2012年05月05日 (土) 20時13分-古夢
ある晴れた日のことでございます。
大木井家の妹は、こっそり姉の成長ファイルから、小学校の時の成長の記録を取り出しておりました。成長の記録と言うのは、瀬野比小学校で配布される厚紙の通称でございます。その厚紙には、思春期に入ろうとする少年少女達が何としてでも秘密を死守したい、身長とか体重とかローレル指数とか座高とかBMI指数とかが、重々しく記載されておりました。いつの世も、大人にとっては下らないこと極まりない、たかが二、三桁の数値のために、幼い純真な子供らは、一喜一憂七転八倒しているのでございます。しかしそんな起伏に富んだ楽しく充実した日々も、高校に入るころにはとうに去りゆき、健康診断の結果、とか名前を変えた白いペラペラの薄紙が配られても、少年はちらと目をやるだけ、少女は微かに眉をひそめて後で泣くだけになるのでありました。
さて、大木井家の妹は、高校一年生でありました。本日彼女は、学校で結構診断の結果を貰って参りました。その内容は、至極結構問題なし、といった感じであります。健康優良児のお墨付きを頂き、嬉しいこと限りなし、といったものでした。あえて難を言うならば、やや痩せすぎのきらいがある、ということくらいで、女の子にとってはむしろ嬉しい評価であります。しかし、彼女は少々悩んでしまいました。彼女は、とある事実を深刻に受け止め、帰宅してからも思い悩み、思い余って、姉の部屋の本棚から、こっそり成長の記録を抜き取ったのあります。姉の個人情報を盗み見した妹は、深くため息をつき、絶望の叫びをあげました
「やっぱり…!」
ああ、なんということでしょう。彼女の身長は、姉の小学校四年生の三月と、ほとんど変わりなかったのです。彼女は、すらりと長身の女が多い大木井家の中で、一際小さく、皆から可愛い可愛いと頭を撫でられるのがコンプレックスだったのです。最近では、五つ下の従妹にまで頭を撫でられます。もう自分は高校生、従妹は小学生であるのに、です。なんという屈辱、なんという不名誉でしょう。彼女は、背が伸びるのを今か今かと待っておりました。姉や従妹や母や祖母と同じように、いつか自分もすくすくと伸びるに違いないと、むしろ彼女たちなんかあっという間に追い越すに決まっていると、大器晩成という言葉を知らないのか、と、息巻いておりました。しかし、運命とはなんと過酷な試練を彼女に与えたもうたのでしょうか。そして、現実とはなんと非情な真実を突きつけるのでしょうか。彼女の身長は、一年前よりも三ミリも縮んでいたのです。姉に大爆笑されて、妹はいたく傷つきました。彼女は、母の協力のもと、毎日牛乳を飲み、毎週背をはかって来ました。その結果、少しずつですが伸びていたのです。ほんの数ミリでしたが、彼女にとっては大きな躍進でした。きっと今回の測定では期待できるはずだと、逸る胸を押さえ、ときめく心のまま、跳ねるように測定に行ったのに。今度こそ姉やら従妹やらを見返せると思ったのに。まだまだ成長は止まっていないのだと、見せつけてやれると思ったのに。
ああ不思議だ。不可解極まりない。家の柱で測った時は伸びていたのに。おかしい。絶対におかしい。やっぱり朝測らないとダメなんだろうか。それとも、測る前に思いっきり伸びをしなかったから?いやいや、もしかしたら、先生がぐっと抑えつけた時に背が縮んでしまったのでは?ああ、何故だろう、何故だろう。ああ、お母さんごめんなさい。せっかく毎日牛乳買ってきてくれたのに。お母さんの協力に報いることが出来なくて、娘は情けない思い出いっぱいです。ああ、お母さんの期待に添えられない私は、親不孝なむすめです…。
「ねえ、お母さん」
「んん?なに?」
「あの子、落ち込んでることない?」
「ああ、落ち込んでるねぇ」
のんびりアイロンをかけながら、大木井家の母は言いました。大木井家の姉は呆れたように息をつきました。
「まったく、期待させるから」
「いやぁ、思い込みって大事かな、と思ったのよね。イメージトレーニング、っていうの?自分は大きい、とか、背が伸びているんだって思いこませたら、大きくなるかと思ったのよ」
父のワイシャツにアイロンをかけながら母は言いました。父のワイシャツは、母のTシャツと同じくらいの大きさです。姉は母の横で寝転びながら、柱を見上げました。そこには、妹が毎週健気に測って来た身長が記録されています。知らなければ気付かないほどひっそりと、鉛筆で黒い線がかかれているのです。寝転んだ距離からは見えないはずのその線を見つめてから、姉は罪つくりな母を横目で睨みました。
「だからってさぁ。あんな誤差みたいな誤魔化しで、ちょっとずつ大きく測っててもねぇ。」
「誤差誤差言うけど、本人にとっては大きな成長だったんだから!」
「いや、実際は伸びてないじゃん」
「まぁそうなんだけどね。塵も積もって、最終的には、ちょぉっと嘘かなぁくらいの誤魔化しになってたしねぇ。やっぱり伸びないわねぇ。」
ほのぼのと笑い、不思議そうに顎に手をやって、「何でかしらねぇ」と首を傾げる母に、姉は面倒くさそうに言いました。
「だからもう止まったんだって」
「止まったのかしらねぇ」
「伸びないって」
「伸びないかなぁ」
ねばる母に、姉は止めの一言を口にしました。
「いいじゃん。小さい方が可愛いし」
「ああ、可愛いねぇ」
「うん。可愛い可愛い。頭撫でるのにちょうどいい高さで」
「可愛いねぇ」
「可愛いからいいじゃん」
「やっぱり小さいままの方がいいねぇ」
「うん。あの子は伸びなくていいんだって。可愛いから」
リビングでにやける母子の語らいの真上では、皆から愛される小さい妹が考え疲れて眠っておりました。大木井家は今日も平和でございます。
***
思いついてから一時間。一気に書き上げてしまった作品です。
決して実話ではありません。
最終更新:2014年02月17日 15:27