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恋せじと

2012年04月24日 (火) 22時25分-古夢

女は、哀しんでいた。朔に近い夜の微かな月明かりの中で、女は独り、涙を流した。

   恋せじとみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

今から半世紀も昔の話。この国が激動の中で訳のわからぬ活気にあふれていた頃。その喧騒とはかけ離れたところに、一つの恋が、生まれて消えた。

***
日中もまだ肌寒さの残る早春。小さいながらも古くから霊験あらたかで名高い神社の境内には、一人の男の姿があった。二十歳を越えたばかりほどの年頃だが、ワイシャツの上に藍染めの着物と袴、下駄という明治の書生のような出で立ちで、どうにも時代遅れの感がある。もっとも、朝日が昇り始めて間もないこの時間帯に会う人もいなかったので、男は一切気にする様子も見せなかった。彼は、神殿前に立つと鐘を鳴らすための綱へ静かに触れた。そして背筋を伸ばしたまま礼をし、音高く二度手を打ち鳴らした。一度に一つの動作しか行わない、というそれだけのことが、これほど人の印象を左右するのかと訝しく思われるほど、男の動きは奇妙な静謐を感じさせた。暫時瞑目していた男は静かに目を開くと、武道の型のような驚くほど美しい礼をして、踵を返した。
鳥居をくぐる瞬間、男はなぜかふっと目を細め、神殿を振り返った。何かを探すようにじっと見つめ――何一つ変わりない風景に、微かに口元を歪ませた。しかし一言も発することはなく、彼はそのまま神社を後にした。

*** 
神殿の陰から、音もなく一人の娘が姿を現した。白い小袖に緋袴を身につけた、十代半ばの美しい娘であった。彼女は男の姿が完全に見えなくなるのを確認して、やっと歩き出した。白い玉砂利の敷き詰められた中、音もなく足を進め、神殿の前に立つ。そして、男が触れた色鮮やかな綱にそっと触れた。娘の目蓋は切なく閉ざされていた。透き通った雫が、美しい頬を伝った。

***
男は眉を寄せた。もはや数えることも能わぬほどに、夜の明ける度に訪れる神社。いつからか、何者かの視線を感じるようになった。しかし辺りを見回せど姿は見えず、気のせいだと思っていた。幾つか前の朝、思いついて、鳥居を出たふりをして境内に戻った。かつて居合を嗜んでいたためか、彼の動きは酷く静かで音を感じさせない。普通の人間では気付くことのできない程、彼は昔から気配を殺すのが巧かった。そっと神社の中を覗くと、一人の娘の姿が見えた。
例えるならば、梅のような少女だった。桃や桜のような華やかさではなく、清楚な奥ゆかしさをもつ娘。水神に守られた、この清冽な気に満ちた社のそれとまったく同じ清らかな美しさ。しみ一つない肌は透けるような白で、唇は柔らかな紅。そして、身にまとうのは、精霊と見紛うほどに汚れない澄んだ空気。この神社に棲む何者かであろう、と男は考えた。その清浄さゆえに、人間とは思えなかった。しかし次の瞬間、娘がとった行動に男は目を見開いた。
娘は、男が歩いた通りの道筋を辿って神殿前に辿り着くと、男と同じように――未だ眠りの醒めぬ人々を慮るようにそっと――しかし、愛しげに鈴に触れた。そして目を閉じ、暫し瞑目してから、青みがかった薄い目蓋をゆっくりと開いた。その途端、人ならぬ者かと思う程の静かな空気は消え失せ、人らしい感情の乱れが生じ、境内の神聖な気を揺らしたようであった。娘の瞳は若い娘らしい抑えきれぬ切ない恋情が溢れていて、男は思わず呻きそうになった。その対象が己であることは、娘の行動から、既に疑いようもない。
「見られていたのか…」
自分が好意の対象となっていることよりも、むしろ自分の存在が認知されていたことに対する驚きが大きかった。人の目をひくようなまねは慎むべきだと、用心を重ねて人目の少ない時間帯を選んでいたのに。自身の失態に舌打ちしたい気分だった。
娘の恋情がどれほど真剣であろうとも、その真摯さがどれほど得難い想いであろうと、男には嬉しくない事態であった。この毎朝の習慣を、邪魔されることは堪えがたい。それに男には、向けられる好意に返す術がない。清らかに汚れない彼女と、醜く穢れた自分とでは、まったく違う世界に生きているのだから。そして何よりも――己の全ては、もう捧げられているのだから。

***
娘は嘆いた。心から消えぬ面影を想い、触れあうことの出来ぬ肌に焦がれ、そして何よりも、恋に捕らわれてなす術もない己を哀しんで嘆いた。霊力強く、誰よりも気高い、生まれながらの巫女であったはずの己が、唯一人の男の為に堕落していくのがみじめであった。それも、言葉を交わしたこともない、触れたこともない相手。後ろ姿を見送るばかりの恋。相手に認知すらされていないというのに、なぜ、こうも恋しいのか。なぜ、狂おしいまでに己は彼の人を求めるのか。
身も心も、雑念と煩悩に穢れているようで苦しく、娘は毎夜のように禊を行った。どうか己の醜い恋情が、この身に取りついた穢れと共に洗われて、流れ去ってくれぬかと期待して。

***
男はため息をついた。毎朝、気配を殺していたはずの己をも察することが可能な娘の霊力に、驚嘆と、微かな憐憫を感じながら、息をつく。この神社に、優れた巫女がいることは知っていた。大神が常在しているとは思えぬ程度の小さな神社にしては、空気が清浄に過ぎたからだ。そして、その巫女と逢ってしまえばこうなることは、おそらく無意識のうちに分かっていた。社を包む清冽な水の気、その源となる巫女。この空気に狂おしいほど焦がれ、縋っている己が、その娘に出逢って惹かれぬわけがなかった。だから接触しないように最善の努力をしてきたのだ。今となっては、何故あの朝、境内に戻って確かめようなどと思ったのか理解できない。確信、したかったのだろうか。かつて感じたことのある、懐かしく切ない気配が――誰かにひどく切ない眼差しで見つめられているような気配が、己の愚かしい気のせいである、と。かつての日の夢の、幻だと。己は、独りなのだ、と。
既に心を捧げた己は、今更誰かに焦がれることはない。ないはずだ。少なくとも、己はもう自らの心のままに振る舞うことは出来ない。それに万が一想われたとしても、己が応えることは許されないのだから。
男の心も魂も、すべては既に捧げたものだ。巫女に心奪われようとも、男には何一つ返すことが出来ない。否、しないのだ。いかに娘が、かつて男がすべてを捧げても悔いはないほどに焦がれた人とよく似た空気を纏っていたとしても。
しかし男は、神社へと向かう習慣を止めることは出来なかった。近い将来必ずや――既にそうかもしれないが――あの娘に心惹かれる己を、知っていたとしても。男は、参拝を続けなければならなかった。百日詣でのように、数の限られたものではない。己がこの世にある限り、参拝し、祈り続けなければならないのだ。彼女を救うために。己は、誓ったのだから。

何物にも揺らぐことのない、一つのものに捧げられ、純化された魂。その澄んだ輝きに娘が魅入られたのは、なんとも道理であり、そしてなんとも皮肉なことであった。

***
禊の為の白装束に着替える間もなく川にやって来た娘は、緩やかな流れの中に立ちつくし、川の水に紛れて涙をこぼした。
霊力が高いというのは、男に恋をしたこの娘の場合、不幸なことであった。男の身も魂も、人間ならば当然のごとく、穢れに満ちていた。けれどもその魂は高潔で、なんとも誇り高い、美しい輝きを放っていた。その輝きに、一目で娘は惹かれたのだ。訳も分からぬほどに。
しかし、神に仕える娘の身は、人であって人でない。神の伴侶たる巫女は、穢れから最も遠い場所に坐し、心身ともに清らかでなくてはならない。神ならぬ人とは、本来指先を触れ合わせることも叶わぬ身であった。
恋に溺れきれぬ哀れな彼女には、どうしても分かってしまうのだ。彼と自分が相容れない存在だということが。

白磁の頬に、水滴が伝う。もはや其れが涙なのか川の一部なのか、判断はつかなかった。月光に揺らめく袴は血のように濡れて、張り裂けた心の流す声なき慟哭の姿であった。

***
ある晩、一日の勤めを終えた娘が神社の裏の、神域と呼ばれる森の中を流れる川へやって来るのを、男は気付いた。その時、男は神域の入り口にいた。男の気配には気付くことなく、思いつめたような眼差しで、深い森を進んでいく娘を、男は思わず追いかけた。清めの川として知られる、この上なく透明で神聖な川へとやって来た娘は、僅かの躊躇いもなく、川へと足を踏み入れた。そうして、若々しく儚げな肢体を、冷たい水へと差し出す。
男は、無意識に唇を噛んだ。噛み切りそうなほどに噛みしめた唇にも、痛みなどは感じていなかったが、表情は痛みを堪えるように歪んでいた。まっすぐな瞳は、川の中の娘を見つめている。
「よく、似ている…」
澄んだ川の水の中で禊を行う娘は、一心に神へ祈っているようであった。そのひたむきさは、男の慕い、敬愛した人と、よく似ていた。水の波紋にも似た清らな気が、娘を中心に徐々に広がって来る。夜毎密かに行われる小さな儀式。娘はいつも一心不乱に清めを行い、神へと縋る。神への声はそのまま澄んだ空気の波動となって辺りを浄化していく。徐々に落ち着き研ぎ澄まされていく娘の気とともに、優しく揺れて広がる空気が男をそっと包み込み、懐かしい水の気配の中にたゆたわせる。男は、その心地よさに目を閉じた。

それ以来、己を毎朝見つめている娘を、己は毎夜見守っている。そして、娘が行う毎夜の儀式の清浄さに、穢れた心身を清められている。その事実に、男は深くため息をつく。だが、娘に近付くまいと誓ったのは、どこの誰だと心中で苦く笑いながらも、男は毎晩の習慣を愛し始めていた。知らず知らずのうちに。

***
月明かりが一際鋭く透明だったその夜、娘は自棄になっていたのかもしれない。冷たい川の中で、ぼんやりとしていた。
神の声が聞こえなくなった。これまでは折に触れて感じていたのに。空気の流れ、木々の葉擦れの合間に溶け込んだ囁きのような神の心。これは自分が穢れ切った証なのかもしれない。そう思い、それを願っていることに気付いて唇を歪めた。
己と男が結ばれる事はありえなかった。その魂が汚れを内包してなお、どれほど気高く輝いていようとも、男が穢れた者であることは、間違いがなかったから。
そして、生まれつきの巫女である己が、穢れ切ることなど、ありえる筈がないと知っていたから。

巫女としての自分も、それに付随する務めも、全てを捨てて駆け落ちでもできるものならば。そう考え、その仮定は相手が自分を思っているという前提のもとだったことに気付き、嘲笑した。男は、己の存在も知らぬのだろう。ましてや、己が抑えきれぬ恋情を抱えているなどと、思いもしないに違いあるまい。
それに、たとえこの場から逃げ出したとしても、どうしようもないのは分かっていた。自分は巫女で、人間でありながら人間でない者で、生者でありながら人として生きてはならず、けれど穢れの最もたる死からはかけ離れた位置にある者。いや、そのはず。そうでなければならない。そうしてしか、生きられないのだ。

ああ、すべてを手放してしまいたい。
この身に追わされた義務も、誇りも、なにもかも!

***
いつまでたっても川から上がらぬ娘に、男は焦りを感じ始めた。清らかな巫女が心身の穢れを洗い流す禊に、己が姿を現していいものではないと理解していたが。
「このままでは、体温を奪われて死んでしまうぞ」
あまりに長く川に浸かっているのでは、さすがに心配になる。眉をきつく寄せ、木の陰から娘を見守っていた。すると。
「なっ!」
娘が、ふらっと倒れた。まるで意識を失ったかのように――否、意思を失ったかのように、娘の身体が水に沈む。その途端、過去の情景が甦った。

澄んだ水。氷のような冷たさ。美しい白無垢は月光に蒼く染まり。傷ついた肌からは紅い血。豊かな黒髪は湿って肌に張り付き。涙も血も川に流され。全てを諦めた目は己を見つめ。生者とは思えぬ静かな瞳。血の気のない顔。しかしこの上なく美しい娘。河神の花嫁。生贄の、巫女。

***
困ったように見つめる男に、娘は泣き出しそうな笑みを返した。男が己を心配して水の中までやって来てくれた嬉しさに、涙が溢れそうだった。娘が喜んでいることが伝わったのか、男は苦笑して、水中から手を上げた。そして、娘の頭の上に手をやり、そっと撫でた。娘は微かに瞠目し、そしてゆっくりと微笑んだ。既に濡れ切った髪は、それ以上の雫が付いたとしても代わりのない状況であった。けれども男の白いシャツからは、一滴の水滴も、落ちてはこなかった。娘は冷えた己の手を、体温の感じられない男の手に、そっと重ねた。男は、悲しげに眉を寄せた。

***
我に帰った時、男は既に川の中に足を踏み入れていた。川の流れによる抵抗はなく、水の冷たさは感じない。ひたすら前に進む。ぼんやりと水中に座り込み、ようやっと顔が水面から出ているだけの娘の前まで来ると、男は静かに手を差し出した。娘の唇に浮かんだ微かな笑みに苦笑する。そして、無意識に娘の頭に手をやった。触れるか触れないかの距離で娘の頭を撫でながら、濡れて絡まった髪を梳いてやろうとして、動きを止める。己の手は、月光に美しく―――透けていた。

***
娘は、途方に暮れているようにも見える男の手を取り、そっと両手で包みこんだ。手を強張らせた男が、呻くように言葉を発した。男の声を聞くのは、初めてだった。
「いけないよ」
「いえ」
何も考えず、男の言葉を否定する。囁くような男の声は、優しげで、悲しげだった。男が言い募る。
「君は、巫女だ。穢れに、近寄る事さえ許されないはず」
「清浄と穢れを、決めたのは誰でしょう。私には、貴方様が穢れているようには思えません。こんなにも輝く魂を持っていらっしゃるのに」
気付くと娘は、確かな微笑みを浮かべていた。確信をもって発せられる言霊に、男は自嘲の笑みを返して低く呟いた。
「いや、私の心は穢れている。憎しみと後悔で」
「毎朝の参拝で、貴方様の穢れは落とされなかったのですか」
「あれは、私の穢れを祓うためではない。ある人の為に詣でていた」
寸の間、娘が言葉を詰まらせた。そして、囁くように訊いた。
「恋する御方の為ですか」
「恋した人の為だ」
かつてのことだと静かに言いきった男は、そっと娘の手から逃れ、その手をかすかに握りしめた。絞り出すように、言葉を続ける。
「…今は、もういない」
その囁きで、男の心に存在する傷は癒えることなく、まだ痛み続けているのだと、そして男がこの世に在る限り永遠に痛み続けるのだと、娘は直感した。そして、それだけは避けなくてはならないのだ、と思った。
「もういない御方の為に詣で続けるのですか」
「そうだ。この世にある限り、あの人のために祈り続けると誓った」
「その為に、この世に留まり続けるのですか」
「その通り」
迷いない男の言葉に、娘はかすかに笑う。
「その方は、もう救われているかもしれませんよ」
濡れた前髪が目にかかるのもそのままに、娘は軽く首を傾げて、男を見上げた。薄く月光に透ける身体はしなやかに引き締まり、成人した男のものだ。それなのに、その瞳の純粋さはどうだろうか。まるで、汚れを知らない少年のように、柔らかい光。痛みと後悔と、哀惜に満ちた、透明な瞳。美しいだけではなく、後悔や憎悪や、醜い感情もあるはずなのに、その眼差しには些かの濁りも見つけられない。娘は、魅せられたように男の目を見つめていた。男は、下から覗きこまれる形になったことには全く頓着していない様子で、生真面目に小さく首を振った。
「分からない。そうかもしれない。けれど、私は、私の在る限りという誓いを破ることはしない。それが、何もせずにあの人を死なせてしまった、私の償いだ」
己の苦を省みることのない男の、曇りない眼差しが、そのひたむきさが悲しかった。娘は気付かず唇を噛んだ。
「全てはその御方を救うため、ですか。では、どうすれば、貴方様は救われるのですか」
「…私は、救いなど求めていない」
思わぬことを言われ、男は動揺したようであったが、一拍躊躇ってから言いきった。
「私の願いは、あの人の救い。それだけだ」
「貴方様の為に、何かがしたいのです。お慕いしておりますこと、よもやご存じないとは仰いますまい」
必死に言い募る娘に、男は困ったように眉尻を下げた。
「戯れに死者に近付きなさるな。巫女の身に不浄はならぬもの」
「私の覚悟を、戯れと仰いますか。仰せの通り、恐れ多くも神の妻たる巫女でありながら、この弱い心は大いなる御方に背きました。貴方様に醜い恋慕を抱き、その愚かしさに恥を知らぬことと己を叱咤して、それでも断ちきれぬ想いに迷い迷って…。今宵、決死の覚悟で言の葉といたしましたのに」
巫女の言霊には力が宿る。娘は、欠片の迷いもないかのように静かな眼差しで、男を見つめた。
「貴方様に恋して以来、欲という名の穢れに、この身は染まり続けて参りました。お声を聞かせて頂きたい、お顔を近くで拝見したい、貴方様の目に見つめられたい、貴方様に触れたい、そして叶うことなら私に笑いかけて頂きたい…。そのような欲に駆られては、この川で禊を繰り返し、この身を清めても、それでも洗い流されてくれぬ心の穢れに、とうとう絶望していたところでございます。既に我が身は穢れた身。もはや躊躇いもありません」
「愚かな…」
苦々しげに、男が呟いた。その言葉が己への嘲弄ではなく、むしろ憐憫と哀情と、そして自嘲から来ていると気付き、その優しさに、娘はゆるりと笑んだ。
「貴方様をお救いし導き申し上げますことが出来ましたのならば、きっと私も迷いを捨て穢れを断ちきり、巫女として立ち直ることが出来ましょう。」
男は軽く息を飲んだ後、ゆっくりと息を吐いて苦笑した。何かを諦めたかのように。そして、受け入れたように。
「変わった御人だ」
「この世ならざる者に、恋情を抱くほどでございますから」
娘は、柔らかく笑みを浮かべて、手を差しのべた。覚悟を決めた者の潔さが現れた、美しい微笑だった。

***
男は迷っていた。娘の手を取ることを。死の穢れに触れてはならぬはずの、巫女に力を借りることもそうであったが、己が救われることに――そして、己が成仏することによって、この世から消滅することを、ひいては、彼の人の思い出の全てを忘れてしまうことを、恐れていた。しかし、彼の人と同じ空気を纏ったこの娘の言葉に、頷いてしまいたいのも真実であった。
迷う男の目をしっかりと見つめて、娘は力強く繰り返した。
「私に、貴方様をお助けさせて下さいませ」
その言葉に導かれるように、男は差し出された手へ、うっすらと蒼く輝く己の手を重ねた。

***
きらきらと美しく輝く光の粒の中、高くもなく低くもない特徴的な祝詞の声の中で、男は静かに消滅した。自らの想いも昇華されていくのを感じ、娘は月のように静かな光の粒の中でそっと目を閉じた。
最後の光の一欠片が消えた後、娘はやっと目蓋を開き、泣き笑いのような表情を浮かべた。小さな呟きが、溜め息のように零れ落ちた。
「結局、気付いては下さりませんでしたのね」
己はとうに救われていたのに。男が生前も、若くして散ってからも、変わらず己の為に祈り続けてくれたおかげで、人を憎むこともなく、こうして転生出来た。それも、人々の願いどおりの生まれながらの水の巫女として。もう、水不足で人々が困ることもなくなるだろう。そうすれば、己のように川神への生贄として沈められる娘もいなくなる。もっとも、このまま発展が続けば、近いうちにそんな習慣は廃れ切ってしますのだろうが。
それとも、人々は気付いてくれたのであろうか。川神は、贄など望んでいないと。川神は贄となった少女たちを悲しみ、悼んで、その嘆きの魂を慰めようとしていた。己も、川神の温情のおかげで、望んだこの地に――男の生まれ育ち、そして死んだこの地に転生してこれたのだ。

男が無意識に己の髪を梳こうとした瞬間、すべてを思い出した。冷たかったはずの川の水が己を包み込み、己の中に優しい意思が流れこむのを感じた。男を解放してやってくれという御意思だったのか、それとも、己がすべてを許し真の意味で立ち直ることを願う御意図だったのか、娘には分からなかった。けれども、どちらにせよ川神の御慈悲であることは変わりがない。
「ありがとうございます、川神様…」
昔も今も、すべてを知り見通す神は、己も気付いていなかった本当の願いを知っていたのだろう。あの方をお救いしたい、という、無意識の願い――否。己の為にこの世を彷徨い続けてくれたあの人に、もう解放されてほしいという、生まれる前からの祈りを。きっと川神は、かつてない激しい感情に戸惑い、ひたすら己の想いを悪と決め付けて、恋から逃げようとした愚か者を、困ったように悲しく見つめていたに違いない。
全ての穢れを祓ってくれた禊とともに、娘は、最初で最後の初恋に別れを告げた。そして、始まる前に終わってしまった恋と、終わる前に終わらせてしまった恋を、ひたすら見守ってくれた川神に、ただただ感謝を述べ、そして。願わくば、と、娘は男の逝く道が安らかであることを祈った。

   みそぎしてころもをとこそ思ひしか涙をさへもながしつるかな

川の中に毅然と立ち、蒼く輝く月を見上げて、娘は微笑した。頬には月の雫のような、透明な玉が伝っていたが、その表情は清々しく、そして、この上なく美しかった。







≪参考≫
恋せじとみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも(古今和歌集)
みそぎしてころもをとこそ思ひしか涙をさへもながしつるかな(散木葉歌集 六悲歎)



……お題小説と関係なくてすみません。自分でお題出しといて←

しかも、これ、もとは『洗う』テーマの時に思いついた話だったのですが、期限内に終わらなくて、イメージばっかり膨らんじゃって、中編になっちゃったやつです。弥田さんと似たパターン?

私にしては長いので、途中で矛盾とか生じているかもしれません。気づいた方がみえたら教えて下さい(>_<)
最終更新:2014年02月17日 15:27