2012年05月06日 (日) 18時57分-すばる
記録者の仕事は、文字通り、記録することである。職場で交わされる、あらゆる会話を逐一記録する。その中には、罵詈雑言や、つまらない冗談ですら、もちろん含まれる。飛び交う言をすべて文字にするのは、非常に難しい作業であるが、だれも彼らの仕事のために口を噤もうなどとはしない。なぜならば、たとえ隣の席に座っていようとも、それは彼らの同僚ではないからだ。彼らの同僚は、それぞれの自宅で記録の整理に追われているはずである。というのも、彼らは記録を取るに当たり速記術という特殊な技能を用いる。これはより速く書くことを追及して開発された筆記方法で、読みやすさなどは度外視している。素人目には、蚯蚓の這った跡にしか見えない。そのような文字一日分を、丸二日掛けて清書する。そうやって、三日サイクルで遍く毎日記録が取られ、膨大な量の記録が蓄積されている。
彼らは、どこにでもいる。駅前の往来のさなか、オフィスの窓際、厳重セキュリティーの極秘部屋。あらゆる場所で発生したすべての音声を採集し、記録している。それゆえ、警察やジャーナリストはもとより各国の諜報機関がこぞって記録を閲覧しようとした。記録を見ることができれば、いかな情報でも手に入れられると考えたからだ。しかし、記録者たちは巧妙にその姿を隠しており、だれ一人として彼らを見つけ出した者はおらず、記録者とは単なる都市伝説ではないかという疑いが強まった。しかし、私は十年以上にも及ぶ調査の末、とうとう、彼らのひとりとコンタクトを取ることに成功したのだ。そして、さらに十年の交渉の結果、一度だけ、記録を閲覧する許可を得た。
長い石造りの螺旋階段は、足音がよく響く。度重なる反響が何十人分かの足音となり、ランタンだけが照らした明かりはいかにも心細い。前を歩く見知らぬ人間の、迷いない足取りが心強く思えた。はたから見ればいかにも便りない、気の弱そうな若者が、である。しかし、彼もおそらくは記録者である。通信機器記録機器の持ち込みは不可と言って、ボディチェックもせず携帯電話を取り上げた。どこにしまってあるかわかっていたかのように。わかっていたのだろう。どこで起きたどんな音でも記録するのだから、隠し事など絶対にできない。それをわかっていたからこそ、二十年分の努力を泡にするような危険を冒そうとはしなかった。その判断は、間違っていなかったわけだ。
ふいに男が立ち止まった。灯りが、目の前に重厚そうな木の扉を照らす。いいか、と確認と取られる。私は頷き、脇によけた男と並ぶ。男はゆっくりと扉を引き、私は無言で、その向こう側へと足を踏み入れた。
飛び込んできたのは、無音の世界だった。この世と同じだけの三次元の広がりに、時間軸のベクトルを足した四次元空間、その方向に沿って、記録された音たち、白紙という無音を表現する記録が、延々と続いている。その中で、何らかの音を書き込まれた記録は、白い海原に浮かぶ黒い塔のようだ。音から何が起こったのか想像してみれば、隕石の衝突やら、火山噴火や地震やら、そんなことが予想できる。そんな、いくらかの塔の中に、一つ、異彩を放つ塔を見つけた。どこが異常かと言えば、なによりもまず、ほかの塔に比べて明らかに目立っている。たいていの塔は黒い有音の記録が途切れ途切れに存在し、実際にこんな塔があったとしたらすぐにでも倒れてしまいそうなのに、その塔だけは真っ黒だ。どこまで長い時間を見ても、そこに抜け目はほとんど見られない。その塔のてっぺん付近で、かつんかつんという数十人分の足音らしきものが見つかった。それが頂上直前に消えて、いいか、という問いかけを最後に無音となった。これは、妙だ。記録された音は、蓄積されるまでに最短で三日かかるはず、ほんの数分前の出来事があるはずない。そう思った瞬間、塔はさらに高さを増した。ガチャリという、扉の閉まったような音、ついで、話。これで厄介者はいなくなったとか、そんなことを言っていた。その意味は、つまり、私を処分したということだろうか。どういうことか理解できずにいるうちに、さらにまた、塔が積み上がる。すでにそこは、無音という空白の場所となっていた。彼らは、どこに行ったのだろうか。足音を辿り、移動する。どうやら、地上に出て、バラバラの方向に向かったようだ。大量の足音にかき消されて、どこに向かったのかはわからない。それでも何とか行先を見つけようとしていると、さらに塔が高くなった。間違いない、私は、この場所に置き去りにされている。この中は時間の流れが外と違っているようだ。このままでは浦島太郎になりかねない。しかし、どうすればここから脱出できるのだろうか。悔しいことに、この場所に来たことに浮かれて、入ってきた場所すら覚えていない。とりあえず、遡ってみることにする。現代から、私が子供だった頃、そして、はるか昔、教科書に載っていた世界へ。てっきり歴史的大事件の一つや二つ見つかると思ったけれど、実際には誰も覚えていないような日常の諸々が延々と続く。さらにそれを通り過ぎると、原始人の時代から、人間以前の時代に。ここまできてしまうと、何をしゃべっていて、どんなことが起きているのか想像するのも難しくなってくる。それでもさらに遡り、星の誕生にまでさしかかろうとする。すると、いつしか塔は希薄になり、果ては完全に消えてしまった。とうとう地球がなくなったのだ。それでもさらに遡る。すると今度は、空間そのものが縮んでいった。白い空間を、そのふちに沿って遡る。そうすると、向こうの方からもどんどん世界は迫ってきて、とうとう、最後の一点で交わった。最初の一点か。とにかく、宇宙の誕生だ。
始まりの場所から、いちばん最新のところに戻ってきて、さらにそこから、地球を探し出す。これがとてつもなく大変だった。何分おそろしく広い。ひときわ派手な塔を探せばいいかと思っていたけど、そういうところはいくつもあって、参考程度にしかならなかった。最初に地球を見つけられたのは、たぶん偶然なんかではなくて、スタート地点がそのすぐそばだったのだろう。地球の、私が入ったその場所だったのかもしれない。ともかく、気の遠くなるほどの時間を費やし、ようやく、故郷の星にたどり着いた。人間はいなくなっていた。絶滅したのだ。ああ、なんということか、これでは戻れたとしても、どうしようもないではないか。死亡だ、確実死だ。現実世界イコール黄泉だ。
そういうわけで、私は戻ることをあきらめた。悲観することはない。私は、長年臨んだ記録のすべてを、自分のものにしたのだから。私は、全てを知ることができる。どんな秘密も、法も、森羅万象余すところなく。私は、神になったのだ。
最終更新:2014年02月17日 15:28