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逢わせ鏡

2011年05月19日(木)23時43分 - 御伽アリス

 

  ◆トシキ◆
「あ」
と言って、僕は一度留めた制服のシャツの一番上のボタンを外す。一番上と言っても、襟のすぐ下にあるボタンは留めると息が苦しくなってしまうので、初めから無いのと同じである。つまり正確に言うと上から二番目にあたるボタンを僕は外したのだ。部屋の鏡を見ると、開いたシャツの襟元から、なんだか頼りなく無防備な僕の鎖骨があらわになっている。一年間ずっとボタンを留めてきたから、無意識のうちに手がボタンをはめるのだ。それから僕は制服のズボンを少し下に引っ張って、自分の部屋を出る。階段を下りて玄関に行き、靴を履く。玄関で再び鏡を見て少し髪型を整えて、家を出る。
「行ってきます」
家を出るのは家族の中で僕が一番後だから、誰からも返事はない。僕は玄関のドアに鍵を掛けて、自転車にまたがる。
 中学二年生の四月は過ぎ、早くも五月の日差しが、朝から暑いくらいに降り注いでいる。自転車をこいで体に受ける風が心地良い。開いたシャツの襟元から胸に風が入る。僕はふと数日前の友達との会話を思い出した。
 五月に入って制服の衣替えをすると、男子は白いワイシャツ姿になる。僕はバスケ部に所属しているのだけれど、部活が終わった帰りのことだ。ワイシャツのボタンを外して、バスケ部で同学年の林が言った。
「ここちっと開けとくのが流行りなんだ。カッコ良くね?」
笑う林に、僕の横にいた同じくバスケ部同学年である風間が反応する。
「ああ、最近みんなやってるよな。ついでにズボンはこんくらい」
風間はズボンのベルトの位置を少し下げ、シャツの腰の部分がズボンから出る。
「良いぜそれ。トシもやっとけよ」
林はそう言って僕の方に顔を向けた。
「え、あぁ、うん」
と、二人が話すのをじっと聞いていた僕は慌ててシャツのボタンを外した。
「うん、良い感じだな」
と風間がうなずく。僕はとりあえず言われたままのことをしてみただけだったけれど、二人の顔を見て、とりあえず自分の行動に間違いは無かったと思って、少し安心した。暗くなった空の下、僕は二人に別れを告げて帰路についた。林と風間はまだ二人で、セン公が服装が乱れてるとか言ってくるのマジでムカつく、などと愚痴っていた。僕は少し首を傾げながらも、シャツのボタンを外したまま自転車を走らせたのだった。

 僕が学校に着くと、教室にいた三浦が寄って来て言う。
「おっす、山田!」
三浦とは一年の時から同じクラスで、まあ僕が一番頻繁に言葉を交わすのは三浦だろう。三浦は長めの髪を上手いこと立たせている。甘いようだけれど少し鼻をつく香りがふわりと漂う。ヘアーワックスのにおいだろうか…?一年の時はペチャンコさらさらヘアーだったのに。
「お~っす。というか俺は山田じゃなくて、山口だから!」
「あだ名だよ、あだ名」
「そういうのあだ名じゃねーだろ」
そう僕がつっこむと、三浦はにやにやと笑う。僕の名前は山口十色(やまぐちとしき)なんだけれど、三浦はなぜか十色の「十」を山口の「口」に入れて「田」を作り出したのだ。それで山田。これのどこがあだ名なんだ、と思う。しかも、苗字を山田にしたら、僕の名前は「色」か?バスケ部の連中みたいにトシと呼べばいいのに、三浦のせいで二年になってからのクラスで僕の苗字を本当に山田だと思って、山田君、と呼んでくる人がいた。
「だって他の奴と違うあだ名で呼んだ方が、俺たちの友情も深まるじゃん?」
とか三浦は言う。
「ちょっとそれはキモいよ」
と僕は言いながら、笑う。
 やがて、担任の先生が教室にやってきて、朝の読書の時間が始まる。週に何度か、朝に集会が無い日は読書をするのだ。僕は読書が割と好きだ。特に主人公が迫力満点の大活躍をする話は読んでいてとても面白い。教室の前へ出た図書委員に、朝読書を始めてください、といちいち言われる前に、僕は席に着き、本を開く。しばらくすると騒いでいたクラスメイト達も、大人しく席に着いて本を読み始める。
 ん?と思ったのは読書を始めてしばらくした後だ。教室は静まりかえっている。一日のうちで一番静かな時間だろう。だけど、何となく誰かに見られているような気がして、僕はそっと後ろを振り返った。僕の席は一番前の列の、ど真ん中だ。見ようと思えば教室中の誰からでも見える位置。しかしこっちを見ているクラスメイトは誰もいない。みんな目線を机の上の本に落としている。おかしいな、と思ったけれど、僕は前を向いてまた本を読み始める。しかし、しばらくたつとまた後ろが気になってくるのだ。結局僕は集中できず、ほとんどページをめくれなかった。

  ◇ミオ◇
「あ」
と言って、私はとっさに右手を机の脇に伸ばすけれど、転落した消しゴムには触れられず、私の手は宙を掻く。消しゴムは教室の床を転がって、隣の席の子の足元で止まる。私が消しゴムを落としたことに気が付いたその子は、床に手を伸ばして消しゴムを拾い、私に返しながら言った。
「はい、ウサちゃん」
「ありがとう、星河さん」
と私がお礼を言うと、星河さんはにっこりと朗らかに笑う。星河さんはとても可愛い子だ。女子である私から見ても、うっとりと見惚れてしまうほどだ。クラス中、いや二年生中の男子女子を問わずみんなから人気がある。真っ直ぐで艶がある長い黒髪、ぱっちりと大きめの二重まぶたの目、長いまつげ、小さめの鼻、鮮やかなピンクの唇。おまけに肌は色白で、背は高めでスタイルも良い。こんな人がいて、うらやましくないはずがない。私も星河さんみたいに可愛くなりたいなあ…。と思いながら、私はずり落ちてくる眼鏡を押し上げ、少し癖のかかった短めの髪をくしゃっ、と掻きむしる。
 休み時間、クラスメイトのゆみちゃんとひぃちゃんが私のところへ駆け寄って来た。
「ウサちゃん、一緒にトイレ行こ」
と言う。
「うん、いいよ」
と言って私は二人と一緒に廊下に出て、別に用を足したいわけではないのだけれどトイレへ向かう。ウサちゃんというのは私のあだ名で、本名が宇佐美水緒(うさみみお)だからウサちゃんなのだ。ちょっと子供っぽいけれど、仲の良い友達はみんなそう呼ぶので良いかな、と思う。可愛いあだ名ではあると思うし。これが宇佐美水緒の「お」だけ取って「うさみみ」とかだったらちょっと否定したい。
 トイレに行こうと言ったゆみちゃんとひぃちゃんは、入ってすぐの手洗い場で足を止める。そして二人は鏡をのぞきこんだ。どうやら二人ともこっちの方に用事があったらしい。
「あ~、あたしも星河さんみたいに髪つやつやになりた~い」
とゆみちゃんが言う。
「良いよね~星河さん。肌きれいでさ…。げっ、ニキビできてる最悪!」
そうひぃちゃんが嘆いた。私はなぜだか、言葉が出ずに二人を見つめる。
「ねえ、ウサちゃんも星河さん可愛いと思うでしょ?」
とゆみちゃんが鏡の中から尋ねてきて、私はハッとして答える。
「え、ウチ?うん…うらやましいよね」
「だよね~~。ほんと、可愛いとそれだけで得だしね」
と二人は言ってうなずく。
「そろそろ教室戻らないと。六時間目始まっちゃう」
とひぃちゃんが言い、私たち三人はトイレから出た。
 六時間目は国語だ。今日最後の授業ということもあり、どことなく教室内はお疲れムードが漂っている。私も授業に集中できない。耳には先生の話す内容ではなく、さっきのトイレでの話が再び聞こえてくる感じがした。私はちらっと隣の席の星河さんを見る。やっぱり可愛いよなあ、と思う。それに比べて私は…。ハァ、と小さくため息をついてみる。不意に、可愛いって何なんだろう、と思って私は国語辞典のページをめくる。え~っと…いたわしい、ふびん、かわいそう?自分より弱い立場の人を保護して良い状態へ導きたい感じ??小さくて頼りない感じ??私は国語辞典を閉じた。違う。全然違う。私はハアァ、と大きくため息をつく。

  ◆トシキ◆
 若葉が風に吹かれてざわつく音を聞いたとき、六時間目もようやく終わって、掃除の時間になった。クラスのみんなはそれぞれの清掃場所へと向かって教室を出て行く。僕は自教室が担当だから、教室から出ずに残っている。ここは大体10人くらいが担当するのだけれど、自分から進んで掃除を始めるという奴はいない。いつも担任の先生が来てから仕方なく始めるといった調子だ。結局やらなくてはならないなら、自主的に早く始めれば良いのだけれど、こういう時はどうしても、誰かやってくれないかな、と都合良く他人に期待するのだ。
今日はなかなか先生がやって来ないな、と思っていると、集まっていたうちの一人が言った。
「そう言えば、今日先生出張でいないんじゃん」
そう言われて、僕を含めてそこにいた全員が先生の出張を思い出したようだ。
「よし!じゃあ今日はサボりで!」
と誰かが言う。しかしそれに別の一人が反論する。五十嵐という男子だ。こいつとはあまり関わりたくない。簡単に言うと、ワルだから。
「いや、だめだ。先生は教室にごみが散らかってると掃除担当のせいだって言ってキレるからな。だから・・・」
「だから?」
「高杉、お前掃除しといて。他のみんなは、かいさ~ん」
五十嵐はそう言って立ち去ろうとする。
「な、なんで僕一人で」
と高杉は弱々しく言う。高杉は五十嵐とは対照的で、いじめられる側の人間。五十嵐は、高杉の方を振り返る。
「俺たち忙しいの。てか文句あるわけ?」
高杉は五十嵐の一言で完全に黙ってしまい、変な顔でもじもじとしている。相当な臆病者だ。これだから五十嵐のような奴にいじめられるんだ、と僕は思ってしまう。五十嵐は、掃除ロッカーのところへ歩いて行き、ほうきと雑巾を取り出した。それらを持って高杉のところに戻り、ほうきを高杉の制服のワイシャツの背中へ入れ、雑巾を高杉の頭に乗せた。
「っはは、気持ち悪ぃなお前。でも似合ってるよ。ほら、せっかく持って来てやったんだから、ちゃんと掃除しとけよ、一人で」
と言って五十嵐はさっさと教室を後にした。最後の「一人で」というのは、誰も手伝ったりするな、という残った僕たちへの脅しだろう。高杉以外の残ったメンバーも、そういえば用事あるんだった~、とか言いながらそそくさと出て行く。気付けば教室には僕と高杉だけがいる。高杉はうつむいて、涙をこらえているように見える。僕は五十嵐が高杉に言った「気持ち悪い」という言葉を目の前の高杉に当てはめてみた。気持ち悪いとこうなるのか…。高杉はかっこ良くない。かっこ悪いとこうなる…。僕は高杉を残して教室を出た。
 どこかがおかしい、と僕は感じた。しかもそれは気付いてみれば今に始まったことではない気がする。高杉がいじめられることではなくて、それはむしろ僕の方な気がして…。心の中で、歯車が噛み合わないような、そんな感じだ。僕は今日の部活を休んで、家に帰ることにした。階段を降りようとした時、制服の入った鞄が手すりに引っかかった。見てみると、鞄のチャックが少し開いてそこからワイシャツがはみ出している。シャツが手すりに引っかかったのだ。モヤモヤしている時はこういう小さなことが癪に障る。僕はイライラして鞄を力任せに引く。僕ははみ出ているシャツを鞄にしまってチャックを閉じた。
外に出ると校門の前に立っているカーブミラーを見て、僕は髪を整える。ふと気付くと、その鏡に映った僕はとても遠くにいるように見える。
「一体何なんだよ」
と僕はそいつに向かって呟いてみるけれど、同じ問いが向こうからもやってくるだけだ。

  ◇ミオ◇
 私は空を見上げる。六月に入ってからは雲の多い日が続いている。大きな雲の塊がずっしりと浮かんでいて、その大きな塊から少し離れたところに小さな雲のかけらが消えそうに浮かんでいる。校門の前でそうして上を見上げていると、誰かの声がした。
「おっはよ、ウサちゃ~ん」
ゆみちゃんだ。今日のゆみちゃんは肩まで届く髪をツインテールにしている。
「おはよ、ゆみちゃん。ツインテール可愛いね~」
ゆみちゃんは笑う。
「マジ?良かった~!これ、いつもはしないから似合わなかったらどうしようかと思ってたんだ」
「すごい似合ってるって!」
実際ゆみちゃんにツインテールは似合っている。この前は星河さんのことをかなり羨ましがっていたけれど、ゆみちゃんだって十分可愛いと思う。一方の私は…一体どう見られているんだろう?
「ありがとう、ウサちゃんもね、ショートカット良いと思うけど、髪伸ばして、前髪も下ろしてみたら?」
「うん…今伸ばしてるとこだけど」
私は前髪を左右に分けて留めていた水色のピンを外した。前髪がひらりと揺れる。
「その方が可愛いよ、絶対。髪切っちゃダメだよ、もったいないから」
ゆみちゃんが言うように、私の髪はショートカットで、耳を出している。長くなってくると邪魔に感じて切ってしまうのだ。前髪が眉にかかるのも嫌なのでピンで留めていた。
「あと、ウサちゃんもうちょっとスカート丈短い方が良いよ。せっかく美脚なんだから」
私は笑わずに、ゆみちゃんにありがとうと言った。
 その時、顔に冷たいものが当たった。雨だ。
「あ、もう降ってきたか。天気予報で今日は降るって言ってたからね。早く中入ろ」
とゆみちゃんが言って、私の手を引く。その拍子に、水色のヘアピンは私の手を離れて地面に落ちる。けれど私はどうせもう使わないかな、と思ってそのままにしておいた。他のピンもたくさん持ってるし。

 雨は学校にいる間ずっと降り続いていた。窓ガラスに当たってはじける雫を見ながら、もう梅雨なのかなあ、と考える。空には一面に灰色の雲がかかっている。朝見た小さな雲のことが何となく頭に浮かぶ。あの雲は、大きい雲の塊に飲み込まれてしまったのかな、と思った。
 その日の帰り道。雨はほとんど止んでいる。雨の日独特のにおいがする。このにおいをかぐと、なぜか少し寂しい気分になる。世界でただ一人、自分だけが取り残されているような…。私は立ち止った。目の前に大きな水たまりができている。水たまりをのぞくと、自分の顔が映る。まるで自分が深い湖に突き落とされて、底の方で静かに助けを待っているように見える。そう言えば昔、子供が水たまりの中に落っこちるというような物語を読んだことがあった気がする。私は視線を上げて、水たまりに足を入れないようにその周りをぐるりと歩いて反対側まで行き、それからまた歩みを進める。その後、いきなりピカッッと空が光り、そのまたすぐ後に近くの山の方から雷の轟音が聞こえてきた。

  ◆トシキ◆
 晴天で真夏かとさえ思った五月はどこへやら、六月中旬になって毎日雨が続いている。今年は梅雨入りが早い。どんより曇った空のように僕の心も曇っていくように感じる。休み時間、僕は机に突っ伏した。
「山田どったの?」
声で話しかけてきたのが三浦だということがわかる。
「何でもね。寝不足」
と僕が答えると三浦はふうん、と言った。
「あれ?山田、お前シャツのボタンなくなってない?」
と三浦が指差して言うので、シャツに触ってみると、確かになくなっている。僕が外しておくようになった、あの上から二番目のボタンだ。ボタンホールにボタンがはまっていないのではなくて、そこのボタン自体が無いのだ。何かの拍子に取れたのかもしれない。
「あー、問題なし」
と僕は言う。どうせボタン外しているんだし…。そうか、と言って三浦はどこかに行った。少しして、教室の後ろの方でクラスメイトと話す三浦の声が聞こえた。寝不足、というのは嘘だった。どうも最近他人との付き合いが億劫で、一人にして欲しいのだけれど、でも一人になるのは怖い気もして。机の上の僕が少し動くと、腕が筆入れに当たって、筆入れは床に落下した。ハァとため息をついてのろのろと体を起こし、床に手を伸ばそうとすると、僕の筆入れを誰かの手がさっと拾い上げた。
「はい、山口君」
と言って筆入れを渡すのは、宇佐美さんだ。
「あ~、ありがとう」
と僕が言うと彼女は自分の席の方へ歩いて行った。宇佐美さんは同じクラスだけれど、そんなに目立つ方でもなく、まだ話したことはほとんどない。ちょうど通りかかったところに僕が筆入れを落としてしまったので拾ってくれたのだろう。それにしても、何だか前に見た時と顔の雰囲気が違うような気がして、僕は数秒間宇佐美さんの方を見ていた。けれど、気のせいかと思ってまたすぐに机に突っ伏した。

 その日の帰り道、雨の中を自転車で走る。雨具のビニールのにおいが不快だ。スニーカーの中に雨水が入ってびちゃびちゃだ。イライラしながら自転車を走らせ、僕は川の近くへやってきた。橋を渡った向こうに僕の家がある。橋の真ん中あたりで川を見下ろすと、だいぶ増水していることがわかる。川の流れは激しい。その時いきなり、前方から声がした。
「こりゃひでぇな、決壊しちまうかも知れねぇぞ」
僕は慌ててブレーキを踏む。この橋は車一台がやっと通れるくらいのせまい橋だから、このまま自転車をこぐと、前に立っている人にぶつかるかもしれない。暗くて人がいるのに気が付かなかったのだろうか。そう思って前を見た僕は言葉を失う。そこにいるのは、大きな目が鋭く輝き、大きな口には牙と長い舌が見え、たてがみのような毛がふさふさと生えていて、そして四本の足で立ち、尻尾を振る…人間じゃない!
「い、犬がしゃべってる!?」
「うん、当たってるけど少し違う。俺はただの犬じゃなくて、狛犬だから。あれ?狛犬は獅子だっけか」
言われてみると、こんな変な犬は見たことがない。あの神社で見る狛犬にそっくりだ。でも、狛犬とは石の像であるはずで。
「どうして狛犬が動いて、しかもしゃべるんだよ!?」
「すごいだろ」
狛犬は得意そうに鼻を鳴らす。
「何がどうなって…」
「良いか、よく聞けよ?俺が来たのは、お前に頼みがあるからなんだよ。まあお前に断る権利は無いから実質命令みたいになっちゃうけどそこはスルーして」
「頼み?」
「そう、とにかく鏡探せ。鏡だよ、神社の鏡」
「鏡?神社ってどこの?」
狛犬は顔をしかめる。
「説明するのは面倒だ。とにかくよ、無くなった鏡探せって。無いとなんかやばいんだよ」
「わけがわからないよ」
「俺の名前はライアンだ、よろしくな」
「話聞け!しかもお前どこの国出身だよ」
「はは、冗談だ、ホントはモリっていうんだ」
「何でもいいよ、もう。熱でもあるのかな、犬がしゃべるなんてどうかしてる」
僕は狛犬などいないということにして、ペダルに足を掛けた。自転車を進めて、狛犬に近付いていく。幻に決まっている。あいつにぶつかることなく、すっと通り抜けることができるはずだ。すると、本当に僕の体は狛犬をすり抜けて進んだ。僕は少し安心した。けれど、後ろから声がまた聞こえてきた。
「お前、山口十色だよな」
僕は自転車を止める。どうして僕の名前を知っているのか。やはり幻なんだ、と思っていると、狛犬が言う。
「お前は、特別な人間らしい。だから選ばれた。鏡を探せ。鏡を見つければお前自身を救うことにもなる」
僕は狛犬の方を振り返った。
「ヤマグチトシキなら他にもたくさんいるだろう?」
「いや、お前が山口十色だ」
狛犬の目がきらりと光る。
「…」
しばらくして僕は自転車のかごを指差した。狛犬はにやっと無邪気に笑い、僕の自転車のかごに飛び乗る。僕は自転車をこいで家へ向かう。こいつの言ったことがちょっと気になった。まあ、幻だったとしたらそれはそれで家に連れ帰っても問題は無いだろう。

  ◇ミオ◇
 席に着いてからもう一度山口君の方を見ると、彼と一瞬目が合った気がした。けれど山口君は、私がそっちを見たのには気付かなかったのだろう、また机に伏した。私はさっき彼の筆入れが机から落ちた時にすぐ近くを通ったので無視するのも悪くて、拾ってあげたのだ。なんだか、前に見た時と少し印象が違うような、という気もする。そう言えば、山口君とは同じクラスだけどあんまりしゃべったことはない。彼はそれほど目立つ人ではないし、自分からいろんな人に話しかけるタイプではないみたいだ。それは私もそうだけれど。さっき見た時、山口君の様子がおかしいように思えた。具合でも悪いのかもしれない。何だか苦しそうだ。彼の様子は何かを悩んでいるようにも見える。実際はそんなことないのかもしれない。ただ私は、何となく山口君が今の私と似ているように見えた。

 朝から降っている雨は、帰る時間の今になってもまだ止んでいない。私は傘を差して一人で暗い道を歩く。いつもは吹奏楽部で一緒のゆみちゃんと帰るのだけれど、今日は放課後に医者に行かなくてはならないから、と言って先に帰ってしまったのだ。私は寂しい気持ちになる。こんな暗い道を一人で歩くのはやっぱり少し怖い。西側には黒い山がドン、と横たわっていて、風で木々がガサガサと音を立てる。細い道に街灯の明かりはまばらで、闇がじわじわとうごめくような気がする。背後でカサリ、と音がした。まさか何か出て来るんじゃないか、と振り返ってみても、そこには何もいない。しかし、不安は当たっていたのだ。
「あのぅ…」
と声がして、私はひぃっ、と声を漏らしながら反射的に前を見る。
「あ、すいません、驚かせてしまいました?」
「え…?」
街灯の明かりの下に、奇妙な犬が座っている。そいつが口を開く。
「ワタシはミヤという者ですが、あなたは宇佐美水緒さんで間違いないでしょうか」
出た。お化けか、怪物か、妖怪か、いずれにしてもその部類だ。犬が話すわけない。こういうオカルトな話題をみんな嬉しそうに話して盛り上がっているけれど、まさか自分がそんな体験をすることになるとは…。私はパニックになった。
「だ、誰っ!?」
とか言ってしまう。犬は言う。
「今言いましたよ、ミヤです。神社の狛犬ですよ」
私は早く逃げなきゃ、と思った。
「ついて来ないで」
と言いながらも、足は動かない。犬は困ったように頭を掻く。
「ワタシは悪さをしようとしてるんじゃないですよ、狛犬が悪さするわけないでしょ?あなたにお願いがあるんです」
狛犬、と言った。確かによく見てみると、狛犬に見られるふさふさとしたたてがみがある。目と牙が鋭く光る。
「お、お願いって何?」
と私が言うと狛犬のミヤは姿勢を少し正した。
「あなたに神社の鏡を探すのを、手伝ってもらいたいのです」
「鏡?」
「そうです、半円の鏡でですね、二つあるんですが。この前の雷で二つとも吹っ飛んじまったんですよ」
「そんなの知らない、他の人に頼んでよ!」
私はもう早くこの場を去りたい気持ちでいっぱいだった。ところがミヤの言葉が私をとどまらせる。
「あなたでないとダメなんです。あなたは特別なんです、他の人とは違うんです」
「え?」
「それに、鏡を見つけることはあなたにとっても重要なことに違いないのです」
「どういうこと?」
ミヤは笑って、
「とにかく、雨の中で立ち話しするのも良くないですから、帰りましょう。心配せずとも、ワタシの姿は他の人には見えませんから」
と言った。ミヤは歩き出す。私の足がすっと軽くなった気がした。それと同時に、目の前のしゃべる狛犬に対する恐怖も不思議と薄れていく。私はミヤの後を追いかけて、家へ向かう。ミヤは私の家の方向を知っているようだ。鏡が私にとって重要とは、何なのだろうか。

  ◆トシキ◆
 鍵を開けて家に入る。そろそろ父さんや母さんも帰って来る頃だ。
「お前、僕の部屋に隠れててよ」
狛犬は僕のうちに上り込んで床に寝そべっている。
「お前、じゃない、モリだっつーの」
「モリ、父さんたちがもうすぐ帰って来るんだよ」
モリは起き上がって言う。
「大丈夫、俺はお前以外の人間に見えないようになってる」
「やっぱり僕だけの幻なのか…」
と僕は独り言を言う。
「すごいだろ」
とモリは笑った。僕はため息をついて、とりあえず自分の部屋に入って、制服を着替える。モリも入って来て、部屋の中を見回す。
「なかなか良い部屋だな。高かっただろ?」
「そんなことより、詳しい事情を教えてくれよ」
「事情?さっき言ったように、鏡を探すんだよ」
「もっと詳しくだよ!」
「やっぱ言わないとダメか?しゃーないなぁ…」
モリは面倒そうに話し始めた。モリが言うには、数日前の雷で山奥の神社にある鏡が吹き飛ばされたのだという。雷で飛んで行くというのはおかしい気もするけれど。その鏡というのは、二枚あり、どちらも半円であるらしい。その二つの鏡にはなんだかよくわからないが神様の力が込められていて、その力でこの町を守っているという。しかし二つ一組で神社に置かないと効果が無いようで、このままだと町に災いが起こる、ということだ。それで神社の神様は僕に鏡探しを手伝わせようとして、モリを派遣したらしい。
「確かさっき、僕が選ばれた、って言ったよね。誰に選ばれたの、その神様?」
モリは答える。
「さあ?俺は知らないなあ。運命ってやつじゃないか?」
「なんだそりゃ」
その時、車のエンジン音が聞こえてきた。続けて、違う高さのエンジン音がもう一つ聞こえる。父さんも母さんも帰って来たようだ。
「まあ誰でも良いじゃないか、とにかくお前は鏡を探すんだよ」
とモリは言う。僕としても、誰に選ばれたかは特に知る必要の無いことかもしれない。ただ、選ばれたことは少し嬉しい気がする。選ばれたからには探さなきゃいけないような気もする。
「わかったよ。とりあえず明日から探してみる」
と僕が言うと、モリは笑った。
しばらくすると、リビングから母さんの声が、
「十色~~。ごはーん!」
と叫んだ。僕は軽く返事して部屋を出る。

 僕には兄弟がいない。一人っ子だ。父さんと母さんはどちらも教師。僕たち家族は夕飯を必ず一緒に食べる。そういう決まりなのだ。
「勉強順調か?」
「うん、大丈夫」
「この間、小テストあったでしょ。どうだったの?」
「悪くなかったよ」
とそんな会話を毎日のように繰り返す。僕が中途半端な答え方をすると決まっていつも父さんと母さんは言う。
「どんな時も最善を尽くさなきゃだめだ」
と。二人は厳しい性格だから、僕をそういう風に育ててきたんだと思う。結果が悪ければ、もっと頑張れと言い、結果が良くても、満足することなく頑張れ、と言う。二人は僕のことを思ってくれているのだと思うけれど、僕だってしっかりできた時はちゃんとほめてほしいなあ、と思う。
「ごちそうさま」
と言って夕飯を終えた僕は部屋に戻ろうとした。リビングを出ようとする僕に、父さんが話しかけた。
「十色、最近学校どうだ?」
「うん、楽しくやってるよ」
僕は頬を緩める。頬が笑う。

 次の日。今日は土曜日で休みだから、午前中僕はモリと鏡を探しに外に出た。鏡は神社から吹き飛んだというのだから、神社のある山付近から探すことにした。
「それにしても、この山に神社なんてあるんだ?全然聞いたことないけど」
と言うと、モリは少し暗い声で言う。
「あるんだよ、人に知られてないだけで」
モリの目が少し曇った気がした。
 午前中僕たちは鏡が落ちていないかと、そこらじゅうを探し回ったけれど、結局見つからなかった。
「そう簡単に見つからねぇよなあ」
とモリは言う。そうだろう、吹き飛ばされたんだから、と僕は思う。
「山から飛んできて、鏡はもう粉々なんじゃないの?」
と尋ねると、モリは首を振る。
「言っただろ、ただの鏡とはわけが違うんだ。絶対に割れることは無い」
「ふうん」
「すごいだろ」
とまたモリは笑う。
 昼ごはんを家で食べて、午後からは学校で部活だ。モリはまた自分で探せるところを探してみる、と言ってどこかへ行った。
僕は学校に着き、体育館へ向かおうとすると、地面に何か光る小さい物がある。
「ん?」
何となく拾ってよく見ると、それは水色のヘアピンだった。二本ある。今日は曇りだからピンは濡れてはいないし、特に汚れてもいない。なんだよ、ただのピンかと思い、ポイと捨てようとした時、後ろから声をかけられた。
「お、トシか。ちーっす」
振り向くと、バスケ部の風間がいる。僕のヘアピンを握った手は自然にポケットへ入る。捨てるのを目撃されるのは何となく嫌だ。
「風間か。よし、早く行こーぜ」
僕はヘアピンをポケットの中にしまって、風間と一緒に体育館へ向かう。

  ◇ミオ◇
 神様に、宇佐美水緒という女の子のところへ行け、と言われて来たのだとミヤは言った。ミヤが言うには、最近山奥の神社に落ちた雷のせいで、大事な鏡が吹き飛ばされたらしい。鏡は半円形で二つ一組で、神様の力が込められているそうだ。その鏡の力でこの町を守っているのだけれど、二つとも神社に置かないと効果が無いらしく、なくなったままだと災いが降りかかるのだという。
「あなたには何か特別な力があるんです。だから鏡探しの任務を与えられたんです」
とミヤは言う。
「与えられた、って神様によって?」
「ワタシも詳しいことはよく知らないのです」
私が選ばれたということには全然納得できないけれど、少し嬉しい。自分の力を貸せるのなら、手伝っても良いかな、と思う。
「わかった。よくわからないけど明日から探してあげる」
と私が言うと、ミヤはありがとうございます、と笑った。
「それにしても、そこの山に神社があったなんてね。近くに住んでる私でも知らないよ」
と言うと、ミヤは顔を下げた。
「ええ、昔はそれでも人が来たんですけどね。もう…」
私は、悪いこと言ってしまったかな、と思った。

「おかえり~」
家に帰ると妹の声がする。
「ただいま~~」
と返事する。私の家は三人姉妹で、私は次女。築葉(つきは)お姉ちゃんは高校三年で、妹の佳奈枝(かなえ)は小学六年。お母さんは専業主婦で、お父さんは仕事で長いこと海外に単身赴任している。
「ワタシはあなたのお部屋に上がらせてもらいますから」
と言ってミヤは階段を上がっていく。私の部屋の場所も知っているらしい。私は居間に入った。
「もうご飯だよ」
とお母さんが台所から顔をのぞかせて言う。もうテーブルに料理が用意されている。私は手を洗ってテーブルに着いた。お姉ちゃんも佳奈枝も部屋から出て来て、テーブルに着いた。夕飯の間、佳奈枝はこの前出場した陸上大会の話をした。佳奈枝は私より足が速い。運動神経が良いのでスポーツも良くできる。佳奈枝がそういう話を嬉しそうにすると、お母さんはいつも佳奈枝をほめる。一方、築葉お姉ちゃんは大学受験を控えているので、お母さんはお姉ちゃんにテストとか成績の話をする。お姉ちゃんは成績が良い。ちょっと遠くの進学校に通っていて、大抵テストでも模試でも、学年で十番以内をキープしているみたいだ。だからお母さんはお姉ちゃんをほめる。そしてあの言葉を言う。
「水緒も築葉を見習って勉強してよ?築葉が中二の時はもう少し勉強してたわよ?」
私だってそんなに成績悪くない。テストで学年六番だったこともある。でもお姉ちゃんはいつもそれ以上だった。
「わかってる、ちゃんと勉強してる」
と私は静かに言う。私だって毎日ちゃんと頑張ってるんだ。私だってお姉ちゃんや佳奈枝に負けない何かを持ってるんだ。そんな言葉が浮かぶけれど口には出せない。
「ごちそうさま」
私は何だか泣きそうになって、すぐに自分の部屋に逃げ込んだ。

 次の日の朝。今日は土曜日だけれど、朝から部活で学校に行く。
「帰ってきたら午後からは探すから」
とミヤに言って出かける。ミヤは、午前中は自分で探してみます、と言った。
 学校に着くと、ゆみちゃんと会って、一緒に音楽室へ向かう。その途中、私は廊下に小さな丸い物が落ちているのに気が付いた。
「あ、ボタン落ちてる」
拾ってみるとそれは白いボタンだった。男子の制服のワイシャツとか、女子の制服のブラウスに付いているようなボタンだ。
「あー、誰か落としたんだねぇ。この糸の様子を見ると、どっかにボタンを引っかけたまま引っ張って切れちゃった感じだね。ばっかだねぇ」
とゆみちゃんが言う。
「こんなのいらないな」
「ダメだよポイ捨てしちゃ。ウサちゃんもらっちゃえば良いじゃん、使えるよ?」
ゆみちゃんは笑う。
「えーいらないよ~。ゆみちゃんにあげる」
「ダメだよ、拾った人がちゃんと責任持たないと!」
ゆみちゃんもこんな物いらないからそんなことを言うのだ。仕方ないから後で私が捨てておこう、と思って私はボタンをポケットにしまった。
 午後は約束通りにミヤと鏡を探しに出かけた。神社のある山の近くから始めて、ずいぶん歩き回ったけれど、二つある鏡の片方さえも見つからない。
「見つかりませんねぇ…」
とミヤは元気のない声を出す。
「ねえ、そんなに飛ばされたのなら、どこかに落ちているとしても鏡は割れちゃってるんじゃない?」
「鏡には神の力が宿っています。だから壊れることは無いんですよ」
とミヤは言う。そういうものなのか、と私は思う。
「今日はこれくらいで帰りましょう」
とミヤが無感情に言う。

  ◆トシキ◆
 学校は定期テストが近づいて、部活の休止期間に入った。僕は帰って鏡を探すことにした。放課後、僕が鞄を持って教室を出ようとすると、三浦が話しかけてきた。
「山田ぁ、今日一緒にテスト勉強して行かね?」
僕は三浦とは目を合わせずに首を振る。
「悪いな、今日は帰るよ」
「あぁそう?いや良いけどさ。じゃあな」
三浦は手を上げて僕を見送る。背中に感じる三浦の視線が痛い。最近はこいつともあまり話さないな、と僕は思った。
 生徒玄関に来ると、雨の降る空を見上げている女子がいるのに気付く。あれは、宇佐美さんだ。何してるんだろう、と思って宇佐美さんの方を見ると、彼女は僕の足音が聞こえたのか、こっちを振り向いた。僕はあれ?と思わず言いそうになる。
「あ、山口君」
と宇佐美さんは言う。なんかさっき一瞬だけすごく悲しそうな顔をしたような…。
「そんなとこに立ってどうしたの?」
と僕は言う。宇佐美さんはちょっと笑った。
「うん、ウチの傘、誰かが間違えて持って行っちゃったみたいでね。この雨だからどうしようかなと思って」
僕が玄関の外に出て見ると、すごい激しさで雨粒が地面に打ち付けている。風も強い。
「これで傘無しはきついよなあ。あ、じゃあ俺の傘貸してあげるよ」
僕は自分の藍色の傘を宇佐美さんに差し出す。宇佐美さんはそれを遠慮する。
「え?そんなの悪いって」
「別に良いよ。俺どうせチャリだから雨具着るし。あ、あと、この前筆入れ拾ってもらったお返しってことで」
実際、すぐ近くの自転車小屋まで少し濡れる程度のことだ。
「あんなのお礼されるほどのことじゃないのに。ありがとう、明日絶対返すから」
「うん、じゃあ」
と僕たちはあいさつして、別れる。僕が自転車小屋で雨具を着るのに手間取っているうちに、宇佐美さんはもういない。
 僕は自転車をこぎだす。嵐のような天気だ。顔に雨が当たって痛い。僕は宇佐美さんの顔を思い浮かべた。あの悲しそうな表情には、なんだか悩みを持っているような感じがした。ちょうど僕と同じような。考えすぎだ、と僕は首を振る。その時、前から何かが走って来るのを見て僕は目を凝らす。
「あ、モリ」
僕はつぶやいて、自転車を止める。モリはきょろきょろと辺りを見回しながら走って来る。鏡を探しているのだろうか。いつになく忙しないけれど。
「おい、モリ、どうしたんだよ?」
と僕が話しかけると、モリは止まって僕の方を見る。その顔を見ると驚いたような表情が読み取れる。
「あなた…ワタシが見えるのですか?」
その狛犬の声は、モリとは違った。よく見れば顔も少し違う。これはモリじゃない、と僕はわかった。狛犬は続けて言う。
「モリのことを知っているんですか?では、あなたはまさかもう一人の?」
「君は誰なんだ?モリじゃないよな?」
「ワタシはミヤ。モリと同じ神社の狛犬です。あなたは…山口十色、ですね」
ミヤというこの狛犬が、モリと同じように僕の名前を知っているのは不思議ではない。そして今まで考えなかったけれど、神社には狛犬が二匹いるのが当たり前。もう一匹がいてもおかしくない。
「ワタシは水緒を探していたのですが、見つかりません。だからあなたに言います、聞いてください」
とミヤは早口で言う。僕は、え?と思った。
「待ってよ。ミオって、宇佐美さんのこと?まさか君は…、いや宇佐美さんも鏡探しを?」
「そうです。ワタシは水緒と一緒に鏡探しをしていたのです、でもまずいことになったのです」
「宇佐美さんならとっくに帰ったはずだけど…それで、何があったの?」
ミヤは雨でびしょびしょになった体をぶるっと動かして水滴をまき散らしてから言う。
「もうすぐ洪水が起こります。川があふれるんです。きっと鏡の力が消えたせいです。早く洪水を止めないと…」
ミヤはあたふたとしている。
「洪水を止めるって、どうやって!?」
「とにかく、神社に行ってみるしかありません。水緒がいないのですから、あなただけでもワタシと一緒に神社へ来てください!」
「モリはこのこと知ってるの?」
「おそらくは。でも急がないと!」
ミヤの様子は本当に危機的状況を物語っている。その表情は怖いくらいだ。
「宇佐美さんは家に帰ってないんだよね?」
「はい」
嫌な予感がする。さっき会ったばかりの宇佐美さんに何かあったのでは、と考えてしまう。
「わかった、すぐ行こう」
と僕は言って、ミヤを自転車のかごに乗せ、山に向かった。

  ◇ミオ◇
 頑張って歩いても、風の抵抗を受けてなかなか前に進めない。せっかく山口君から借りた傘を差していても、足はびしょ濡れだ。私は必死に傘を握りしめる。山口君が傘を貸してくれなかったら、今頃全身がびしょびしょのはずだ。早く帰ってシャワーでも浴びよう、と思って足を速める。次の瞬間!
 風がゴオォッと吹いて、私の手から傘を奪って行った。
「あっ!」
と声を上げて上を見る。傘は上空へ舞い上がり、そのまま山の方へ消えていく。神社があるという山だ。
「どうしよう、借りた傘なのに…」
少しの間考えてから、早く追いかけるしかない、と決心して山道に足を踏み入れようとした時、後ろの方から誰かの声が聞こえてきた。
「お~~い、十色~~!!」
振り返ると、こっちに向かって犬が走って来ている。いや、あれは…ミヤ?そうだ、走って来るのは狛犬だ。でもミヤの声じゃないような…。近くに来た狛犬に、私は言う。
「ミヤ?どうしたの?」
すると狛犬は私の方を見て、驚いたような顔を見せる。
「おい、何で俺のことが見えるんだ?どうしてミヤのことも…?」
私は、あっ、これはミヤではない、と思った。狛犬はもう一匹いたってこと?それにさっき、トシキって…。それって山口君のことではないのか。狛犬はハッとして言う。
「わかったぞ、お前がもう一人の選ばれた人間だな、確か名前は、宇佐美水緒」
やっぱり、この狛犬も私の名前を知っている。神社には二匹狛犬がいるものだし。少なくともミヤと何か関わりがあるはずだ。
「ねえ、あなた誰?もしかしてミヤと同じ神社の狛犬なの?」
そう言うと、狛犬は答える。
「そうだ。俺はモリっていうんだ。あんたも鏡探しをしてるんだろ?俺は山口十色という奴のところに来て、一緒に鏡を探してる」
驚きだった。山口君も私と同じように鏡探しをしてたなんて。
「山口君も鏡探しを!?」
「ああ、見つからなかったけどな。遅かったんだ、もっと早く俺が来てれば」
私はその言葉に不安を感じた。遅かった、ってどういう意味?
「どうしたの?山口君はまだ家に帰ってないよね?さっき学校で会ったし」
「そう、それで十色を呼びに来たんだけど、この際お前に頼む。神社に行ってくれ!俺たちの神社だ!」
モリはひどく慌てているようだ。私にはさっぱりわからない。
「ちょっと、何か起きたの?どうして神社に行くの!?」
私は声を張り上げるように言った。モリも大きな声を出す。
「川があふれるんだよ、もうすぐ洪水が起こる。早く止めないと町が危ない!」
「洪水!?どうやって止めるの!?」
「洪水は神社の鏡の力が切れたせいで起こるんだ。そうに違いない。方法はわからないけど、とにかくお前か十色が神社に行ってみればどうにかなるかもしれない」
モリは山道に向かって走り出す。
「こっちだこっち!早く来い!」
と私を呼ぶ。私は迷ってる暇などなく、慌ててモリを追う。これは本当に良くないことが起きそうだと私は感じる。モリの焦った眼は本当に洪水が起こりそうだということを表している。私は山道を走る。ためらう心も持たずに、どんどんと山奥へ入って行く。

 走って走って、長い間走った後、モリが立ち止まって言う。
「見ろ、もう川の水があふれるっ!」
私が息を切らしながら振り向いて町を見下ろすと、川の水が土手を乗り越えようとしている。早く逃げなければ近くにいる人たちは流されてしまう危険がある。
「どうしよう!町の人が危ない!」
モリは前を向いて言う。
「もうすぐ神社に着く。行くぞっ!」
私はまた走り出そうと足に力を入れる。しかし、その時足元の土が崩れて、私はバランスを崩して転んだ。
「わっ!!」
一瞬、モリが振り向く姿と、山の下に広がる町の景色が見えた気がする。体の力が抜ける。

  ◆トシキ◆
 道なき道を進む。山道の泥はぬかるんでいてすべる。神社はかなり山の奥にあるらしく、だいぶ登った気がするけれどまだその姿は見えない。ぶかぶかして動きづらい雨具は途中で脱いでしまったので、ワイシャツに水がしみ込んで冷たい。
「十色、見てください!」
ふいに前を走るミヤが振り返って言った。僕も振り返る。ここからは町の景色がよく見える。その光景を見て僕は唖然とした。
「川が…っ!」
川の水は土手を今にも乗り越えて、住宅地へ流れ込もうとしている。避難する人たちも見える。
「急ぎましょうっ」
ミヤはまた前を向いて走り出す。その時、僕の視界に何かがちらついた。
「ちょっと待って、あれは!」
「どうしたんです?」
ミヤは少し怒ったように言う。
「傘だ。なんでこんなところに」
目の前の木に、藍色の傘が引っ掛かっているのだ。僕は手を伸ばして傘を取る。一目見てこれはさっき自分が宇佐美さんに貸した物ではないかと予想した。僕は傘が広がらないようにとめておく、マジックテープ付きの細い布の部分を見る。…やっぱりだ。そこには消えかかった字で山口十色、と書かれている。
「傘がどうしたんですか?」
「これはついさっき僕が宇佐美さんに貸した傘なんだよ」
ミヤの表情が変わる。
「じゃあ水緒もここに来たということですか?」
「わからないけど、多分。神社はまだ?」
「もうすぐです、早く早く!」
僕は傘を持ったまま、また走り出す。宇佐美さんもここに…つまり神社を目指している。僕は走りながら考える。宇佐美さんがパートナーのミヤを置いたまま一人で神社に向かおうとするとはちょっと思えない。もしかすると、宇佐美さんはモリと会ったんじゃないか?そうだ、僕がミヤと会ったように、彼女はモリと会ったんじゃないか。モリだってパートナーである僕を探していたはずだ。でもモリが会ったのは宇佐美さんで、ミヤが会ったのが僕だった。モリは仕方なく家に帰る途中だった宇佐美さんを連れて神社に向かった…。僕は何だか奇妙な巡り逢わせを感じた。
 しばらく走った後、ミヤが叫ぶ。
「見えました!神社ですっ!」
立ち止まる足が水たまりに入ってしぶきを上げる。小さな鳥居とその先の小さな社が僕の視界に入る。社の前の台座の上に、狛犬の姿は無い。しかし、それらとは別にもっと僕の心臓がドクンと跳ね上がるような光景があった。
「!」
僕は神社とは別の方向へ走り出す。足がすべる。
「ちょっと!どこに行くんです!?」
ミヤの声が追いかけて来る。あれは…。
「宇佐美さんっ!!」

  ◇ミオ◇
 耳にモリの声が響く。
「おい、大丈夫か!?」
「な、んとか…」
私は狭い土の足場の上にいる。後ろを振り向くと、恐ろしい景色が広がっている。下は崖だった。一歩足を踏み外せば真っ逆さま。おまけに足場の土は柔らかくなっていて、いつ崩れるかわからない。恐怖で足がすくみ、動けない。
「と、とにかく、早く登れ!よじ登るしかない!」
モリが言う。そんなのとてもじゃないけれど無茶だ。足場からモリのいるところまでは、どう見ても二メートル以上ある。私は声も出せない。雨は依然として激しい。このまま雨が私の乗っている足場を溶かして洗い流してしまうような気がする。そしてついに、横から強い風が吹き付けた。驚いて私の足がピクリと動く。次の瞬間!
「つかまれ!!」
足場が崩れたのがわかった。それと同時に、目の前に藍色の物が見えた。
 私は目をつぶったまま、体が持ち上げられるのを感じた。そして自分が地面に座り込んでいることに気付く。恐る恐る目を開けると、そこには男の子がいる。
「山口君…!?」
私は藍色の傘を強く握りしめたままだ。何が起きたのかわからない。
「水緒!無事ですか!?」
その声の方を見ると、ミヤだった。山口君とミヤがここにいるのだ。私は助けられたことに気付いた。
「山口君、ありがとう」
「筆入れ拾ってもらった借りを返すのに、こんなに苦労するとはね」
山口君はそう言って笑う。
「おい、二人とも、早く神社に!」
とモリが言う。私は山口君と共に立ち上がる。
「こっちです!」
と言って、ミヤが走り出した。私たちも続く。神社はすぐそこにあった。ミヤとモリについて行って、私と山口君は小さな社の中へ入る。
「どうしたら洪水を止められる?」
と山口君が言うと、モリがそれに答える。
「俺と水緒がここに来るのと同時に、ミヤと十色もここへ向かっていた…。おいミヤ、偶然じゃないよな?」
「でしょうね。と、いうことはもしかして…」
モリとミヤは同時に私たち二人の方を見る。そして衝撃的なセリフを吐いた。
「鏡は、お前たち二人の中だってことだ」
「え?」
そう私と山口君は同じようにして声を上げる。
「ちょっと待って、私たちの中に鏡ってどういうことなの?」
「いいからここへ座ってください、二人とも」
ミヤが社の中の一段高くなったところを足で示す。私と山口君は言われるままにその壇に上がった。壇はいろいろな飾りで装飾されているが、そのどれもがだいぶ古そうに見える。
「中央から同じ距離で、向かい合って座るんだ」
とモリが言う。私たち二人は、その通りに向かい合って座る。モリとミヤは黙って私と山口君を見つめる。
「これだけ?」
と山口君が言う。
「おかしいですね、二人が鏡ではないのでしょうか?」
困った顔で言うミヤにモリが首を振る。
「いや、きっと何かが足りないんだ…。鏡は完全に元通りの姿に復元しなければ力が戻らない。おい、二人とも、何かあるだろ、足りないものが!」
「思い出してください!」
モリとミヤは私たちに顔を近づける。
「そんなこと言われたって…」
私は山口君を見つめた。山口君も私を見て、視線が真ん中でぶつかる。
「あ!」
「あっ!」
二人はひらめいたように声を上げた。そして同じようにポケットに手を入れる。
 出て来たのは、ボタンとヘアピンだ。
「少し前から、なんか宇佐美さん変わったと思ってたんだ」
「私も、山口君ちょっと前と違うと思ってた」
私はボタンを、山口君はヘアピンを相手に渡す。すると、手にしているヘアピンがいきなり光りだした。
「え、何!?」
前を見ると、山口君のボタンも光っていることがわかる。
「やっぱり」
と、ミヤがつぶやいた。光るヘアピンはひとりでに浮かび上がって、私の濡れた前髪を分けて留める。山口君の方を見ると、光るボタンは勝手に山口君のワイシャツに留められる。
「どうなってるんだ、これ」
と山口君が言うと、モリが静かに、祈るように言う。
「始まるぞ」
いきなり、私の制服の胸元がまぶしく光りだした。山口君も同じだ。そして、その光の中から、何かが出て来る。
「これって…」
「鏡です!」
ミヤが叫ぶように言う。二人の胸元から、半円形の光り輝く鏡が出現したのだ。まぶしい光の源はこの二枚の鏡だ。二枚の鏡は、お互いの発する光を受け取り、そして反射し、相手が反射した光をまた受け取り反射し、それを繰り返すことでどんどん光が増殖していくように感じる。そして、辺りは光によって包まれた。私はまぶしさに目をつぶる。

 目を開けると、鏡はもう光を発していなかった。目の前には山口君がいる。
「どう…なったんだろう」
モリとミヤの姿は無い。私たちは社から外へ出る。すると、山には心地良い風が通り抜けていて、木々の葉の間からのぞく空は青い。
「まさか…!」
と山口君は言って、鳥居の向こうへ歩いて行く。私も彼に続いて鳥居をくぐる。
 そこからは、山の下の町の様子が見えた。空は澄み渡り、雲一つ無い晴天。あれほど増水していた川が、今では嘘のように穏やかに流れている。
「やったんだよ、鏡の力で町は無事だったんだ!」
と山口君が言い、
「良かったぁ…」
と私は息を吐く。それから私たちは、やった、やった、と二人ではしゃぎ合った。それから私は言った。
「ミヤとモリは?」
山口君が振り向いて神社の方を見る。
「あれって」
と言って指差す先には、台座の上に乗った二匹の狛犬がいる。
「ここに着いた時はいなかったんだよ」
「じゃあ…ミヤとモリは」
私たちは言葉を失う。


 後日、私と山口君はもう一度神社に来た。社と、二匹の狛犬に花をお供えした。社はこの前よりもさらに古びて見える。
「こっちがミヤで、そっちはモリだね」
と私が言うと、山口君もうなずく。
「うん、顔を見るとわかる」
狛犬たちの顔は、どこか嬉しそうで、誇らしげに見える。
「誰もお参りに来なくなった神社は、だんだん力を失う…のかな」
と私が言うと、山口君が言う。
「モリもミヤも、それからここの神様も、町を救うために最後の力を出し切ったんじゃないかなあ」
それから唐突に、山口君が言う。
「あのさ、今回のことでわかったんだけど、僕と宇佐美さんってちょっと似てない?」
その言葉は全然意外じゃなかった。まさに私もそう思っていたから。
「うん、私たち結構似てるよ」
「でもさ、違うとこもあるよね」
「うん、違うとこもある。ただね、今、お互いのことすごくわかり合えてる気がするんだ」
山口君は微笑み、私も笑う。
「「あなたを、探していたのかもしれない」」
 神社には、二枚の半円鏡だけが残っている。
                            ~fin

最終更新:2012年11月16日 02:07