2012年04月24日 (火) 00時52分-弥田
マンホールの蓋を開ければ、そこには世界が広がっている。誰にも知られない内側の世界。まぶたの裏の光景。都市のはらわた。すなわち、下水道。僕は創作に行き詰まると、おもむろにそこへと降りたって、懐中電灯の明かりだけを頼りに、これといった当てもなく流浪するのが常だった。そのたびに履くゴム長靴は、むかし人から贈られたもので、あまり物に執着のない僕としては珍しく、手入れと修繕を重ねながらもう何年も使い古している。丈の膝上まで伸びているところがよくて、深みだって平気で歩いてのける。長靴さえ履いていれば、僕は下水道の胎内で王者だった。だから悠々と暗がりを行く。柔らかいヘドロを踏みしめて行く。一歩進むごとにちゃぴちゃぴと水音がして淫らで、粘性の闇を吸って吐いてしていると、そのわずかに湿った熱が下腹部へ静かに堆積していくのが好きだった。
――いつか見た映画で、画家がさ、モチーフを探しによく下水道へ降りていくんだけど、その奥で人魚を見つけた、ってところから物語が始まるんだよね。僕はそれにあこがれていて。とても美しい顔をしていた。それが病によってひどく崩れてね。疣と、寄生虫と、出血と。あんなに可憐だったのに、すべて終わった。台無しだ。人魚。いいじゃないか。いつか出会いたいものだよね。ああ、そしてヤリたい。ハメたおしたいね。しかし人魚の生殖器というものは、いったいどうなっているのだろう。
膣、あるいは子宮のメタファーか。とかく、下水道には女性のイメージがついてまわる。懐中電灯で照らす先、まるくなる光線が映し出す陰影の、悪夢にも似たでたらめな形象は、無意識のイデアの相のように感ぜられて、だとしたら、かの碩学、フロイト博士の言説はきっとただしかったのであろう。僕は歩く。およそ人類のありとあらゆる煩悶を背負って歩く。かの聖人、ナザレに育ち、十字架を背負いゴルゴダの坂を登ったあの咎人のごとくだ。背後に足音が、置き去りにされた足音が、這いつくばって地べたで、狂おしく呻いているのを無視して。
歩く。
どぶねずみと、節足類と、粘液状の、生物なのかも曖昧な球状の物質と、あとはこの僕自身と、この地下世界において物音をたてるのはただそれくらいで、静かに澄み切った空間、時間に、ぶうううううん、ぶうううううううううううんんん、と、低く唸る都市の胎音が響いている。たとえば人魚はこの音をソナーのようにして僕の居場所を把握し、やすやすと華麗に、渓流を泳ぐ淡水魚のごとき優雅さで逃げ回っているのではないのだろうか。などということをぼんやり思考し、すこしでも創作の手伝いになりはしないか、餓えた子供の貪欲さであたりを観察するのだが、これといって面白いアイディアも浮かばない。そろそろ足も疲れてきて、すこし休憩しようか、などと思い始めたとき、ふいに、けーん、というおよそ下水道に似つかわしくない鳴き声がした。耳をよく傾けると、続けざまに二度、けーん、けーん。
声の方向へ進むと、さみしげにたたずむきじがいる。極彩色にそまった派手な体躯。歪なかたちの赤ら顔は破瓜の色をして、中央よりわずかに上ずったところで、黄色い眼がくりくりとまるまってこちらをみている。ただでさえ粘度のたかい下水道においても、なお一層のこと粘ついた、その視線……。一見すると無機質なきじの瞳に見据えられ、足がすくんで、僕は棒立ちのままその場にはりつけとなった。
そうしてそのまま、きじと、僕と、にらみ合うようなかたちで、じっと押し黙っていた。なんともおそろしい沈黙だ。湿気にまみれて、びちゃびちゃになっている。
しばらくそうした時間が流れて、やがて唐突に、きじはぴくりとも動かないまま、げらげらげら、と笑った。僕は笑わなかった。淫らなまでに奔放な色使いの、その怪鳥はむち打つように羽ばたくと、音もなく、下水道の奥へと飛んでいった。
おそらく後を付いていけば、人魚の元へとたどりつくはずだった。
ふと僕は下水をじゃぶじゃぶとかきわけ進む、古びた長靴のことを思った。そしてこの長靴を贈ってくれた、陽光の髪色をした誰かのことを思った。しかしそれが誰だったのか、いまとなっては思い出せなかった。おそらくきじを追えば彼女がいるはずで、だから急いだ。どぶは迷路のようにいりくんでいて、だから急いだ。どこか遠くで、ぴちゃ、と魚の跳ねるような水音がして、だから急いだ。
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先週どころかもはや先々週のお題であります。きじ、です。昔、炭鉱の案内にカナリアをつかったのだとかつかっていないのだとか、そんな話をもとにして書いたのですが、きじである必要があったのかなかったのか、この話はこれでおちているのかいないのか、そんなことは些細なことだと信じたいです。
最終更新:2014年02月17日 15:26