったかの様に感じた。
 相手が人ならば、それは嫉妬という感情に収まっていただろう。そして実際そうでないから、収まらず、今もこうして鬱屈した思いに苛まれているのだ。霧掛かった使命という言葉が、彼女の中でどれほどの位置を占めているのか、僕には分からない。前に彼女にも言った事だが、それと自分が天秤に掛けられた時、自分が選ばれる自信は生まれ得なかった。だからなんだ。こんなにもやもやしてるのは。僕の中では、セレーネが一番大きな存在だった。それと同じ様にセレーネの中で、僕は一番になりたかった。それは結局……結局、ただの嫉妬なのかもしれない。
 辺りを見渡し、競技場に誰もいない事を確認した後、僕はその場で仰向けに寝転がった。そして、微笑した。こうして高い天井を見つめられるのは、誰もいなかったから。つまり僕は、誰もいない競技場で独り、苛立ちを募らせていたのだ。そう考えると、何だかおかしい様な、空しい様な。いずれにしても、先程までの苛立ちは、体の中からすっと抜け消えていた。
 ――使命、か。
 歯がゆさだけが、使命を背負う彼女に向けられた感情ってわけじゃない。天井にある照明と、それがもたらしている光の束を見つめながら、僕はひとり呟いていた。彼女の後姿が、光の中をさまよって、薄らぐ。頬に影を落としたのが彼女のプラチナブロンドではない事、そして瞳に悲壮の色が映っている事を、僕は知っていた。手を伸ばすと、それが届く前に彼女の姿は消えた。指の間をすり抜けて光が差し込んでくる。眩しい、皮肉な光だった。
 使命という言葉を紡ぐ時、セレーネは決まって表情を曇らせる。「使命とは道。道とは、進むべきもの」。鍔鳴りの様に鋭く響く声、しかし直後に振るう剣はいつもどこか荒削りで。それはまるで、セレーネの言う使命が鉄の鎖に変わり、彼女を束縛しているようだった。稽古の時一番近くにいるのは僕のはずなのに、現実は違った。僕はただ、乱れる剣を受けるだけ。見たくなかった、見ていられなかった。彼女が剣を向けていたのは、他でもない、彼女自身だったから。
 広げていた手の平を握り、下ろして、体を起こした。頭を掻きむしり、競技場の隅に置いてあった剣を手に取る。
 そんな事、と思っていた。そんな事、考えて何になる。今ここで、天井を見つめながら考えに耽っても、彼女には何ももたらし得ない。もたらす物があるとすれば、それは僕に。つまり、自己満足に過ぎない。
 そして、物事には必ず理由、ひいては目的がある。理由からは逃れられない。目的を否定する事は出来ない。何時かに聞いたその言葉は、正しいと僕は思う。少なくとも今回は。なぜなら、使命に勝てる自信が無いという理由に駆り立てられ、使命に勝てる要素を無理やり捻り出すという目的に引っ張られ、それらによって僕自身が定義された、その帰結として僕の独白があったのだから。
 僕は一人、剣を振り上げた。競技場には、やはり空しい風切りの音が響く。それでも、自分の弱い部分を絶ち切りたいと思った。
 もしかしたら、こうして僕が剣を振るえば、それは、僕自身の首を絞める事になるのかもしれない。剣を握り汗を流す事はすなわち、新たなものを得るという事。それを彼女に伝えるのは、彼女が使命を追いかける助けに他ならない。
 でも、僕にはこうする事しか出来ないんだ。彼女の前に立って、ひたすらに気持ちをのせる事でしか、彼女に近づけない。伝えるんだ。自分の気持ちを。ひたすらに、ひたむきに。前に進まなければ、何も始まらない。そう、一歩前に。剣を振る僕は、自分に言い聞かせていた。

 * * *

 それはその日、僕が家に帰ろうとしていた夕暮れ時の事である。
「セレーネ様の気まぐれですか」
 背後から聞こえた声に僕は一瞬身構えたけれど、相手が誰か分かるや否や、すぐに身を屈めて跪いた。
「わざわざ競技場までいらっしゃるとは……私に何かお申し付けでしょうか」
「少し、佐藤殿の剣さばきを拝見したかっただけですよ」
「お見せ出来るようなものではありません。特に、リベリオン様には」
 リベリオン卿。今目の前で「またそのような謙遜を」と笑っているこの人は、一年程前にこの世を去った、王の兄の息子。つまり、王の甥にあたる。その特殊な境遇ゆえに、与えられた伯爵位以上の待遇を様々な場面で受けている。たとえば、まだ二十代半ばであるにも関わらず枢密院に所属する事をノブレス卿から許されており、また今この時のように、国の敷地内を従者も連れず、自由に歩き回る事も彼には可能だった。
「先日の大会での優勝は、私が言うのも難だが、見事なものでした」
「いえ、運が良かっただけです」
「いやいや。どの試合でも貴殿は相手を圧倒していましたよ。私が思うに、貴殿は実力の半分も出していなかったんじゃないかなぁ」
「そんな事は……」
 「先日の大会」というのは、王宮内で年に一度催される武道大会。僕が参加したもの、すなわち彼がここで言っているのは、その中の一つ、「フィエルテ」である。フィエルテでは、攻撃と防御を剣のみで行い、その他打撃的な攻撃、投げ技、組み技は全て禁止されている。それは騎士団に所属する者には第一に要求されるところであるため、フィエルテは実際のところ騎士団員によってその参加者のほとんどを占められていた。僕がセレーネに指南しているのも同じ剣技であるが、要するに自分の最も得意とする試合形式を僕は選んだのである。
「私も長らく研鑽を積んできたが、フィエルテであれほど感銘を受けたのは初めてです」
 リベリオン卿もまた相当の剣の使い手であるというのは王宮内では有名な話だった。ただ問題は、貴族であるが故に大会等には出られないという事。それ故に彼の実力の程は謎に包まれていた。
「それに、貴殿のフィエルテは面白い。異国の剣術が時折垣間見える」 
 だから僕は内心、少し驚いたのだ。彼の指摘は的確で、どれも的を射たものばかりだった。騎士団長に召し抱えられる前まで半年程兵士長を務めていたが、ここまで正確な分析が出来た団員は一人もいなかったと思う。
 もしかすると、これまで僕は大きな見落としをしていたのかもしれない。会話が終わり、気配が若干離れたのでゆっくり顔を上げてみると、リベリオン卿は僕に背を向けて窓から外を眺めていた。
 ――白樺の木々が、風にそよいでいる。少し前までは蝉の声が競技場の中にまで響いていたが、いつの間にか季節は静まりかえり、既に紅葉を目にして久しい。もちろんリベリオン卿が見つめる当の白樺の木々もすっかり黄色に染まり、それ以上の落ち葉を僕たちのもとに散らしている。ひとひらの葉が今もまた、視界の隅を揺らめいた。
 しかし、その光景に僕の心が奪われる事は遂になかった。落ちゆく葉を視界の中心に据える事さえ僕にはままならなかった。やはりそうだ。僕は随分大きなものを長い間見落としていた。
 その時彼の周りの空気はまさしく張りつめていた。それは窓の外まで及び、先程まで聞こえていた鳥の鳴き声や動物の気配は消え、空を揺らめいていた葉が落ちたのを皮切りに、この世界から音は去った。そしてそういう人間の恐ろしさを、僕は確かに知っていたのだった。
「佐藤殿」
 先程と比べると、ずっと低い声。
「この国に来て五年と聞く。そろそろ本気で手合わせをしたいとお思いでは?」
「それは……出来ません」
「なぜ?」
「リベリオン様は王の血族にあらせられるお方。そのお方に剣を向けるのは、すなわちシヴァルラスに刃を向ける事になるものと」
「私が良いと言っても?」
「……出来ません」
 「そうか」という声と共に、空気がずっしりと重くなった。上から押さえつけられているかの様な圧迫感を体中に覚える。何年ぶりだろう。それは剣を究めた者の気だった。重厚感は甚だしいが決して荒々しくなく、むしろ鋭く研ぎ澄まされている。命あるもの全てを震え上がらせる灰色の世界。そこにあるのは、ただ静寂と絶望のみ。そして捕えられた哀れな子羊達が知るのは、永遠の闇を告げる一瞬の閃光に他ならないのである。
「一つ問いたい」
 相変わらず後ろ姿のままで。立場上仕方がなかったのだが、と彼は前置きを述べた。
「もといた国でも貴殿は比類無き剣を振るい、大会の類では不敗であったと聞いた。将来が約束されていたという情報もある。それならば――」
「まだ私を疑っていらっしゃるのですか?」
「……確かめておきたいだけだ。枢密院議員として、そしてこの国の王族として、騎士団長としての貴殿を」
 貴族の位を示す紫色のマントが、その真っ白な裾を揺らめかせた。彼はゆっくりとこちらに振り返っていた。
 ――白樺の木々が、風にそよいでいる。外に出れば既に、吐息が白くなる時期である。それでも生命達は懸命だった。何かをその手に取り戻したかのように、一段と張り上げた声を、乾いた夕空に響かせていた。
「五年前、この国と王に忠誠を誓ったあの日から、私の祖国はこのシヴァルラスとなりました。祖国に背く事など、天地神明に誓ってありません」
「その言葉を信用しろと?」
「言葉ではなく、私の道を信じていただきたい」
 解せぬ、といった様子で彼は表情を曇らせる。
「私の道は、王とこの国の繁栄に寄与する道。それ以外の道は全て、罪悪の道に他なりません。それに」
 一瞬、僕はそれをリベリオン卿に告げるのを躊躇した。しかしそうしなければ、彼が僕の心を疑い続ける事は明らかだった。
「それに、大切な人を守る事もまた、私の道。故に道を外れるのはすなわち、鬼の道を進む事に他ならないのです」
 果たして僕は、こんな事を言って良かったのだろうか。もしかしたら今まさに、自分の運命は決してしまったのかもしれない。彼女の愛しい横顔が、陽炎の様に脳裏をよぎる。
 僕の不安もさる事ながら、リベリオン卿の驚きもひとしおであったようで。目を見開いた後、今度は対照的に眉を顰めた。
「驚いたな……後悔していないか?」
 後悔はしていない。僕の気持ちは決して嘘ではないし、背を向ければそれは、彼女を裏切る事につながると思う。それに、いつまでも隠しておく事など出来はしない。いつかは僕の気持ちもこれまでの彼女との歩みも、全てが白日のもとにさらされるに違いないのだから。
 そう。後悔は、していない。
「その道を振り返らず進める自信が、貴殿の胸の内にはあるのか?」
 僕は昼間の自分に従おうとしていた。嘆いたり愚痴をもらしたところで何も変わりはしない。それは何も、自己満足の他は何も生み出さない。それは彼女を遠ざける事につながる。剣を振るい上げなければ、道は開かれないのだ。
「私はただ、剣を振るうだけです」
 まるで奇妙な物事を目にしたかのようにリベリオン卿はやはり眉を顰めていた。抉る様な覇気は消えても、未だ一挙手一頭足を見られているという実感とプレッシャーは居座り続けている。僕が何を言っているのか。何を言おうとしているのか。あるいはその先まで見透かされているようで少し怖かった。
「剣を振るう、か」
 フッ、と彼は微笑した。緊張の糸がもう一段階解けて、息をするのが随分楽になった。
「あのお姫様に、随分苦労しているらしい」
 傾いた日の光、オレンジ色の光が言葉に笑みを含ませる彼の背中を照らし。その先で苦笑いを浮かべる僕の表情まで届いていた。窓の向こうでは、太陽が既に山々の谷間に差し掛かり、この時期らしい、早い夜をもたらそうとしている。
「思い違いだったのかもしれない。貴殿の言う道というものは私には見えないが、その言葉を語る時の貴殿の眼差しを、私は信じてみたくなった」
 そう言うと、彼はここにやってきた時よりもほんの少しだけ軽やかな足取りで、競技場の出入口の方へ歩み始めた。その横顔はやはり先程の余韻を未だ色濃く残していたが、しかしふと、何か正反対のものがよぎったように見えた。
「思い違い……そうなのかもしれない」
 彼の背中が急にその場で立ち止まった。頭だけをこちらに向けて、立ち去る彼を見送ろうとしていた僕に、彼は諭すように続ける。
「気を付けた方が良い。貴殿と真に心を通わせた事の無い者の中には、貴殿のそうした姿勢を快く思わない者もいる。もちろん貴殿の傍に仕える者も例外ではないし、貴殿の経歴も未だ彼等の中ではくすぶっているかもしれん」
「そう、でしょうか」
「色恋に目を奪われて危機を見逃すようでは、騎士団長を任せておく事は出来ないが」
「そんな――」
「しかし忘れてはならない。反対分子の存在も、いずれ必ず、鬼の道を選ばなければならない時が来る事も」
 どういう意味なのか。彼の言葉の、主に後半が理解出来ず、僕はそれについて彼に問おうとした。けれど彼は僕の試みを拒絶するかのように、競技場の敷居をまたいでしまった。
 砂の擦れる音と共に、リベリオン卿は競技場から下る道を進んでいった。王宮に戻られるのですか、と聞くと彼は、歩き続けながらそうだと答えた。
「では、ここで失礼する」
「この道をご存知だったんですね」
「では貴殿も……全く、愛の力とは恐ろしいものだ」
 言葉を探す僕に、彼はまたフッ、と微笑を見せた。それから片手を頭の辺りまで挙げて、ではまた、と背中で言った。
 ふぅ、と深呼吸をして見上げると、夕空の中月が顔を出して、戻りつつあった日常を見つめていた。明日も晴れだな。雲一つない空を見渡した後、僕はもう一度月を見上げた。
 
 
 だが、それはその刹那だった。
「しかしその前に」
 吹き抜けた風に持ち上げられたマントのすぐ傍。
「なっ!?」
 木太刀の様なものが腰から抜かれ、瞬く間に閃いた――

 * * *

「ちょっと待ってよ! 何でそこまで僕を」
 王宮の広すぎる廊下に、僕の声が驚くほど反響した。給仕の女性達がこちらを振り返るが、ある者はそそくさと、ある者はクスクスと微笑んでその場を後にする。いつからかこの王宮では、僕の不敬を咎める者はいなくなっていたようだ。
「……別に、避けてなどいない。貴公の思い違いです」
 実に三日ぶりの彼女の声だった。普段よりも少しかすれているけれど、相変わらず愛おしい。消えたはずの刺々しさが戻って来たのは、会えなかった日々の影響だろうか。だとしても、いや、だとすればこそいじらしいではないか。それは彼女の中に僕が確かに存在するという証に、他ならないんだから。
 今思えばこの時僕は、自分の心から湧き出てくる溢れんばかりの感情を処理し尽くせていなかったのだろう。三日という長さすら、離れている期間として、僕には長すぎたのかもしれない。色々な意味で。
 だから。言葉と共に僕に背を向け、足早に立ち去ろうとする彼女を。
 僕は彼女の腕を掴んで引きとめたのだ。
「嘘なんて、全然らしくない。セレーネはもっと――」
「離せ! その罪深い手を、今すぐに!」
「え?」
 それが逆に、彼女をどうしようもなく遠ざける事を、僕は知らなかった。
 知らなかったというのはまだ自己保身的かもしれない。気付けなかった、気付こうとしなかったという方が正しいんだ、きっと。
 力が緩んだ一瞬の合間に、彼女は腕を強引に僕から引き戻した。振り返り見つめるその瞳は、胸の奥まで痛くなってくる程ひたすらに僕を睨んでいて。立ちつくす僕に、再び背を向けた彼女は、廊下の先を見据えながらこう言った。
「私の何が分かると言うのだ。うわべだけの言葉を繕うだけの、それだけの貴公に」
 表情を知る事は出来ないが、彼女の声は少しだけ震えていた。いつもは凛々しくしゃんと伸びた彼女の後ろ影が、一回り小さくなったように見えた。
「私が何も知らないと思ったら大間違いだ。私は自分で見て、そして知っている。私のいない間、貴公が……貴公が誰と、蜜月を過ごしていたか」
 蜜月? それはどういう……。繰り返される疑問。しかしある時、その流れは止まった。急に、鈍い音を立てて。
 頭の中が真っ白になっていた。
 違う、それは違うのに――
「よりによって私のメイドを……貴公には失望しました」
 再び振り返った彼女の目尻には、涙が湛えられていた。しかしそれを見つけられても、僕には何もかもが遅すぎて。流れる一筋の悲しみを、ただ見つめている事しか出来なかった。彼女の部屋の扉が閉まる音を聞くまで、いや、聞いてからも、僕はその場所にずっと立ちつくしていた。


 マルシェ。
 それが僕とセレーネ、しがない剣術指南役と一国の姫君が、互いの心を認め合うための合図だった。剣を交えれば、彼女がどんな気持ちで僕に向かっているのか、なぜだか伝わってくるような気がして。きっと同じ様に僕の想いも、切っ先から痛い程伝わっていた事だろう。
 でも。
 マルシェ。
 でも、ねぇセレーネ。それだけだったの? 剣で気持ちを伝えられていたのなら、それは嬉しいよ。でも僕達は今もまだ、「剣術指南役と姫君」だったのかな。僕は君が部屋に戻っても、ずっと君を想い続けてた。帰り道から夕空を見上げて、早く明日の空を連れてきてくれと願ってた。きっと君もって、僕は信じてる。同じであって欲しい。その通りだって、いつもみたいに自信に溢れた声で言ってよ。そうじゃなきゃ僕は……僕はもう、剣を握れない。
『セレーネ様のお好きなもの、ですか?』
『うん。情けないけど、僕には分からなくて』
『我が国の民と彼らの笑顔です』
『そんな月並の答えじゃなくて――』
『冗談です』
(そんな真っ直ぐな目で、冗談、だったんだ……)
『そうですね……本当は、話してはいけないと申し仕っているのですが』
『うん』
『一つお約束いただけますか?』
『何を?』
『セレーネ様には、この密告について、飽くまでも伏せていただきたいのです。さもなければ私は、里に帰されるどころか、命すら危ういものと』
『それも冗談?』
『なぜ私が冗談を?』
(目は、さっきと同じなんだけどね……)
『分かったよ。騎士の誇りにかけて、沈黙を貫くと誓う』
『ありがとうございます。では、お耳を少しこちらへ』
『うん』
『では申し上げます。セレーネ様のお好きなもの、それは――』

 * * *

 翌日の朝、また競技場で独り、ただ日が落ちるのを待つのかと思っていた僕の目の前に、その事実は衝撃となって現れていた。
 セレーネが、剣を握っていた。
「さぁ、稽古を始めましょう」
 面を付けているから、彼女がどんな顔をしているのかは分からない。競技場に響く声も、ただ平坦に広がるばかりで、彼女の真意をうかがい知る事は出来なかった。
「セレーネ?」
「……思い違いをなさらないでいただきたい」
「え?」
「国を守る者として、そして一人の騎士として、剣の修練を欠かす事は出来ない。それだけです」
 振り上げた剣が、目の前に。その先に、面の隙間からほんの少しだけ垣間見えた彼女の視線は、確かに真っ直ぐだった。真っ直ぐだったけれど、しかし僕の目だけは、決して貫こうとしなくて。見つめ続けていると、微かに剣先が揺れた。
「何をしているのです。早く剣を抜きなさい」
「セレーネ……分かった。じゃあ、始めよう」
 それからは、僕もただ無心になって、彼女と剣を交わした。彼女の剣の先からどんなに違和感が伝わってきても、振り払って彼女の突きに応えた。剣の修行だけが目的なのか、僕をまだ見捨てていなかったのか。そんな事はどうだっていいんだ。それが今の僕に出来る、唯一の事だと思ったから。何のためらいもない剣技で、揺るぎない僕の気持ちをちゃんと伝えたかったから。
 あるいは、全てを打ち明けるべきだったのかもしれない。顔を背けようとする彼女に、「ひとえに君を」と叫んでいれば、少なくとも彼女の痛みは小さくなったはずだ。しかし僕は、剣を振り続けた。約束を、あのメイドとの約束を破る事は、騎士である僕には出来なくて。なによりそれは同時に、同じく騎士であるセレーネへの裏切りに他ならないと思って。不器用に、ひたすらに、想いが届く事を願い続けた。
「やはり私には、あなたが分からない」
 僕の剣が彼女を捉え、一瞬互いの剣が引かれた時、ふいに声が聞こえた。我に返った僕は、彼女の剣気が、いつの間にか困惑の色に染められている事を知った。
 もう一度言おう。僕はただ、気持ちを伝えたかったんだ。遠ざかってしまった彼女の心にもう一度、そして更に深く潜りたくて。でもそれは、決して逃げたわけじゃない。「剣でしか伝えられないなら、剣で」と思ったわけじゃない。そうじゃないんだ。その証拠に、今だって――
「言ったはずです。失望したと。踏み込もうとしても、得られるものは何も無い。だからもう……もうそんな顔をするな」
 もしかしたら彼女の言うように、僕は酷い顔をしていたのかもしれない。もしかしたら、気付かぬうちに涙に暮れていたのかもしれない。気持ちが溢れたんだ。信頼を取り戻したかったんじゃない。僕はただ、君が隣にいない毎日が怖かった。本質は僕の独りよがり、それだけだった。
「くっ!」
 キーン、という鋭い音が競技場に響き渡る。
 振り払った拍子に、彼女の剣が宙を舞っていた。
 窓から差し込む日の光が反射して、四方八方に広がり。
 面を外した彼女が悔しそうな表情を見せて、乱れ舞う剣を見上げる。
 僕の右手が、するりと柄を離して。
 真っ直ぐに行き先へ向かう僕の剣。
 彼女の刃よりも先に耳に届いた。
 彼女は、何事かとこちらを振り返って。
 既に目前まで迫っていた僕の顔を見て驚きの表情を見せ。
 そしてたじろぐ様に一歩下がろうとして。
「佐藤殿?」
 でも叶わなかった。
 僕の右手が。
 彼女の腕を掴み。
 少し強引に。
 それでいて優しく引き寄せて。
 頬を朱に染める彼女に。
 僕が。

 ふぁ…!? んっ……ぁ

 見開かれた大きな瞳は、こんなに近くから見ても綺麗だ。見つめると動揺に揺れて、その向こうにあるものを隠すかのように固く閉じてしまう。でも、そこから頬にかけて広がる羞恥の色だけで僕は十分だった。

 あ……っ、ンっ……

 初めて感じた唇の感触は、想像していたよりもずっと柔らかだった。離れようと必死にもがく肩を追いかけると、次第にどこか籠った熱が、漏れる吐息から伝わってきた。唇をゆっくり離すと、呆然と立ち尽くしたまま蕩ける様な揺れる視線を向けるものだから、僕は彼女の前髪を撫でて、もう一度唇を重ねた。

 だめっ――
 んんぅあ…っ……はぁ、いやっ

 セレーネの剣が床に落ちる音が聞こえたのは、彼女が僕を突き放した直後だった。反響する音と、それに続く沈黙が物悲しい。そして数歩後退りした彼女の表情は、それにも増して悲哀に満ちていて。相変わらず頬を火照らせながらも僕を、遣る瀬無い瞳で見つめていた。
「どうしてこんな……卑劣な事を」
「セレーネには、僕の気持ちをちゃんと分かって欲しいから」
「それが卑劣だと言うのだ。何度も言っている。もう触れないで、もう踏み込んで来ないでと」
 セレーネの体と、そして声が揺れる。上気しピンク色に染まった両肩を、交差した腕で抱き、必死に震えを抑えようとしていた。
「それなのにあなたは聞く耳を持ってくれない。それどころか私の……こんなにすぐ近くまで詰め寄ってきて」
「でも僕は――」
「もうダメなんだ!」
「セレーネ……」
「……もうダメなんだ。お願いだから、これ以上私を苦しめないでくれ。私には果たすべき役割がある。この国を守り治めるという使命が。それを忘れたら、私は私ではいられない。生きてゆく事など出来ない。だから……だからお願い。もう進まないで。もう、やめて」
 僕には、それ以上言葉を紡ぐ事は出来なかった。セレーネが好きだという気持ちは持ち続けたままだ。けれど今目の前で、彼女は本当に、心から苦しんでいる。僕の想いが彼女を苦しめているという事実が、大きな罪悪感となって目の前にそびえ立った。
「――ゴメン」
 今自分が出来る事は、たった一つ。この場から立ち去る事だと思った。しかし重い足を持ち上げ、一歩目を踏み出してみると、まるでそれが永遠の別れの様な気がして、たまらなく嫌だった。床を踏みしめる度に、鋭い何かが胸に突き刺さる。戻りたい、でも戻れない。こんなに苦しいなら、好きにならなければ良かったのかと、心の中で自問し始めていた。
 だからこの時、彼女の言葉を理解するのには、少し時間がかかった。
「セレーネ様、佐藤様。火急の事態です。お急ぎください。すぐに、玉座の間へ」

 * * *

「リベリオン卿が? 父上、それは確かなのですか?」
 セレーネの問いかけに、普段は決して見せない険しい表情で、眉間に皺を寄せ、王は重々しく頷く。
 リベリオン卿、謀反。
 その名前を聞いた時、一番驚いたのは僕だったのではないだろうか。血縁関係にある王やセレーネの衝撃は相当なものであろうが、彼と最後に言葉を交わしたのは、多分僕だ。
 次に僕を襲ったのは、強烈な困惑だった。最も大きな困惑はもちろん、リベリオン卿に向けられるもの。なぜそんな事を、そしていつそのような思いに至ったのだろう。もしそれが昨日、僕と言葉を交わした際既に彼の中で確固たるものになっていたとしたら、どうして僕にあんな事を言ったのだろうか。

 ――貴殿の言う道というものは私には見えないが、その言葉を語る時の貴殿の眼差しを、私は信じてみたくなった。

 どれだけ考えてみても、その言葉が謀反を企てている者の口から出たものだとは思えなかった。あの時の情景を脳裏に描き出してみても、一向に悪意を読み取る事は出来ない。僕は自分を責めた。そして今目の前にいる王とセレーネに申し訳ないと悔いた。昨日僕が彼の悪意に気づいていれば、もしかしたらこんな事にはならなかったかもしれない。リベリオン卿にしても、説得出来たかもしれないのに。
 もう一つの困惑は、リベリオン卿に付き従っているという農民達に向けられていた。どこから集めてきたのだろう。五年も住んでいるのに、思い当たる節は見当たらなかった。満ち足りた生活を送る事が難しくないこの国で、反乱を起こせる程の人数が集まるのだろうか。そもそも賢君として名高い王に牙を向けるのはなぜなんだろう。僕は混乱の中、もう一度自分を責める事になった。腰に差した剣が、随分軽かった事に気付いた。
「セレーネ。お前には、護衛を百人程連れてある場所に隠れてもらう。急ぎ、準備に取りかかれ」
「なっ!?」
 難しい顔をして王の話を聞いていたセレーネが、その時ふいに王の言葉を遮った。玉座に向かって駆けてゆき、兵士達に止められる所にまでにじり寄る。いつにも増して鋭い眼光が、王の両目を射抜いていた。
「待ってください! 私は、固よりこの国に命を捧げる覚悟。そのために、今日まで剣の修行にも励んで参りました。その私に、父上は祖国を見捨てろとおっしゃるのですか」
 セレーネの凄まじい剣幕に王は一瞬怯んだが、しかし彼女に優しい眼差しを向ける事は無かった。玉座に据え付けられた金色の肘掛を握るその両手に、強い力が加わっていた。
「お前が愛する、その祖国のために言っているのだ。お前は私の一人娘。お前を失えば、私の亡き後、この国を誰が守る? 誰が迷える人々を導くのだ」
「それは――」
「それに……本当に覚悟は定まっているのか」
「今更何を。私は! ……私は? ――」
 突然、彼女は言葉を詰まらせその場で俯いてしまった。彼女を包んでいたもの。覇気の様な空気がどんどん小さくなってゆくのが顕著に分かる。俯いたまま、彼女は自分の剣を見つめていた。目を見開き無言の驚きを見せるその表情からは、罪の意識さえ伝わってくるようだった。
 王はそれ以上彼女には何も言わなかった。刻限が迫っている中その様な判断をしたのは、きっと王の優しさなのだろう。王は逡巡するセレーネを見て目を閉じ、再び開いた時には僕を見つめていた。今日まで一向に見通せなかった鋭い瞳に、未だ消える事のない炎を見つける事が出来て、僕は嬉しかった。
「佐藤隆将」
 はい! と過剰に大きな声で応える。王の存在感は圧倒的で、僕はいつもこんな風に緊張しすぎてしまうのであった。その一方で王は飽くまでも荘厳に、一度深い溜息をつき、そして僕に言った。
「運命とは、残酷なものだ」
「え?」
「……騎士団の半数以上が、リベリオンの側についた」
 一瞬、何の事だか僕には分からなかった。
 ――兵士長となった時、騎士団を根本から改革した僕は、鋭さを取り戻した騎士団を愛していたし、隊士達には常に王への忠誠を約束させていた。なにより僕は彼らを、心から信頼していた。
「そんな……」
 静寂は徐々に、それでいて着実に、僕を悟らせた。信じていた分、それだけこみ上げる怒りもひとしおで。目の前に浮かび上がった何者かの不敵な笑みを、乱暴に振り払った。
 それでも、信頼と怒りが正確な反比例を見せる事はなかった。僕を引き留めたのは、僕の要求に応え、付いてきてくれた隊士達の存在。僕が騎士団長になるまで修練を共にした仲間達を、ひたすら憎む事は出来なかった。血の滲むような日々を否定したくなかった。仮に彼らが自ら選択したと言うのなら、その意思を尊重したいとも思う。

 ――気を付けた方が良い。貴殿と真に心を通わせた事の無い者の中には、貴殿のそうした姿勢を快く思わない者もいる。

 僕の胸中では、彼らを擁護したい自分と、相反して決して許そうとしない自分が互いに絡み合い、玉座の間に立つもう一人の僕を、双頭の大蛇のごとく攻めたてていた。
「お前にはおそらく、三つの選択肢がある」
「……はい」
「騎士団長としてリベリオン側の騎士達を率いる、あるいは全てを捨て祖国に帰ると言うなら、そのように致せ。私はお前を引き留めはしないし、この場でお前を斬り捨てよと命じる事もない。それが、今日までセレーネが世話になった事への、せめてもの返礼だ。道を選ぶ権利は、お前にある。他の誰しもがそうであるのと同じ様に」
 茫然と立ち尽くしていたセレーネがその時、下唇を噛んだ。王はこちらを向いたまま、彼女に一瞥も与える事はなかった。
「私は――」
 目の前に伸びる道を、僕は選ぶ事が出来る。今、城下町で何も知らないまま、何気ない日常を過ごす多くの民達と同じ様に。しかし、この時ばかりは王の言葉がひどく残酷で、厳しすぎるものに聞こえてならなかった。目の前で王は真っ直ぐに僕を見つめ、その左手では、セレーネが今も青ざめた表情で、剣に映る己と向かい合っている。しかしその一方で、かつての仲間達がそれと同じ時に、どこかで歩みを進めている事も確かだった。道は伸びている。しかしどこもかも、血に染まっていた。
 決して変わる事のないそんな状況の中で、僕は自問する。僕は選ばなければならないのか? いずれの道を進んでも、誰かを傷つける事になってしまうのに。昨日まで挨拶を交わし、あるいはそれ以上の関係を築けていた人を、この手で斬る事になるかもしれないのに。
 理屈では分かってる。選ばなきゃならない。最初から、理屈では分かってるんだ。僕の進む道は、僕にしか選ぶ事は出来ない。誰かが指し示したら最後、それはもう僕の道じゃない。それに。立ちつくしたまま僕は、セレーネの姿を見つめた。それに、僕がこんなにも辛いのに、いったい誰に委ねろと言うんだ。愛しい人に悲しい決断をさせるのは、きっともっと辛いし、痛い。
 それでも、ダメなんだ。僕には答えが出せない。最初から選ばなければならないと分かってはいても、でも同時に、その道が血塗られている事も、僕には最初から分かっていて。そんな道に進む勇気が、どうしても湧いてこなかった。情けない自分に苛立ちを覚えながらも、それでも僕は同じ場所をぐるぐると回り続け、どうしても踏み出せなかった。
「……少なくとも、私がもといた国に戻るという事はありません。五年前、この国と王に忠誠を誓ったあの日から、私の祖国はこの場所なのです」
「そうか」
 少し溜息まじりに答えて、王は続ける。
 続く言葉が僕の運命を左右する事を、この時僕はまだ知らなかった。
「飽くまでも、鬼の道を進むというのだな」

 * * *

 ――飽くまでも、鬼の道を進むというのだな。
 息が切れる。それでも僕は走り続ける。
 本当の事を言おう。
 それは自分自身に向けられた言葉だった。
『どうした? 何を考えている?』
『……私は、大きな過ちを犯していました』
『過ち?』
『陛下』
『うん?』
『周辺国のいずれかがこの機を見計らい、魔の手を伸ばしてくるのも時間の問題です。残った騎士達を率いる許可を、私にお与えください。必ずや、逆賊を滅すと誓いましょう』
『……お前は、それで良いのか』
『私の道は、王とこの国の繁栄に寄与する道。それ以外の道は全て、罪悪の道に他なりません。それに』
 それに。
 さっき僕は、勇気が出ないと言った。どちらかを必ず傷つける事になる選択に、どうしても決断を下せないと。でもそれは、綺麗事だった。嘘と言ってもいい。本当は、答えなんてずっと前から出ていた。僕は、セレーネが好きだ。苦しい程に、切ない程に。彼女の笑顔や泣き顔を思い浮かべれば、隊士達と天秤にかけるまでもなかった。選択は、驚く程すんなりと成されていた。

 ――いずれ必ず、鬼の道を選ばなければならない時が来る。

 その一方で、悩んでいた理由。悩んでいるふりをしていた理由。それは僕の偽善、それに他ならない。隊士達と修練の日々を過ごし、またそれが充実していた事は事実だった。輝かしい記憶、そう呼んで憚らない。しかし、いや、だからこそ僕は偽善に及ばねばならなかったのだ。キラキラしたものを切り捨てる事に、僕は抵抗を感じた。自分の正義に反すると思った。だから僕には、二つの道を並べて、選べないと狼狽する事しか出来なかった。そうしなければ自分が、どこかに堕ちてしまうような気がしたから。やっぱり僕は、ずるかったんだ。
『それに……セレーネ!』
『……私?』
『僕はこれから、隊士達を率いて立つ。この手で、必ずけりを着ける。だから、ここで待っていて欲しい。道を、君を選んで帰ってくるから』
『なっ、何を!? 父上の前で、あなたは――』
『セレーネ』
『え?』
『行ってくる』
 息が切れる。それでも僕は走り続ける。
 僕と隊士達の鎧が、一歩足を踏み出す度に音を立てる。腰にさした剣に手をかけると、自分の手が震えている事が分かった。しっかりしろ、僕はこれから、人を斬るんだぞ。覚悟は決めたはず。そうじゃなきゃセレーネの言葉を、そして自分自身まで、裏切ってしまう事になるから。
『……待ちなさい!』
『……良かった。だんだん後悔し始めてた。最期の言葉になるかもしれないのに、あっさり言っちゃって』
『貴公も酷ですね。私が何を思い立ち尽くしていたのか、貴公は分かっているはずなのに』
『ゴメン。バカの一つ覚えだけど、君には僕の気持ちを、全部知っていて欲しいから』
『本当にそればかりですね……でも、なぜだか安心してしまう。己の立場も忘れて』
『セレーネ?』
『――私も行きます。貴公と共に』
『え? いや、それはダメだ。危険すぎる』
『貴公はいつもそうやって、私を置いてゆこうとする。私とて王位継承権を持つ身。決めたのだ。貴公と共に前へ進むと』
 あの瞬間に彼女が見せた表情は、全くと言って良い程説得力の無いものだった。真っ直ぐな言葉とは対照的に、眉尻を下げて不安げに、すがる様な視線を僕に。それでも僕に早足で歩み寄り、でも僕のシャツの袖を握りしめる右手はどこか弱々しくて。彼女もまた、道を選ぼうとしている。しかし、彼女にはまだ一歩目が踏み出せないのかもしれない。僕は騎士団長で、彼女は王女、そして王位継承者だ。境遇や背負うモノの違いは、僕の想像よりも大きいのだろうか。もしもそういうものが彼女の前にそびえ立っているとしたら。それなら――
『……分かった。でも約束して欲しい。絶対に僕の傍を離れない事。それと、僕を信じる事を』
『そ、その様な事、わざわざ誓いを立てるまでもありません……とにかく、父上。止めても無駄です。私は――』
『覚悟を決めた、か?』
『父上……はい!』
『佐藤隆将』
『はっ!』
『お前は私に誓え。必ず娘を生きて、いや、娘には指一本触れさせぬと約束しろ。もしその約束を違えた時には、私はお前を決して許さんからな』
『畏まりました。騎士の誇りにかけて、命に代えても姫君をお守りすると誓います』
『娘を頼んだぞ』
『ちっ、父上!?』
『さぁ行こう、セレーネ! 間に合わなくなる前に』
『あっ、あぁ。しかしもう少し待たれた方が良い。兵士達の中から隠密部隊を編成し、敵の本隊の探索にあたらせているらしい。あともう少しで、そこからの連絡がくるはずだ』
『いや、その必要は無いよ』
『え?』
『リベリオン卿がいる場所は見当がついてるんだ。それにきっと……今頃隠密部隊は壊滅していると思う』

 息が切れる。それでも僕達は走り続ける。
「あのさ、セレーネ」
「どうしました?」
「うん、その……ありがとう」
 ありがとう、か。
 ――礼を言うのは、私の方だ。ありがとう。逃げろではなく、ここで、この場所で待って欲しいと、言ってくれて。

 * * *

 いつも使っている道でも、反対方向からだと随分印象が違う。時折全く別の道を走っているのではないかと不安になるが、踏みしめてあるワスレナグサには見覚えがあった。
 この道はどこまで行っても、そしていつ通っても暗い。白樺をはじめとする多くの木々が競うように群生し、日光を遮っている。それは考えてみれば至って自然な事で、元々ただの林であった所を誰かが思い付きで通ったのだろうからどうしようもない。
 しかし彼女はというと、そうは思えないらしい。草木を避けながら進む僕達に対して、彼女は剣を抜き、目の前に現れる障害を悉く切り捨てている。もちろん、使っているのは普段使いの一振りであり、王から賜った名誉の剣はきちんと鞘の中におさまったままである。
 僕はこの道を選んだ。今僕と共に走るこの人と歩む道を。そして、昨日まで笑顔を交わした人々を斬るという道を。消える人の灯の数を考えれば、より非道な道だったのかもしれない。でも、だからこそ僕はこの道を真っ直ぐに、躊躇う事なく進んでいかなければならない。こちらの道を選んだからには僕は、騎士団長としてこの国、そして彼女を命尽きるまで守ると誓わなければ、失われる命に顔向け出来ない。
 その折、虫でも見つけてしまったのだろうか。小さな気配がさりげなく僕の背中に寄り添い、僕の肩を掴んだ。その手が仄かに温かくて、僕は無意識に微笑していた。
「顔が緩んでおいでですよ」
「え? あぁ、うん」
「気を引き締められよ、佐藤殿。これから起きる事を考えれば、その様な顔は見せられないはずです」
「そう、だね……ゴメン」
 彼女の言う通りだ。視界の端から揺れながら消える彼女のプラチナブロンドに名残惜しさを感じながら、僕はペースを少しだけ早めた。普段目印として記憶している白樺の大木がふいに見えたかと思うとすぐに通り過ぎて行く、その光景を見て静まっていた僕の様々な感情が息を吹き返す。心臓の鼓動が速くなっていた。ずっと走ってきたせいなのかもしれない。けれど僕の予感は確かに別の事を言っている。気を抜くな、と。
 息が切れる。それでも僕達は走り続ける。
 僕と隊士達の鎧が、一歩足を踏み出す度に音を立てる。腰にさした剣に手をかけると、自分の手が震えている事が分かった。いやもしかしたら、走っていて分からないだけで、本当は体全体が悲鳴をあげているのかもしれない。感じているんだ。これからこの先で起ころうとしている事を、僕の全てが。否応無しに伝わってくる、闘いの前触れ。自分がそれを感じ取っているのだと知ったら、余計に緊張が走る。
 しっかりしろ、僕はこれから、人を斬るんだぞ。剣の柄をしっかり握り直す。すぐに震えを止められるほど僕は強い人間じゃない。けれど、あの時と同じだ。今ここで未知の恐怖と戦っても何も生まれはしない。それではただ自分を追い込むだけだ。この瞬間に僕が出来るのは前に進む事。そしてもう一つ、その意志を後ろに続く者へ伝える事だけ。震えはやはり止まってはくれない。頭で考えている事を僕の心は受け入れられないらしい。
 覚悟は決めたはず。ついさっき巡らせた僕の思いは、もう僕の中で再び巡る事は無い。後戻りは出来ないんだ。僕はセレーネとこの国を守る。その代償として、かつての仲間達を手にかけなければならないとしても、逡巡なんてしている場合じゃない。一歩前に進むと誓え。そうじゃなきゃセレーネの言葉を、そして自分自身まで、裏切ってしまう事になる。
「全軍止まれ!」
 そうなったら――
「……来たか」
 彼を倒してシヴァルラスとセレーネを救う事なんて、きっと出来ない。


 視界が開けたかと思うと、大勢――こちらより相当多勢の、見慣れた者達が目の前に現れた。辺りを見渡すと、草木が乱雑に刈り取られた空間が両側、そして前方に広がっている。こんな場所はこの前通った時には無かった。彼らが作ったのだろう。
 分かってはいても、僕は表情を曇らせずにはいられなかった。目の前の男達、軍勢を率いる騎士達もまた、心中は同じらしい、明るい表情をしている者は一人もいない。モノトーンの空気の中、団長、という一言の後にそれを咎める言葉が続き。後ろに控える騎士達の声ならぬ声、悲痛な眼差しを痛いほど感じる。
「隆将」
「うん」
 僕は改めて剣の鞘に手をかけた。近寄ってきている。軍勢の後ろから、ついこの前感じたまがまがしい空気がゆっくりと。より強い殺意を連れて。
「姫君を連れてくるのは予想外だった」
 軍勢が左右に割れ、者共から羨望の眼差しを向けられながら「彼」はこちらへ向かって歩いてくる。まとっているのは黒い、重厚な鎧。腰には剣が提げられていたが、その鞘に付いた紋章は王から下賜されたものに付けられるものではなく、見た事のないものだった。
「……残念だ」
「何が、ですか?」
「兄は私を斬りにきたものと思ったが、その軽装……やはり思い違いではなかったらしい」
「殿下のそのお言葉が、思い違いに他なりません」
「なに?」
「特に必要がなければ、私は常にこの姿で剣を握っております。斬られなければ、守りをかためなくとも何ら問題はないものと」
 ふん、と彼は鼻で笑った。僕の言葉を信じていないのか、それ以上の意味を持つものなのか。けれど直後に眉を顰め、剣の鞘に手をかけたところを見ると、どうやら前者ではないらしい。
 それに対して、僕の言葉により大きな反応を見せたのはセレーネの方だった。「佐藤殿?」と心配そうに僕の名前をつぶやく。リベリオン卿の従姉妹にあたる彼女は、もしかしたら彼の力量を知っているのかもしれない。
「……もはや思いとどまっていただきたいとは申しません。申し上げたところで事既に決した今、殿下の所業を見過ごしては、シヴァルラスに背を向ける事になりますゆえ」
「兄の言うシヴァルラスとは何だ?」
 そう言いながら彼は剣の鞘から手を離した。言葉は平静の中に埋められていたが、その表情は激しい波に揺れていた。
「兄がシヴァルラスという言葉を口にする時、王やその娘の事を思うなら、それは誤りだ。私を含め、そんなものは飾りに過ぎない。真の意味でシヴァルラスを語るなら、この者達の悲痛な声を聞け!」
 騎士達だけでなく、リベリオン卿の後ろに控えているのは、見覚えがある者達ばかりだった。一見しただけで、城下町、湖、そして森。全ての光景が目の前に現れる。
 リベリオン卿のすぐ後ろにいるのは、休日によく行く市場で魚屋を営む主人で、そしてその反対側には、僕が住んでいるのと同じ通り沿いで喫茶店を営んでいる主人の姿が見える。更に後ろへ目をやると、昔世話になった大工の棟梁が視界に入った。彼等は皆一様に僕の顔をじっと見つめる。その視線は、あるいは僕がこれまで自らの立場を彼等に隠してきた事に帰結するのかもしれない。けれどその何とも言えぬ、驚きやら怒りやらが込められた視線には、もっと多くの意志が込められているような気がしてならなかった。
「兄は知っているか。あの男が定めた数々の悪法によって、多くの国民が不自由、不本意、そして貧困に喘いでいる事を」
 だから彼等はこの道を選んだのか。ここに走ってくるまでの間僕は色々な可能性を探していて、正直なところ、それが最も納得のいく理由だという結論には何度も行き当たっている。けれど、その度に僕はその答えから目を背けるようにしていた。僕はやはり現実を知らなくて、なおかつ王とその娘であるセレーネの事を思うと、知りたくないという気持ちが先行していたのかもしれない。弁解するつもりなんてない。全部僕の不手際だ。
 僕は改めて自分の過ちを悔いた。もし僕が騎士団長として、国の隅々まで注意を行き届かせていたなら、この様な結果にはならなかったのではないか。国に仕える身ながら街に溶け込んでいたのだから、その意味で僕は最も、この危機を防ぐ可能性を有する立場にあったはずだ。もしかしたら僕には彼等を斬る資格など無いのかもしれない。リベリオン卿の言うように国民が望むなら、その刃を甘んじて受けるのが僕の責務なのかもしれない。それがこの国、彼等の「シヴァルラス」をよりよい国にするために必要な刃ならば。
 けれど。
「……将来において国賊の謗りを受けるのは、あるいは私かもしれません」
「ならば!」
「しかし、私は選んだのです。この道を。鬼の道を」
『五年前、この国と王に忠誠を誓ったあの日から、私の祖国はこの場所になりました』
 僕は誓った。
『必ずや、逆賊を滅すと誓いましょう』
 もう振り返らない。
『私の道は、王とこの国の繁栄に寄与する道。それ以外の道は全て、罪悪の道に他なりません。それに』
 それに。
「今こうして、殿下に立ち塞がる事。それが――」

 それが僕の、第一歩だ。

 相対する人々の真上で、太陽が燦々と輝いている。羊雲が流れていく。風が強いのだろうか。鳥達が優雅に飛んでいる。あれは渡り鳥ではないのだろう。はるか遠くに揺れる無機質な影。あれは……きっとトロイの木馬。ノアの方舟。
「……やはり我々は、刃をもって語らしめるより他は、前に進む手立てがないらしい」
「……そのようですね」
 僕の返答よりも早かったと思う。リベリオン卿の体中からまた、あのまがまがしい空気が辺り一面に広がり始めた。左手を剣の鞘に添え、右手で柄を握る。短く鋭い音と共に銀色の光が漏れだした。するとまるでその隙間から湧きあがるかの様に、更に深い殺気が噴き出しそこにいる全ての人間に知れ渡った。
 「くっ」と怯んだのはセレーネだった。だがそれは例外ではない、仲間も敵も皆わけ隔てなく二、三歩後ずさりしている。やはりこの気は重すぎるんだ。逃げだす者がいてもおかしくない中で、そんな中しかしセレーネは必死に踏みとどまっていた。左足は一歩引かれ、逃げ出せと彼女に訴えかけているが、彼女はそうしなかった。震える手を剣にかけながら、冷や汗を浮かべた厳しい表情で彼の殺気を受け止めていた。
「待ってください!」
 苦悶の表情は隠せない。騎士として研鑽を積んできたとは言っても、彼女とてか弱い少女に他ならない。それにおそらく、彼の力量は知っていても、「実力」は知り得なかったに違いない。
「まだ間に合うのではありませんか? リベリオン卿、私が王に話します。だから――」
「さりとて進む道は既に定まった。私には、もう後戻りなど出来ぬ。それは、ここまで彼に付いてきた姫君もお分かりだろう」
「それは……」
 もうひとこと何か言おうとして、しかし果たせず彼女はようやく一歩後ずさんだ。その顔は、憐れみにも似た表情でリベリオン卿の事を見つめている。もちろん彼女にとってそれは、僕達の勝利を見据えた意味を持つものではなく。僕と同じように、後悔に支えられた眼差しだ。
「機は、熟したようですね」
「ほぅ……ところで兄は先立って、私に剣を向けるのは、すなわちシヴァルラスに刃を向ける事になるものと言っていたが、あれはどう始末をつける?」
「王の血族にあらせられる方に剣を向けるのは禁忌ですが、逆賊となれば、話は別」
「面白い。そうこなくてはな」
「一つ、私も伺ってよろしいでしょうか」
「よかろう。申してみよ」
「殿下はあの時……」

 ――思い違い……そうなのかもしれない。

「……いえ、何でもありません」
「良いのか? それが兄の、遺言になるやもしれんが」
「もとより、そのような道は選んでおりません」
 僕は手で合図して、セレーネに下がるように伝えた。しかしそれは不要だったかもしれない。始まる。それはここにいる誰もが、嫌という程感じていた。
「刃を交えるとなれば、容赦はしない。躊躇えば、死ぬぞ」
「承知しております」
 剣の柄に手をかけた。
 人を斬るのは……これで二度目か。

 一瞬、僕の心が過去に赴き、注意が逸れた。
 彼は見逃さなかった。

「まずは姫君の命、もらい受ける!」
 駆けだした彼は突然方向を変え、セレーネの方へ。振り向くと、思ったよりも彼女が遠い。
『畏まりました。騎士の誇りにかけて、命に代えても姫君をお守りすると誓います』
「くっ!」
 剣を抜きながら、二人の間に走った。
 次の瞬間、二つの刃が、燦々と輝く太陽の光を激しく反射した。

 * * *

 リベリオン卿の謀反は、我が国にとって大きな分岐点となった。これまでの歴史の中で、最も大規模な事件である事は言うまでもない。また、なおかつ最も多くの血が流れ、痛ましい記憶となった事も忘れてはならない事実である。おそらく、負の歴史として脈々と語り継がれてゆく事だろう。生き残った僥倖の語部達によって。
 後の調べによって、様々な事実が浮き彫りとなった。リベリオン卿は、王の治世をそれが始まる前の段階、具体的には、枢密院によって王が選出された事から既に、快く思っていなかった。王の甥にあたる彼は、自分の父親が、その弟である王に権勢を奪われ、長い時を経てもそれが戻らなかった事に納得出来ず、不満を募らせていたのだ。成人となった後、彼は暫く影を潜めていたが、その折姫君に王位継承権が下賜された事、父が逝去した事で彼の決意は決定的となり、また枢密院においてある人事を議決する際、彼に賛同する貴族がおらず、賛成票を投ぜざるを得なかった事が、彼を狂気に走らせる直接の引き金となった。彼の死後、邸宅が召し上げられ調査された結果、事実が明るみに出る事となった次第である。
 その際明らかになった事実はそれだけではない。彼の日記を読み進めてゆくと、反乱の全容が次第にその輪郭を確かに描き出す。反乱軍を構成していた者の多くは、地主と小作農によって構成される農民達であった。地主階級の者達は高率の税を課され、その負担を下級農民に負わせる事も禁止されていた。一方で小作農達は、その税の恩恵は受けられるものの、以前の大規模な福祉体制期と比較すると収入が減少していた。彼等は以前手にしていた余裕ある生活の復活を願っていたのである。ただし、問題はそれでも彼らの収入は日常生活と遊興の費用を引いてもまだマイナスにはなり得なかったという事。それに実際のところ、国の方針に激しい反感を覚えていた者は、ごく僅かであった。むしろこの反乱という事実は、リベリオン卿の影響を強く鑑みて考察されるべきだろう。人々の心の闇に容易くつけ込む、彼の巧みな悪意を。
 これは十分に留意すべき過程である。反乱という結果を導いた原因が、一直線に国家体制へと帰結するわけではないというのは自明の事実だ。だが国の将来を真剣に考えるなら、やはり努力が必要だろう。すなわち、新たな悪臣を生ませない努力と、心の闇さえ照らす様な国家への努力である。
 そしてもう一つ、記述しなければならない過程がある。それは過程と言うにはあまりに短く、歴史を広範な視点で辿る者の目には、もしかしたら一瞬と映るかもしれない。だがそれは同時に、一瞬と言うにはあまりに重大な出来事。平和が訪れた後、ある者はそれを「伝説」と呼び、別のある者は「奇跡の足音」と呼んで讃嘆した。
 佐藤隆将。この者の名を、この者が我が国の歴史を進めしめんがため、無上の努力を為した事を、国民が永久に忘れないために、ここに記す。あえてそうするのだ。彼の記憶が人々の心にどれほど深く刻みつけられていようとも、ここに記す事でそれがよりいっそう確かなものになるなら、いったい何を惜しむと言うのだろう。
 その時が訪れるまで、佐藤隆将の名を知る者は限られていた。彼は騎士団長として隊士達を統率していたが、しかしその事実を知るのは騎士達自身と貴族階級以上の人間だけ。国を守る騎士団の長たる彼の名を軽々に知れ渡らせる事は、国外はもちろん、国内ですら許されていなかった。
 人々が彼について知らなかった事、いや、今も知らない事が、実はもう一つ挙げられる。それに関してはおそらく、騎士団の者や貴族達も聞かされていないだろう。なにしろ、彼は一度もそれについて語ろうとしなかったし、こちらから問うてもどこか遠い目を見せるだけだったのだ。故に口惜しいが、それをここに書き残す事は出来ない。彼がもといた国を離れ、我が国を祖国とした、その理由を。
 しかし、それによって彼の功績が損なわれる事は無い。彼の名は、さながら夜の空に輝く星の様に、人々の心を照らしている。そして、これからも照らし続けるに違いないのである。リベリオン卿と共に逆賊となった憎むべき農民達、そして騎士達に対し、残された僅かばかりの騎士達を率いて戦った彼の功績。十倍以上の戦力を有する敵に、敢然と立ち向かった彼の功績は、一向に揺るがない。戦いが終わった時、生き残った彼の同志達が言った様に、彼はまさに英傑であった。
 もう一度言おう。誰しも忘れてはならない。我が国を混沌から救いあげようとした男の名を。彼と同じ意志の炎を、何時までも心に灯し続けよう。そして前に進んでいこうではないか。佐藤隆将の記憶を胸に。

 * * *

「私も変わったな。こうして街を見つめていても、あなたの記憶ばかり蘇ってくる」
 海の方から吹いてきた風が、緑に染まる小さな丘に腰掛けるセレーネの前髪を揺らす。風はそのまま吹き抜けて後ろの木々の方へ。けれども、落ちる葉は夜の漆黒に紛れて見えない。木々のささめきと、虫達の音色が聞こえるだけだった。
「後悔はしていない。国に身を捧げる事は私の本意であり、なによりあなたはそんな私に、頬笑みを投げかけてくれたのだから」
 夜の闇の中で光る街は、溜息が出るほど煌びやかだった。しかしそれでいて一向に、彼女に優しく囁いてはくれない。沈黙の中、ふと夜空を見上げると、満月が暗闇にまた別の光を添えていた。
「でも、あなたはやはり卑怯だ。私に何も言わないまま踏み込んで来た上に、今もそうして黙っているなんて」
 彼女の目尻に、涙がひとしずく。拭おうとしないのは、彼女のプライドだろうか。
 あるいは。
「僕は君を見つめているだけで十分。今更言葉なんていらない」
 そう言って、左隣に腰掛ける彼が、優しくその手を差し伸べてくれる事を知っていたのかもしれない。
「……一つ、聞いてもいいか?」
 セレーネは薄桜色に染まる頬を右の人差し指で掻きながら、照れくさそうに街の方へ視線を移した。襟の付いた紺のプルオーバーとその上に羽織るブラウンジャケット、そしてベージュのキュロットパンツ。まず目に入るものもそうだけれど、ダークブラウンのタイツや、ブーティー、と言うのだろうか。そういう些細な物もさり気なく彼女の魅力を引き立てている。けれどもちろん、それらは彼女を飾る脇役に過ぎなくて。揺らめいた金色の髪が月影の中で艶やかに光り、潤んだ瑠璃色の瞳に容易く心奪われる。もう一度手を伸ばし髪を梳いたら怒るだろうかと彼は思い、直後に、不謹慎な想像を巡らせた自分を戒めた。しかし、彼女の美しさ。今もこうして彼を惹きつけるその魅力に気付いていないのが、他でもない彼女だけである事は確かだった。
 彼の目には、隣に腰掛ける彼女が、普段よりもずっと小さく見えていた。戦乱の中、常に張りつめていた緊張がやっと解けたのかもしれない。膝を抱く細い腕を見つめながら、初めて想いを告げた時と同じ様に、町を歩いている少女達と何ら変わらない、と彼は思った。
「なぜ、この国へ?」
 彼女の言葉が、彼を丘の上に引き戻した。しかし、その質問に答えようと過去に思いを巡らせた彼は、再びそれによってさらわれていた。強くはないが、これまでよりも少し冷たい風が、やはり海の方から吹いてくる、その方角を、後ろにまわした両腕で体を支えながら彼は見つめた。どこか遠い目をしていた。
「ちょっと、疲れてね」
 光を灯さない海は、街とは対照的に、暗闇に包まれている。彼はその光景を見つめたが、実際には何も見えず、瞳はただ純粋な黒を捉えるばかりであった。そして同時に、その黒を見つめる彼の瞳も当然の事ながら黒に染まっていた。違うのは、彼の瞳に宿る黒が様々な思いを連れた、より深い黒だったという事だ。黒が純粋でなかったと言っても良い。
「僕は学生だったんだけど、その、何というか……特に人との関わりあいにね」
「人との関わり……しかし、我が国でもそれは同じだろう。本質は変わらない。政争がある分むしろ――」
「でも僕はこの国で、目の前にいる人を見つけたから」
「あっ……」
 肌色と凛々しさを取り戻しつつあったセレーネの表情が、彼の頬笑みと言葉につつかれて再び、花びらを溶かしこんだ様な桜色に染まった。「またその様な事を易々と」。そう呟きながら彼女は、膝を抱いた腕に顔をうずめてしまう。セレーネらしいと思わせるその恥じらいは、彼に、不安へと踏み込む勇気を与えた。
「僕も一つ聞きたいんだ」
 最初、セレーネは顔をうずめたまま、上目遣いに彼の言葉を聞いていた。しかし彼が先程とは違い、真剣な視線。それでいてどこか不安げな視線を自分に向けている事に気付くと、顔を上げ、彼を真っ直ぐに見つめた。
「確認したい。このままでいいか」
「このまま?」
「このまま、踏み込んでもいいのかな?」
 彼の頭に浮かんでいたのは、一つの天秤だった。その天秤の一方には彼自身が、もう一方には、二文字の言葉が乗せられていた。揺れる、天秤だった。
「……貴公はそのような事を聞くな。貴公が踏み込んで来てくれなければ、私は……」
 はっとしたのは彼だった。不安なのが自分だけではない事を知った。これまで与えられた道しか歩んで来なかった彼女が今、方向を変えようとしている。そしてその彼女が、こうして街を見つめながらも、彼の腕を掴んでいるのである。
「セレーネ……ゴメン」
 セレーネの表情を見た彼は、自分の不安などちっぽけなものだと思った。そんな事よりも、彼女には笑顔を取り戻して欲しい。それに彼女の潤んだ瞳こそが、自分の不安への答えだと知っていた。
「っ……謝らなくても、良い。貴公が貴公のままでいてくれれば」
 彼の言葉に、自分の想いが伝わった事を読み取って、彼女は恥じらった。だが同時に微笑んだ。彼の優しさと、一歩進めた事が、嬉しかった。
「じゃあ、新たな一歩として」
 街の灯りが少なくなってきた頃。左ポケットから何か真っ白な、箱のようなものを取り出した彼の腕の向こうで、また一つ家の光が消えた。夜の闇も深まる中、しかし一方で、暗くなってきたという実感は無かった。暗闇が増した分、降り注ぐ月の光が鮮明になったのかもしれない。仄かで淡い光に包まれて二人、同じ印象を覚えていた。
「私に?」
「正解」
 受け取った後、上目遣いの彼女と、開けてみて、という表情を浮かべる彼だった。
「これは――」
 指輪、だった。彼女の瞳と同じ瑠璃色の、スマートなシルエット。月の光を反射して、キラキラと瞬いている。映りこんだ彼の顔は、笑顔に包まれていた。その視線は指輪ではなく、それを受け取った彼女だけを見つめていて。ただし。
「おもちゃ?」
 ただし、随分いたずらな笑顔だったのである。
「正解」
 左の口角を上げて含み笑いを浮かべる彼に、セレーネはこれ以上ないくらい訝しげな視線を浴びせた。「あっ」と焦りの声をあげる彼だったが、その間にも視線はますます厳しくなっていって。折しも吹いてきた冷たい風に悪寒を感じて、彼は次の言葉を急いだ。
「聞いたんだ。君のメイドに」
「え?」
「君の好きなもの」
 考え込む時、眉尻を下げる癖が彼女にはあるらしい。眉間にしわが寄るのは遺伝だろうか。そういえばうつむく時は、いつも右下の方を見つめている。そんな些細な発見にも彼は微笑む事が出来た。また一つ彼女に近づけたと思うと、温かいものが彼の心を優しく包んだ。今二人を照らしている月の光の様に、枯れる事のない愛しさが溢れるのを、彼は感じていた。
 その時、「もしかして」という小さな呟きと共に、セレーネのプラチナブロンドで細波が走った。何度目だろうか。彼女の頬が、恥じらいに染まったのは。
「あれ程他言無用だと言ったのに……」
「許してあげてよ。僕が聞いたんだ」
 相変わらず恥じらいの色を見せながら、しかしそれを隠そうと目を閉じる。そうかと思えば今度はキッと両目を見開いて、彼をたじろがせ。再び目を閉じた彼女は、「はぁ」と大きな溜息をつくと、やけに落ち着き払った声で「分かりました」とささめいていた。半ば捨て鉢だな、と彼は思い、彼女に見えないよう左にうつむきながら、やはりいたずらな笑みを浮かべた。もちろん、彼女を愛しいと思う気持ちの表れでもあった。
 三度、いや、再びだったか。まぁそんな事はどうだって良い。いずれにしても、今一度その瑠璃色を見せた彼女の瞳は、その時には既に先程の恥じらいを連れてはいなかった。すっかり暗闇に包まれた街を見つめて黄昏ているわけでも、憂いを帯びた月影に見とれているわけでもない。彼女が視線を向けていたのは、他でもない、真っ白な小箱に収められた、瑠璃色の小さなトイ・リング。一心に見つめるその瞳は、見つめるその先にあるものよりもずっと、輝きに満ちていた。
「この指輪に、罪は無いから」
「うん」
 つくづくセレーネらしいと彼は思った。素直でない言葉にしても、また、その順序にしても。きっと彼の意図を理解した時点で本当は、今の様な視線を指輪に向けたかったに違いない。街の少女の如く何のためらいも無いまま、まっすぐに。しかしそれでも彼女にはあの、恥じらいという名の苦言を脇に置いておく事は出来なかった。まず理性を示さなければ性分が許してはくれないのである。さもなければ、「彼女は彼女でいられない」のだから。
 だがそんな遠回りの、一見すると面倒な性格すら、彼は愛しいと思い始めていた。「それがセレーネだから」という理由だけで、頷く事が出来るようになっていた。
「あっ! もしかして、それであの時?」
「うん……ゴメン」
「そう、だったのか……すまない。いや。本当に、申し訳ありませんでした。私の勝手な思い違いで、貴公を……」
 そんな事、気にしないで。そう言おうと思っていた。指輪を取り出した時点で、こうなる事は必然であったから。実際、彼に彼女を責める気持ちも無かったのだ。誤解が生じたのは、自分の想いが十分に伝わっていなかったせい。むしろそれは、彼女を想う気持ちが足りなかった自分の落ち度だと思っていた。彼女の全てを信じ切れなかった自分を恥じ、謝らなければならないのは自分の方なのではないか、とさえ彼は感じていた。
 しかし。いや、だからこそ彼は言わなかった。今、彼女に。自らの過ちを悔い、ひどく落ち込んだ表情を浮かべる彼女に「気にするな」と言っても、それが彼女の心に響く事はない。反対に、自分との距離を感じさせてしまうかもしれないと、彼は思っていた。
「君の誕生日には、ちゃんと本物をプレゼントするよ。ラピス・ラズリ。君の誕生石だったよね」
 そんな事よりも、今自分がすべきなのは彼女を信じる事であり、それを彼女に示す事。彼の言葉に、もう迷いや弱さは無かった。
「……十二月の誕生石は、トルコ石かジルコンでしょう?」
「僕がもといた国では、ちょっと違うんだよ」
 彼女の顔からは、いまだに反省の色が消えない。しかし、明らかに何かが変わり始めていた。口元に、うっすらと頬笑みが浮かんだ。
「ありがとう。それに」
 彼女の表情からも、迷いが消えた瞬間だった。
「……ありがとう」
 セレーネ様のお好きなもの、それは異国より伝来した「祭り」と呼ばれるものです。それは毎年夏になると民達によって催され、多くの店棚が立ち並ぶと聞いています。私は話を伺っただけなので詳細は分かりかねますが、セレーネ様によれば、何もかもが輝いているとの事でした。そこにあるものはもちろん、人々の表情もいつになくキラキラ輝いていると。今も思い返せば温かい気持ちが溢れるのだと、セレーネ様には珍しく、満面の笑みで語っておられました。
 それが、彼がセレーネのメイドから聞いた事の全てだった。
「でも、彼女には謝らないと」
「何を、ですか?」
「約束してたんだ。君には黙ってるって」
 「そう、ですか」と納得した後、彼女はクスリと笑った。指にはめたおもちゃの指輪を見つめそして、「あの子らしいな」と、再び笑った。
「それに、君にも」
「え?」
「騎士として誓った約束を破るのは、君への裏切りでもある」
 しまった、と彼は思った。彼女がまた眉尻を下げたから。だがそれは後から思えば、杞憂だったのであろう。その直後、暗闇に染まる街の方を見つめ、耳を真っ赤に染めながら、しかし彼女は精一杯声をいたずらにして言ったのだ。
「きっ、貴公は今私に、騎士として対峙していたのですか? 私は……私は、違うのに」
「セレーネ……」
「彼女も、私との約束を破ったのです。お互いさまという事でしょう」
 ただ、嬉しかった。自分達の間にあった様々な障害が今、消えた。初めて彼女が、真の意味でまっすぐに剣を振るってくれた。やっと自分は、一番大切だと思える人を見つけられたんだ。見上げると、そこには満月があった。そしてその影の先には、彼女がいた。そっと笑っていてくれた。風になびく金色の前髪をかき分けて、その真っ白な頬に、彼は優しく触れた。


 佐藤殿。その……一つ、頼みを聞いて欲しい。
 頼み?
 貴公が嫌なら強制はしない。だがもし良かったら、その……私と――
 ダメ。順番が違う。
 へ?
 そんなんじゃ、僕は誓えないよ。
 あっ……そうか。それなら。


 隆将。これからも、共に歩いていって欲しい。私は私のまま、それでいてなお、あなたと笑い合っていたい。
 君らしいね。随分遠回りだ。
 隆将、私は――
 セリー、僕は君が好きだ。この気持ちは、いつまでも変わらない。
 タカマサ……ありがとう。


 ンっ……


            *


 明日の手筈が調っているか、入念に確認せよ。この機を逃せば、この国を変える事はもはや叶わぬ。
 殿下。一点申し上げたい事項があるのですが、よろしいでしょうか。
 あぁ。何だ。
 殿下の木剣が、その……真っ二つに折れてしまっているのですが、これはどの様な次第でしょう。お怪我などは?
 怪我は無い。それに折れた事情も、大した事ではないから気にしなくて良い。
 左様でございますか……では、これは処分してもよろしいでしょうか。
 いや、それはそこに置いたままにしておいてくれ。
 え?
 それは誇りだ。私の、そしてこの国の――



                     ~fin~

 * * *


(以下の記述について、文芸サークル構成員でない方は話が見えないと思われます。申し訳ありませんが、ここは読み飛ばしてください。)
部内向けの作品だったためどうしようか迷いましたが、目に触れるのが先になる人の事を考えて掲載する事にしました。短期間でたくさん読むのはちょっとキツイかと思いまして。
最終更新:2014年02月17日 14:39