2012年10月19日(金) 01:38-武
私が死んだって構わないと思ってるんでしょ、と机に突っ伏した彼女が不機嫌そうに言う。彼はゆっくりと瞬きをすると、両手を顔の高さまで上げた。わかりやすい降参のポーズだ。それから、彼女から目をそらさず後退を始める。熊に出会った時の対処法だ。周りを見回す。すべての授業が終わって十数分が経った教室の中には誰もおらず、窓もしめられてしまった今、彼は頭を侵食するこの息苦しさは湿気のせいなのだ、と思い込むことにした。決してこの突っ伏してわけのわからない言葉を発する女のせいではない。
「いつ俺がそんなことを思ったんだよ」
彼は彼女を刺激しないよう、努めて優しい声を出した。彼女は顔をあげ、いつの間にか机二つ分離れて両手をあげている彼を認めると、大げさに眉をひそめる。
「だって、私が、家で待ってるあの子たちを放ってこんなところで男と喋ってればいいって、そう言うんでしょうあなたは」
いつの間に昼ドラが始まったのかと彼は首をかしげたが、とりあえず刺激するのは得策ではない、と結論付けて優しい声のままで言う。
「いつ俺がそんなことを言ったんだよ」あの子たちって誰だよ、という問いはとりあえず心の中にしまっておく。
「今さっき言ったじゃない」
口から吐き出しそうになる息を押しとどめると、彼は、それは誤解じゃねえのかな、と疲れたようにつぶやいた。彼女はひそめていた眉を吊り上げた。よく機敏に動くものだ、と彼は感心する。
「雨が降ってるのに、止むまで待つか、なんて、人を馬鹿にしてるとしか思えない」
「俺はお前が馬鹿だとしか思えない」しまった、言ってしまった。
彼女は重そうに自らの上半身を机から持ち上げ、勢いよく椅子の背もたれにぶつけた。女子とは思えない座り姿に、彼は脱力して、あげていた手を降ろしてしまう。
確かに授業終了十分前から降り始めた雨は雨足を強めていて、大雨警報が嬉々として飛び出しているであろう程度にはなっている。だからこそ傘も傘を持っている友人も持ち合わせていなかった彼と彼女は、こうして教室にとどまっている。
彼女は彼の発言に特別気分を害した様子もなく、
「昨日から両親が旅行に行っちゃって、私が一人暮らし状態なのは知ってるよね」
などとのたまった。
「初耳だよ。ていうか足閉じろ」
彼は潔く彼女に対する気遣いを投棄することにする。
「それでさ、私今日は晴れだって聞いてたから、洗濯物を外に干してきたんだよね」
彼は、さっき彼女が言った『あの子たち』が洗濯物ではないことを心の底から願った。
「そうしたらさ、この雨でしょう? だからもうどうしましょう、どなたかの傘を奪うしかないのかしら、とか思ってたら」
「上品に言っても犯罪は犯罪だからな」
「『日直は残って黒板消して日誌出してね』だって!
ねえ、あの担任は、私の家の洗濯物が、あの子たちが、水分を全身に吸ってその重さに悲鳴をあげて身を捩るのを眺めるのが好きな変態なのかな?」
何を食べて育つとそのような思考回路になるのかが彼には全く理解できなかったが、水も滴るなんとやらって言うからな、洗濯物でも見境なく興奮したんじゃねえの、と適当に返しておいた。この際生徒の家に洗濯物を見に行く教師がいるのかいないのかはさして問題ではないような気さえしていた。それから、彼はさっきの願いが儚くも散ったことに心を痛める。
「傘は持ってないし、日直の雑用が終わるまで待ってくれる友達なんかいないし。あなたにも傘持ってないし友達いないし役立たずだし」
「突然人を傷つけるのやめてくんない。あと一応言っておくけど俺彼女いるから相合傘とかはどうせ無理」
「しかも止むまで待つか、だって!」
彼の言葉を途中で遮り、再び怒りのボルテージを上げ始めた彼女に、彼は後退りを再開する。
「お前の家庭事情とか洗濯物への愛情とか知らなかったんだからしょうがねえだろ。それに、どうせ洗濯物はもっかい洗わなきゃいけないだろうし、この雨の中を傘なしで帰るのは無理があるから、止まなくてもせめて弱まるまで待つのが正解だろうが」
投げやりな口調で彼女に言えば、およそ同じ世界に住んでいるとは思えない言葉の羅列を続けていた彼女がようやく口をつぐむ。そして少し目を伏せ、窓の外を見やるという行動は、外見だけで言えば文学少女を体現している彼女がするとそれなりに様になっていた。が、おそらくこいつの頭の中では洗濯物と担任の女教師との熾烈な戦いが繰り広げられているだけなのだろう、と彼は彼女を冷ややかな目で見つめていた。ほぼ初対面で脳内まで予測される女ってどうなんだ、とひそかにため息もついておいた。
「あなたたち、何してるの?」
彼女の頭の中で第三ラウンドが開始し、ようやく家にたどり着いた彼女が洗濯物を教師の攻撃からかばおうとして怪我を負った時に、突然教室の後ろの扉が開いて声をかけられた。一人は驚いて振り返り、一人は憎しみの表情を浮かべて振り返ると、そこにはごく一部で変態疑惑を持たれている件の女教師が立っていた。
「雨が強くてどうしようかと思っていたんです。先生はどうしてここに?」
彼女に喋らせてはいけないという使命感に駆られた彼は、後退りしながら早口で報告する。
「いや、日直がちっとも職員室に日誌返しに来ないから、すっぽかして帰っちゃったのかと思って確認しに来たのよ」
女教師はそのまま教室内に足を踏み入れ、二人の近くまで寄っていく。彼女が突っ伏していた机の上には、担当ページが記入された状態の日誌が置いてあった。
「なんだ、書いてあるんじゃない。雨の対策に気を取られてたわけね。…あら、大丈夫? すごい顔してるけど。気分悪い?」
女教師が彼女の顔を覗き込むと、「いえ、大丈夫です」と彼女は顔をそらして答えた。襲いかからないあたり、一応現実と妄想の区別はついているらしい。女教師は、ならいいんだけど、と肩をすくめた。
「それはそうと、傘がないんだったら生徒会室で傘を貸してるから、それ使ったら? なかなか止みそうにないし」
日誌はもらっておくから、と笑顔で教室から去っていく女教師の背中を見送ってから、彼はようやく自分のクラスの担任がその面倒見の良さと美貌で人気があることを思い出した。似非文学少女のせいで危うく一人の女性の人格を否定するところだった、と彼は苦笑する。
「何にやにやしてるの、気持ち悪い」
「うるせえよ。さっさと傘借りて帰るぞ」
息苦しさは今や軽い頭痛となって彼を襲っていた。強い雨の日には衛星放送の画面が乱れることがあるが、今の自分の状況も似たようなものではないだろうか、と彼はこめかみを押さえる。
無事に傘を借りて校舎から出ると、雨足はさらに強くなっていた。頭痛がひどくなる。雨に加えて隣を歩く女が変な電波を発するせいでますます調子が悪い。未だに脳内で死闘を繰り広げている様子の彼女の方を極力見ないようにしながら、彼は少しだけ歩く速度を速めた。
「でもさ、傘が借りれるよなんて言って、敵に塩を送るなんて、あの担任もやるよね」
「頼むからそれ以上有害な電波を垂れ流さないでくれ」
終
書き始めたものの放置していたものをもったいない精神で完結させたひどいお話です。
いつもよりさらに意味不明でごめんなさい。
雰囲気で読んでください。