2012年03月12日 (月) 12時28分-雪緒
元治元年 九月十五日
夏は嫌いだ、と総司は思う。
夜になってもうだるような熱が残っている。
暑い。
額から滲み出る汗を拭い、沖田総司は嘆息する。
まったく、京の気候は江戸者には合わない。
夏は油照り、冬は酷い底冷え。元来体が強い方でない総司は、予想通りと言うべきか二月前の池田屋で昏倒した。
戦闘が始まって僅かな時間しかたっていない。だのに、酷い眩暈と頭痛と吐き気が襲ってきたときには参った。参ったが何とかなると思っていた。その時は既に昏倒、気付けば祇園の町会所だった。
終わってみれば、数人斬って捨てただけの自分の戦歴が情けなくて、馬鹿馬鹿しくて、可笑しくて。
トチ狂ったように稽古にぶつければ、一度でも木刀でしこたま殴られればよかったが、そうは問屋が卸さない。斬り合いにおいても試合においても、総司が望むと望まないと。総司の剣才が他人より頭一つ分抜きん出ていることは否定できまい。故にこの様、強いということはどうしようもなく自分を不自由にする。
くそ、と総司は苛立ちのまま起き上がった。
荒い息を吐きだし、胸元を寛げても当然、内側の熱は一向に体に凝ったままだ。総司にそれを癒すすべはない。
「眠れねぇか」
同室の斎藤が振り返りもせず問うた。
「ええ、まぁ。少し涼んできます」
「好きにしろ、ついでにバッサリ斬られてこい」
あまりの言い様に総司は団扇と脇差を帯に差して小さく笑い声を立てた。しかし、それをある意味で望んでいた総司にとっては、見透かされたようでもあって可笑しくもあった。
「ひどいなぁ」
まぁ、分かりきったことだ。
なんせ斎藤一という男は総司が初対面から、あぁ、この人はきっと私とは一生反りが合わない、と予感できた唯一の人物だ。四年以上付き合ってもその関係は変わっていない。
それでいいと思う。むしろ反りが合わないこそ、合わせる努力をしなくていいから居心地が良い。
「俺ぁてめぇとやり合うなんざ、真っ平御免だからな」
斎藤の低い笑い声を背に聞きながら、総司は障子を閉めて欠伸を漏らした。見上げて軒先を伝った水が落ちてきて、
あぁ、雨が降っていたのだな。
と気付いた。
成程、道理で今夜は蒸すわけだ。
じっとりと絡みつく湿気に汗が噴き出すが、総司は拭わず、代わりに土砂降りの雨に足を踏み入れた。冷えた雨が汗を引かせ、心地良ささえも感じさせる。夜闇にも目が慣れてきて、意味もなく外に出たくなった。巡察の刻限は疾うに過ぎており、門にも人影はない。
「辻斬りも、雨中にゃあ出ませんか」
ふと、雨が頬を伝う感触に、既視感を覚えた。だが、頭を振って思考から追い出す。
もう、一年になるのか。
前川邸の門に手を置いて目を閉じた。かつて怒りにまかせて刻んだ刀傷がささくれだって、触れるとちくりと痛んだ。雨風に当たり、丸みを帯びている筈の傷だというのに、触れるたびにその姿を総司の中で明確にしていく。膝を抱えて座り込んだ。
嫌なものだ。
忘れたいものは忘れられず、忘れたくないものは簡単に消えていく。それは恐らく、人間が忘れたくないものを欲張るからだろう。あんまりに多いものだから、古い物からどんどん消えていく。そう思えば嫌な事とは生きているうちでは存外、少ないのかもしれない。ならば総司もいずれ楽になれるのだろうか。
あぁ、雨音が煩い。
だが、雨の音が耳に障るくせに、雨粒は落ちてこない。ふと、目を開き、顔を上げて総司は息を呑んだ。華と、見紛う鮮烈な色彩が総司の視界を焼いた。開いた優雅な番傘だった。
霞んだ提灯の明かりが雨中に佇み、持ち手の顔を赤く照らしていた。雨を受け止めた傘はぱらぱらと、大きな音を立てている。しゃんっと簪が響いて、血の気のない白い手が総司に差し出された。
「おうめさん」
女が居た。
「お久しゅう、沖田はん」
にこり、と女は笑った。笑うと、妖艶さの滲む顔がどこかしら無邪気に見えた。
「一年ぶり、ですか。一周忌に合わせてだなんて」
「一年に、少ぉし足りてへんなぁ」
総司は女の手を取って、立ち上がる。随分身長差があるので傘もついでに受け取った。当然と言うべきか、女の白い手は雨中に居た総司よりも冷たかった。女は傘の中で八木邸に目をやった。
「懐かしゅうないどすか」
総司は渋面を作った。
八木邸は以前の賊騒ぎ以来、事情を知る隊士にとっては鬼門である。
だが土方・近藤の両名は敢えて、場所に局長室を置き、幹部会を開く。前局長とその取り巻きが賊に殺された、その場所は、未だ血の跡が濃く残る壁が彼の夜を生々しく感じさせる。そして、生来の武士たる総司は気づいてしまった。
あぁ、この人たちは侍じゃない。所詮多摩の、百姓だ。
「何を、考えとりますのや、沖田はん」
女はじっと総司を見つめた。
本当に綺麗なひとだと思う。
恋ゆえに人は此処まで狂うことができるのかと初めて知ったのが十二で、もう恋をすまいと思ったのが十七の初恋。女はもう真っ平だと思って、一年と少し前にこの人に出会った。出会った時から暫くして、この人は前局長の愛人になっていた。愛おしむような瞳も無邪気な笑顔も、総司ははっきりと思い出せる。
「愛して、いたんですか」
女は寂しげに微笑んでから首を振った。
「本当ならもっと早く、ころしたかったんえ。私の、この手で」
「どうして」
「何か、可哀相なって」
「芹沢先生が、ですか」
女は雨中に足を踏み出した。提灯の薄明かりの中で見えた女の髪も着物も、わずかにでも濡れることはない。
「あんなに寂しそうな人、見たことあらしまへん」
押し借りした金は隊を回していたのに庇う人はいない。狼藉を繰り返す度に取り巻き達は囃し立てるし褒め称える。その中に込められた意味に気付けない。それは背負った業の深さの問題だ。総司は気付くのに一年要した。業の深さを思い知るのに、一年前の総司では若過ぎた。
挙句の果てが、賊を装った暗殺。
「死んで、楽になれはったんやろか」
「芹沢先生はおうめさんのことがとても好きでしたから、大丈夫ですよ」
ふっ、と女は表情を緩めた。そして泣きそうな顔で笑った。
「もっと早く言ってくれはったんどしたら、うれしおしたなぁ」
総司は思わず溢れそうになった涙を笑って誤魔化した。
あの雨夜は忘れたくとも忘れられまい。
悲しかった筈なのに涙は全く出ず、苦しかった筈なのに悲鳴さえ、出なかった。血だるまの肉塊を見下ろして総司は冷静な振りをした。
総司は武士だ、嫌だと言えない。命令されるままつい先刻まで酒を汲み交わしていた同志を粛々と斬った。斬り終わって母屋に戻ると、布団の上であっという間に命を失った女が、怒りも悲しみもなく、まして蔑んだ様でもなく総司を見つめていた。
女の見開いたその目は雨夜独特の、不穏な薄明かりの中で黒々と輝いていた。艶々とした瞳が沖田の想像の及ばない遠くを眺めているような気がした。
I love youを訳しなさい「どうか幸せに」
お久しぶりです。京都に行ってきました。壬生屯所で芹沢さんの話を聞いて突発的に書きたくなりました。いろいろ知識がないと読みにくいかもしれません。読みにくかったらごめんなさい。
最終更新:2014年02月17日 15:02