アットウィキロゴ

呪う

2011年05月28日(土)19時45分 - すばる

 



 どうしようもなく、腹が減った。痛みで膝ががくがくと震える。とにかく何かを食べなくては、何かを食べさせなくては、俺はすぐにでも死んでしまうだろう。なんでもいい、何か、何か食べるものを。痩せた体を引きずり、谷茂毅はコンビニの明かりに誘われる。金はない。もうすでに、すべて使ってしまった。だけど、どうしようもないその食欲はとどまることを知らず、毅はただ必死に、食うものを探し、そこにたどり着いた。もうすでに、体力も足の痛みも限界に達し、堪えることなど到底できない。深夜、闇に沈む世界で煌々と照らされたその箱は、彼の格好のえさとなりえた。自動ドアが開き、食い物の臭いが鼻を掴む。普通ならそんなことはありえないのだが、彼の鼻は的確かつ貪欲にそれを嗅ぎ付けた。それはすでに獣のそれをも凌駕し、彼が人たりえない域に踏み込んだことを示している。店員が一人、耳にイヤホンをつけながらレジカウンターの向こうで転寝をしている。これならば、めぼしいものを懐に忍ばせそのまま店を出ることもできるだろう。しかしその程度の量で彼を満足させることなど到底出来まい。少なくとも両手で抱えられる程度では不十分だった。棚に所狭しと並べられた食品が目に浮かび、今すぐにでも手を伸ばそうとしていた、いやあるいは実際にその場で手を伸ばし、掴もうとしていたのかもしれない。そして、命の危機を感じつつある毅にはすでに躊躇うほどの余剰などなかった。ポケットからナイフを取り出し、その転寝している店員にそっと近づく。決して起きるなと祈りながら、毅はナイフを振りかざし、真紅の飛沫を浴びた。

 唐突にかかってきた電話の音で、鉋儀命は目を覚ます。朝から嫌な気分だ。こんな時間に電話をかけてくるものなど、命は一人しか知らない。
「辻山さんですか、こんな朝早くに、何の用です。」
「テレビ見てみろ、7番。」
 命がぶっきらぼうに聞くと、電話の相手はそれ以上にぶっきらぼうに答える。命の師であり上司である辻山紫苑は、なんというか、いわゆる常識というものがない人間だった。少なくとも堅気の常識はない。今日も本来ならば休みだというのに、あちらの都合でいきなりお呼び出しがかかったわけだ。長年の付き合いで、すでに電話が切れていることを知っていた命は布団からもぞもぞと這い出すと、テーブルの上に放られたリモコンに手を伸ばし、電源を入れる。チャンネルを変えると、おそらくそれと思われる事件のニュースをやっていた。
「本日深夜二時ごろ、++県小竹市にあるコンビニが強盗に襲われ、アルバイトの店員、尾方進さん、二十一歳が刺殺されました。店内は激しく荒らされ、食品関係を中心に・・・」
それ以上聞いても価値なしと思い命はテレビの電源を切る。少なくとも朝食を食べながら聞きたい話題ではない。
 それから急ぎ気味に食べ終えると、昨日帰ってきたままのカバンを掴み、部屋を出る。借りているアパートから仕事先までは、歩いて三十分ほど、変り者の紫苑が変な場所に事務所を造るものだから、電車はおろかバスも通らない。自転車があればもっと早く行けるのだが、あいにく持ち合わせてはいないし、買おうかと思っても何かにつけて買えないでいる。
 日曜日ということもあり、普段よりも人通りは少ないが、だからといって熱射が容赦をするなどといったことはない。いつもと同じような、肌を焼くような日差しに変わるのも時間の問題だ。だが幸運にも、というよりも当たり前にもそうなる前にクーラーの冷気のもとに逃げ込めた。事務所兼自宅を兼ねた紫苑の地所は、お世辞にも綺麗とは言えない。二階の宅を見たことはないが、少なくとも事務所を見た限りでは、紫苑はかなりずぼらな性格だ。そして実際彼はずぼらなのだが、それなりにポリシーがあるようで事務所のものを勝手に動かそうとすると、場所が分からなくなると怒られる。
「遅い。」
 入ってきた命を横目に見ながら紫苑は呟く。命はそれを完全に無視し、用件はと問う。
「ニュースは見たか。」
「隣町で起きた強盗事件のことですよね。」
「ああ、依頼ってのは、その犯人を警察より早くどうにかしてくれ、ってもんだ。要は、止めるか捕まえるか、殺せってことだ。クライアントにはどうやら心当たりがあるようでな、こんなもんを送ってきた。」
 紫苑はそういって、何やら白い粉末を放り投げる。
「そいつを食わせりゃいいって言ってたな。それがなんかはわからんが、ありがたく頂戴しとけ。で、そのターゲットってのは谷茂毅二十二歳、例のコンビニから五十メートルと離れてないところに住んでる。・・・こりゃ急いだ方がいいかもな。この分だと警察が見つけるまでそう長くはかからねえだろ。
失敗したら一文にもならん。さっさと行け。」
 紫苑はそういって、ひらひらと手を振る。まったく勝手なと思いながらも、何を言っても無駄なのはわかっているので、さっさと済ませようとその粉とメモを手に取り、さっさと事務所を出る。そういえば、二十二歳ということは聡と同い年ということになる。町ひとつ離れているし、関係はないだろうとは思うが、なんとなく彼の顔が浮かんだ。
 小竹市はここ出雲市の隣で、歩いていくには少し遠い。紫苑の事務所から駅まで二十分ほど歩き、電車で十五分ほどかかる。駅を出た時には、照りつける日差しが陽炎をたたせ、鉄板のように熱気がかったアスファルトは白く焼けていた。こんな暑い日は、外に出るもんじゃないと思いながら地図を頼りに谷茂という男の地所を探す。嫌味なほどの熱気に、汗でシャツがべたつく。おそらく駅から徒歩十分といった距離だが、道を探しながら来たのでそれよりもだいぶ時間がかかった。そこは四階建てのマンションで、とりあえずは郵便受けで谷茂の部屋を確認すると、三階の一番端の部屋の場所にその名前を見つける。相手がどういう出方をするかは分からないが、一応ベルを押してみる。しかしむこうは何の反応もない。それは、少しは予想していた結果だ。この様子ではもう戻ってくることはないだろう。
 それでも無理やり中に入ってみると、部屋はすでに荒らされていた。箪笥の引き出しは段々に開けられ、中のものが手当たり次第に放り投げられている。その上に置かれた電話には、同じ番号からすでに十件以上もの留守電が入っている。ベッドのシーツも引き剥がされ、木製と思われる土台がむき出しになっていた。何かを探してあたりを引っ掻き回したような感じだ。それが何なのかは、およそ明白だ。机にも床にもコンビニ弁当の空箱や菓子の袋、さらには空になった調味料の瓶まで散乱している。冷蔵庫を開けると、やはり何もない。とにかく何かを食らうこと、それが谷茂という男の意義なのだろう。その行動はすでに秩序の外にある。そして、秩序の外にいる者にとっては法など何の縛りにもなりはしない。おそらく、自身の目的のためにのみ行動するだろう。そして、この男の目的が食べることなら、いくであろう場所はおよそ決まってくる。しかし問題は、それが町に溢れているということだ。しらみつぶしにあたるしかないかと、部屋を出る。ほんの数分のことではあっても、一度脱した灼熱地獄に戻るにはそれなりの覚悟がいった。早くも噴き出してきた汗をぬぐう気にもなれず、とりあえずはそこから見渡せるところにそう言ったところはないかと探すが、特にそれとおぼしきものはない。そもそもそんなものがあるならば、もうとっくに騒ぎになっているはずだ。面倒なことになりそうだ。
 そう、思っていた矢先に、まだ閉めていなかった谷茂の部屋から電話の音が響いた。そのタイミングをいいというべきか悪いというべきかは迷うが、ともかく引き返してみることにする。予想通りではあるが、これまでのものと同じ番号だ。
「もしもし。」
 何かの手掛かりになるかもと思い、とりあえず受話器を取る。すると、どういう因果か電話機の向こうから聞きなれた声が聞こえてきた。

 食い物が出てくるまでの間など、到底待ちきれない。足はすでに悲鳴を上げている。その異様な状況に周りのものは驚き、彼から遠ざかるが、そんなことを毅は知る由もないし、ましてやそれを気にするなどといったことはあるはずもなかった。幸運にもこの店にはサラダバーがあり、とにかくはそれで飢えをしのぐ。少しずつ、足の痛みも和らいできた。金は昨日コンビニで手に入れたものがあるから、ひとまずは大丈夫だろう。
 十人前ほどを早々に食べ終えてから、店を出る。ようやっと足の痛みも消え、飢えの苦しみも忘れ始めた。だけど、食べ続けなければまた、その両方に苦しむことになる。そんなのはごめんだ。また別の飲食店に入る。すると、特盛、三十分で食べたら無料。というチラシが目に入る。それは、なんと好都合な話、どうして今まで気がつかなかったのだろうと自分が疎ましくなるほどだ。ともかくその文字が、毅には仏に見えた。

 今日は日曜日で紫苑の事務所も休みなので、紫乃聡は昼まで寝て過ごすつもりであったのだが、世の中そんなに甘くないとばかりに電話が鳴る。午前十時ごろのことだ。電話越しに聞こえる声は、よく聞きなれた声だった。高校時代からの付き合いがある登城広樹は、少し相談したいことがあるといってきた。電話では話しづらいことなのか、広樹の話は少し歯切れが悪い。そして案の定、最後には、これから会えないか、という話になった。
「昼飯おごってくれるんならね。」
 そんな少々いじわるとも取れる条件を出したが、向こうはそれでもかまわないと少しも気にする様子はない。あるいはそんなものなのだろうか。
 広樹が指定した喫茶店は、どこにでもある、ごく普通の喫茶店だった。唯一興味を引いたのは、喫茶・黒猫という、なんとなくあちら側を思わせる名前だけだ。だがおそらくはそれも間違いなのだろう。洒落か何かに違いない。時間的に言えば、モーニングには遅すぎるし、ランチには早すぎる。そんな微妙な時間だ。だからか人の姿はまばらで、広樹はそのなかでも、なるべく他から離れるように座っていた。やはり、あまり人には聞かれたくない類の話なのだろう。
「広樹。」
 聡が声をかけると、広樹は、ああ、と言って振り向く。
「日替わりランチでいいよな。」
 広樹に聞かれ、うなずくと、彼はさっそく呼び鈴を鳴らし、ランチを二つ頼む。それが来るのを待つ間、広樹は無言で座っていた。その表情が、ただ事ではないと語っているようで、なんとなく口を開くのがはばかられる。
 店員がランチを運んできてから、ようやく広樹は口を開く。
「最近、高校の時の同級生で、俺以外に連絡取ってるやつって、誰かいるか?」
 質問の意味はよくわからないが、とりあえずは正直に、ない、と答える。すると広樹は、さらに声を低め、言葉を続ける。それは、明らかに周りを気にしている感じだ。
「実はな、今度同窓会の予定があってな、それで俺、幹事任されてるだろ。で、いろいろと連絡取ってんだけど、おかしいんだよ。」
 広樹はそこで一度言葉を止める。しかし、聡が何かを言うより早く、再び口を開いた。その言葉は、さっきよりもさらに低い。
「いないんだよ。連絡が取れないんだ。それも一人や二人じゃないぜ、二十人ぐらいに電話をかけて、これまでにつながったのは十二人、他は全員、音信不通。親御さんに聞いても、知らない、分からないばっかりだ。それで、これは噂なんだけど、これは、・・・館田の復讐なんじゃないかって話だ。」
 そこまで来ると広樹の声は一層低くなり、身を乗り出してきかないと聞き取れないほどだ。
 館田友も、広樹同様高校三年の時の聡の同級生なのだが、彼は、クラスの中でいじめられていた。女みたいな名前と、施設の人間だったのがその原因である。そういえば広樹は友と割合仲が良かったな、とかつてのことを思い出しながらも、友が復讐をするなどとは考えられなかった。学校でいやな目にあい、それでもなお明るくふるまう彼の姿は、復讐という言葉には結びつかない。そんなことは考えていると、広樹がまた口を開く。
「それでな、少しそれるかもしれないけど、ちょっと気になることがあって谷茂に会ったんだがな、その時あいつ、やたらと痩せててな、別人かと思ったぜ。別にリストラにあったわけでもないし、それから、妙に足を気にしてたな。かと思えば突然奇声を上げるし、でもあいつ、それは自分じゃないとかいうし、で、今朝になって例のコンビニ強盗、あれ、谷茂んちのすぐそばだったから、気になって電話したんだよ。だけど出ないんだよ。もう何回かけたかもわかんねえけど、一回も。」
「ここからもう一回電話してみようか。番号いくつ。」
 聡がそう言うと、広樹は自分のを使えと言って、電話をかけてから携帯を聡に手渡す。しかし広樹の主張とは裏腹に、何度目かのコールのあと、電話の相手が出た。
「もしもし。」
 向こうからの声を聴き、立ち上がる。その声には聞き覚えがあった。それも数か月も前のことじゃなく、つい昨日のことだ。

 「なんでお前がいるんだよ。」
 電話越しに聡が言う。その声の調子から察するに、向こうも困惑した様子だ。しかし命が、その言葉に少しいらつきを覚えたのも事実だった。
「それはこっちのセリフ、俺は紫苑にいわれて強盗犯を追ってたのに、なんでその家にお前から電話がかかってくるんだよ。」
「ああ・・・悪い、今はちょっと状況が悪い。またあとで直接かけなおす。」
 そういって聡は一方的に電話を切ってしまった。
「なんなんだ、まったく。」
 一人悪態をつきながら、受話器を置く。それからその部屋を出ると、電話がかかってきてももう気づかないようにドアを閉めたのを確認してから階段のほうに歩く。
 それだけの間にも、より一層強くなったと思える日差しの下、命は目に着いた飲食店に片端から入り、店内を一望してからすぐに出る。いきなり不法侵入しておいてなんだが、店員に谷茂のことを聞くのは怪しまれそうでやめにしておいた。大体聞いたところでどこに行ったかなど知っているはずもない。
 そうやって、何度その巨大な空気の段差を経験したことか、ようやっと、大食いにチャレンジしているその男を見た。紫苑から渡された資料と比べてみると、どう考えてもやせ細り、骨と皮ばかりの男に見えるが、それはむしろ暴食の権化としてはふさわしい姿に見えた。この暑い中、長いズボンをはいているのが決定的だ。

 「いたのか?」
 聡がテーブルに戻るのを待ちわびたかのように、広樹が聞く。それに対し、聡は言葉を詰まらせる。本当のことなど言えるはずもなく、かといって何の問題もないなどというわけにもいかない。
「誰か、別の人間がいた。」
「別のって、誰だ?」
「さあ。彼女かもしれない。」
 聡が何とか差しさわりのない程度にはぐらかそうとすると、広樹もそれで少しは納得したようだった。
 「お前、探偵事務所で働いてるんだろ?」
 広樹にそう聞かれ、聡はわずかに身じろぐ。以前何をやっているのかと聞かれ、魔法使いのところで働いているなどとは言えず、そう答えたかもしれない。実際紫苑の事務所では副業としてそういうこともやっている。なるほどつまり、それで呼んだわけだ。もっとも聡は、そういう危なっかしいヤマには大してかかわっていない。そっち方面のことは、命や紫苑、あるいは玲の領分だ。しかしながら、ここまで来た手前断るわけにもいかず、そもそも命が絡んでいるということは、すでに仕事を受けているわけだ。
「分かった、じゃあクラス全員の連絡先と住所、それからその他もろもろ、可能な限り教えてくれ。」
 聡がそう言うと、広樹は待っていましたと言わんばかりに携帯を取り出す。

 時刻は午前二時、くしくも、昨日と同じ時間だ。すでにあいているのは居酒屋ばかり、金もない。そして何より、夜という時間が、もっといい方法があるとささやく。闇が支配する町に、灯る明りは少ない。俺はその甘言を聞き入れることにした。
 獲物はすぐに見つかった。遠目にもそれと分かる煌々とした明かりが、昨日の惨劇など知らないかのようにまばゆくきらめく。今日だけであれだけ食べたというのに、ただそれだけで、彼は、ごくりとつばをのんだ。
「よう。」
 不意に、そして唐突に、毅は誰かに声をかけられる。振り返れば、一人の男がゆっくりと毅に近づいてくる。年は毅と同じくらいだろう。しかし、そのいでたちには不可思議な凄味がある。
闇にまぎれるように、微かな微笑みを浮かべ、銀の刃を携えるそれは、死神を連想させた。
「ようやくか、随分待ったよ。お前ずっと大通りにいるんだもん。おかげで汗びしょびしょ、おまけに夜になっちまった。だけど、もうこの時間なら問題あるまい。あるいはもっと早くてもよかったかもな。」
 命は誰にともなく呟くと、彼に向って疾走した。それは、風を切るようで、やせ細り、衰えた毅に防ぐすべはなかった。その刃が、線を描く。一閃が、毅の右膝を切り裂いた・・・はずだった。しかし、痛みはない。切られたという感触すらない。服だって、破けてはいなかった。目視ではそう見えただけで、実際にはそれていたのかもしれない。しかし命は、それで事が済んだかのように刃を納め、毅に背を向け、去っていった。
 男の姿が消えてから、毅は、僅かに躊躇し、しかし、ゆっくりとズボンの裾をまくる。
それは、目を覆いたくなるような光景だった。膝についた顔は、血を流すことなく、けれども真っ二つに割れていた。



 「聡、おまえ昨日あのまますっぽかしただろ。」
 事務所に入ってきた命は開口一番に言った。聡はそれで、ようやくそのことを思い出す。悪いといって聡は昨日の広樹とのこと、ついでにそのあと、谷茂毅と館田友について調べていたことを話す。
「谷茂毅は、まあ、いたって普通、だった。普通に就職して、最近まではごく普通だったそうだ。ただ、最近になって急激にやせ細って、あと膝を妙に気にしているようだったと言っていたな。薬でもやってるんじゃないかって噂もあったぐらいだ。・・・って言ってもこれぐらいのこと、もうそっちでもわかってるんだろ。で、館田友だけど、こっちも収穫と言える収穫はなかったな。妙な点はあったけど、少なくとも何か手がかりになるようなことはなかった。白矢建築っていう建築会社に就職したところまではつかめてるんだけど、そこを一年で辞めてからの足取りはさっぱり、会社のほうでも内向的で、ほとんど誰ともしゃべらなかったらしい。ただ、彼と比較的仲の良かったやつがいてな、新城敦志っていうんだけど、こっちも館田と同時期に会社を辞めてる。これはただの偶然かな。それと、これは関係ないかもしれないけど、高校時代の館田は、かなり明るい性格だったんだ。それで、聞いた話が、大分その印象と違う感じがした。少なくとも彼は、内向的というよりもむしろ社交的だったな。」
 「じゃあ、その館田ってやつがあれを憑かせたって言いたいのか。」
 聡の話が終わると、命は待ちわびたかのように口を開く。
「あれってなんだよ。そんな話聞いてないぞ。」
 聡からしてみれば、そんな話は初耳だ。
「ああ、その谷茂の膝に、顔の形をしたできものがあったんだよ。そいつが声を上げたりしてな。直接見たわけじゃないけど、たぶんそうだ。あれが谷茂からエネルギーを奪って、それでたまらなくなって谷茂は強盗をしたんだろうよ。」
 命は少し自慢げに話す。
「ほう、犯人は人面瘡だったか。」
 突然入ってきた紫苑は、いったいいつから聞いていたのか、いきなりそんな化け物じみた名前を口にした。
「人面瘡って、なんですか。」
 それを聞いたのは、これまでずっと黙って二人の会話を聞いていた、あるいは聞き流していた月見里玲だ。辞書並みの厚さがある本から少しだけ顔を上げている。
「憑き物妖怪の一種だよ。人の膝や肩に顔の形をしたできものができて、それがものを食ったり、しゃべったりするんだ。一説には、人面瘡は死んだ者の怨念が妖怪化したものとも言われているな。」
 紫苑が説明する。女の子だからか、紫苑は玲に対しては妙にやさしい。命か聡が聞いたならば、自分で調べろと言われていたかもわからない。
「で、そいつどうした。」
 紫苑が問う。
「切った。」
 命は単調に答える。それを聞いた紫苑の顔が、僅かに曇った。
「おいおい、それじゃ人面瘡は死なないぜ。切ろうが焼こうが何度でも生えてくる。それがやつの恐ろしいところだ。人面瘡を殺したきゃ、貝母を食わせるんだな。・・・ああそうか、あの粉は貝母の粉末か。つまりクライアントは、敵の正体を知ってたんだな。ところがお前はへまやらかした。鉋儀、おまえ、自分の力を過信したな。」
 紫苑がそれを言い終えるか終えないかのうちに、命は部屋を飛び出す。それを見ていた聡もまた、立ち上がる。もう調べる当てはないが、そう言っていられる状況ではない。しかし紫苑がそれを制止した。
「待て、おまえには別の仕事がある。」
「そんな、だって、話を聞いていたんなら知っているでしょう。俺の同級生が何人も行方不明になってるんですよ。こうしている間にも、何が起こるか、わかったもんじゃない。とにかく、一刻も早く館田の居場所を突き止めないと。」
「で、どうする。」
「えっ、」
「で、そのあとどうするんだと聞いているんだ。その館田ってやつを見つけたとして、それでお前に何ができる。鉋儀や月見里ならともかく、その館田ってやつが人面瘡を憑けたんだとしたら、なんの力もないお前では返り討ちにあうだけだ。少し頭を冷やせ、焦りすぎなんだよ、お前も鉋儀も。」
「じゃあどうしろっていうんですか、もう何人やられてるのかもわからないんですよ。」
「お前には、別の人物について調べてもらう。・・・紫乃、お前にそのことは伝えたのは、登城というやつで間違いないんだな。」
「ええ、そうですよ、登城広樹、俺の同級生でした。でも、それがなにか。」
「今回の依頼人の名前も、登城広樹だ。」

 少し話したいことがあるというと、電話越しに広樹も、自分にもあるという。広樹は、今日はもう仕事は休んだというので、すぐに落ち合うことにする。場所は、昨日と同じ喫茶店、すぐに玲を引き連れてそこに向かう。「暇そうだから」という理由でついてこさせられた玲はすでにふくれっ面で、いやだと顔に書いてあるようだ。
 どうやら今日は、こちらの方が早かったようで広樹の姿はまだない。俺は昨日と同じテーブルに座り、彼を待つことにする。
 「この子、お前の彼女か。」
 遅れてきた広樹が真っ先に言ったセリフはそれだった。そんなのは、単なる冗談にすぎないんだけど、俺がそれを否定するよりも早く、玲が「そうです。」と答える。それは、明らかに俺に対する嫌がらせだ。彼女は、事件のことなどどうでもいいといわんばかりに、俺をおちょくっている。実際彼女は、こういうことには点で向いていない、彼女の専門は戦闘だ。
「で、用ってのは、なんなんだ?」
 こちらから攻める前に、向こうの出方をうかがう。かかわりがあろうとなかろうと、尋問のまねごとをした後では、気分を悪くして何も言わなくなるかもしれない。
「ああ、昨日な、霜山朱鳥のところにこんなものが送られてきた。」
 そういって広樹が取り出した小瓶は、恐ろしくグロテスクで、おぞましい代物だった。持っているだけで道徳に反する類の、ましてやそれを見せるなど、正気の沙汰じゃないといえるほどのもの。それを見て、広樹がどうして今日は注文が来る前に話し始めたのか、一発で分かった。そんなもの、何か食べながら、決して見たくない。無論そうでなくても見たくはないようなものなのだが、やはり、幾分かはましだ。そんなものなので、今この店に居合わせたほかの客、およそこんなもののことなど念頭にあるはずもない客たちのことが、気の毒に思われてならない。たとえそれの存在を知らなくとも、それがあるこの空間に居合わせ、さらには物を食べ、談笑をするなどというその状況そのものが、もはやありえない状況だ。小瓶の中は、蜈蚣や蜘蛛などの恐ろしい毒虫の死骸が埋め尽くし、異常な色の体液が固まり、地獄絵図そのものを彫刻としてとどめていた。それを、広樹はすぐにしまいこむ。彼自身もあまり触りたくはないのだろう、そこから立ち込める瘴気を封じるかのように、何重にも厳重にくるみ、鞄の中に入れた。
「蠱術というんだそうだ。器の中に蜈蚣や蠍、蛙なんかを入れて、殺し合いをさせ、最後に残った一匹を呪いに使う。つまりこれは、宣告、ってことだよな。」
「で、なんでそれをお前が持ってんだよ。」
「それは、相談したいことがあるって、霜山に見せられたんだよ。」
「なんでお前なんだ?お前、今回の件以外で、霜山にあったのって、いつ以来だよ。」
「それは、ああ、今回のことを調べてみるって、前会った時に言ったから、だから俺に相談したんじゃないかな。」
「・・・言い訳が苦しいぞ。お前、俺に会う前にうちの事務所に谷茂のこと依頼しただろ。それがばれてないわけない、そんなこと、おまえだってとっくにわかってるだろ。広樹、お前、谷茂がどういう状況か、知ってたみたいだし、本当は、今回の件についてもっといろいろと知ってるんじゃないのか。」
「いや、知らない。・・・悪いな、もう時間だ。行かないと。」
 そういって広樹は立ち上がろうとする。
「逃げない方がいい。」
 そこに来て、玲がようやっと口を開く。
「私たちは、ただの探偵じゃないわ。わかってるでしょうけど、あまり、甘く見ない方がいいわよ。」
 玲の脅しを受けた広樹は、僅かに震えている。そしてそのまま、一度もこちらを見ずに、見ようともせずに、出口へと歩いて行った。

 谷茂の住むマンションの周りには、野次馬が集っている。その頭越しにパトカーの赤いランプが光り、もはや手遅れだと教えてくれていた。その終末を見届けたいという思いもあったが、蠅のように集る野次馬になり下がる気はなくて、その光景に背を向ける。
 のちに、谷茂毅は、警察が踏み込んだ時にはすでに死んでいたことが分かった。死因は栄養失調、もちろん原因は人面瘡だ。・・・無論そんなことは表には出ないので、監視カメラの映像が証拠となり、谷茂毅は強盗容疑で書類送検されることとなる。
 「なんか、なさけない結果ですね。」
 その結果を紫苑から聞いて、俺はひとり呟く。
「ふん、たしかに大失態ではある。だが仕事自体に問題はない。やつを止めることには成功したんだからな。」
「でも、なんか、腑に落ちない結果です。」
「済んだことだ、いつまでもうじうじしてんじぇねえよ。」
 それでこの件は終わったとばかりに、紫苑は煙草を吹かす。



 「蠱術、ねえ。」紫苑が小さく呟く。
「人面瘡に、蠱毒。館田ってのは、もとは神田だな。呪いを担う、古い一族か。神の領域なんて、巫覡の一族が、大層な銘だな。」
 紫苑は、吐き捨てるように言う。広樹が報酬を払わずに蒸発したことで、彼が相当いらついていることはそこにいる全員が知っているので、誰もそれに対して、何も言わない。
 「で、その霜山朱鳥ってやつには会ってきたのか?」
 しばらくしてから、紫苑が切り出す。
「ええ、でも、何かの冗談だと思ってるみたいでしたよ。失踪者が続出してるって聞いても、何かの勘違いじゃないかって、まあ嫌がらせにしては度が過ぎてますけど、広樹にあれを見せたのは、話題としてのことみたいでしたね。実際、彼女の周りで、それ以外に妙なことはないみたいですし、まだ向こうも動いていないんでしょう。」
 聡がそう言うと、紫苑が明らかな渋顔を作る。
「ふん、魔術師ってのは、誰にも気取られないようにことを運ぶのが基本だ。そんなものを送りつけるのだって、本来の呪いの手順からは逸れている。もう準備万端、残すは最後の一手だけかもしれんぞ。まあそうだった場合、その女の無事は、まああまり期待しない方がいいな。というよりも、すでに後手に回ってるんだ。手の打ちようがない。だいたい、それをお前の見せたのだって、百パーセント罠だ。わざわざ調べるのはばかだな。」
「すいませんね、ばかなもんで。あなたよりはましなつもりですが。」
 そういって、聡は立ち上がった。もう少し調べてみます、という聡に、勝手にしろと、紫苑は顔をそむける。
 「で、それはどっちのつもりなの?」
 聡がいなくなってから、玲が口を開く。
「なんだ、気づいてたんなら言ってやればいいのに、お前も意地っ張りだな。」
 そういう紫苑の声は届いていないようで、玲もまた、立ち上がる。
「なんだ、お前も調べるのか、物好きだねえ、どいつもこいつも。」
 紫苑の言葉を無視して、玲はドアを開く。

 事務所を飛び出した聡は、霜山朱鳥のマンションを目指す。彼女は都市近郊のベッドタウンに部屋を借り、暮らしている。紫苑の事務所からでも一時間とかからない。昨日から二日続けてそこに通うことになった。もしかしたらストーカーと間違われかねないと思いながらも、引き返すには不自然なほど近くまで来てしまった。高校時代、学内でも成績のいいほうだった彼女は地元の国公立大学に合格し進学した。昨日会ったときは就職活動で忙しいと言っていたが、部屋にいるだろうか。大学のシステムについてはよくわからないけど、講義に出ているのかもしれない。そんなことを考えながら玄関のベルを鳴らす。昨日と違ってアポは取っていない。だから、十分予想していたこととはいえ、さすがにここまできてまったく反応がないのは少しばかりショックだ。それだけで、ここまで来た疲れが倍になったような気がする。しかし、時間を見ようと携帯を取り出した聡は、そこでようやくそれを使うことを思い付いた。広樹からもらった連絡先のリストはまだ入れてないが、リダイヤルすれば彼女に繋がるはずだ。そこに電話をかける。すると、トゥルル、という呼び出し音に交じって流行りの音楽が聞こえてくる。中に、いる。思わずドアノブに手をかける。すると、ノブが回り、何の抵抗もなく扉が開いた。確かに、彼女のものと思しき携帯がすぐ足元で音を立てている。そんなもの、誰かがわざとやったとしか思えない。逡巡したが、聡は部屋の中に入り込んだ。
中はもぬけの殻。彼女の姿はおろか、呪術的な痕跡も何一つ見当たらない生活感にあふれた部屋だ。女の子らしい小物が棚を飾っているあたりかわいらしい感じもするけれど、それ以上に脱ぎ捨てられた服や放り出された鞄のほうが目を引く。そういうものを見ると幻滅した気になるのは、男の性というやつだろうか。
そうやって部屋を見渡す聡の目にふと革製の財布が映った。いけないと思いながらも、まあすでにいけないことをしているのだが、それを手にとって開く。現金にカード、それに定期までもが入っている。一緒に入っていた免許証や学生証からして、朱鳥のものに相違ない。しかし問題は、彼女がどこに消えたか、ということだ。財布や携帯を置いていくなんて、普通じゃありえない。おそらくは攫われたのだろう。しかしそこで疑問が残る。財布や携帯が残っていることからして、攫われたのはおそらくこの部屋、なのに、部屋の中には争った形跡が全くない。魔術的なものを使った可能性もあるけれど、朱鳥は元空手部で有段者だ。無抵抗に捕まるとは到底思えない。それに、人一人を運ぶのは容易ではない。エレベーターには防犯カメラが付いているし、しかもここはマンションの八階、階段を使うとなるとかなりの労力がいるし、第一非常用階段は開けると警報が鳴るシステムだ。
それ以上何も考えが浮かばず、仕方がないので部屋を後にしようとした時、突如、携帯が鳴り響いた。電話のかけ主は、玲だ。紫苑からの呼び出しだろうか、そう考えながら電話をとる。でも、紫苑が呼び出しに玲を使うだろうか。
「聡、今、どこにいるの。」
 その声はかなりあわてているよう。
「どこって、その、霜山朱鳥の部屋だ。」
「そう、ちょうどよかった、聡、ちょっと調べてもらいたいんだけど、その部屋に、包丁はある、出刃包丁。」
「包丁、なんでそんなもん。」
「いいからさっさと調べなさいよ。こっちだって急いでんのよ。」
 玲はいつになく慌てているようだ。その調子に気おされて、だまって台所を探す。だが、果物ナイフはあるのに、いくら探してもそれ以外には何も出てこない。そのことを玲に伝えると、電話越しに、そう、と呟く声が聞こえてきた。
「いい、黙って聞いて。登城広樹が殺された。」
 なっ、そんな馬鹿な。そんなはずはない、そんなこと、あるはずがない。大体あいつは友とグルのはず、殺されるなんておかしい。
玲は淡々と続ける。
「場所は彼の部屋、ただあんたの言っていた場所とは違う隠れ家だけどね。死因はたぶん刺殺、死体の近くに出刃包丁が転がってたわ。あの蟲の瓶の裏に発信器と盗聴器が付いてて、たぶんそれで居場所がばれたんでしょうね。やったのはおそらく霜山朱鳥、もちろんあんたの言ってた館田友って人が裏で糸を引いているんでしょうけど。つまり、あの瓶は、呪いというよりは、霜山朱鳥自身を蠱毒に見立てていたのね。とにかく詳しいことは電話じゃ話せないから、一度事務所に戻りましょう。」
 そういって、電話はぶつりと切れた。
広樹が死んだ。そんなはずはない。そんなことはない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。
そう、これはきっと、何かの冗談、玲がからかっているだけなんだ。だけど、玲は冗談なんて言わないことを、聡はすぐに思い出した。

 「じゃあ、この前会った時にまじないを仕掛けておいたのか。」
 聡が聞き返す。相変わらず魔術のことはさっぱりわからない。窓の外には逃げ水が見え、景色が揺らいで見えるけど、室内はクーラーのおかげで常に涼しい。そのおかげか聡の頭もだいぶ冷えていた。
「でもなんで広樹は殺されなきゃならなかったんだ。」
「そんなの、利用価値がなくなったからでしょ。もとから殺すつもりだったんじゃないの。」
「いや、それはないと思う。広樹は館田と仲良かったし、今回の復讐リストからも外されててもいいはずなのに。それに広樹の行動、なんか変だ。依頼の件にしろ、瓶の件にしろ、最初は罠かとも思ったけど、結局何もなかったし。」
「怖気づいたんじゃねえの、それで殺された。」
「怖気づいた、いや、それじゃあなんで俺に直接会ったんだ。あれは谷茂の件が片付いた後だったはずだ。」
 それに、広樹は発信機で居所がばれたって言っていたけど、そもそもなんで瓶に発信器が付いていたんだ。朱鳥の動きを監視するため、いや違う。大体あんなものもらったらすぐにでも捨てるはず、広樹の手に渡ったのだって奇跡みたいなものだ。それに発信器なんてつけなくても居場所はわかっている。あの程度で姿をくらますとは思えないし、もしそうだとしても瓶を持っていくはずがない。もし捨てたかどうか確かめるためだとしても、それならどちらか一方で済むはず。つける意味なんてなにもないじゃないか。でも、実際にはそれが役に立っている。それを広樹が持ったから。いや、広樹にそれを持たせるのがもともと目的だったとしたら。それなら、意味はある。でも、そもそも広樹はなんであの瓶を俺に見せたんだ。始めは罠かと思ったけど、そうじゃなかった。何か、別の裏がある。いや、そもそも裏なんてなかったのだとしたら、本当に、こっちに情報を提供するために瓶を見せたんだとしたら。
「広樹が、館田を裏切っていたということは。」
 そう、それならすべて納得がいく。始めは脅されてやって、でも結局はいけないって考えて、止めようとしたんだとしたら。
「でもだったら、なんで俺たちに直接助けを求めなかったんだ。隠れ家に隠れるくらいだから、もうとっくに身の危険は感じてたはずだろ。」
 命が指摘する。そう、確かにそうだ。裏切りがばれたのなら、こちら側に付くしかない。そうすればきっと、殺されずに済んだはずだ。だけど、広樹の性格からして、
「実績がなかったからだろ。広樹はかなり結果主義に寄ってたところがあったから、俺たちのこと、そこまで信用できなかったんだ。谷茂の件だって、止めたっていっても結局あれ谷茂死んでるし、それも人面瘡にやられてたんだから、向こうはしくじったって判断したんだろうな。でも結局殺されて手がかりなし、それで結局振り出しだ。」
 聡は苦々しく吐き捨てる。
「ところがどっこい、敵のアジトがわかったぜ。」
 命が誇らしげに言った。えっ、と思わず声が漏れる。
「聡、信じたいからって、手抜きしすぎなんだよ。まああの時は登城の噂だけだったから仕方ないかもしれないけどさ。ほんとは俺、その館田ってやつが黒幕かどうかも疑ってたんだ。お前はそれを宣戦布告として受け取って、館田が黒だって信じてたみたいだけど、俺はそれも罠じゃないかって考えてた。だから本当は言わずにおこうと思ったんだけど、今の話からすると、どうやら登城の言っていたことは本当らしいからな。まあ宣戦布告というよりは内部告発に近いんだろうけど。俺は今日一日かけて、例の白矢建設について調べてたんだけどよ、ちょっと叩いただけで、ボロボロ出てきたぜ。あの会社、社長の白矢清路はじめ上役の大半が身元不明、経歴不詳だ。しかもあの会社、地上二十三階、地下四階なんだが、窓の数が全部で二十四段あったんだ。それでさらに詳しく調べてみると、どうやら地下も五階あるらしい。秘密の部屋、ってやつだろうな。ついでに、館田なんだが、あいつ幼いころに両親が早世して、親戚に引き取られてた。でもその親戚から虐待を受けて、児童養護施設に入れられたんだ。それでその施設に行ってみたら、先月火事で全焼していた。館田は施設内でもいじめられていたみたいだな。ついでにその親戚というのも、先月に失踪している。間違いなく黒だよ、あいつは。」
 そう言って命は時計を見上げる。午後十一時十分。
「今から行ってみるか、その会社に。」

 オフィス街のビル群、件のビルは、大通りに面した街角に聳えている。まだ人が残っているようで、いくつかのフロアの窓から明かりが漏れている。なるほど確かに、この窓の数を数えようなどというものはいまい。最後の明かりが消え、それからしばらくして、残業をしていたと思しき若いOLがつかつかとでてきた。それを見届けてから、中へと入る。
「じゃあ、俺は上、聡と玲は下な。」
 そういった命は、そそくさとエレベーターに乗り込み、二人は反論することすらできなかった。仕方がないので別のエレベーターに乗り込む。
「こういうのって、全部の階を押すと仕掛けが動いたりするよな。」
 そういうなり聡は、ボタンを上から順になぞる。
「あのねえ、エレベーターは四つあるのよ。全部が繋がってるとは限らないし、それに上に行くかもしれないじゃない。」
 玲はすでにあきれ顔だ。だけど聡はすでにすべてのボタンを押し終え、ドアも閉まりかけている。
ふわりという独特の感触がして、鉄の箱は下へと降っていく。
地下一階、二階、三階、四階。チン、という到着の音がして、ドアが開き、閉じ、そしてまた下降し、それが繰り返されて、四回目、しかしそれ以上、エレベーターが動くことはなかった。
「うっとうしいわねえ、ていうか大体、正規のルートで行く必要あるの。」
 玲が恨めしげにつぶやく。

 エレベーターは当然二十三階で止まったので、上に抜け出し、ワイヤーを伝ってよじ登る。これでも案外いけるものだ。上を見上げると、少し先にもう一つ鉄扉が見える。命はそれを通り過ぎ、さらに上へとよじ登る。そうしてあとは、ワイヤーを揺らし、その反動を利用して扉の向こうに飛び込んだ。そこは、赤い絨毯が敷き詰められ、奥のほうに高そうな机と黒革の椅子が置いてある、まさしく社長室といった感じの部屋だ。もちろん正規の社長室は別のところ、この一つ下の階にある。部屋の両脇にはそれぞれ四つずつ扉が並んでいる。命はそのうち、一番手近にある扉をくぐり、中へと入る。
目を疑うような光景、部屋は暗く、何かよくわからない器具が散乱している。そして部屋の中央には、ひときわ大きな、それこそ電話ボックスぐらいはあるんじゃないかという円柱型の瓶が、我が物顔で聳えている。その瓶の中はよくわからない色の液体で満たされていて、理科室の前に遭ったホルマリン漬けを連想された。一人の男が、昏々と、死んだように浮かんでいた。その顔は、つい先ほども見た顔、ついさっき、必死になって調べていた男の一人の顔だ。
命はその顔めがけて飛びあがる。その右腕には短刀が握られていた。瓶には触れない、液体にも触れない。ただ、刃がその男の首だけを的確に切り裂く。傷口がバクリと割れ、液体に赤茶色のシミが広がる。それと同時に、部屋の外で何者かが動く気配がした。
命はそのまま、すぐ隣の部屋に移動する。そこもまた同様の部屋だ。ただ中央の瓶は中身がなく、外への扉が開け放されていた。そこから、一瞬人影が見える。どれも、先ほど写真で見た顔だ。
 床から飛び出し、同時に目の前の男を切る。一人、二人、三人。闇の中、白い線が躍る。そこでようやく向こうが反応したのか、一人が刀を真横に振るう。それを抜け、一度敵と距離をとる。
「すごいな、物質を透過する能力か。しかも任意の物質のみを透過し、その上自身に触れたものも能力の延長ときている。惜しい、もう少し順序が違っていたら、私のものになっていたかもしれないのにな。」
 興奮した声が聞こえた。声の主をたどると、奥の机に寄り掛かって、男が立っている。
「あんたが、白矢清路。」
「ほう、名乗った覚えはないんだが、よく調べているねえ、関心、関心。」
 白矢はおどけたように笑ってみせる。両端の唇を吊り上げる、不気味な笑い、それだけで寒気がする。
「あんたの目的は何。状況からして、弟子、というより使い魔の作成みたいだけど、それにしちゃ回りくどいんじゃないの。」
「ご名答、確かにこれは、使い魔作成さ。そして君の言うとおり、かなり回り道をしている。そのほうが時間がかかるからね。なに、単なる暇つぶしさ。君だって、ゲームとかやるだろう、それと同じようなものだよ。おっと、外道だなんて思わないでくれよ、君も子供のころ、蟻の解体とかして遊ばなかったかい、あれと同じようなものさ。こうも長く生きてると、時々童心に帰りたくなるものなのさ。まあそれが自分の役にも立っているんだから、家畜を飼うことのほうが近いかもしれないけどね。」
 白矢の言葉は飄々としていて、紫苑しか知らない命には、それがおよそ魔術師には見えなかった。ただ、魔術師というのはやはりほかの人間を見下す傾向が強いようだ。もっとも、紫苑の場合には無関心といったほうが正しいかもしれないが。
「そう、じゃあんたをここで殺しても、文句は言わないな。」
 命はもう一度、切っ先を白矢に向ける。
「ああ言わないよ、だけど私は戦わない、平和主義者だからね。だから君の相手は彼らに任せて、邪魔者はとっとと退散しよう。」
 言葉と同時に白矢は後ろに倒れる。先ほどまで机のあった場所は、いつの間にか大きな空洞に変わっていた。
舌打ちをして、命は駆け出す。道を塞ぐ男たちはすり抜け、そのまま穴へと飛び込んだ。

 ドオオオンという音と、土煙を上げて地下四階の床が陥落する。確かに、こうしたほうがよっぽど早い。ただ、瓦礫と一緒に自分たちも落とすあたり、玲の無鉄砲さが恨めしい。結果として飛び降りる手間は省けたわけだけど、土埃がたまらない。
果たしてそれも収まると、部屋の内部がある程度見えるようになった。
地下五階には明かりがなく、といってもついてないだけかもしれないけど、上の階の蛍光灯の光が降り注ぐ程度、なので部屋の全体像が見えるはずもない。ただ、自分たちの周りで何かが蠢いている、それだけはわかる。何十対もの目が、こちらに向いている。それらはただ、こちらを見つめ、それ以上は何もしない。
やがて眼が暗闇に慣れてくると、それらの目の持ち主が犬だとわかる。鎖で壁に繋がれた、何十匹もの犬、それが皆一様に、おびえたようにこちらを見つめている。種類はわからないけれど、一様にやせ細り、傷だらけだ。
「なに、今度は犬神でも作ろうっていうの。」
 玲が誰にともなくつぶやく。ただ、それに答える声がする。
「犬神じゃないわ、それは、私のペットなの。」
 言葉で振り返ると、光で目がくらむ。思い返してみると、チンというエレベーターの到着する音が聞こえたかもしれない。開け放たれた光のゲートを、一人の若い女がくぐる。その顔は、いちばん最後にビルから出てきた若いOLのものだ。油断していた。館田は男で、白矢も男、ついでに命の調べた怪しい重役たちもみな男だったから、敵は男ばかりと思っていた。ビルに入るのを、もう少し間をおいてからにするべきだった、でも、もう遅い。女が手招きをすると、もぞもぞと、暗がりから巨大な蜈蚣が現れ、女の傍らに寄った。
「アツシ、おいで。」
 次いで女が叫ぶ。どこかで聞いた名前だ。ただ、どこだったのかが思い出せない。
後ろで、ガチャリという音が聞こえ、振り返ると、一人の女が奥の扉から出てきた。
「いいアツシ、あなたはそっちの男のほうを抑えて。いい、抑えるだけ、殺さないでね。その間に、私は女のほうを殺すから。」
 アツシと呼ばれた、霜山朱鳥という女はこくんと頷く。
 ガンッ。音とともに、その女によって組み伏せられた。女との距離は、五メートルはあったはずなのに、状況を理解するよりも早く、女に押さえつけられる。恐ろしく速い、しかもとんでもない馬鹿力だ。喉を掴まれ、意識が揺らぐ。それでも何とか状況がわからないかと、目をぐるぐると回す。
どうやら決着は同時に着いたようだ。OL姿の女は床に膝をつき、あたりに卑猥な色の液体とどす黒い欠片が散乱している。それでも朱鳥は掴んだ手を緩めない。そればかりか、二人のほうには目もくれない。
バキッ、という音がして、朱鳥が横っ飛びに吹っ飛んだ。その一撃で内蔵のいくつかをつぶされたのか、口から血を吐く。すでに立ち上がるだけの力もないのか、そのまま地面に崩れ落ちた。もう、そうは持つまい。がはがはとせき込み、よろけながら立ち上がる。玲はすでに女を見下ろしていた。
「あなた、あの女をアラギアツシって言ってたけど、どういうこと。」
 アラギアツシ、そう、新城敦志だ。館田と同時期に会社を辞めた男。
「そういうことよ。」
 女がかすれた声で言う。
「私は、敦志のことが好きだったの、だけど彼はそれを理解してはくれなかった。ふざけるなってののしられたわ。いつもそうだった、家でも施設でも学校でも、私のことを気持ち悪いって。だけどその時はまだ、何とかなった。明るく振舞って、何とかそれでやり過ごせていた。だけど会社に入社して、敦志と出会って、彼のことが好きになって、それですべてが変わってしまった。なのに、それなのに、敦志は私のこと全然わかってくれなかった、裏切られたのよ。だから、敦志をああいう風にしたの。私と同じようになれば、きっと私のこと理解してくれるって、そう信じてた。だけど脳の移植に失敗して、言葉が出なくなっちゃった。脳の移植は何度もやってたんだけど、言葉が出せるようにしようとしたのは今回が初めてだったから、これまでは声帯の関係でどうしてもしゃべれなかったから、ミスに気付かなかったのね。」
 敦志を自分と同じようにした、そして、家で、施設で、学校でいじめられ、それでも明るく振舞っていた。それはすべて符合する。でも、それ以上に、女が口にした、その言葉、脳の移植は何度もやった、でも声帯の関係でしゃべれない。声帯のせいでしゃべれないということは、脳そのものには会話能力があったということだ。会話能力のある脳を、しゃべれないように移植。はっとしたように、聡はあたりを見回す。部屋の端には、鎖で繋がれた何十の犬がこちらを凝視している。その体はやせ細り、傷だらけだ。
「館田、あの犬たちが、お前の攫った者たち、お前の復讐の対象か。」
 聡が問う。館田はええ、とうなずき、同時に吐血するとそれ以上動かなくなった。玲の力は強烈だ。蜈蚣が盾となったおかげで効果が和らいでいたが、それでも時間の問題、もう助かる見込みはないだろう。玲は元から殺す気であった、そしておそらく命も。魔術師の世界というのは、そういうものだ。魔術師というのは、世界をそういった冷酷な目で見なければならない。いや、魔術師の世界に浸れば、誰しもがそういう目になる。だけれど聡は、魔術師ではない、魔術師の世界に足こそ踏み入れたものの、いまだ境界に存在している。それは非常に不安定で、脆く、崩れやすい。
「こいつら、どうする。」
 玲が問うた。こいつらというのは、彼らを囲う者たちのことである。玲が判断するならば、間違いなくこの場で殺すだろう。彼らを戻す方法などすでになく、彼らが人へと戻ることはかなわない。しかし、かといって彼らを外へと放すわけにもいかない。人の知能を持った犬など、表に出すわけにはいかないのだ。しかし玲は、あえてその判断を聡に預けた。その判断が自分の中で大きな意味を持つことを、聡はすでに知っている。ただ殺すなとだけ言うことは許されない、それは問題の先送りに過ぎないからだ。
聡はうずくまり、頭を抱え、また自らの手を見つめ、そして彼らを見つめ、下を向く。おそらく聡の頭の中では、あらゆる思索が渦を巻いているのだろう。何とかして彼らを救う方法を、それが見つけられなければ、彼らを殺す決断をしなければならない。しかしそれは、何かを待っているようにも見えた。
その様子を眺める玲の隣に、命が音もなく表れる。二人の会話が、聡の耳にも届く。
「それで、その男どうなったの。」
「いや、残念ながら逃がしちまった。それで仕方ないから、上で残りを片づけてきたんだ。それでこっちはどういう状況だ。」
 玲が事のあらましを説明する、二人はそれを、黙って聞いた。
 命は、ゆっくりと歩きだす。その姿は見えなかったが、聡にもそのことはわかった。ゴトリ、と音がする。その音がなんなのか、聡はそれよりも以前に理解していた気がした。頭を上げた聡の目に映ったのは、まさに惨劇そのもの。命はナイフ片手に彼らを片っ端から切り殺す。彼らは縮こまり、逃げ出そうとするが、鎖で繋がれているのでそれはかなわない。それを命が、一つずつつぶしていく。声一つ上がらない、静かな惨劇だ。そういえば、彼らも声が出せないんだと、聡は思い至った。
「まったく、命は聡に甘いんだから。」
 玲がつぶやく。そう、それは聡に対する情けだ。そして聡もまた、それを待っていた。誰かが救いの手を差し伸べてくれることを。

 「結局、館田の人生ってなんだったんだろうな。あいつの人生の歯車は、どこもかしこもおかしかった。もし両親が早死にしなければ、もし障害を持って生まれてこなかったら、もし別の人間に預けられていたら、もし白矢に出会わなかったら、何か一つでもなかったら、こんなことにはならなかったんじゃないかな。たくさんの人に疎まれ、多くの人を傷つけた悲運の人生は、何か一つでも違ってたら、回避できたんじゃないかな。」
 聡はふと浮かんだその疑問を二人にぶつけてみた。
「ふん、それを悲運の人生っていうんなら、そんなもん世の中にごまんとあるぞ。それにそれが幸運か不幸かなんて、本人の決めるこった。俺たちがわざわざ口出しすることじゃねえよ。それでもまだ何か言いたいんだったら、自分の足で立てるようになってからにしろ。」
 聡の疑問を、命はあっさりと切り捨てた。
 深夜というだけあって人どおりは少なくなっているものの、街の明かりは煌々とともり、さもしさを忘れさせる。不夜城めいたその光に圧倒され、星の光は天に届かない。そのもとに住まうほとんどのものは、この惨劇のことなど露も知らないのだろう。悲痛な叫びは、一介の虫のさざめきと相違なく世界に霧散していく。三人もまた、それぞれの家路に分かれ、去っていく。家に帰ればすぐにでも眠りにつくのだろう。そうして明日は、何事もなかったかのように始まる。

 

最終更新:2012年11月16日 02:12