2012年03月30日 (金) 17時46分-渋江照彦
「この旅館に、大層立派な水琴窟があると聞いたのですが」
自分の座している目の前に夕食の膳を用意してくれている女中に、今野和友青年は持ち前の、その齢にしては野太いどっしりとした声でそう尋ねた。
近頃では余りお目にかからない紺の書生羽織に身を包んで、額の所に二、三本深い渓谷の如き皺を刻んだまま、煙草をプカプカやっている今野青年からは、人を寄せ付けぬオーラの様な物が出ている気がして、女中は先程から内心ドキドキしていたのが、突然野太い声で尋ねられたものだから柄にもなくハ、ハイなどと何処ぞの腕白坊主が叱られた時の様な声をつい、出してしまった。
「水琴窟、で御座いますか?」
そう尋ね返す声も何処か上擦っている。
そんな女中の様子を見て、自分では優しく尋ねたつもりであった今野青年は少し苦笑し、
「ええ、そうですよ。何もそんなにビックリする事はないじゃあないですか」
そう言って、今度はカラカラと額の皺はそのままで笑ってみせた。
「水琴窟と申しますと、あの中庭にあります物で御座いましょうか」
女中、今野青年の笑いの真意が判らぬと見えて、尚その声には緊張した所が残っている。
「ああ、他に無いならそれなのでしょう。と言う事は、あるんですね?」
「ええ、中庭に一つだけ。大層古い物だそうで、江戸の頃に作られた物だとか」
「ほう、江戸。そりゃあまた酷く昔の話ですね。すると、この旅館もその時からあるんでしょうね?」
「ええ、そうで御座います。ここは今年で創業から二百十年目になりますそうで」
「二百十・・・」
今野青年はそう呟くと、部屋の中を見回した。だが、どうも天井や畳なんぞが真新し過ぎて、とても二百年以上経っているとは思われなかった。そう女中に言うと、
「いえ、ここ最近になって建物自体を新しくしたものですから。八年程前でしたか、ここの先代の方が亡くなって、後を継いだ御子息が直ぐに建て替えをなさりまして。今は建築基準が云々とか言うので余りに古いと危ないから、と申しておりました。唯、その時に中庭だけはそのまま潰さずにおこうという事になりまして、何も手をつけられませんで、あそこだけは江戸からの面影を今に留めております」
そう言って、フッと淋しそうな顔をする女中を見て、今野青年は不謹慎ながらこの女、最初に思ったよりも若かないなと腹の底で思うのだった。だが、そんな思いは億尾にも出さずに、
「すると、今でも昔のままの水琴窟が聞ける訳ですね」
「ええ、まあそうです。一般の方にも公開しておりますし」
「ああ、そうなのですか」
旅館に着いて直ぐに部屋に通されたので、まだ中庭はしかと見てはいなかった。
「宜しければご夕食の後にでも御覧下さいませ」
女中はそう言うと、先程から休めていた手をまた動かして一通りの膳を置き終えて、手を前に突き出して一礼すると、部屋から出て行った。
後には、今野青年が一人ポツンと取り残された。
「夕食後、か。まあいいや、逃げる物でなし」
今野青年はそう独り言つと、静かに夕食の膳を食べ始めた。
・
今野青年が始めて水琴窟という物に出会ったのは、彼が幼少の頃、父母に連れられて泊まった旅館での事であった。
しかし、正直に言えば今野青年はその旅館の事を殆ど何もと言っていい程覚えていない。
唯、畳や襖があったからきっと日本旅館だったのだろう、それ位しか判らない。何とも漠然としているのだ。
だが、殊水琴窟の事になると話は別だった。
母にいい物を聞かせてあげると言われてついて行った旅館内の日本庭園。
―耳を澄まして御覧。
母にそう言われて、幼かった今野青年は素直にその言に従った。
目を閉じ、耳を欹てる。すると何処からか幽かに、キーン、キーン、と琴を指で弾く様な音が聞こえてきた。
―どう、聞えた?
優しく尋ねる母に、今野青年は大きく頷いてみせた。
―これは水琴窟って言ってね、地面の下に穴が掘ってあって水がそこに溜まっててね、そこに上から水をほんのちょっぴり垂らしてやると、ホラ、あんな風にキーンって音がするのよ。
母からそんな説明を受けて今野青年は純粋に驚いた。地面の中から音がする。幼い彼にとっては、その事がとても新鮮な衝撃であった。
幼子、中でも特に男の子というものは一度自分の浅く狭い世界に多大なる衝撃を与えた物に対して非常な好奇心を持つものらしく、正にその時の今野青年が好い例であったろう。
彼はその場に根を張ったかの様になって、唯只管に水琴窟の奏する音色に耳を傾けた。
すると、時が経つにつれてキーンという音と音の間に何か他の音が混じるのが今野青年には判ってきた。
―一体、何だろう。
今野青年は幼心にそう思い、そしてその事が水琴窟への好奇心を一層彼の心の中で燃え上がらせた。
―絶対に音の正体を見極めてやる。
そんな義務感めいた感情に突き動かされて、
彼は一所懸命、その小さな耳を最大限に駆使して、音の正体を探った。
すると。
キーン・・・ネエ。
ほんの一瞬、女の声が聞えた。
キーン・・・ネエ。
嘘じゃない。可愛らしく、澄んだ、それでいて何処か物憂げな感じの女の声であった。その調子から、誰かに何かを問いかけようとしているんだなと彼は根拠も無く思った。
キーン・・・ネエ。
だが、肝心の問いかけは水琴窟の音に阻まれて途絶えてしまう。そしてまた、その水琴窟の音の後からネエ、とやるものだから、自然、堂々巡りになってしまうのだ。
そしてそれが、幼い今野青年には堪らなくじれったく思えるのであった。
いつしか、彼の好奇心の炎は水琴窟自体から、地中から響く何処の誰とも判らぬ女の声へと移って行った。
だが、今野青年の好奇心が満たされる事はなかった。
―オイ、そんな所に突っ立ってたら風邪引いちまうぞ。和坊、もう止せ。夏ならともかく、今は冬だ。
何時の間に後ろに居たものか、父が何とも素っ気ない口調でそう言うのが聞えた。
そのお陰で、彼はハッとして一瞬間だけその意識が他に移ってしまった。
それがいけなかった。
慌ててもう一度だけあの女の声を聞こうとしたが、後には水琴窟がキーン、キーン、と鳴るばかりで、女の声はそれっきり聞えなくなってしまった。
この時、彼は女の声を遮ってしまった父を恨めしく思った。
しかしその思いは、あくまでも幼子の一時の感情でしかなかったから、時が経つに連れて薄れて行った。
だが、あの地の下から聞えて来た女の声に対する好奇心はそれから後も消える事は無かった、否、時が経つに連れてその感情は前にも増して彼の心を占領する様になって行った。自分でもどうにも抑えがたい狂おしく、そして激烈な感情である。
幼子の好奇心は、何時しか執着へと変わって行った。
―あの女の声をもう一度聞きたい。
彼はその思いを胸に秘めつつ成長して行った。だが、その事は決して誰にも話はしなかった。してもそんな話は信じて貰えやしないと、そこだけは子供ながらえらく達観していたのだ。
だが月日が経ち、彼が成長して行くに連れて、その思いは彼の心の中で徐々に肥大して行った。
そして彼が高校生になる頃にはその感情は自分では抑え難い程になっており、幼少期に聞いた女の声の事を考えてついつい物思いに耽る回数が増えてきていた。
そんな息子の様子を見て、父母は非常に心配した。自分の息子が恋患いでもしているのではないのかと思ったからだ。
だが、時折父母が彼にどうしたのかと聞いても、彼は何でもないと煩そうにして何かを話そうとする素振りさえ見せない。
そしてそのままズルズルと時は流れて行き、気付くと今野青年は大学生になっていた。
恋患いとは言え、勉学に支障が出ない程であったのが幸いしたのだろう、もうその頃には父母も何も言わなくなっていた。勿論、心の底では心配で堪らなかったのだけれども。
だが、その頃から今野青年の体調は次第に芳しくなくなって行った。
―あの女の声が聞きたい・・・。
毎日そんな事をうわ言の様に呟いては父母があてがってくれた下宿先でホロリホロリと涙を流して酒を呷る日々が続いた。
おそらく、そんな生活がいけなかったのだろう。
ある日、何時もの様に大学の帰り道に行きつけの酒屋で焼酎の一升瓶を買おうとしてそこでバッタリと倒れてしまった。
直ぐに酒屋の主人が電話してお医者を呼んでくれたので命に別状はなかったが、医者からはストレスによる疲労の所為だろうと言われ、大学を二週間程休んで何処か温泉郷にでも投宿して体を休めた方が良いでしょうと助言された。
そこで、その由を実家の父母に伝えると直ぐに旅の支度金が下宿先に届けられた。その時に彼はフッと思った。
―そうだ、あの子供の時に泊まった旅館の事を聞いてみよう。
父母が覚えているかどうかやや怪しかったが、一応それとなく聞いて見ると、それなら多分岐阜の方にある宿屋だろうとの返事。
そこで早速調べて電話をすると、今はシーズンオフでお客は殆どいないから、と言う訳で直ぐに十日程の予約が取れた。
―これで、またあの女の声が聞けるのだ。
そう思うと、今野青年はワクワクせずにはいられなかった。今までの鬱々とした日々が嘘の様に彼の心中は晴れ晴れとしていた。
そうして期待に胸を膨らませてやって来た旅の初日に、彼は女中に水琴窟の話を尋ねたのであった。
・
大方の食事が片付いて先程と同じ女中が膳を下げるのを見ながら今野青年は逸る気持ちを必死に抑えようと、もう今日は何本目になるのか判らぬ煙草に火を付けた。
すると、膳を下げながら女中がさも今思い出したかの様に彼の方を向きながら、
「お客様、水琴窟は御覧になられませんか」
と尋ねて来た。
「ああいや、そうですね。できれば見たいのですが、如何せんこの旅館に入って直ぐに部屋に案内して貰ったものですからまだ中庭の位置をちゃんと把握しておらんのですよ。出来ればどなたかに案内をして貰いたいのですが、いえ、膳をお下げになってからで結構です。そんな、逃げる物でもないですから」
そうは言ってみたものの、内心は早く水琴窟のある場所まで行きたくてウズウズしている今野青年の気持ちを察したのだろう、女中は少しお待ちを、と言うと襖を開けて外へと出て行ったが、直ぐに一人の娘を連れて入って来た。長い髪を肩まで垂らした、綺麗な顔立ちの娘であった。
「今からこの娘に水琴窟の場所までご案内させましょう。まだ片付けに大分手間取りそうですから」
そう言って、女中はその娘に向かって何やら二言三言囁くと、娘の方では合点した様でフッと今野青年の方を見るとボソボソと、華恵と申しますと気恥ずかしそうにやや顔を下に向けて言うのであった。
その様子を女中が小声で窘めて、取り繕うかの様に早口で、
「どうも申し訳御座いません。この娘もまだ此処で働き始めまして日が浅いものですから礼儀も十分に弁えずに、本当に・・・」
そう言って、さらに何か小声で娘に言うと、娘は恐縮した様にハイと小さく呟いて、不安そうに今野青年の方をチラと見ると、此方で御座いますと先程よりは幾分か大きめの声で言って、クルッと背を向けると外へと出た。今野青年もその華恵について外へと出る。
書生羽織を着ているとは言え、廊下が何処と無く肌寒かったのは初冬の頃であったからか。
「今日はやけに冷えますね」
と、自分よりももしかすると齢の若い娘に対して今野青年はとても丁寧な物言いをするのだが、華恵の方は緊張しているのかそうですね、とつれない返事。
そのまま静々と板張りの廊下をやや摺り足で歩く後姿が何処か浮世離れしているなと彼は思った。
そうこうする内に、廊下を何遍もクネクネと曲がったものだから、今野青年には何処が何処だか判らなくなってしまっていた。
すると、突然前の華恵がピタリと止まった。
「此処で御座います」
そう言って右手を指差すと成る程、確かに立派な日本庭園が其処には見えた。だが、残念な事に今野青年には日本庭園の知識が殆ど無かったから、パッとみてそれが幼子の時に見たあの日本庭園であったのかどうか判然としなかった。
「此方からお入り下さいませ」
華恵はそう言って、今野青年を日本庭園の中へと誘い入れた。庭園の中へと入る入り口付近には客の為に用意された二、三足の下駄が用意されていたので、今野青年はその一つを履いて庭園の中へと入った。
・
月が、途切れ途切れの雲間にサッと隠れたりまたチラと覗いたりする夜であった。
日本庭園の中には幸いにもと言うべきか、他の客は一人も居なかった。
「水琴窟がお聞きになりたいとか・・・」
と、華恵は今野青年の後ろからソッと囁くが、既に彼は集中しているのか返事は何も返って来ない。
まだ鈴虫の音が聞えても良い頃なのだが、なにやら今宵はシンと静まり返っていて、それに加えて物音も何一つしないから、何とはなしに物凄い感じがしてくる。
だが、それがかえって今野青年からすれば好条件になったろう。何の音にも遮られずにあのキーン、という水琴窟の音が聞けるから。
昔の時の様に彼は今では少しは大きくなった耳を澄ませて、水琴窟の音色を必死で捉えようとした。
すると。
キーンとあの時と同じ、琴を弾くかの様な音が聞こえてきた。
今野青年はさらに耳を澄ませ、水琴窟の音色の後に続く筈の女の、あの可愛らしく、澄んだ、それでいて何処か物憂げな感じの声を聞き分けようとした。
キーン・・・。
キーン・・・。
水琴窟の音色だけは厭と言う程頭の中に響くのだけど、肝心の女の声は聞えない。
―もっと。もっと集中しなきゃ。
そう心の中で御題目の様に唱えてみるが、どうもいけない、聞えない。
キーン・・・。
キーン・・・。
水琴窟の音のみが残酷にも無音の世界に響き渡る。
「何故だ、どうして聞えない・・・」
思わずそんな事を呟いていた。
やはり、あの女の声は幼少期に見た一時の夢幻であったのか。そして、その夢幻を自分は何年もずっと追い駆けていたと言うのか。
―否、そんな事があろうものか。
あの地の下から響く女の声は、聞き違いや美しき幻聴などでは決してない。
あの水琴窟の下には、絶対に女が一人で物憂げに何遍も問いかけようとしては阻まれる無間地獄の責苦を味わっている筈なのだ。
―ならば、場所を違えたか。
そう思ったら、一気に脱力してしまった。
そうだ、何も絶対に此処と決まった訳ではないのだ。父母とて余りに昔の事だからきっと思い違いをしていたのかも知れぬ。
だが、もしもそうならば、あの地の下の女に対する手掛かりは、全くもって失われてしまったに等しいのではなかろうか。
其処まで考えて、今まで心の中から消え去っていた筈のあの、鬱々とした感情が蘇ってきて、彼はゲッソリとした。
もしかすると、自分は永遠にあの水琴窟の女の声を聞く事は叶わぬのやも知れぬ、そんな気さえした。
「帰ろう」
今野青年がそう力なく呟いた時であった。
突然後ろから彼はスックと誰かに抱きすくめられた。
ハッとして後ろを振り返ろうとする今野青年の鼻腔を芳しい女の黒髪の匂いが掠めた。
―そうか、華恵が後ろにいる事をすっかり失念していた。
いきなり華恵に抱きすくめられたものだから、今野青年は瞬間図らずもドキリとしてしまったが、直ぐにこの娘が何か怖い物でもみたのかと思い、どうしましたと尋ねようとしたのだが、その言の葉は、喉元まで出掛かってそのまま止まってしまった。
「ネエ・・・」
耳元で華恵の声が聞えた。
その途端、今野青年は全身に電流が走った様な気分になった。
同じだ。
今の声、忘れよう筈が無い。
つい今しがたまでもう一生聞けぬと思っていた、あの幼少期に聞いた、水琴窟の女の声であった。
「は、華恵・・・さん?」
思わず彼の声が上擦る。
だが、華恵はその言葉には直接答えずに、今野青年に抱きついたまま、
「やっと、会えました」
そう言う。
「あ、貴女だったのですか。あの時の地の下から聞えていた声は・・・」
今野青年は上擦った声のまま、そう早口に捲くし立てた。
「本当は、子供の時に引こうか思うとったんですが、遅うなりました」
岐阜の娘とばかり思っていたが、何処となく関西の方の訛りがある。
「あの時に、貴方の父上があんな無粋な声を出さんかったら、今頃はずっと一緒に居られましたに」
そう言って、華恵はフウッと今野青年の首筋に吐息を吹き掛けそして、前に回るとソッと彼の手を取って闇の中へと誘おうとした。
今野青年はその誘いに何ら抵抗を示さずに彼女が導くままに闇の中へと入って行こうとした。
その時であった。
「アレ、お客様!」
後ろの方で甲高い女の叫び声がした。
ハッとして後ろをほんの少し振り向くと、そこには半狂乱の体の華恵の姿があった。
「えっ、華恵・・・さん?」
そこで彼は慌てて前を見つめたが、その途端にヒッと口から短い悲鳴が漏れてしまった。
そこには青ざめた全く彼の見知らぬ女が薄気味の悪い笑みを顔に浮かべて、黒髪を振り乱して彼を闇へと引きずり込もうとしていた。
―アッ、いけない。
ゾッとして、今野青年は慌ててその場から逃げようと、も一度後ろを振り向いた。
だが、遅すぎた。
・
その時、華恵は何が何だか訳が判らなくなっていた。
突然前に居るお客の男が何やらボソボソ呟きだして、その途端に日本庭園全体がググッと地中へ沈み込むような感覚に襲われたのだ。
そこで、慌てて彼女は後ろに下がって建物の中へと避難したのだが、何故か男の方は気付かない風でボウッとその場に突っ立っている。
その間にも日本庭園はどんどん地の底へと沈んで行き、石灯籠も松の木も一緒くたになって消えて行った。
そこで初めて華恵はギョッとして金切り声を上げてお客の男を呼んだのだが、その時になって初めて男も気付いた様に此方をクルリと振り返った。
その時、その男の肩越しに後ろに見えたは死人の様に青ざめて不気味な笑みを顔に貼り付けた、何処の誰とも知らない女。
そこで彼女はキャッと叫ぶと後には狂った様にお客様、お客様と呼び続けたのだが、その間にも、男の姿は地中へと没して行き、最後に見えたのは、男の驚いた様な怯えている様な何とも言えぬ顔であったが、それも直ぐに消え失せて、その途端に厚い雲が月を隠して辺りは真の暗闇に。
だが、それもほんの少しの間の事で、直ぐに月がまたチラと雲間から現れて、サッとその青白い光で日本庭園を照らしたが、其処には何時もの様に石灯籠があり、松の木があり、特に変わった異変は無い。
唯、先程まで目の前に居た筈の、あの男の客の姿だけは何処を探しても見つからず、その客の来ていた筈の書生羽織が、ポツンと庭の中央に脱ぎ捨てられたかの様になっているだけ。
その時になって、華恵の叫び声を聞きつけ他の従業員達がドヤドヤと押しかけてきたが、華恵から事の顛末をたどたどしい口調で聞かされて吃驚仰天、すぐさま辺りを調べたが、成る程確かに庭の中に隠れ潜んでいる気配も無し、かと言って、他の所から別の場所へ抜け出せる筈はないから、こりゃ本当に地中に没したんじゃないのかと皆青い顔。
その後、誰が呼んだものか警察の人間も二、三人やって来たが、皆一様に顔を見合わせて首を捻るばかり。
唯それでも、最後にその客と一緒にいた華恵が何か知っておろうと特に厳しく詮索されたが、華恵は毎回同じ事を繰り返すのみで埒が明かなかった。
部屋に残された鞄に入っていた物と旅館の宿帳から、その消えた男が今野和友と言う名である事が知れて、急いで親元を調べて連絡すると、彼は病気の為に長期療養でこの地を訪れていたとの事。
結局それ以上の事は判らず、警察も終には匙を投げて失踪者という扱いにして帰って行ってしまい、その次の日の地方の新聞の端に小さく、長期療養中の青年失踪す、という内容の記事が掲載されただけで、事件が大きく取り上げられる事は無かった。
・
それから暫くして、華恵は体調を崩したので暇を貰って郷里に帰ったが、その後彼女がどうなったのかを知る者は、誰もいない。
※お題でとは全く無関係な作品です……。
最終更新:2014年02月17日 15:09