2012年12月19日(水) 01:43-白霧
何だかやけに静かな朝だと思いながら、カーテンを引き開けると、外には雪景色が広がっていた。
夜の間に降り積もったのだろう。家々の屋根が、道路が、街路樹が、目に映る街並みのすべてが、冷たい白銀の中に閉じ込められている。灰色の空からは今現在も、細かな雪片が、風に弄ばれながら舞い落ちてきていた。
そっと窓を開けると、凍った空気が肌を刺した。少し身が縮んだが、思い切って顔を窓から外に出す。雪の日特有の、すんっ、と透明に冴え渡った空気を胸いっぱい吸い込むと、頭の隅に残っていた眠気が完全に吹き飛んだ。ひんやりとした雪の欠片が、柔らかく頬に触れる。
目を細め、顔を上げる。静かに雪を生み落とす灰色の天を見つめると、ふと、もう十年以上前の、遠い昔の記憶が甦って来た。
私は高校生のとき、父親の仕事の都合で、それまで住んでいたところから随分離れた土地へと引っ越した。そしてその引っ越し先で、生まれて初めて雪景色というものを見たのだ。それまで住んでいた場所は、ほとんど雪が降らない地域で、ほんの時たま風花が舞うのを見かけるのがせいぜいだった。
初めて窓の外に、白色に包まれた街を見たときは、束の間呆然とし、そして次には、自分でも抑えきれないほどに、わくわくした気持ちになっていった。初めての雪なのだ。それまで見たこともないおもちゃを手に入れた子どものように、どこまでもどこまでも心が弾んでいった。
その日は日曜日だったため、学校はなかった。私は朝食を慌ただしく食べ終えたあと、コートと手袋とマフラーを身につけて、家を飛び出した。友達を誘ってもよかったが、とにかく少しでも早く、雪の世界の中に飛び込みたかったのだ。外気の冷たさに身を竦め、それでも目を輝かせて、私は白い街を歩いていった。柔らかな雪の中に足が沈んでいく感触も、綿埃のような雪が風に舞いながら落ちてくる様も、雪に音が吸い込まれたかのような街の密やかさも、すべてが珍しく、新鮮だった。途中で雪が弱まってきたので、差していた傘を閉じ、コートのフードだけかぶって、スキップ混じりに進んでいった。
「ゆーきやこんこ、あられやこんこ……」
思わず、有名な童謡を口ずさんでしまう。雪というものを知らなかった今まで、これを実感あるものとして歌うことはできなかったけれど、今は思いをこめて歌うことができる。ふふっと口元を綻ばせた、そのときだった。
「あれ、大月じゃん」
横合いから、声をかけられた。雪道を歩いていた私は、足を止め、そちらに顔を向ける。見覚えのある男子が、閉じた傘を片手に、こちらに歩いてくるところだった。
「神谷君」
私は、その男子の名を呼んだ。神谷亮介。私の高校のクラスメートだ。家が近所なので、帰り道などでしばしば一緒になる。彼は私の前まで歩いてきたところで足を止め、私を見下ろした。
「どうしたの、なんか嬉しそうじゃん?」
「うん。だって、雪だよ?」
笑顔でそう言う私に、しかし神谷は、呆れたような顔を作った。
「なんだ、雪なんかでそんなに喜んでたわけ?」
苦笑交じりのその言葉に、私はちょっとだけむっとした。
「なんかって何、なんかって。私、こんなふうに積もった雪見るの初めてなんだもん。はしゃいだっていいじゃない」
ふうん、と神谷は頷いたが、苦笑はかすかにその顔に残っていた。彼は大体いつもこんな感じで、よくこの皮肉めいた苦笑を浮かべながら、私のことをからかってきたり、話の揚げ足を取ったりする。それで軽い言い合いになることもしばしばだった。とはいえ、彼は特に悪意なくそれらをやっているのであり、言い合いも半分戯れのようなものだった。今回も、私は少しだけふくれた顔をしてみせたが、すぐにもとの表情に戻って尋ねてみた。
「ね、私、雪だるまも作ってみたいと思うんだけど、この辺りなら公園ぐらいが作るのにちょうどいいかな?」
そう言うと、神谷はまた少し呆れたような顔になった。
「何だ、雪だるまも作るんだ」
「だって、初めての雪なんだもん。いっぺんぐらい作ってみたいじゃない。で、どうかな?」
「まあ、公園もいいとは思うけど。村野や三原なんか誘って、学校でやってもいいんじゃないの?」
神谷は、私が学校で親しくしている子の名を挙げる。それに対し、私は軽く渋面を作った。
「んー、でも、みっちゃんは最近ピアノのコンクールが近いって忙しそうだし、ゆかちゃんは家遠いから、学校来るまでに日が出たら、雪溶けちゃうかもしれないし。せっかくだから、溶けちゃう前に私一人でも作りたいなって。……神谷君、よかったら一緒に作る?」
さすがに一人では寂しいので、そう聞いてみたが、彼はあっさり首を振った。
「いいや。もう雪だるま作るような年齢じゃないしな」
じゃあ私は子どもっぽいと言いたいのかと、また私はむっとした。半眼になった私を見て、神谷はいつものように苦笑を浮かべ、そして言った。
「でも、雪だるま作るなら、公園よりいい場所知ってるよ」
神谷に連れられてきたその場所は、コンクリートの敷いてある、それほど大きくはない土地だった。一応誰かの私有地らしいが、車が停まっていることも、所有者らしき人が来たのを見たこともないということだ。それでもさすがに勝手に入っていいのか心配になったが、彼も子どもの頃にしょっちゅうここで遊んでいたから平気だと、けろりとした表情で言われた。
「下が土や草じゃないから綺麗な雪でできるし、ほら、あそこに大きな木があるだろ?
あの辺に落ちてる枝や葉っぱで、目や口も作れるんだ。俺も昔はよくここで雪だるま作ったよ」
土地の入口辺りに立って、懐かしそうに眺めながら、神谷は言った。私は彼の言葉になるほどと納得しながら、その土地を見た。恐らく普段は何の見栄えもしないだろうその四角い空間は、しかし今、まったく荒らされた跡もない、まっさらな雪で覆われていて、さながら白いじゅうたんが敷き詰められているようだった。足を踏み出すのがためらわれるほどに滑らかで、それでいて柔らかさをたたえた、自然の作り出した魔法のじゅうたん。
私は笑顔を隣の神谷に向けた。
「雪って、すごいよねえ。どんな場所でも、こんなに綺麗なところにしちゃうなんて、何だか魔法みたい」
そう言うと、神谷はあの苦笑を浮かべてみせた。
「魔法って……また、子どもっぽいこと言ってんなあ」
「何、悪い?」
言われるだろうとはわかっていたが、やっぱりちょっとむっときて、私は唇を尖らせる。神谷はそんな私を見下ろし、そして言った。
「悪くないよ。――むしろ、大月のそういうところ、俺は、いいと思うよ」
え、と、私は表情を固まらせた。思いもよらない台詞だった。ぽかんと見つめる私から顔を背け、神谷はさっさと白いじゅうたんの中へ入っていってしまう。私は戸惑いながら、そのあとを歩いていった。
いい、というのは、どういうことだろう。今まで、神谷にからかわれたことはあっても、こんなふうに褒められたことはなかった。あまりにすとんと唐突に言われ、それをどう受け止めたらいいのかわからなかった。
何だかもやもやとする私の前で、神谷は足を止めた。ちょうど土地の真ん中辺りだ。振り向いた彼がすっと見つめてきて、私はぴくっと肩を動かした。
「ほら、雪だるま作りなよ」
「え? ……あ、う、うん」
促され、私はほんの一瞬、ここに来た目的を忘れていたことに気づく。慌てて「連れてきてくれてありがとう」と礼を言った。傘を足元に置いて、その場にしゃがみこみ、手袋をはめた手でそっと雪をすくって、ぎゅっぎゅっと丸め始めた。
私が雪だるまを作り始めても、神谷は立ち去らなかった。少し離れた位置に下がって、私が雪玉を転がしていく様を、じっと見ている。どうしたんだろう。さっきの言葉もあって、私はなんとなくどぎまぎとしたものを感じていたが、やがて我慢できなくなって、彼に尋ねた。
「帰らないの?」
神谷は、少し間を置いたあと、歯切れ悪く答えた。
「ん……まあ、帰ってもいいんだけど……なんか、見ていたくなってな」
「そう……」
私も口籠もったが、そのまま会話を終えるのも決まりが悪くて、言葉を続けた。
「神谷君は、ずっとここに住んでるんだよね? ここは毎年、これぐらいの雪は降るの?」
神谷は、先ほどより長く間を空けた。怪訝に思った私が再度口を開こうとしたとき、彼は頷きながら言った。
「ああ。毎年一回ぐらいは、このぐらいの量の雪は降るよ。――俺がここでそれを見るのは、今年で最後だけど」
私は、すぐにはその言葉の意味が呑みこめなかった。雪だるま作りの手を止め、ぽかんと間の抜けた顔で、神谷を見る。彼は、小さく笑ってみせた。
「俺、二年生終わったら、引っ越すんだ。九州の方の、雪なんてほとんど降らないような地域に」
「……引っ越す?」
ようやく出た言葉は、驚きのせいでやや掠れていた。神谷は小さく頷いた。
「親父の仕事の都合でな。俺が今日歩いてたのも、この街の雪を見るのはこれが最後かもしれないから、見おさめのつもりでちょっと散歩してたんだ」
まだ細かな雪がちらちらと舞い落ちてくる空を見上げながら、神谷は少しだけ寂しげな口調で言った。それに対して、私は何を言えばいいかわからなかった。彼と私は、男子と女子の間柄にしては、わりと仲がいい方だった。普段のクラスの中ではやはり、それぞれの友達グループの輪の中で過ごしているものの、登下校の途中で出会えば軽口を叩き合いながら一緒に歩くし、体育で同じ班になったときなどには、運動が得意な彼によく教えてもらっていた。女子同士の付き合いとは違う、ざっくばらんなその関係を、心地よく思っていたのは事実だった。それがなくなってしまうと思うと、胸のどこかにぽっかりと穴が空いてしまうような感じがした。
だが、私なんかより、神谷の方がずっと寂しいだろう。そう思い、私は無理にその穴を隠して言った。
「そう……なんだ。でも、じゃあ、なんかごめんね。それで歩いてたのに、わざわざここまで連れてこさせちゃって。私は一人で雪だるま作れるから、散歩の続きしてきてもいいよ」
すまなさそうに促す私に、しかし神谷は首を振った。
「もともと、雪降ったらここはもう一度見ておきたかったんだ。それに、言っただろ。なんとなく、お前が雪だるま作ってるのを見ていたくなったんだよ」
私をすっと見たその目の中に、まっすぐな光があるように思えて、私はとくん、と胸が鳴るのを感じた。
大月のそういうところ、いいと思うよ。先ほどの彼の言葉を思い出す。彼は。
彼は、私のことを好きなのかもしれない。唐突に、心のどこかがそう悟った。何を根拠に、とは言えないけれど、彼の言葉や瞳にこもる何かが、確かにそう感じさせた。
だが、神谷はすぐに私から目を逸らしてしまった。そのまま、再び雪の散り来る空を見上げる。じっと、ただ空を見つめるその顔を、私も見つめる。胸の奥に、かすかな熱が生まれたのを私は感じた。私の方は、どうなのだろう。神谷のこと。気軽な男友達、確かにそんなふうに認識していた。でも、本当にそれだけだったのか。朝の透明な光に満ちた学校への道で、夕日に赤く染まる帰り道で、私は隣を歩く彼のことを、どんなふうに見てきたのか。
「……神谷君」
思わず、私は呼びかけていた。何か、言いたかった。何か、彼に伝えたかった。だが、再び彼が視線を向けてきたとき、私は言葉に詰まってしまった。口を幾度か開閉させ、しかし何も言えない私を見つめる彼の瞳は、今でもよく覚えている。結局私は、何も言えず、ただ軽く目を伏せて、首を振った。
「……ううん、何でもない」
なぜ、このとき何も言わなかったのか。そのしこりは、そのあと随分長いこと私の中に居座り続けた。けれど、今ではわかる。結局のところ、私はそうした自分の気持ちを表すには、まだ幼すぎたのだ。神谷だってそうだろう。私を見ていたい、そう言ったあのときの彼の目には、確かな思いがこもっていたのに、それをはっきりと口にすることもなく、私をしっかりと見つめ続けることもできず、ただぽつりと、その気持ちの一端を言の葉にして落とすことしか、彼にはできなかった。まだ高校生だった私たちは、どこまでも自分の気持ちに対して不器用だった。
そう、と、神谷は呟くように言った。私は頷くともうつむくともいえない動きをしてから、手の中の、まだあまり成長していない雪玉に目を落とした。手袋に雪が溶けて浸み込み、指の先がひんやりと冷たい。
再び雪玉を転がし始めた私は、ふと、視界の隅で神谷が動くのを捉えた。顔を上げると、彼はその場にしゃがみこみ、手で雪を集めていた。
「何してるの?」
「ん、ああ……」
集めた雪を雪玉の形に丸めながら、神谷は答えた。
「なんか、お前が雪だるま作ってるの見てたら、俺も作ってみたくなってな」
え、と驚く私に、神谷は軽く笑ってみせた。
「雪だるまなんて小学生以来だけど。もうこの場所でこんな風に遊ぶのも最後なんだと思うと、もう一度ぐらい作ってみたくなったんだ。いいだろ?」
戸惑いながらも私は頷き、それなら、と提案してみた。
「二人で一つの雪だるま作ろうよ。私頭作るから、神谷君体の方作って。うんと大きなの作ろう」
そう言うと、神谷の笑みが、おなじみのあの皮肉っぽい苦笑に変わった。
「なんかまた、子供っぽい発想だなあ」
私は束の間、彼のその苦笑をじっと見つめた。軽い口調。そこからは、いつもの他愛ないふざけまじりのやり取りへと持って行こうとしていることが感じ取れた。恐らく彼は、私が彼の気持ちに気づいたことに気づいている。ふっと不安定になった二人の距離を、彼は元の位置に戻すことを選んだのだ。ここで私が何か言っていれば、それをあるいは別のものにできたのかもしれない。しかし私にも、そうするだけの勇気はなかった。私はかすかに胸に湧いた気持ちを押し込め、同じように軽い声音を作って言った。
「いーいじゃん、別に。じゃあ、早く作ろう。どっちが先にできるか、競争だからね!」
それから私たちは、その土地の中、雪玉をあちらこちらにごろごろと転がし回り、最終的にとても大きな丸い雪の塊を二つ作り出した。あまり大きくて、二人がかりでないと頭を体の上に載せられなかったぐらいだ。できあがった雪だるまは、私の背より少し低いぐらいの大きさがあった。それから、神谷の言っていた木の辺りから、小枝や落ち葉を拾ってきて、目や鼻、口をつけた。あまり上手いこと表情をつけられず、何だか歪んだ笑顔みたいになってしまったけれど、それはそれで可愛いと思えた。
雪だるまを作りながら、心の奥では、本当にこのままでいいのかという思いが幾度が揺れた。だが私は、それに蓋をすることを選んだ。ただ、彼が引っ越したあと、今のこの時間を懐かしく思い返してくれればいい。そう願いながら、私は雪だるまを作っていった。
ちょうと雪だるまが完成したとき、空を覆っていた雲が切れて、そこから太陽が顔を出した。雪が溶けてしまうから、なるべく日は差さないでほしいと思っていたけれど、雪が光を反射してきらきらと輝く様は、想像以上に綺麗だった。白く煌めく、二人で作った雪だるまを、私と神谷は目を細めてじっと見つめ続けていた。
その学年の終わり、神谷は九州の方へと引っ越していった。学年末の期末試験が終わった日の放課後には、クラスのみんなで送別会を開いた。私ももちろん参加したけれど、彼と一対一で話すようなこともなく、元気にしてねとか頑張ってねというような、普通のクラスメートとしての会話を交わしただけだった。
それから私は、彼と離れた場所で、大学生になり、社会人になった。今は親元を離れ、小さなアパートで暮らしつつ、OLとして毎日多量の仕事に追われている。そんな忙しい日々の中でも、同窓会はなるべく出席するようにしているけれど、彼とはそこで、二回だけ顔を合わせたことがある。二回目は、半年ほど前のことだった。――彼は、結婚していた。それを知ったとき、悲しみとかショックとかはさすがになかったけれど、ほろ苦い寂しさのようなものは、胸の底にかすかに揺れた。それでもおめでとう、と祝いの言葉を述べた私を、彼もまた、どこか物寂しげな瞳で見つめたあと、静かな声で、ありがとう、と答えた。あんな、形にもならなかったような私たちの恋だったけれど、彼もちゃんと覚えていてくれていたのだ。それだけで、私には十分だった。
ベランダの窓も開けてみると、そこにも雪が吹きこんできていて、ある程度の厚さは積もっていた。私はしゃがみこみ、その雪で小さな雪だるまを作ってみる。同じく吹きこんできていた小枝や葉っぱで、目鼻口も作ってみたけれど、やはりなかなか上手くいかない。ようやくできたその表情は、口元がやや歪んでいて、彼のあの皮肉っぽい苦笑によく似ていた。
アップ板はとても久し振りの白霧です。
これは、本当はお題「苦笑」のときに上げようと思っていて、予想以上に長くなって間に合わなかったものです。自分の気持ちを表したいけど表せない、そんな微妙な感じを表現できたらいいなあと思いながら書きました。