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桜雨(お題「雨」)

2012年07月04日 (水) 20時53分-九条

 宮都の西の外れ。閑静な、ぬるい空気のたちこめる午後。
 雨のように桜の花びらが舞い降っていた。
 丹塗りの柱の離れの東屋に猫が、一匹。
 音もなく優雅に柱の間をすり抜けて、腰掛の上へ跳び乗る。
 腰掛に座っていた黒髪の若い女性が、不意にやってきた猫を見つめる。
 女性が白い手を伸ばして猫の背をなでると、猫は光沢のある絹の衣装をまとった女性のほうを見上げた。
 灰色に黄が混ざったような毛並から、透明な青い目が覗いている。
 首輪をもたないその猫は目を細めて、あくびをするように少し口を開いた。細いひげが小刻みに動く。
 女性は少し目を見開き、そして首を真横に傾いだ。
 「お前、鳴けないのね」
 ふぅわりと頭を撫でながら女性は云った。
 猫は、ふくよかな毛に覆われた胴を大きく伸ばした。そして、赤い腰掛の上から女性の膝に跳び移り、気持ちよさげに丸くなった。
 女性は外の景色に目を移した。花びらの入った籐籠を空から思い切りひっくり返したように、視界がふるふると舞う薄紅で埋め尽くされていた。東屋の近くの大きな桜の木から、勿体無いほどの花弁が流れるように漂っている。女性は溜息を漏らし、視線を落とす。
 猫は目を閉じていた。
 あまりにも静かな春の午後。
 桜は散るが風は緩やかで、穏やかに多少梅の香をはらんだ桜の匂いを運んでいた。
 うつむく女性の肩から細い漆黒の髪がはらりと落ちる。
 淡い風が立てる音以外、静寂が辺りを制していた。
 猫がゆっくりと顔をもたげる。自分の上の、女性をうかがう。自分の背に落ちた、温かい液体の意味を問いたげに。
 女性は顔をあげない。東屋の屋根が作り出す日陰の下、顔を隠す黒髪が僅か小刻みに揺れていた。
 猫は再び丸まって、瞼を閉じた。
 どこかから、弦の音色がした。無音の世界に漏れる音の粒。まるではるか遠い彼方から届く弦楽の調べのように、小さな、小さな響き。
 女性の動きが止まった。
 落ち着きのある低音とつやのある高音が織りなす、控えめだが心に響く音楽。 
 この地方に特有の音階が奏でる哀愁のこもった旋律。
 はっとしたように女性は顔をあげると、顔を東屋の横へ向けて、しばらく弦の音色に耳をそばだてた。猫も目こそつむったままであったが、耳を立ててその調べに聴き入っていた。
 最後に弦の細かな震えを耳に残して、音がとまった。
 女性はすくっと立ち上がった。足場を失った猫は無駄のない動作で腰掛に跳びのった。女性は猫を気に留めることなく、真剣な表情のまま絹の裾に光を揺らして東屋を出た。
 外は春霞でうっすらとけぶってみえる。絶えることなく散り続ける淡い桃色の中、弦楽器を手にした薄青の着物の若者が一人。
 嗅覚はむせ返りそうなほど上品な甘ったるさに侵食され、立ちすくんだまま幻想を見ているようだった。
 女性は目を見張り、思わず両手で顔を覆った。
 若者は女性の姿を目に留めると、安堵の表情で肩の力を抜き、そのまま歩きだした。
 女性は顔に手を置いたまま、紅の柱へ崩れるように寄りかかった。
 若者は弓を右手にもち、弦の一本に当てると、すっと軽く肘を引いた。
 猫は片目を開いて、音楽を奏で始めた青年を一瞥すると、再び目を閉じて一度あくびをするようにやんわりと口を開閉させると、その演奏に聴き惚れた。
 緩慢な時の流れ。桜の香が強くたちこめる東屋に流れる遅い拍子の曲に、女性と猫は心を委ねる。
 生温かな春風が曲の最中、二人の前髪をさらう。猫は弧を描くようにゆっくりと尻尾を波打たせる。
 滑らかな弦音が最後、長い伸ばしで繊細に締め括られた。
 空気の心地よい振動が、続いているように感じられた。
 猫は右足を踏み出してけだるげに、
 「にゃあ」
 と、一声鳴いた。それが、猫の一度きりの鳴き声だった。
 余韻に浸るように女性はの絹の衣装を纏ったその肩を丹塗りの支柱に預けたまま動かなかった。
 若者は女性と猫を交互に眺めた後、視線を地に落とした。
 猫はおもむろに瞼をあげたかと思うと、球の様なしなやかさでひょいと若者の肩へと跳んだ。
 若者は瞬間、少しばかり驚いた様子を見せたが、自らの顔前の青い眼を持つ猫を見ると、慈しむように柔らかく微笑んだ。
 猫の曲折した尻尾が若者の頭の後方の髪を掻き回す。
 猫の眼は陽光にその青を透かす。
 若者がふと女性に目をやると、目を伏せていると思った女は、若者とその肩に乗った猫をまるで夢を見ているように、その小さなひとみで眺めていた。
 ふっと若者は口元を緩めて笑みをこぼすと、おもむろに楽器と弦の張った弓を傍らに置き、女性の目前に歩み寄った。その刹那、風が温かさと涼しさの二つを有して、桜の花びらを二人の眼前で両脇にたち切る。
 女性の頬が朱に染まる。そらした目に幾枚もの切れ切れの花びらの隙間から、赤い丹塗りの柱が僅かに映る。そんな姿をみられまいと、女性は細かい刺繍の施された絹の袖をあげて自らの顔を隠した。
 猫が、微細な音を立てて若者の肩から白っぽい土の上に着地した。女性の足元に身を擦りつつ、歩く。
 恐る恐る、両の手の袖の間から、女性は前を覗き見る。
 若者と目があった。
 若者は微笑むと、顔を覆う女性の両の手を、解いた。
 そして女性の目をしっかりと見据えると、言った。
 「もうどこへも行きませんよ」
 若者の、蒲公英の綿毛のように和らいだ表情につられるように
 女性はようやく、にっこりと笑った。


 *****

 鳴けない猫は今日も若者に弦楽を教わっている。その横で女性の焚く桜の香の煙がくゆる。
 細い細い煙が、ゆらめきながら丹塗りの建物をつたって、宮都にたちこめていく――。
最終更新:2014年02月17日 15:47