2012年11月19日(月) 21:33-鈴生れい
注:「退屈をこじらせる」「うざい人たち」「萌える日々」の続編です。さきにそちらを読んでいただけますようお願い申し上げます。
誰か、思い出せない。
たった今、わたしの目の前にいる人物が誰なのか。
「・・・・・・そら」
愛おしそうにわたしの名を呼ぶこの人は、そもそも男なのか、女なのか。
ぐるぐると頭の中で疑問が回ったまま、わたしはその人に抱かれていた。
いや、だけどわたしは男の人にこんなことはされないだろうと、不思議なほど客観的に考えている。
ならばこの人は一体誰なのだろう。
「・・・・・・そら」
もう一度、名前を呼ばれた。さっきよりもはっきり聞こえる。女性の声だ。
「・・・そら・・・」
女性の声、というよりは子供の声か? どこかで聞いたことがあるような―――
「そらっ!」
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
「空、やっと起きたの? もう着くよ」
状況が把握できないまま、とりあえず辺りを見回してみた。
人の少ない昼下がりの私鉄の車内。列車の進行方向に沿って並ぶ椅子には、わたしと従妹である萌だけが座っていた。
わたしの足元にはキャリーバッグ。これから5日間泊まる分の荷物を詰めてある。とはいえわたしは実家に帰るのだから、大半は萌のものだ。
そうか、わたしは実家に帰る列車に乗った後寝ていたのか。あれは夢・・・・・・。しかし、リアルな夢だった。
「まだ寝ぼけてるの?」
「ああ、ちょっと」
首を動かして鳴らすと、萌が少し嫌そうな顔をした。
「首鳴らすと太くなるよ。もう手遅れだろうけど」
「うっせぇな、寝起きっぱな挑発するなよ」
わたしより9つ年下のくそ生意気な従妹、篠山萌。
身内としての贔屓目なしに見ても容姿は整っており、実際モテるらしく年2、3回告白されているというわたしにとって当てつけのような従姉だ。
普段は結わない長い茶髪(天然もの)を、今日は右側側頭部でくくっている。サイドテールというやつだ。
「どうして今日に限って髪縛ってんの?」
「い、いいじゃんどうでも。遠出するから気分転換にって」
嘘だろうな。大方彼に髪ゴムでもプレゼントされたのだろう。結び目にイチゴが見える。いよいよ彼―――貝塚翔己も腹をくくったのか。
当面、萌はこのスタイルになりそうだ。
「ほら、着くよ」
わたしの生暖かい視線から逃れるように、萌はさっさとドアの前に移動していった。少し立ち上がるには早い気もするが、ついでにわたしもドアの前に移動する。
ちょっと経って、古めかしいドアが開くと、懐かしい空気が鼻腔をくすぐった。
萌も空気の変化を敏く感じとったようで、意気揚々とプラットホームへ降り立って行った。遅れてわたしも久しぶりの一歩を踏み出す。
太陽の日差しが、わたしの肌に照りつけた。また黒くなるかな。
「空、早く行こうよ」
「そう急かすなって」
こういう時ばかりは年相応にはしゃぐ萌に、わたしも笑顔をごまかせずにやけた面のまま小走りに萌を追いかけた。
萌に追いつき、揃って無人の改札を過ぎると、前時代的なクラクションの音が聞こえてきた。短く2回、挨拶だ。
「よう、時間ぴったしだな」
振り向くと、年代ものの軽トラに乗った男性が軍手をはめた手をこちらに振っている。
「海人が迎えか?」
おう、っと快活に笑っているドライバーは、わたしの兄の一人である篠山海人。わたしより2つ年上の22歳。高校を卒業してから家業である畑仕事を継ぐため親父にみっちり仕込まれている。
日焼けのため浅黒くなっている肌に、残る暑さのせいか玉の汗が浮かんでいる。それを首に掛けたタオルで拭い取りながら、海人は萌に声をかけた。
「萌ちゃん、大きくなったなぁ! 前会ったのはいつだったっけ?」
「え、ええと」
萌が戸惑っている。無理もない。前に会ったのは萌が物心つく前である。萌の親父さん、すなわちわたしの叔父さんである篠山次郎さんが仕事で忙しく、なかなかこちらに帰れないのだ。
ついでに言うなら海人は老け顔のせいかその無精ひげのせいか、実年齢よりもかなり年上に見える。萌が普段あまり関わらないタイプの人間だろう。
「ああ、覚えてないか。おれはカイト、海の人って書いて海人だ」
昔はよく海女ともじってからかった。その度にボコされたが。
「ええと、よろしくお願いします。海人おじさん」
「お、おじさんっ!?」
素っ頓狂な声を上げた海人は、たまらず噴き出したわたしを睨むと、大慌てで訂正した。
「おれは空より2つ年上なだけ! 見た目老けてるけどおじさんじゃねぇよ!」
「え、あ、ごめんなさい!」
「いいんじゃないか、おじさんで。普段わたしのことおばあさんって呼んでるし」
茶々を入れると、今度は萌に睨まれた。
「と、とにかく乗りな。ここ駐禁だし」
そう言って海人が親指を立てたのは軽トラの荷台。わたしには予想通りだったが、萌には予想外だろう。
と思って萌を眺めていると、意外とさっさと乗り込んでしまった。流石は萌、適応力は高いようだ。
市街地を抜け、延々と山道を走り続け、30分ほど経ってようやく一行は篠山家へたどり着いた。萌はおろか、わたしですら酔った。
「ちょっと、トイレ貸して」
萌の顔はいつになく真っ青だった。青りんごも顔負けである。
「海人、頼む」
あいよ、と運転していた本人は平然と萌を連れて家の中に入っていった。運転していたのだから当然なのだけど、でもけろりとされると腹立たしい。
幸いわたしはリバースを要するほど気持ち悪くないので、少し休んでいれば治るだろう。
この篠山家は外見こそ古めかしいが、わたしたちが生まれる少し前にリフォームされているため設備自体は割と新しい。見た目はおそらく祖父の趣味だ。
電気・ガス・水道は通っているし、使用頻度は高くないがクーラーもある。まさか井戸から水を汲むようなことはしたことがない。
休憩のために玄関の戸を開けると、見慣れた景色が少しの郷愁と共に広がっていた。主に障子である。
玄関を過ぎると、突き当りすぐに応接間がある。通路はそこで左右に分かれており、左側にリビング・ダイニング、右側には風呂場と2階に続く階段がある。トイレは左側通路奥だ。
部屋に戻るかどうか迷ったが、とりあえずリビングに行くことにした。時刻は4時過ぎ。この時期だと後2時間もしないうちに親父も祖父も畑から帰ってくるだろう。
通路突き当りにリビングのドア。通路はそこから右に折れてその奥にトイレ。
ドアを開けようと手を伸ばしたとき、通路の奥から声がかかった。海人のものだ。
「おう、空。これからおれバイトだから行ってくる」
「はいよ、気を付けてな」
海人を見もせずプラプラと手を振った。海人も気にせずわたしの脇を過ぎていく。
わたしが大学に進んだ後に海人が街のスーパーで売り子を始めたと聞いたときには少々びっくりした。遊ぶことにはいくらでも一生懸命になれる男だが、勉強および仕事という言葉からは無縁だったからである。
何やら小遣いを稼いで買いたいものがあるのだとか。親父もよくそれを許したものだ。
リビングに入ると、案の定誰もいなかった。祖母はきっと今頃原チャリで買い物に向かっている最中だ。御年75を越えても元気なものだ。面倒だし介護を必要としないままいてほしい。
手近なソファに腰かけて気持ち悪さをやり過ごしていると、萌がやってきた。心持すっきりした顔だ。そのままわたしの隣に座る。
「空は酔わなかったの?」
「いや、酔った。吐くほどじゃないけど」
幼いころから軽トラの荷台にはよく乗っていたし、山道には慣れていたつもりだったが、この1年半で耐性が落ちたか。帰りが心配だ。
「空ってさ」
「なんだよ」
「海人お兄ちゃんのこと、兄貴とかって呼ばないんだ」
しっかり直してるし。
「お前だってわたしのことお姉ちゃんとかって呼ばないじゃん」
「だって空ってそんな感じじゃないんだもん」
「どういう意味だよ」
「まんまの意味よ」
普段なら萌を追い始めるところだが、今そんな元気はない。仕方なく流す。
「海人は2歳しか離れてないからな」
「じゃあもう一人のお兄ちゃんの方も?」
「お前わたしが何兄弟か知ってるのに海人のこと知らなかったのか?」
「4兄弟ってことしか知らないの」
「岳秋っていうから覚えときなよ。多分今回会うことはないと思うけど」
製薬会社に勤めていて、新人とはいえ忙しく帰ってきてはいないようだ。次郎叔父さんと同じタイプである。
「じゃあ岳秋さんのことも岳秋って呼んでるの? 何歳か知らないけど」
「・・・・・・岳にいは、岳にいだ」
「岳にい、か。あんまり空っぽくないね」
「今更別のにしろって言われても違和感あるしな。いいんだよ通じれば」
岳にいはわたしより5つ年上だ。呼び捨てにするのも当時抵抗があったのだと思う。海人が兄貴っぽくないっていうのもあるだろうけど。
アウトドアでの遊びについては、わたしは専ら海人から教わっている。岳にいが運動音痴だからだが、それでも兄然としていたのは岳にいだった。
というより海人が頻繁にわたし(あるいは大地)をいじめたので、海人は兄貴というより悪友といった感じだ。兄貴と呼ばれないのも自業自得である。
「ねぇ、空の部屋見てみたい」
「2階行くの面倒」
「というかみんなの部屋あるの?」
「わたしと大地、海人と岳にいが同じ部屋。使ってるの海人だけだろうけど」
「海人お兄ちゃんの部屋とかエロ本ありそう」
またこいつはそういう・・・・・・。全くその通りだ。
一回大地が発見したブツをわたしに持ってきたことがあった。それを親父に提出すると家族会議が勃発し、結局海人がお仕置きされていたのを覚えている。
その時のブツは当然捨てられたが、当時まだ海人が中学生だったのに対し今は22歳。立派に持っている権利はある。彼女もいないらしいし。
「見たいのか?」
「み、見たくはないけど」
視線が揺れている。そうか、萌もそろそろそういう時期か。海人に言えば普通に貸してくれそうで嫌だ。
一応本人の名誉のために補足しておくと、別にモテないわけじゃない。何度か彼女を家に連れ込んだこともあった。ただ最終的には破局するようだが。
岳にいも大地も異性の人気は悪くなかったはずだし、どうしてわたしだけこうなのか。生まれ変わってやり直したい。
「海人に貸してって言えば?」
「要らないもん! それより空、おじちゃんたちはいつ帰ってくるの?」
「多分6時ぐらい。その前にばあちゃんが買い物から戻ってくるはず・・・・・・ああ、エンジン音聞こえたな」
噂をすればなんとやら。外から鈍い排気音が聞こえ始めた。ばあちゃんのものだ。
急に隣の萌がかたくなった。
どうやらこいつ、あまりに長いこと会っていなかった親戚たちとの距離感をいまいち掴みあぐねているようだ。
人見知りするタイプではないから、単純にその距離感が掴めなくて困っているのだろう。
わたしとのときもそうだった。最初は本当に月に2,3度、わたしが向こうのご相伴に預かっていただけなのだ。あのときはこんな生意気なガキだとは毛ほども思っていなかった。
それがいつの間にかこうして二人で旅行すらしてしまうような仲になるとは、人生ホント何があるか分からない。
「おや、おかえり空」
「ただいま、ばあちゃん」
萌は心の準備ができたのかどうか、ばあちゃんがリビングへ入ってきた。
白髪ではあるが髪は潤沢にあるし、背筋もすらりと伸びている。日常生活に支障をきたしている様子もなく、理想的な老後そのものだ。
ばあちゃんは視線を早々にわたしから萌へと移すと、表情を緩めた。
「萌ちゃん、大きくなったねぇ」
「お、お久しぶりです」
対して萌はカチンコチンのまま、ソファから立ち上がってお辞儀をした。似合わない固すぎる動作に、またしても噴き出しそうになる。今度はこらえた。
「そう固くならんでいいよ。ゆっくりしておいき。空、家事は少しぐらいできるようになったのかい?」
「独り暮らしなんだからそれなりには」
「じゃあ手伝っとくれ」
一年と半年ぶりの再開だというのに、いつもと全く変わりないばあちゃんだった。
夕食はそれなりに豪華だった。萌は好き嫌いが多いが、ばあちゃんの無言の圧力に屈して様々な野菜を食べさせられていた。
「もう食べれない」
ソファに腰かけながら、萌がぼそっと呟いた。
「空、明日はどうするんだ?」
その隣に腰かけて食休みしていると、親父が話しかけてきた。篠山鉄朗。最近髪が薄くなってきている気がする。見た目をたとえるとゴリラだ。
親父は食卓に座ったまままたビールを開けていた。さっきも散々進められて、ザルだとはいえ水分の取り過ぎで少し気持ち悪い。
「畑仕事する気はない」
「んなこたぁわかっとる」
昔から畑仕事を手伝えと言われるたびに逃走していたわたしだ。
「家でぐうたらするのは許さんぞ」
「せっかく実家に帰ってきてんだからいいだろ」
「萌ちゃんを連れて街にでも行って来い」
「足がねぇよ」
「軽トラを貸してやる」
萌の顔が青ざめていった。余程今日のドライブはきていたようだ。吐くほどなのだから。
少し考える。街に行ったところで都会には遠くかなわないし、かといって地域限定の何かがあったりなどするわけでもない。
すなわち、行ったところで無駄である。
「・・・・・・明日また考える」
「今日中にどうするか決めなさい」
口うるさい親父だ。うちにはなまじお袋がいないせいか親父がいろいろ口出ししてくる。
お袋はわたしと大地が物心つく前に死んだ。おかげで顔も覚えていない。どういうわけか写真すら残っていないのだ。
「まぁ鉄朗、そうかっかすんな。久しぶりに空が帰って来とるんだから」
見かねたのか、じいちゃんが口出ししてきた。完全に禿頭だ。背は低いが体格はがっしりしている。
「帰省を久しぶりにしたのはあいつだ」
確かにそうではあるが。これほど口うるさく言われるならもう卒業するまで帰って来たくない。
ため息をついて、わたしはリビングを出ることにした。後から萌もついてきている。
通路を進み、階段を上ると右手にわたしと大地の部屋がある。ドアを開けると、以前と変わらぬ様子の部屋があった。
いや、なんか綺麗になっている。というか、やたらと段ボールが目につく。これは明らかに納戸として使っていたのをわたしが帰ってくると知って掃除したな。
なんとも言えない気分になっているわたしの後ろから、萌が部屋を覗きこんだ。
「割と大きいね」
「わたしと大地の部屋だからな」
「双子とはいえ男と暮らしてて不便ないの?」
そういえばと、ちょっと記憶を引っ張り出してみる。
わたしは特に困った覚えはないのだが、一時期、確か中学生に入ったぐらいで大地が相部屋を嫌がったことがあった。
詳しい理由は聞いてないが、思春期だったのだ。いろいろ事情があったのだろう。そんな事情は結局汲まれることはなかったけど。
「・・・・・・大雑把だな、うち」
「空からしてガサツじゃん」
眉根が動く。否定できない。
「女性らしい人って言ったらおばあちゃんぐらいだもんね」
「あの人は怒らすと男どもより怖いけどな」
般若。この言葉がばあちゃん以上に似合う人にわたしは会ったことがない。
「別に空みたくキレやすいわけじゃないでしょ」
「誰がわたしをキレさせてると思ってるんだよ」
「きゃーまたキレた」
次何か言ったら押入れの布団で簀巻こう。
その後、いろいろ話していると風呂が沸いたと言われたので簀巻きを解いて萌と一緒に入ることにした。
移動の疲れをさっぱりと落とし、気分爽快で部屋に戻ると、バイトから帰った海人がいた。
「明日どうするか決めたか?」
「まだだけど」
わたしはともかく、年頃の萌もいるのだから勝手に部屋に入るのはよせよ。ガサツな。
「んじゃさ、『山』に行ってみないか?」
は? 何を言ってるんだこいつは?
「山?」
「そう、『山』」
萌の問いかけに対して海人は得意げに顔を歪めた。大抵碌でもないことを考えている合図だ。
それ以前に、『山』に行こうと言っている段階でもうとんでもなく碌でもない。
「親父にぶち怒られたいのか?」
「空ってさ」
会話のキャッチボールをしろ。
「お袋のこと、どう思う?」
「なんの話だよ」
「いいから、答えろ」
なんなんだまったく。『山』のことを説明してないから萌も置いてけぼりじゃないか。
お袋のことだって、わたしが赤ん坊の頃に死んだからほとんど知らない。
苛立ち交じりにそう伝えると、海人が妙に神妙な顔をした。これっぽっちも似合っていない。
「『山』でな、お袋を見たって人がいるんだ」
「え、え?」
萌が完全に混乱している。そりゃそうだ。わたしだってそうだもの。
死んだはずのお袋が、生きている?
一体、なんで?
*
ここら一体は山が多い。が、あるイントネーションで『山』と言った場合、ある一つの山をさす。
正式名称は知らないが、篠山家から少し行ったところに登山口がある。とはいえ大した高さではないから、動きやすい服装で多少の荷物を持っていけば日帰りで大丈夫だ。
ただし、わたしたちはここに立ち入ることを禁じられていた。曰く、子供がこの山に入ると神隠しに遭うからだとか。
一度、海人とわたしで入ったことがある。中はなんの変哲もない山だった。
何事もなく山から出たところで仁王立ちをしている親父に見つかり、それまでにないくらいこっ酷く叱られた。
それ以来、あの山に入ったことはない。特に何かがあったわけでも、ありそうでもなかったから、入りたいとも思わなかった。
後になって考えると、確かにおかしな話ではある。山の中を歩くことに対して、危険というものは常に一定程度付きまとっているが、あの山が周りの山々に比べて特別危険という印象はなかった。
ならば何故、あの山だけ子供の立ち入りが禁じられているのか。
疲れていたせいか海人との話の途中で寝てしまった萌を布団に横たわらせた後、海人と共にわたしは直接ばあちゃんに尋ねてみた。
「なぁ、なんで『山』って子供の時入っちゃいけなかったんだ?」
ばあちゃんの顔色に変化はない。想定の範囲内の質問だったらしい。
「あの山の頂上にはね、有り難い神様のお社があるからねぇ。子供に荒らされたくなかったのさ」
「それ、明日見に行ってもいいかな? もう荒らしたりしないし」
ばあちゃんは少しの間わたしと海人をじっと見据えた。わたしたちの真意を量ろうとしているらしい。鋭い眼差しに思わず目を逸らしそうになるが、負けじと睨み返した。
そんな数秒のやり取りののち、ばあちゃんは首を縦に振った。
「用意はしっかりね」
そういうわけで、急遽わたしたちは『山』に上ることになったのだ。
明くる朝4時にたたき起こされ、久しぶりの早起きについていけず瞼が下がりながらも用意をして、家を出たのが5時半過ぎ。
萌に至ってはこんな無茶な早起きは初めてだったらしく、かえってテンションが上がっているようだ。一夜漬け後のテンションのようなものだろう。
海人の先導のもと、時々萌のために休みを入れながら歩き続け、それらしき社を見つけたのは、10時を過ぎたぐらいだった。
「きっつ・・・・・・」
萌がその場にへたり込む。昨日に引き続き慣れないことをしているのだから体力は限界に近いかもしれない。よくも都会の小5が休み休みとはいえこの4時間半のハイキングを音を上げずにやりきったと感心する。
反対にわたしは目が覚めてちょうど元気になってきたところだ。
「これが昨日ばあちゃんが行ってた社か」
海人がひとりごつ。
お社はそんなに大きなものではなかった。木でできた、ちょっとした小屋のよう。頂上とはいえ周りの木々に光を遮られ、少々不気味だ。
「これとお袋がなんか関係あるのかな?」
海人が首を傾げ、右指を顎に当てながらお社に近づいていく。そういえば昨日聞いていなかったが、一体誰がお袋を見たと言うのか。
「なぁ海人、誰がお袋を見たんだ?」
「親父だよ」
・・・・・・長々10秒ほど、わたしは海人の言葉の意味を解しかねた。
そして言葉が嚥下されると同時に、思わず噴き出した。
「いやいや、あの親父が?」
「そうだ。それも尋常じゃない雰囲気だったんだぞ」
夏休みのある日(詳しく聞いたらわたしと大地の誕生日の翌日)、野暮用で外出していた親父が顔面を蒼白にして家に飛び込んできたらしい。
それを見た海人が親父に近寄ると、親父は総身から力が抜けた状態で、上の空のまま美佳、美佳と繰り返し呟いていたそうだ。
親父の走ってきた方角から察して、海人は『山』が怪しいと当てをつけた。
「親父がそんなんなったとは、確かに尋常じゃないな」
「だろ? だから調べるのさ」
海人は怪談が好きだった。大地がそういった類の話が苦手なため、夜な夜な怪談を囁かれてはわたしの布団に潜り込んできて、わたしはそれをぶっとばした覚えがある。
ああいうときは、お袋が恋しかったな。
「それにさ、」
海人が少しもったいつけて、言った。
「おれたち、お袋がどうして死んだのか知らないだろ?」
・・・・・・言われてみると、そうだ。この年になって、お袋が死んだ原因が分からない。
「一回、親父に訊いてみたんだ。そしたら、がむしゃらに怒鳴られて、それっきりだ」
変だ。おかしい。親父たちが、隠している?
病気とか事故なら、わざわざ隠す必要がない。隠すってことは、親父たちに何か後ろめたいことがあるってことなのか?
もやもやとしてきた頭の中を吹き飛ばすため、わたしもお社を調べてみる。
対して不信な点は見当たらない。ばあちゃんの言っていた通り、ここの神様は中々信仰されているらしく、お社も最近建てたように綺麗だし、生けてあるお供えの花も比較的新しい。
「そういやさ」
「なんだよ」
「あの時おれらがここに行こうと思ったのってさ、親父がやたらとここに登ってたからだよな」
そう言われると、そうだったかもしれない。
親父は信心深い方ではない。むしろオカルト的なものをバカにする傾向にあった。その親父が、頻繁にここに来る理由とはなんなのだろう。
少し、肌寒い。暦上は秋とはいえまだまだ暑い日が続いている。だというのに、背筋に嫌な寒気が走っている。昨日は晴れていた天気が、今日は曇っていた。
「なんか見つかったー?」
わたしと海人の間に流れる空気とは対照的に、近くの岩に座ったまま萌が気の抜けた声で訊いてくる。わたしが海人に視線で訊ねると、否定。
「いや、なんもない」
「そっか。じゃあお昼にしない? お腹すいちゃった」
ばあちゃんがお結びを持たせてくれたのだ。確かに言われると腹の虫が鳴きそうである。
「食いしん坊だな」
「し、仕方ないじゃん。こんな山登ったの初めてだもん」
「食いすぎると太るぞ」
「空に言われたくない!」
「それはどういう意味だっ!」
両手を振りあげて萌に突進する。きゃーと平坦な悲鳴を上げて、萌は岩から飛び降りると海人の方へ猛ダッシュ。海人の陰に隠れた。
「海人、そいつを渡せ」
「助けて、海人お兄ちゃん!」
「ま、良いじゃん空。お前がデブったってのは事実っぽいし」
野郎、「お兄ちゃん」の一言に買収された挙句、デブという女に向けて絶対言うべきでない言葉の一つを憶測で言いやがって。
わたしが兄貴扱いしなかったことに対して文句でもあるのか、このおじさんめ。
「二人とも、しばき倒してやるからそこに直れ!」
「お、いいね。久々にいっちょやるか!」
結局、随分と運動せず怠けていたわたしは海人に返り討ちにあったのだった。
後、昼飯まことに美味しゅうございました。山で食べる飯は格別だ。
収穫もないまま夕方になり、畑に向かう海人と別れ、家に戻ると意外な来客があった。
「やぁ、ひと月ぶり。空」
「ご無沙汰してます。空さん」
わたしの双子の弟大地とその彼女である陽子だ。大地はともかく、陽子まで。
「なんでいるんだ?」
「ああ、ちょっと秋祭りにさ」
「秋祭り?」
帰り道は力尽きてわたしに背負われていた萌がわたしの背中で会話に参加し始めた。耳に息がかかって鬱陶しい。
「起きたのか?」
「うん、今起きた」
「じゃあ降りろ。靴は脱げよ」
器用に靴を脱ぎながら、萌はわたしの背中からするりと降りた。
靴を片付けた後、萌はソファに腰かけた。陽子、大地、萌ときていっぱいなので、仕方なくわたしは食卓に座る。
台所では、ばあちゃんが忙しく夕餉の支度をしていた。普段より4人も多いから、食材の量も多そうだ。
「秋祭りなんてあるんだ。わたしのとこではあんまり聞かないけど」
「場所に寄りけりなんだろうね。言い方の問題かもしれないけど、結局何かにかこつけて祭りがしたいのさ」
秋祭りは、いわゆる収穫祭だ。実際収穫するのはもう少し先なのだが、慣例的にこの時期にやってしまっている。
規模はそこそこ大きい。時期外れだが花火もあったはずだ。街に降りれば出店もあるから、明日はわたしも萌を引き連れていってみようか。
ちなみに夏には夏祭りがある。秋祭りと比べると規模はだいぶ小さい。
夏秋と二回も祭りをやるのだから、確かに名目を立てて祭りをしたいのは本音だろうけど。
大地こそ、どうせこの祭りにかこつけて彼女を自宅に引っ張ってくるのが目的だろう。人のことを言えた義理か。
「でも祭りなんて子供だましじゃない?」
「出店とかは確かにそうだけど、この秋祭りにはあるジンクスがあってさ」
祭りの間、神社に祈りを捧げたカップルは結ばれる。
街の神社に祭られている神が縁結びのものであることが由来だと思うが、イルミネーションを見たカップルが別れる云々ばりに嘘くさい。むしろ、これぞ子供だましだ。
実際どうなっているかまでは知らないが、多分プラシーボ単位程度で増えているだろう。
「なるほど」
おや、萌は意外とこういうのをバカにしないのか。以前幽霊と言ったら鼻で笑われた覚えがあるが。
大方来年にでも翔己と一緒に来ようかな、なんて考えているのだろう。どうでもいいけど引率はごめんだ。
深く頷いている萌に大地も勘付いたのか、
「彼とはうまくいったの?」
「え、う」
顔を真っ赤にして俯く萌。未だ自分のことを弄られるのには慣れてない。からかい甲斐があっていいことだ。
「空さん」
萌に生暖かい視線を向けていると、いつの間にかわたしのすぐ近くに陽子が立っていた。
改めて眺めてみると、陽子は確かに美人である。背が高く(わたしよりは低い)、髪は落ち着いたセミロング、目元が整っており泣き黒子つき。
スタイルもよろしく、わたしと比べると月とすっぽんだ。こんないい女を引っかけた大地が羨ましくなってくる。わたしも女だけど。
「なんだよ?」
ちょっと不貞腐れて訊ねると、陽子は軽くお辞儀をした。
「その節はご迷惑をおかけしまして」
「・・・・・・そうかたっ苦しくなくていいからさ」
「ありがとうございます」
つーか、わたし(20歳)より彼女(22歳)の方が年上なんだから陽子が敬語を使うのはおかしい。もし大地とこのままゴールインすればわたしが義姉になるとはいえ。
そこまで考えて狙ってやっているのなら、慇懃無礼だ。
「わたしの方が年下なんだから敬語止めてくれ」
「えっと・・・・・・。はい、じゃあそうするね」
うん、こっちの方がしっくりくる。単純にわたしが敬語を苦手としているだけな気もするがそれは考えないようにしよう。
「しっかしまぁ、学生の身分で彼氏の実家に挨拶なんて、よーやるわ」
呆れ半分、感心半分だ。私が呆れているのはこんな遠方の実家に彼女を連れてきた大地にだが。
陽子はとても申し訳なさそうな顔をして、
「・・・・・・ごめんなさい」
「あんたを責めてんじゃない。大地がアホなだけだ」
親父は堅物だし、ばあちゃんもしっかり者だし、じいちゃんだけは剽軽だが、おおよそ古めかしい考えに囚われているうちの年長者たちが、陽子を認めるだろうか。
まぁ、大地の色話なんてわたしの管轄外だからどうでもいいっちゃあどうでもいい。
「そんで、なんか用か?」
「あ、そうそう。大地くんすっかり忘れてるみたいだけど、空さんのお友達がさっき来て、今2階にいると思うんだけど」
わたしの、お友達?
いや、心当たりがなかったわけじゃない。人並みにはいる。だからどいつか検討をつけていただけだ。
ただし、男限定である。こう言うとわたしが好き者みたいでいやだが、実際ほとんどが男友達なのだから仕方ない。
「名前聞いた?」
「えっと、確か桐生さんとか」
あいつか。
聞くや否や、わたしはリビングを飛び出して2階へと駆け上がった。
わたしの友達ということはほとんど大地の友達でもある。大地の友達という名目でならわたしと大地の部屋に入ることだって容易いわけだ。
後生だから、変なことしてんじゃないぞ。
「星!」
ドアを開け放つ。部屋の中央でこちらを向いたまま胡坐を掻いていたのは、桐生星。星と書いてショウと読む。あだ名はまんまホシだった。
ここいらの男子の大半に共通する特徴として、こんがり麦色に焼けた肌とたくましい筋肉が挙げられる。こいつも例に漏れず、そんな感じだ。
「おう、なんだよそんな慌てて」
最後に会ったのは向こうに引っ越す当日だったが、少し様子が変わっていた。髪が少し長くなって茶色く染められている。今時の若者っぽい感じだ。
特に乱れた様子のない部屋にわたしが安堵していると、懐かしさからか、星の顔が綻んだ。
「ひっさしぶりだなぁ、一年半ぶりだっけ?」
「あ、ああ」
確か星は実感の酒屋を継ぐために両親に仕込まれているはずだ。街の方にある酒屋で、規模は一般的な個人商店程度。名前はそのまま『桐生酒店』。
一時期は進学も考えていたようだが、ある日を境に家業を継ぐことを決意したらしい。理由は聞いてない。
とりあえず、確認してみる。
「お前、わたしの部屋で何してた?」
「何って、今は別に何をしてたわけでも」
「今はってことは、これから何かする気だったのか?」
「・・・・・・空よぉ、お前20歳にもなっておれが昔やってたような幼稚な真似すると思うか?」
「思う」
即答してやると、星は器用にその場でこけた。
詰まるところ、こいつはガキ大将でエロガキだったのだ。そういう意味では、わたしを女子扱いしていたかもしれない。そんな扱いを受けたところで嬉しいどころか怒りしか湧かない。
20歳になっても星は星、どうせ彼女もいないだろうから、いくらわたしが女っぽくないからと言って気を抜いていると痛い目に遭う。
わたしだって、人並みに羞恥心は持ち合わせているつもりだ。
「まぁいいけどよ。それより空、お前こそ大学まで行って木登りだのチャンバラだのしてないだろうな?」
「してるわけ・・・・・・ないだろ」
「なんだよ今の間は」
少なくともチャンバラはしてない、はず。する相手いないし。
「ほっとけ。というか、今回は従妹も来てんだから勝手に部屋に入るな」
「それはお前だけ帰省してるなら入ってもいいと?」
「・・・・・・久々に一本やるか、チャンバラ」
「遠慮しとくぜ、お前に勝てる気しねーし」
飄々と肩をすぼめる。なんだか腹が立ったから後で本当にやってやろうか、チャンバラ。
自慢じゃないがわたしはチャンバラに関しては抜群にうまい。多対一でだってうまく立ち回れる自信がある。ガキ大将だった星を、当時何度も伸したものだ。
それはともかく、わたしらだけ上にいても仕方ない。
「用もないならなんで上来たんだよ」
わたしが至極全うな質問をぶつけてみると、星にしては珍しく、ちょっと濁した返事がきた。
「まぁ、ちょっとな」
「やっぱり何かしようとしてたんじゃ」
「違うってーの!」
見間違えでなければ、星の顔は若干紅潮していた気がする。
どういうわけか、さも当然のごとく星はうちの食卓に混ざった。
お土産と言って星が焼酎を持ってくると、これまたどういうわけかわたし、大地、陽子、星によく杯が回ってくる。
いつぞやのように大地と陽子が泣き上戸を発揮し、萌も場酔いし、酒屋の息子のくせに酒に弱い星はへべれけになるし、どうにもザルというのは損な役回りだ。海人は相当弱いらしく、即効潰れていた。
そして、みんなが飲んで誰が星を送るのかという話になって、みんなのアホさが露呈する。
ただでさえ陽子もいるというのに、星まで泊まることになった。なまじ家が広いのが災いしている。
いくらザルとはいえ火照っている体を冷まそうとわたしは外に出ることにした。陽子は萌と風呂に入るらしく、どことなく意気揚々と風呂場へ向かっていった。ガールズトークとやらをするのかもしれない。
そういえば陽子について、親父もばあちゃんも何も言わなかったな。体面の問題かもしれない。後で大地を叱るのだろうか。
暗くなった空を仰いだ。曇りなのは相変わらず。このままではなんだか滞在中ずっと曇りな気がしてきた。わたしの心がそんな気分だから。
「空」
しゃがれた声で呼ばれた。振り向かなくても分かる。じいちゃんの声だ。
「なんか用?」
「じっちゃんに向けてつれねぇこた言うもんじゃない」
諭すようなセリフだが、対して実感はこもっていない。半分冗談だろう。
じいちゃんは庭の真ん中に突っ立っているわたしの隣に立つと、同じように空を見上げた。
しっかりもののばあちゃんとは対極的に昼行燈なお人だ。昼行燈というと語弊があるかもしれない。ただずば抜けてすごいと思える点がない人だ。
亀の甲より年の功。そんなことわざが似つかわしくない。
でも、わたしは嫌いじゃない。むしろ家族の中では一番好きと言っても過言じゃない。むやみに口出ししてこないし、困ったときは助けてくれる。
数少ない、わたしを甘やかしてくれる人だ。
「なぁ、じいちゃん」
「あんだい?」
「お袋って、どんな人だった?」
ちらりと視線を向けてみるが、しわくちゃの顔は微笑を湛えて崩れなかった。
「いい人だったよ。美人じゃあなかったけどね、気立てが良くて、家事ができてねぇ。鉄朗にはもったいない嫁さんだった」
心なしか、じいちゃんの声は震えていた気がした。
「なんで、死んだんだ?」
「空」
今度は打って変わって、語気が強い。わたしをたしなめる口調だ。
じいちゃんからなら、と思ったがだめそうだ。親父、じいちゃん、そしておそらくはばあちゃんも。この3人の間で、一体何を隠しているんだ。
一度、念押しをしてみる。
「けどじいちゃん、わたしだってもう20歳だ。お袋がもしショッキングな死に方だったとしても、大丈夫だ」
「そういう問題じゃない、空」
じいちゃんは、頑ななままだ。こんな姿、数えるぐらいしか見たことがない。それだけ、わたしはやばいことをしてるってことか。
まぁ、これ以上訊ねたところで収穫もなさそうだ。わたしは押し黙ることにした。
すると、今度はじいちゃんの方から質問が来た。
「明日は、萌ちゃん連れて行くのかい?」
述語が飛んでるが、秋祭りにだろう。
「そのつもり」
「そうか、楽しんでおいでな」
じいちゃんの声色からは、とげが消えていた。いつもに戻ったじいちゃんは、そう言って踵を返した。
今の会話で大分酔いも醒めたし、そろそろ家の中に戻ろう。
少しばかり目頭が熱くなっているのを感じながら、今一度曇る空を見上げると、突然生暖かいものが背中にもたれかかった。ぞわっと鳥肌が全身に広がる。
何かと思って顔だけ捩じると、すぐ近くに星の顔があった。こめかみに古傷が見える。きっとガキ大将時代にできたものだろう。わたしも星も、生傷の絶えない子供だった。
「空」
今度は、別の意味でぞくりとする。吐く息はたいそう酒臭く、そして熱っぽい。
かつての星とは、違う。
「空、見てたのか?」
・・・・・・わたしの名前ではなく、モノホンの空のことを指していたようだ。昔からよくある勘違いだ。久しぶりに引っかかった。
気恥ずかしさを表に出さないようにしながら、わたしはうん、と肯定した。
重たい。わたしは比較的長身(175センチぐらい)だが、星はそれより大きい。この図体のでかさも、ガキ大将として一役買っていた。
「空」
また大空のことか、それとも。
「空」
呼ぶ声は甘ったるい。
でも、どうしてだろう。虫唾が走ったりはしない。
「空、可愛くなったな」
「そ、そうか」
雰囲気が悪いのか。少なくともわたしは、星に恋愛感情なんて抱いていないはず。だけど、後ろにいるこいつを、引き剥がそうという気にもならない。
星は、全体どういうつもりでこんな真似をしているのか。
わたしの問いかけを知らずして、でも星はかぶりを振った。
「違うな、言い方が悪い。空、なんか萎れてんな」
「萎れるとは人聞きの悪い」
なんだこいつは。今更ながら変な雰囲気を感じたのが恥ずかしい。どう考えたってこいつは酔っぱらってるだけだ。
ちょっと体が冷え過ぎたんだ、だからきっと湯たんぽみたいなこいつを剥がすのに躊躇っただけ。
「いい加減離れろよ」
「なんか、悩んでるのか?」
ん、なかなか鋭い。そんなに元気がなかったように見えたか。
お袋の一件、正直わたしには追求すべきかどうかすら分からない。死因を知って、得られるのは自己満足だけ。満足だけで幸せを得ることなんてない。
親父が見たというお袋、原因不明の死、みんなが隠している秘密。
秘密を暴くこと、真実を知ることは、本当に必要なのだろうか。
そのとき、もぞっと、星が少し体をよじった。
「そんな空もいいけどさ」
いいってなんだよ、からかい甲斐があるってこと―――
「―――いつもの元気な空の方が、おれは好きだ」
・・・・・・果たしてそれは、どういう意味か。
でも、待ってほしい。きっと今、わたしは弱っている。心が迷っている、動揺している。
だから、そこに揺さぶりをかけられただけだ。だからこの動悸は、きっとそういうことじゃない。
心が、大きく揺れているだけだ。
だって、あの星だ。エロガッパだった星なのだ。きっとそういう意味じゃない。
「ふぁ、ねむ」
耳元で不快な大きい欠伸をすると、星は急に寄りかかるのをやめ、覚束ない足取りで家の中に入っていった。
そして視界の端に、不快な景色。どこかで見覚えのあるサイドテール。
「萌」
彼女にひぃ、という悲鳴を出させるほど、わたしの声はドスが利いていたようだ。全く、出歯亀な従妹だこと。
*
わたしと大地の部屋には、ばあちゃん以外の女性が寝た。海人と大地は兄たちの部屋、星は1階の応接間だ。
翌朝、秋祭り当日。
今日も朝4時に叩き起こされた。せめて後2時間遅く起こしてほしい。萌も瞼がくっついたまま離れない。陽子も気丈に振る舞ってはいるが、目立たないように欠伸を連発していた。
海人が二日酔いでダウン。夜までになんとかすると言っていたがどうなることやら。大地も若干頭痛を抱えているみたいだ。
「おっす」
一方で、星は何事もなかったかのようにけろりとしていた。一体、昨日のあれはなんだったのか。
星は早々に乗ってきた原チャリで帰った。どうやら祭りの用意があるらしい。その去り際に、一緒に祭りを回ることを無理やり約束させていった。
心の中がもやもやする。
「萌、今日はどうする?」
「あ、夕方になったら一緒に行こ。それまでわたしじいちゃんと遊ぶから」
どうやら昔の遊びを教わるらしい。今時の子は花札なんかやらないんだろうな。わたしもあまりやらなかったけど。
独楽とか面子とか、うちの中には古式ゆかしい遊び道具がわんさかある。まだこっちの方が使ったかな。それでも鬼ごっことかチャンバラとかそっちの方が圧倒的に多かった。
さて、萌がいないんじゃわたしはどうしたものか。
親父も今日は早めに帰ってくるみたいだし、日がな一日ごろごろしているというのは魅力的な提案だが後でブッ飛ばされそうだ。それ以前に、いろいろ考えてしまいそうで嫌だ。
『好きだ』
あれは、どういう意図で言ったのか。こういった経験が悲しいぐらい乏しいわたしにはさっぱりピーマンだ。・・・・・・懐かしいなこの言い回し。
そうだ待てよ、経験がありそうなやつに訊けばいいじゃないか。
大地に、家族に訊くのは絶対嫌だから、その相手は一人しかいない。あの大和撫子然とした風貌と性格なら明らかにモテるだろう。
「大地、陽子借りるぞ」
「え、ちょっと空?」
言うが早いか、虚を突かれて呆ける大地をよそにわたしは朝食の後片付けを終えた陽子を捕らえ、廊下に連れ出し相談の約束を取り付けた。一応快諾してくれた。
一通り身支度をして、わたしと陽子は歩き出した。天気は変わらず曇り。幸いにも雨は降らなそうだ。
15分ほど歩くと、山道の途中にちょっとした広場が見える。車が3台止められ、公衆便所と屋根付きのベンチもある。常に人気がないので相談にはうってつけだ。
乱暴にわたしがベンチに腰かけると、少し遅れて陽子が優美な所作で座った。こういうところ一つとってもわたしは陽子にぼろ負けだ、女として。
「それで、わたしに相談って?」
劣等感。感じたところで意味はないのに。そもそも陽子に劣等感を覚えるというのは大地を取り合って彼女に嫉妬しているようで甚だ不本意だ。
少し、思考を落ち着けて、整理する。
わたしが話すべきは、まず。
「大地から聞いてるか知らないけど、わたしらのお袋は死んでる」
「聞いたよ。まだ大地くんも空さんも小さい頃だって」
そう、物心つく前の話だ。だからわたしはお袋の声も顔も覚えていない。お袋というのがどういう存在なのか、おそらくみんなと同じようには思っていない。
だけど正直な話、それはどうでもいいんだ。最初っからいなかったから、子供の頃は寂しく思ったこともあったけど、今はもう割り切っている。
問題なのは、その死因が家族によって秘匿されていることだ。秘匿しているということは、すなわちお袋が死んだ背後に後ろ暗いことがあるってこと。そうでなければ隠す必要はない。
言葉に詰まりながら、あっちこっちと飛ぶ話を陽子は丁寧に聞いてくれた。
陽子に聞いてもらって初めて、わたしは自分が思っている混乱していることに気付いた。
「そう、お母さんが・・・・・・」
陽子は沈痛な面持ちで目を伏せた。いくら大地の彼女だとはいえ、ほとんど初対面に近い相手に相談することじゃなかったかもしれない。
けれどこれは、本題を話すためには必須だ。
「それで、こっからが本題なんだけど」
「え、そうなの?」
「うん」
はぁ、と息を吸って吐いて、吸って吐いて、わたしは昨夜の出来事を洗いざらい話した。
こんな恋愛相談みたいな真似、まったくもって初めてだったから、もう恥ずかしいったらない。わたしが何かしたわけじゃないのに。
星にむかっ腹を立てながら昨日会ったことをすべて話し終えると、陽子はくすっと笑い声をもらした。
それからごめんなさいと挟んで、
「でも、空さんもそういうことで悩むのね」
「どういう意味だ」
「そういうことでうじうじ悩まないかと思ってた」
そういう経験が今までなかったのだから仕方ないだろう。それもその最初の経験がよりにもよってあの星なのだ。悩まずにいられるか。
「相手が星じゃなければ相談してないよ」
「それね、きっと空さんの目を曇らせているのは」
わたしの目が曇っている? それこそどういう意味だ。
「空さん、重要なこと忘れてるもの」
「重要なこと?」
何か失念していたのだろうか。あるいは女らしくないわたしでは気付けないことに陽子が気付いたのか。
その陽子の答えは、とても当たり前のことで、しかし確かにわたしが忘れていたことだった。
「空さんは、星くんのことどう思っているの?」
・・・・・・要するに、わたしは混乱していたんだ。お袋のことも、星のことも。
迷っているのは、知りたいから。お袋の死の真相を、知らなくてはいけないと思っているから。ならば追い求めればいい。
そして星のことも、あいつがわたしをどう思っているかじゃない。わたしがあいつをどう思っているかを、はっきりさせなくちゃいけない。
その結末が、どんなものであったとしても。