2012年10月17日(水) 22:47-九条
「やはりショパンは天才だ」
こんなことをひとりごちながら雨の降る日、僕は独りで音楽を聴いていた。雨の音はヘッドフォンの隙間から耳の中へ漏れ聴こえていて、水粒が窓を打つ音が今聴いている音楽の一部を構成しているように思えた。雨の日はショパンに限るなどと呟いては目を閉じて、背を傾けた座椅子の上に置いた黄緑のクッションに倒れこむ。
真上にある蛍光灯があまりに光害を及ぼすことに気づき、投げ出した左腕を両目の上へ置いた。
断続的な雨音に被さって鍵盤上を転がるピアノの演奏が心地よく鼓膜を刺激し、僕は満足げに大きく息を吐いた。
机に放ってあった携帯の振動音が三度ほど続いた。
机に手を伸ばすことすら億劫になり、雨の日に急な用事などなかろうと半ば強引に思い込み、しばらくそのままにすることにした。音楽が次のトラックに移る。きっと何でもないことに決まっているのだけれど、さっきの放置したメールがやや気になる。やや、気になる。うん、少し。……いや、だいぶ。
とうとう諦めて身を起こすと、携帯を手に取った。これでメルマガだったら自棄だななどとおもいつつ。
新着メールが一通。
開けた瞬間ああ、見るべきではなかったとの後悔。さっきまでの怠惰な自分、もっと粘れよ。
再び今度はベッドへ飛び込んだ。ふて寝しようと決心して、固く目を瞑る。なぜ眠れない。眠らなければいけないのはずばり今であろう。一限の授業よりも学食後の三限の授業よりも、寝るべくは今だ。それは間違いない。
早く寝なければ。そのうち頭の中でインターホンが鳴りだす。違う、これは現実ではない。焦りが幻聴をも生み出すとは。だめだ、今眠りにつかなければ、寝ていて気付かなかった説が成り立たなくなるではないか。早くアリバイを作らねば。
間延びしたようなインターホンが部屋中に鳴り渡る。いや、そんな大々的告知しなくとも。
僕は一時静止した。二度目、三度目の現実的なインターホン。
罪悪感極まり、呻き声を一つ漏らすと、僕は冬眠から覚めたばかりの熊のような足取りで玄関に向かった。
はい、と一応無線に出る。僕だ、開けてといわれそのまま開ける。
邪魔するよと栗栖が姿を現す。
良い天気だね、散歩でもどう?
僕は目の上に手をかざして晴れがましく玄関外の雨空を見上げる。今のは、即刻出て行けという意味だ。ちゃんと伝わっているだろうか。
言う間に栗栖は僕の横をすり抜け、何も言わず黄緑のクッションの上に倒れこんだ。……ぐっばい僕の素敵な居場所。僕の愁いに満ちた顔を見たためであろうか、何故か少し笑いながら栗栖は云った。
「君は愉快だね」
「栗栖は不快だ」
「おやおや。それは君にとって?」
「君が君自身にとって不快なら今すぐ改めたまえ」
「歓迎してくれよ」
栗栖は手の甲を目の上に翳した。どうやら、先ほどの僕と同じく蛍光灯の公害被害について気付いたらしい。
「殊勝だね? 珍しく」
「ふ、いつもひねくれた君といるとどうしてもね」
「朱に交わりたいんだろう?」
「誰が!」
「現に君は今日もこうして好き好んで闖入しに来てくれているんだけどね、栗栖くん」
僕は横目で反応を伺う。
「断りならいれたはずだ」
「そうだね、一分前の凶報のこと?」
「まぎれもない吉報だろ」
「このネット社会、大切なのは情報の取捨選択だって気付かされたよ」
「捨てるべき情報であったメールを見るべきではなかったと?……そしてふて寝しようとしたと?」
「……君はサイエンティストか。なぜ心が読める」
「サイコロジストだろう。生憎化学はモルでつまずいた典型的な文系人間だよ、僕は」
「アボガドロさんに謝りたまえ」
「まあ君が着信拒否にしても僕はここへ来るがね」
「僕の次の行動パタンまで読めるのか!」
「取捨選択より君の場合ネチケットだな。僕は心配だよ」
「礼儀・マナーは紳士のたしなみだよね」
「紳士はどうも悪態がお好きらしいからね」
「ふん」
ところで、と栗栖は切り出した。
「これでも今僕は君の言動に些か傷ついているのだけどね。そんなことはまあいいや、(……傷心じゃない!張本人がいうな)うん、まあそれでだね、今日なぜ僕がここへ雨の中はるばるご足労つかまつったのかについて話そう。(聞きたくないふりで耳を塞いだって無駄だよ。手のひらの器でどれほど塞いだって、完全に音を消すことは不可能だということを僕は知っている。)ふむ、それでだ。僕ら共通の知人にして天才の彼がやってくるのだよ」
「どこへ」
なぜだろう、胸騒ぎがする。自分で質問したというのに。
「こ・こ・へ!」
やめろやめろ。僕の平穏をこれ以上乱すな。
「却下」
「まあまあ。ここで一つ考えてみたいと思う」
「何をだよ」
「つまり、歓迎方法だよね」
「迎撃方法の間違いだろう」
「要するにwelcome partyっていうことなんだが」
「うぇへぇぇ」
「そんな顔するなよ、君」
「栗栖だって」
「これは、極めて重要な問題だ」
「それには同意しよう」
「初めて意見が合致したな」
「うむ」
窓の外で稲妻が光った。青い筋がジグザグと見える。二、三本続く。
「うぇへぇぇ」
これは栗栖の声。なんだ雷が怖いのかと思って振り向いたら、いつのまにかそこに第三者の彼が座布団の上に律儀に座っている。本人曰く、僕らが落雷に気を取られている隙に玄関から入ってきたそうだ。いやいや、だってそんな落雷三本の間にまさか。
しかしそういえばさっき鍵を掛け直すのを忘れていた。お前のせいだと言わんばかりにじろりと栗栖を三白眼で睨む。
「今日の天候のように破天荒な登場を試みてみたんだが、君等の反応から推測すると一応は成功と呼べるだろう」
天才は僕らの予想をいつだって掻い潜ってやってくるんだよ。
僕らがどう迎えようと、そんな瑣末なことは全く問題なしに。
しかも、なぜ手ぶらで濡れていないのか。外は雷鳴轟く、豪雨だというのに。
「傘?
そんなもの持ち歩くまい。外出するときに最も嫌がられる対象である雨をしのぐ方法が、片手を犠牲にしつつただ頭の上に覆いをすることだなんて。なんと原始的ではないか、この科学の発達の時代に。古来より蛙だって蓮の葉を頭上に掲げているというのに。蛙と同等とは、いやはや全く」
もう、いいだろうか。
天才について凡人の僕がどれほど主観的な感想を述べたところで、井戸どころか水槽の中の蛙が、大海どころではなく宇宙を語る如くである。というわけで、一先ずここ等で筆を置こうと思う。蛙が宇宙を学問するその日まで、ごきげんよう。