2012年03月10日 (土) 22時35分-苗之季雨
晴れた日は外に飛び出して、思いっきり駆け回りたくなる。九歳の幼い少年にとってはごく当然であるはずのそんな欲求も、周囲の者に言わせれば必ずしも歓迎されるものではないらしい。最近になって、ようやくそのことに気づき始めた。
「よい、しょっと!」
貞明(さだあきら)は高欄によじ登ると、そのまま庭先に飛び降りた。素直に階を使わないのは、人目を憚るためというよりは単にまだるっこしいからだ。それに、なんと言ってもこちらの方が断然わくわくする。
東宮様は、と遠くで女房の声が上がった。もういなくなったのがバレたらしい。貞明は顔をしかめ、急いで植え込みの陰に隠れる。見つかったら最後、またしても邸の中に連れ込まれてしまうから。
あなたは東宮――皇太子なのですから、下賤の者のような振る舞いをなさっては困ります。室内で大人しくしていて下さいませ。外で遊びたい、馬に乗ってみたい、弓を習いたいと言えば必ずそう突っぱねられる。高貴な方はお邸で行儀よく過ごすものだと叱りつける乳母に、貞明は言い返した。日本武尊や雄略の帝、壬申の乱の高市皇子みたいに、武勇で名高い皇子はいっぱいいる。乳兄弟に教えてもらった昔話を振りかざしても、乳母は冷たくあしらうばかりだ。昔と今では、話が違いますと。そしてそのまま、学士のもとへと引きずられて勉強する羽目になった。
頭上ではさんさんと太陽が照り輝き、まばゆい光を放っている。でもその陽射しは、御簾や几帳に閉ざされた邸内までは届かない。そして大人たちは、そんな薄暗い場所こそが貞明の居場所だというのだ。
二年前、貞明は初めて内裏に上がった。「ちちみかど」に「はいえつ」するためだ。滅多にこの邸から出たことのない貞明は、「だいり」なる場所を一目見たくてたまらなかった。いずれ自分は「みかど」になってここで暮らすことになると聞かされていたから、どんなところなのか気になって仕方がなかったのだ。
ところが、貞明の初参内はひどくつまらないものに終わった。父帝におめもじするのだから、と居心地の悪い小奇麗な衣装で飾り立てられ、まるで連行されるように女房がぴったり付き添っていた。間もなく帝がお渡りです、と待たされた先できらびやかな調度品に触ろうとした瞬間、はしたないと叱責された。内裏の中を探検したいと騒げば、とんでもないと驚愕された。やがて御簾の向こう側に現れた帝は、「私が父である」「会えて嬉しい」「もっと近くに」とかなんとか言って涙ぐんでいたが、はっきり言って貞明は、目の前の見知らぬ男などどうでも良かった。今まで人づての話だけでしか聞いていなかった父親に愛着などない。それより、自分の邸よりずっと広いこの内裏を見て廻りたかったのに、とうとうそれが許されることはなかった。
それ以来、貞明を取り巻く人々の対応は徐々に厳しくなっていった。何とかして雅の世界を振り向かせようと、やれ和歌だのやれ管弦の遊びだのと勧めてくるが、貞明の目には少しも魅力的に映らない。だからこうして、しょっちゅう青空のもとに出ては気ままに遊び回る。
「げっ……」
だんだん大きくなってきた足音に、貞明はこっそり腰を浮かせた。見ると、慌てふためいた女房が近くの渡殿をうろうろしている。彼女がこちらに気づかないうちに、貞明は別の場所に移動する。冒険し尽くしたこの邸なら、貞明の方が段違いに有利だ。
床下に身を潜め、追っ手をやり過ごしたのを確認してから木に足をかける。あちらの枝に飛び移れば、秘密の隠れ家はすぐそこだ。そこに辿り着けば見つかりっこない。
「ふー……」
ひんやりとした岩にもたれかかり、貞明は一息ついた。……実際のところ、これが現実なのだ。築地に囲まれた内側でしか貞明は動けず、そびえ立つ塀の外のことはちっとも分からないまま。東宮という高い身分にあっても、貞明の要求なんか何一つ通らない。
「……東宮さま?」
聞き慣れた声が貞明を呼ぶ。ぱっと目を開くと、木にしがみつきながらこちらを覗き込む同い年の乳兄弟と目が合った。びっくりして飛び起きる。
「益(すすむ)」
「やっぱりここにいた。さがしましたよー、もう」
唯一この場所を共有している相手。益はほっとした笑みを見せると、貞明の隣に降り立った。そのまま辺りを窺い、こそっと囁く。
「はやく戻りましょう。みんな大慌てですよ?」
ほら、と手を差し出す益を、貞明はしばし見つめた。それから、にっと悪戯な笑顔を作る。ぐいっと益の手を引っ張り、こちらに引き寄せた。はずみで生垣に倒れ込む益。
「痛っ、ちょ、なにす――」
「いいこと思いついた!」
「へっ?」
いきなりご機嫌になった貞明に、益はお間抜けな声を上げる。貞明はえへんと胸を張ると、勢いよく人差し指を突きつけた。
「おれたちは賊に追われている。それから逃げきったらこっちの勝ちだ! いいな?」
「はい!? それっておれもやるんですか?」
「あったりまえだろ? お前はおれの部下だ! ヘマすんなよ」
「……はー、また母上にどやされる……」
頭を抱える乳兄弟などどこ吹く風で、貞明はひょっこりと物陰から頭を出し、「賊」の動向を確認する。視界に誰もいないのを確信し、貞明はさっと駆け出した。
「あ、待って下さい!」
出遅れた益は急いで後を追う。その声は当惑に染まりながらも、どこか楽しげに弾んでいた。
わざわざ短編書くたびに新しくキャラ作るの面倒だなーと思ったことから派生した話です。
『葡萄』に載せた自作小説をご覧下さった方は過去番外編として、未読の方はイントロダクション的な何かとして捉えて頂ければと思います。オチ? なにそれ美味しいの?
即位前なら本名表記、がこだわりなので、本作では陽成ではなく貞明なのです。
最終更新:2014年02月17日 14:52