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I love you. を訳しなさい(るり)

2012年03月07日 (水) 09時29分-るり

 問い:“I love you.”を訳しなさい。

 制服は黒の長ズボンと、細いストライプの入った白色のシャツ。そこに黒のサロンを巻いて、新しい名札をつけたら、私も傍目には一人前のスタッフに見えた。黒く染め直した髪をアップにして、新品のアプリコットオレンジのチークをはたいたら、もうカンペキ。
「おはようございます!」
 先にキッチンやパントリーに入っていた他のスタッフに挨拶をする。ここで、今日も私の新しい生活が始まろうとしていた。

 早川店長がいつものスーツではなく、紺のジーパンにペールグレーのカーディガンという出で立ちで現れたのは、開店より三十分ほど前のことだった。
「あれっ店長、今日はお休みじゃなかったですか?」
「ん? あぁ、ちょっとトイレ借りに来た」
 そうとぼけつつ、店長はさっそく電話の対応や書類の整理を始める。私が「仕事熱心なんですね、店長」と言うと、「この店を守らなきゃいけない、責任みたいなもんだね」と笑った。「……それと、ちょっと待って」
 店長の手が不意に伸びてきて、私は背筋を緊張させる。
「襟が曲がってたよ。これでよし」
「あっ、ありがとうございます」
 まさかドキドキしたとも言えず、私はそそくさとその場を離れた。

 店の忙しさは予想を遥かに上回るものだった。公休日にもかかわらず、店長が出勤せざるを得ないことにも頷けた。そして開店後に痛感するのは、どう足掻いてみせても私は未だ駆け出しのスタッフでしかないということだった。
 トレーいっぱいのワイングラスをパントリー内に運び込んできて、自分の肩がガチガチに固まっていることに気づいた。もちろん店長はそれを見逃さない。
「米津さん、緊張してる?」
「はい、……ちょっとだけ」
「落ち着いて」
「はい」
「深呼吸」
「はい」
「よし、笑って」
「はい」
「うん、ちゃんと出来るじゃん」
 褒められると嬉しくて、肩をすぼめて笑う。すると店長も薄く笑って、「このっ」と私の顎をつまんだ。そうしていると、ピコピコと呼びベルが叫び出す。
「ほら、行っといで。四二卓がお呼びだよ」
「はいっ」
 深呼吸して、笑顔。背筋を伸ばしたら、私も一人前のスタッフにまた一歩近づく。

 帰り際のお客様にデジタルカメラを手渡されて、緊張しながらも「はい、チーズ」とシャッターを押す。お客様に「ありがとう、お姉さん」「ごちそうさま、お姉さん」「頑張ってね、お姉さん」と声を掛けられるのはとても嬉しいことだった。
 その日の一大集団をそうしてエレベーターのところでお見送りして、少し気が大きくなっていたのかもしれない。次にワイングラスを載せたトレーをパントリーのワゴンの上に置こうとした時、手が滑ったというのではない、にわかに手元に違和感を覚えたかと思うと、ワイングラスが一斉に床へ雪崩れていった。
「――――――――」
 頭の中が真っ白になって立ち尽くす私のところへ、クラッシュの音を聞きつけた店長が駆けつけた。慌ててしゃがみ込み、破片を拾おうとすると、店長はそんな私を制止して「危ない。君はホールに戻って」と言う。私は泣きそうになって店長に背を向けた。
 ああぁ私はただ早川店長の役に立ちたかっただけなのに、がっかりさせてしまった。けっきょく私は足手まといになるだけなのだ――なんてこと!
 しばらくしてホールからパントリーを覗くと、グラスの破片はすっかり綺麗になっていて、店長は電話を片手に涼しい顔をして予約台帳に書き込みをしていた。私は怖気づいてパントリー内に入れなかった。

「僕はあとY棟の店に少し顔出したら帰るから。頑張ってね、米津さん」
 店長がそう言ったのは、店の混雑もだいぶ落ち着いてきた頃のことだった。
「お疲れさまでした。それと、……ごめんなさい」
「ん、何が?」
「ワイングラスです。たくさん割っちゃって」
 肩を落としてそう言うと、店長は少し考えるような素振りをしたのち、「あぁ、そんなこと」といったふうに首を横に振った。
「形あるもの、いつかは必ずなくなるものだからね。もう過ぎたことは気にしてもしょうがないよ。大切なのはミスを繰り返さないこと。……それと」
 びっくりするくらい優しい顔で、店長は言う。
「米津さんは笑顔でいなきゃ。君が仕事を心から楽しいと思って、それで笑って働いてたら、僕たちスタッフも、もちろんお客様も自然とそうなるんだから。君の笑顔がみんなを幸せにするんだよ。だからほら、笑って、ほら」
 曖昧に微笑み返すと、店長は「うん、そうそう」と言って、手を振りながらエレベーターに乗り込んでいった。

 そう言われたからには、もう笑顔で頑張るしかなかった。勤務は残り一時間半。
 私は料理を運び、ワインを開けた。グラスを下げ、食器洗浄機を回し、皿を片づけた。お客様を席へ案内し、注文を聞いた。テーブルクロスをたたみ、テーブルを拭いていたところで、他のスタッフに声を掛けられた。
「米津さん、もう上がりの時間ですよ」
「そうなんですか? 十時までだと思っていましたが」
「頑張っていたから少し早めに帰れるようにと、早川店長が言っていたので」
「それは知らなかったです。……お疲れさまです、ありがとうございました」
「はい、お疲れさまでした」

 狭い更衣室で制服を脱ぎ、まとめていた髪を解いたら、あまりにも呆気なくいつもの私になった。姿見の前で、少し笑ってみる。ぎこちない、不格好な笑み。どう考えても一人前のスタッフには程遠かった。
「――――――――、?」
 ふと更衣室の外から店長の声が聞こえた気がして耳を澄ませる。そんなはずはない。いよいよ自分に苦笑いを漏らしてパントリーの奥にある更衣室の扉を開けると、しかしもちろん、店長がそこにいるわけもなかった。
 まだホールに残っているスタッフたちに挨拶をしつつ、私はなんとなく重い足取りでエレベーターへ向かう。この店が地上八階にあるせいでエレベーターにはいつもだいぶ待たされるのだけれど、この時限りは扉がひとつ開いていた。
「あ」
 違う、内側から「開」ボタンを押し続けている早川店長が、扉を開けているのだ。驚いて足を止めた私は、しかし店長の「どうしたの? 早く乗って」という言葉に促され、慌てて乗り込む。一歩後ろからその背中を見上げると、店長はずいぶん背が高かった。ムースでがっちり固めた髪が、少しだけ疲れていた。
「これからまたY棟へ行かれるんですか?」
「もう帰るよ。今日は休みの日なんだから、これ以上働きたくないよ」
「いつもどうやってお店まで来てらっしゃるんでしたっけ?」
「いつもは自転車。でも今日は休みの日だから、電車。それと、僕にそんなふうに丁寧な言葉でしゃべらなくていいよ」
 私はそれには答えず、体を横に揺すった。エレベーターが一階に着いた。
「一緒に帰ってもいいですか?」
 店長はそこで初めて振り向いた。「うん。いいよ」

 長いような短いような道のりの中で、私は店長と何を話したのかよく憶えていない。大したことは何も話題に上らなかった気がする。店長は古い借り部屋の雨漏りが多くて大変だと言って、私はフランス人がカエルを食することについて話した。つまり本当に大したことのない話だった。ただ、なんとなく楽しかった。
「そういえば、店長はどこの駅までですか?」
 私がカエルの話を中断したのは、ホームの電光掲示板を見上げた時。「F橋まで」という返事を耳にして、私は少し首を傾げた。
「私、S浜までです。S浜、快速列車は停まってくれないんです。この快速の次、八分待つと普通列車が来るはずなんですけど」
 店長は自分を見上げるアルバイトの小娘をなんとも言えない表情で見下ろした。
「あ、あー、なんだそれ。ちょーめんどくせぇ」
「ああっ、店長、面倒くさいですって。ひどいです。どうぞ先帰ってください」
「あーもう。分かってる分かってるったら。僕がそんなことするわけないでしょ」
 それは風の強い日で、人数も少ないホームの隅に立つ私たちは吹きつける風をまともに浴びた。快速列車を無駄に見過ごしたのち、店長は少し背を丸めてしきりに「寒い。寒い」と言った。当てつけだろうかと半ば思いながら、半ば面白がって「寒いですね。寒いですね」と返事をしていると、背中に柔らかな重みを感じて私はにやにや笑いをやめた。
「あー寒い。ほんと寒い」
 そっぽ向いた店長の、深緑のパーカーに包まれた細い身体はいかにも寒そうだった。私は両手でペールグレーのカーディガンの襟元を握りしめた。ほのかに、ぬくもりが残る。
「あったかいです、店長」
 この不思議な人は、時々、まるで私が自分はお姫様なんじゃないかと思ってしまうような錯覚を起こさせる。そのたび私は考えた。どうにかしてそれに応えたい。とにかく今はまだ、がむしゃらに頑張るだけだけれど。
「明日からもまた、よろしくお願いしますね」
 店長はひとつ身震いしながら、「うん。よろしくね」と笑っていた。

 答え:あなたは私をお姫様にしてくれる。だから、私はあなたを王子様にしてあげたい。
 舞台はDリゾートホテル内にあるレストラン、最寄駅はM浜駅で、それから……と、無駄に不必要な設定や台詞がどんどん浮かんできて止まりません←
最終更新:2014年02月17日 14:51