2012年09月23日(日) 17:38-古夢
参照文献:名作アニメ絵本シリーズ 「こじかひめ」
~序章~
数百年前、森には聖女がいた。女は己を頼って来る者を決して見捨てることなく、飢えた者には一日の糧を、病の者には心からの手当てを与えた。隠者のように街から離れた森のふもとに棲む女は精霊のように美しく、その美貌は冷徹で聞こえた時の王をして森へと足を運ばせるほどであった。
後に、女は王に見初められて妃となり、森から去った。
~本章~
昔々のことである。
二つの国が、森を挟んで接していた。その森の奥深くには、光が届かない場所があり、そこには魔女が住んでいると言われていた。
ある時、身なりの良い少年がその森に迷い込んできた。狩りに夢中になって、おつきの者たちとはぐれてしまったらしい。気丈なたちなのか、怖がることも怯える事もなく、物珍しげに薄暗い森を進んでいる。どんどん暗くなる森を構わず突き進んでいくと、いきなり明るく開けた場所に出た。
「うわぁ」
少年は感嘆の声をあげた。目の前に、見事な湖が広がっていたのだ。緑とも青ともいえぬ複雑な色合いで、深いようで浅く、広いようで実は小さな、沼といった方が正しいような湖。
その湖、もとい沼の周囲は神秘的で、なんとなく軽々しく足を踏み入れてはいけないような気がした少年は、その場で足を止めて、陶然と沼を見つめていた。
「どうしたの?」
「うわっ」
時のたつのも忘れ、沼に見入っていた少年は、突然声を掛けられて飛び上がった。声をかけてきたのは、十代半ばの若い娘であった。緑とも青ともつかぬ色合いの瞳が、目の前の神秘的な沼を彷彿とさせる、大層美しい娘だ。見事な黒髪が艶を放っている。黙っていたら冷たくきつい印象を与えるであろう、少々整い過ぎた顔立ちは、くすくすと笑っているために和らいでいた。
(ちっとも気配がしなかった。)
少年が驚きのあまり茫然としていると、娘は秘密を打ち明けるように、囁いた。
「気をつけなさいな。この沼に、魅入られてしまうわよ」
「沼に、魅入られるのか?」
よく分からずに問い返すと、娘はかすかに笑った。
「この沼は、魔の沼なのよ。人間を惑わし道を踏み外させる、禍々しい沼…。こんない浅いのに、一度足を踏み外したら最後、二度と這い上がっては来られないの。闇のものたちが棲む、呪われた沼なのね」
どこか自嘲するように言う娘に、少年は思わず言葉を返した。
「そんな事はない!こんなにきれいなのに…。こんな美しい沼に棲んでいるのが魔であるはずがない。神や精霊がいたって、おかしくなどなかろうに」
娘は、驚いたように少年を見つめた。娘の神秘的な瞳に見つめられて、少年は思わず顔を赤らめたが、目は逸らさなかった。やがて、娘は心底うれしそうに、ふんわりと笑んだ。
「ありがとう。そんな風に言ってくれた人間は、貴方が初めてよ。この沼は、見る者の真実を映し出すの。貴方は、心がきれいなのね」
この人は、この沼の精霊なのかもしれない、と少年は思った。娘はどこか人間離れしていて、年齢不詳に思われた。見た目は十五、六なのに、その瞳の深さは底しれず、少年の知る最も年老いた者よりも長い年月を感じさせた。
「さぁ、もうお帰りなさい。これ以上ここにいるのは、貴方のためにならないわ」
娘は、優しく少年の背に手を当て、沼から離れるように押し出した。
「あ、いや、しかし、わたしは」
帰ろうにも道が分からない少年が戸惑いながら言い淀むと、娘は何もかも分っている、というような顔で言った。
「大丈夫。さぁ、まっすぐ進んで。決して、振り返ってはだめよ。そして、もう二度とここに来てはだめ」
「しかし…」
少年が名残惜しそうに沼と娘を交互に見つめると、娘は困ったように笑った。
「お願いよ。言う事を聞いてちょうだい。でないと、戻れなくってしまうわ」
それでも渋る少年に、娘はため息をついて、しゃがみこみ、目線を合わせた。
そして。
そっと、額に口づけを落とした。
「なっ!」
少年は驚きのあまり、言葉も無く固まったが、娘は気にすることもなく、ゆったりと言った。
「さぁ、これでもう大丈夫。道に迷う事は無いわ。まっすぐお帰りなさい」
その言葉に導かれるように、少年はゆっくりと森の方に向き直った。なぜか、今度は抵抗しようという気が起きなかった。
「気をつけてお帰りなさいませ、王子様」
森から出てみると、家来たちが青くなって少年を探していた。なんでも、丸一日も行方不明になっていたらしい。時の流れがおかしかったとしか思えぬ体験をして首を傾げていた少年が、身分を名乗っていないのに、娘が自分の素姓を知っていたことに気づき愕然としたのは、その日の夜であった。そして翌日、家臣総出で森を探させたにも関わらず、大して歩いたとも思えぬ距離にあったはずの沼など何処にもなく、更に愕然としたのであった。
(やはり、あの沼の御方は、人ではなかったのだろうか…)
少年は、なにか、感じた事の無い不思議な痛みを胸に覚えながら、避暑に訪れていたその地を後にした。