先生のお仕事(お題『洗う』)

2012年03月29日 (木) 23時12分-御伽アリス


 あたしが小学校に着くと、学校のすぐ脇を流れている川のところに担任の先生の背中が見えた。しゃがみ込んで何かをしているみたいだった。もうとっくに授業は始まっている時間なのに変だな、と思ってあたしは先生の方に近づいていった。
「先生、おはようございます」
元気に声をかけると、先生はくるりと振り返って渋い顔をした。
「うん、おはよう。今日はどうしたんだ? 遅刻は絶対ダメっていうクラスの決まりだったじゃないか」
「先生ごめんなさい、寝坊しちゃった」
あたしは笑ってごまかそうとしたけど、先生は不機嫌そうな顔のままだった。
「罰として宿題のプリント1枚追加な」
「え~~っ!」
「『え~』って言わないの」
あたしは仕方なく黙ってうなずいた。遅刻したのはあたしが悪いからしょうがない。
 あたしは先生の足元に置いてあるタライに目を向けた。
「あ、これってクラスのみんなの……?」
先生は少し笑った。
「そう、みんなの分を集めてこの川で洗濯してるんだよ。僕は君たちの担任だからね、こういう仕事もあるのさ」
あたしは首を傾げた。
「でも先生、洗濯なら洗濯機でやればいいのに」
すると先生は泣く真似をして、そのくせ変な笑顔で言った。
「これはみんなの大事な物だから、一つ一つ手洗いしなきゃいけないんだよ。うっ、うっ、でも先生はみんなのこと好きだから少しくらい川の水が冷たくても全然苦じゃないよ」
先生の変な顔はけっこう笑えた。

 あたしは流れる川をのぞき込んでみた。そしたらびっくりした。
「先生、この川すごくきったないよ! こんな川で洗濯しちゃ汚れが取れるどころか、逆に汚れちゃうじゃない」
先生は今度は真面目な顔をしてあたしの目を見た。そして語りかけるように言った。
「これでいいんだよ。いいかい、よく聞くんだ。洗うとは汚れを取り除くのではなくて、正しい色に染め直すことなんだ」
そう言われて、あたしはもう一度川の水を見た。黒く濁っていてこれが正しい色とはとても思えなかった。首を傾げたままのあたしを見て先生は表情を和らげた。
「まあいいや。まだ分からなくてもいいよ」
 先生は洗濯が終わったようで、立ち上がって言った。
「よし、やっと終わったぞ。あとはこのまま乾かせばいいだけだな」
先生はふう、と息をついて伸びをしたが、あたしはおかしいな、と思った。そんなあたしの表情を見て取ったのか、先生は訝しげに尋ねてきた。
「どうかしたか?」
「先生、こんなしわくちゃに丸めたまま乾かしておいたら大変なことになります。後でアイロンかけてもこんなの駄目ですよ」
あたしの言葉に先生はハハハ、と笑った。
「大丈夫だ。しわくちゃで良いんだよ。それにしてもアイロンとは、そりゃお前、おもしろいぞ」
あたしは先生の笑う意味がよく分からなかったけど、まあ大丈夫と言うのなら大丈夫なのかな、と思った。

 そろそろ学校に入ろうとした時、先生が声を上げた。
「あれ、これは誰のだったかな」
先生はタライの中の1つを持ち上げて首を傾げていた。
「名前は書いてないんですか?」
「うん、書いてない。あれほど持ち物には名前を書くように言っておいたのに」
「きっとAくんですよ。いつも名前を書かないでいるから、いろんな物をなくしちゃうんです」
「まったく……」
先生は肩を落とした。
「他にも名前が無いのがあるかもしれないから一応チェックしておくか」
「じゃああたしも手伝います」
 先生とあたしは一緒にタライに盛られているみんなの洗濯物を調べた。名前が無い物はなかったけれど、変なのが1つあった。
「先生、Bちゃんのやつ、右側が無いんですけど。どこかに落としませんでしたか」
「えっ、ほんとだ。きっと洗っている間に取れてしまったんだな」
川を見ると、少し下流のところに生えた草に、それらしい物が引っ掛かっていた。
「先生、あそこあそこ!」
あたしが指をさすと先生は急いで走って行って、Bちゃんの洗濯物の、取れてしまった右側を拾ってきた。
「危ないところだった。流されていたらどうなっていたか。他はちゃんと全部あるかな?」
「あるみたいです」
先生はホッとしたように息を吐いた。

 あたしは先生と一緒に校舎に入ることにした。そうしたらまた先生が思い出したように言った。
「そうだ、お前のを洗うの忘れていたよ、早く出して。今、洗っちゃうから」
先生はあたしに向かって掌を出して、洗濯物を差し出すように促した。あたしは最初から疑問に思いつつ、言おうか迷っていたことを先生に訊いてみた。
「先生、これって本当に洗濯してもいいんですか?」
先生はどうしてそんなことを尋ねるのか、と不思議そうな顔をした。
「当たり前だろう、ちゃんと洗わないと」
あたしは先生の顔に、ほんの少しの焦りが表れたのを見逃さなかった。
「先生、あたし知ってます。これって『洗脳』って言うんでしょ。脳なんてやっぱり洗っちゃダメです、学校で子どもを洗脳しちゃダメですっ!」
先生はしばらく怖い顔で黙っていたけど、やがて駄々をこねるように言った。
「え~~っ」
「『え~』って言わない!」
最終更新:2014年02月17日 15:08