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騙し絵小説について

2011年06月12日(日)01時26分 - K

 

Get/Lost

 世界を手に入れた男の話をしよう。
 その男は幼いころから地図が好きだった。地元の地図から世界地図まで様々な縮尺のものを、日がな一日飽きもせずに見つめていた。行ったこともない土地を地図上で冒険することで、まるで本当にその土地に旅したような気分になれた。路線図や旅行ガイドなどももちろん好きだったので、どのようにその土地まで行くか、何をお土産に買って帰るかまで考えたりしていた。
 一人で外出をするようになると、近所を歩きながら、家の周りの地図を自作していった。そして家に帰って、自分の移動経路を地図の上で際限しようとして見るのだ。少し方向音痴の気があったので、しょっちゅう迷子になってしまった男は、地図の上でもしばしば迷子になっていたが、地図の完成とともに、迷子になってもそれを頼りに家に帰ることができるようになっていった。このようにして男の地図に対する心酔はますます強くなっていった。
 理想の地図にするために、男はその地図に様々な付加情報を書きくわえていった。それが次第に複雑になるにつれ、このやり方では読みにくくなってしまうことに気付いたので、今度は目的別に何枚も地図を作ることを覚えた。そして今まで作ったものをリュックサックに詰め、ノートと筆記具を手に、男はまた街をすみからすみまで調べ尽くそうとする。
 次第に男は地図が道順以上のものを語りかけてくることに気付きはじめた。地図から、街の中の人や車の移動、商業や工業のための利便性、治安の良しあし、そして街が今後どう発展するのかどう衰退するのかを読み取ることが出来た。男は、今現在の街がどうしてこのような形になったのかを知ろうと古地図を集めはじめ、街の歴史を調べ始めた。一時期は風水にも接近した。「地理」という言葉がもともと「風水」の別名であったことから見たら自然なことだったのだろう。しかし男は、最終的には古来の考え方に敬意を持ちながらも、自らの道を科学的探究に定め、神秘主義からは距離をとっていった。
 長じて男は、特に何かの決心をするでもなく、自然な成り行きとして学者になっていた。迷うことなく大学で地理学を専攻し、人文科学自然科学の両方からアプローチした。そんな学生時代、趣味と実益を兼ねて旅行サークルに在籍した男は、最初の頃こそ専門知識があり頼りになると思われていたものの、その狂的な完璧主義と学問的高みへの執着から次第に孤立していってしまった。結果一人旅が多くなっていったが、男はそのことを悩むこともなかった。自分の仕事に役に立つかと思ってサークルに入ってみたものの、中途半端な道連れは邪魔になるだけだった。だから、最後まで彼をかばってくれた女性が自分についてこようとしたときには、彼は自分からそれを断ったのだ。だから、彼女が彼のもとを離れていった時には、少し悲しそうだったが、これは当然でそして仕方のないことだと彼はあきらめるしかなかった。男は自分の仕事にもどり、何かを振り払うように前にもましてそれに打ち込むと、そのようなことも直に忘れてしまった。
 それから数年がたった。男は大学院に進み、博士号をとって幾つかの大学を渡り歩いた。優秀な研究者である男は引く手あまたであった。世界中のいくつもの国に居を移す間に、万巻の書を読破し万里の道を踏破した男の地図は、ますます完全なものになっていった。男はこれまで集めたデータを男はコンピュータ上に集め、様々な縮尺で様々な角度から様々な観点により同時に重ね合わせながら見ることができる物にしていった。それにより、一見関係のないデータの間に明確な統計的相関があることが明らかになったことも多々あった。さらに男の地図には時間的情報も入っていって、情報が残っていたかぎりは過去の地形や街並みも再現でき、残っていない部分はそれ以外からできるかぎり補完した。そしてその応用により未来の予想すら立てることが出来た。完璧を期した男は、その膨大な学問的実績を背景にして与えられた膨大な予算と権限を使い、街に住む人々の生活すら、地図の中に反映させていった。男はそれを見て一人悦にいるのであった。
 男の仕事は完成に近づいていった。今では一つの研究所に腰を落ち着けた男はしかし、その頃から仕事が面白くなくなってきたことを感じはじめていた。あれほど熱心に打ちこんでいた、物ごころ付いたころから絶え間なくやってきたこの仕事が。そんなとき、男は幼いころ初めて自作した地図を取り出し、未だに覚えているあの頃の冒険の道筋を辿りなおすのだ。そして自分が迷ってしまった部分まで来るたびに、懐かしそうに笑う。もう、道に迷うなんて十年以上経験していないのだ。それどころかここ数年は研究室にこもりきりだ。あまりに完全な地図が手元にあるために、行きたい場所があってもその場所に行く必要すらない。それどころか男はときどき、自分が実際にこの世界を歩いているのか、自分の作った地図の中を歩いているのか分からなくなっている。
 もしかしたら、これは新種の道の迷い方なのではないかと、男は思ったりした。
 そうして男の念願であった完全な世界地図が完成した。その地図の中には世界の中にある全てがあった。そしてその地図上にある全てのものが、世界の同じ場所に確かにあるのであった。すべての山、すべての川、すべての道、すべての家、すべての記念物、すべての商店、そしてすべての人々。その地図の中には、この世界中のすべての場所で繰り広げられるすべての生活が、同様に繰り広げられていた。たわいもない喜劇と悲劇。出会いと別れ。死、そして誕生。
 男は発表の前に、これが自分ひとりだけのおもちゃであるうちに充分遊んでおこうと思って、ちょっとしたことを思いついた。自分を探してみようと思ったのだ。世界中すべての人間が今この瞬間に生まれた赤ん坊まで含めて、すべて入っているデータベースに男は自分の名前やその他の要素を入力して、検索を実行した。するとその地図は、地球の表面からある一点をすぐに選び出す。そこは男の母校の大学の近くだった。
 男はいぶかしんだ。そこは随分前に後にした土地であって、今彼が住んでいる土地ではなかった。
 何かの間違いだろうと思って詳細表示に変えてみると、やはりどうもおかしい。その男はその土地で結婚し子どもまでいるようだった。当の彼は結婚などしていないし、大学での初恋以外恋らしい恋すらしたことがなかった。
 そこで男は気が付いた。その画面に表示された男の妻の名前、それこそ先ほど十年以上ぶりに男が思い出した、その女性の名前であることに。
 男はキーボードを叩いてその夫婦の詳細な情報を引き出す。男の職歴は平凡なサラリーマンだ。しかし彼は大学に入るまではどうやら天才児であったらしい。しかし大学ではそれほど目立った成績を残せずに、卒業後大学時代の旅行サークルで出会った女性と結婚する。そしてその女性の大学時代の情報は男の初恋の女性のものと全く同じであった。
 男は思い出そうとする。自分も在籍したはずのこのサークルにこのような男は存在したか。男の人並み外れた記憶力はそれにはっきりとNOと言う。たった一つの可能性を除いては。それはこの画面上に表示された平凡な男が彼自身であるという可能性だ。
 確かにこの男と彼の大学以前までの人生はありえないほど同じだ。しかし大学以降は全くと言っていいほど似ていない。だからこれは自分であるはずがない、と男は考えた。そのために男は大学を卒業してからの自分の職歴を思い出そうとした。大学院生時代、ポスドク時代、研究者になりたてのころ。
 しかし、ある時期から男の記憶はあやふやになる。それ以前のことなら思い出せるのに、ある時期から自分がどこで何をやっていたのかはっきりしない。
 そして男はあることに気付く。自分が今いる研究所は一体全体この世界のどこの何という研究所なのだ。今自分はどこに住んでいてどうやってここに通っているのか。どうしてこの研究室には窓がないのか。この壁の向こう、この建物の外にはどんな風景が広がっているのか。気候は。風土は。文化は。言語は。
 男はどうしようもなく思考の迷路の中に引きずり込まれるように迷い込んでいくのを感じた。しかもそこから脱出するための地図はないのだ。
 この男、このあの女性と幸せそうな家庭を築いているこの男は、どうして大学に入るまでの野心を捨ててしまったのであろうか。それもこの完璧な地図にはちゃんと書いてある。それは完璧な地図など作ることが不可能であることに気付いたからだ。なぜなら完璧な地図は当然その地図自体も中に含んでいなくてはならず、そうすればその地図の中の地図の中にはやはりその地図が入っていなくてはならず、そうしてそれは無限に続く。そんなことは不合理なので、完璧な地図などはそもそも無理なものなのだ、とこの男は気付いたのだ。だから飽くなき学問的野心を捨て、地上の幸福を求めたのだ。
 男は呼吸を整えて必死に考えをまとめようとした。これではまだ論理的に言って完璧な地図の不可能性は証明されていないはずだ。その証拠に現に目の前のそれがあるじゃないか。この完全な、完璧な、まるで世界そのもののようだ。
 男は安心して、思わず笑ってしまった。簡単なことだ。この地図自体に、その地図のなかで地図がどこにあるのかを調べさせればいい。そうすれば自分がどこにいるのか分かるだろう。男はキーボードを叩いていく。しかしその指は止まってしまう。男は自分の目を、画面上に表示された「検索結果0」からそらす事が出来ない。
 おかしい。これはどう考えてもおかしい。この世界地図は完璧なはずだ。世界にあるものはすべてあり、ここにあるものは必ず世界にもある、まるで世界のようなこの世界地図。ここにないということはつまり、それは世界にはないということなのだ。
 そこで男は気付いた。真相はいつだって簡単だ。男は理解した。どうしてここが世界のどこなのか分からないのか。
 当然だ。
 ここは世界の中ではないのだ。
 世界は男の目の前にあった。
 まるで世界自体であるような世界地図、のように見える本物の世界だ。
 あとから考えたら当たり前のことだ。完璧な世界地図とは、世界自体でしかあり得ないのだ。
 それが目の前にあるということは、ここは世界の中ではないのだ。
 ということは、男は考えた、自分は本当の自分ではないのだ。本当の自分はここにはおらず、あたりまえなこととして自分の世界の中にちゃんといて、そして人並みの幸せを掴むことが出来たのだ。世界がそう言っているのだから、そうに決まっているのだ。
 これこそハッピーエンドというものだ、と男は涙を流しながら大笑いした。
 これが世界を失った男の物語、私が語ろうとしたまさにそのものだ。
(終)

騙し絵とは何だろうか。
結論から言うと、騙し絵は相反する主張をする部分をそれぞれに連続する多義的な部分でつないだものだ(もちろんこれ以外の騙し絵もたくさんあるが)。だから小説においても同じことをすれば「騙し絵小説」が書ける。
典型的な例は次の物だ。
http://livedoor.2.blogimg.jp/kensaku_gokuraku/imgs/0/a/0ae373a5.gif
ここでは真ん中の6本の線が、なんの輪郭線なのかそれだけでは全く分からない「多義的な部分」であり、下の部分がこれは三本の円柱だと主張し、上の部分がこれは二本の四角柱だと主張する。
同じように小説においては冒頭もしくは冒頭付近において「Aである」という主張を持ちこむ。そののち「Aである」とも「Bである」とも読める物をつなげる。ここでAとBとは両立しない物にしておく必要がある。そして最後に「Bである」という主張を盛り込んで最初の部分をひっくり返せば完成である。ね、簡単でしょう?
ここが重要なのは、見ている物にはどちらかが正解なのだと決定することはできないことである。
ここがある種の引っ掛け問題を含んだクイズ的な絵、小説で言うなら探偵小説との違いなのだ。これらの物の構造は「Aだと思ったらBだった」であり、基本的に正解がある(さらに言うなら探偵小説がフェアであると主張するためには「Aだなんて一言も言っていないよ」と後で言えるようにしておく必要があるだろう)。しかし騙し絵及び騙し絵的小説においては結局読者は二つの正解の間に宙づりにされて答えには辿りつけない。
探偵小説と騙し絵は両方とも読者を騙すものだが、その騙し方はかなり違う。探偵小説は「残念、正解はこっちだよ!」という騙し方だが、騙し絵は「残念、正解なんてないんだよ!」という騙し方だ。そういう意味で騙し絵の方がひねくれ度が上がっている。
そもそも論でいうならば、そもそも小説は本当のことを書く必要なんかないわけだから、解釈が一つに定まる必要もないし、正解がなくちゃいけないわけではない。しかし僕らは自然に正解があると思って読むし、そう思わないと作品になかなか入り込めない。この点探偵小説は安心だ。読者と作者の間に「真実はいるも一つ!」というルールがいつもある状態だからだ。それに対して騙し絵作者の立場は危うい。彼は正解のないものを、途中までさも正解があるもののように売りつけなくてはいけない。でなくては誰も真面目に相手などしてくれないだろう。
これが探偵小説家が割合リアリズムに気を使わなくてもやっていける割に、騙し絵作者(エッシャー、マグリッド)などが手法において徹底的なリアリストである理由だろう。彼らの絵を見るとき、僕らは彼らの絵に正解など無いことをすでに知っている。それでも彼らの呵責ないリアリズムが、僕らの目をして、僕らの脳をして、正解を求めずにはいられなくする。それによって僕らは、正解がないことをすでに知っている絵に正解がないことを気付くことにより、何回でも眩暈を感じることが出来るのだ。
だから、騙し絵小説を書こうと思っている人は、徹底的なリアリズム描写を鍛えるべきだ。僕にはそのような技術はないから、ここで騙し絵小説の例として出している二つの例も、習作以上の物ではない。より完成度の高い騙し絵小説を書くための参考にしていただければ幸いである(なお後ろの小説は2007年に書いたものの再upである)。

一人だけいる部屋

 窓がひとつしかない、どちらかといえば狭い部屋に男が一人いる。たいしたものは何もない部屋だ。部屋はカーテンで二つに仕切られていて、カーテンの男のいる側には椅子が二つ置いてある。その椅子のひとつが机と向かい合っていて、それに男は座っている。そこからでは、カーテンの向こう側は、まったく見えない。机の上で男は、何か書き物をしている。カルテか何かのようなものに、記号や外国語のようなものを書いているようだ。男は白衣を着込んでいる。男は、医者か何かのようだ。男が座っている椅子は背もたれもない、単なる四脚の椅子だが、もうひとつの椅子は背もたれもやわらかそうなクッションもあり、また背もたれを倒して寝椅子にできる、割と豪華なつくりのものだ。催眠療法などに使う椅子だ。するとここは精神科の診療室なのだろうか。それにしては壁や天井などに清潔さが欠けるようにも見える。カーテンの向こう側には、誰の気配も感じられない。
 男は無精ひげを生やし、髪の毛はぼさぼさだ。白衣の下に来ているのはどうやらTシャツとジーンズのようだ。カルテに一心に何かを書き込みながら、何かをぶつぶつとつぶやいている。その目はらんらんと輝いている。
 どうやら書き終わったようだ。男は顔を上げる。
 
 
 「ふうっ」
 私はカルテを書き終わって、少し息をついた。ちょっと疲れてしまったようだ。メンタルクリニックをはじめたばかりのころは、なかなか患者が来なくてやきもきしたものだが、最近はだんだん忙しくなってきて、休む時間がなくなってきたのは大変だけど、文句は言えない。暇で暇で気が狂いそうなのよりずっとましだ。今のところ、忙しくて気が狂いそうなほどではない。精神科医が気が狂うだの、気楽に使うのは少々不謹慎だろうか。しかし、まあそうめったに重症なやつは来ない。大体が、ちょっとねじが緩んだ程度で、ねじがぶっ飛んでしまったやつはそんなにいない。実際そんなやつらが大挙して押し寄せたら、それこそ私が参っちまう。この商売で成功するコツは、精神科医をカウンセラーかなにかと勘違いしている若い女を呼び寄せて、害のない薬を与えることだ、という話もある。
 しかし、学者としての好奇心は今も持ち合わせている。重病患者を診察するときには、もしかしたら何か新しい発見があるのではないかと、今でも少しは期待している。しかし経験から言うと、大概の患者はありきたりだ。パターンどおりの妄想をパターンどおりに披露してくれるのが、ほとんどだ。狂気にたいしてロマンチックな期待を持つのは間違いで、人間なんてのは実際そんなに個性的なものではない。
 でもやはり、重病患者には興味がそそられる。しかし重病患者を診ることには危険が付きまとう。彼らは、自分の周りの世界を、すべて彼らの妄想に当てはめて理解する。彼らの妄想にうまく適合しない部分は感動的なほど見事に無視する。そして新たに登場した状況に対して、妄想はそこから取捨選択しながら変化していく。そしてもちろん、医者である私もその妄想の中に組み込まれてしまう。ある患者は、私を神か何かのように信頼し私に任せておけばすべてがうまくいくという、新興宗教のようなことを考える。また別の患者は、私を悪の組織の手先で、この世界を支配しようとする陰謀の片棒を担いでいるのだと信じるのだ。またある患者は、一所懸命になって、自分の妄想を私に納得させようとする。そのとき気をつけるのが、あまり親身にならないことだ。医者のほうが患者に感情移入しすぎると、患者の世界に巻き込まれ、妄想を共有する羽目になるかもしれない。患者とは一定の距離をとること、これが原則だ。それでもやはり、患者の説に魅力を感じてしまったりする。こうして一人椅子に座っていても、この自分の見ている世界が実態のあるものなのかどうか心配に思え、何だが気持ちの悪い浮遊感を感じてしまったりする。自分が医者だというのは単なる私の妄想ではないのか。ここは診察室でもなんでもなく、孤独な男の一人住まいで、そこで私は、日がな一日一人芝居をしているのではないのだろうか。
 私はカーテンを開けた。そこに待合用の長いすに一人の男が座っていた。私は、思いに沈んでいたため、次の患者がいることをうっかり失念していたのだ。私は気を取り直して、その男に言った。
 「すいません、お待たせしました、お入りください。」
 「よろしくお願いします」
 男は入ってきた。
 「その椅子におかけしてください。はい、どうぞリラックスしてください」
 男を患者用の椅子にかけさせ、私はそれに向かい合うように座る。はじめに名前などを確認してから、診察に入った。
 「それで、今日は、どのようなご用件で……」
 「それがですね、あのう……」
 「どうぞ、ご遠慮なさらずに。軽い悩み事でも何でもおっしゃってください」
 こちらとしては、ただ単に、おし黙られるのが一番厄介なだけなのだ。
 「はい、あの」
 「はい、なんですか」
 「それが、最近なんだか周りのものが変な風に見えてしまうのです」
 「変な風といいますと、具体的にはどのように」
 私は、実に興味深そうに続きを促す。診療で最初にやることは医者と患者の間に信頼関係を気づくことだ。こういう場所へ来る患者の中には、今まで誰にも相談できなかったり、相談してもまじめに取り合ってもらえなかったりしてきた人たちもいる。そのような人たちに、ああ、この先生は違う、私の話をちゃんと聞いてくれる、と思わせるのだ。
 「まるですべてが、偽物のように見えるのです」
 割とありふれた話である。しかし、またか、という風な顔は決してしてはいけない。あくまで親身になって相手の話を聞いている振りをしなければいけない。
 「偽物、といいますと?」
 「つまり、現実ではないといいましょうか、夢とか、または幻とか、つまりそのような……」
 「実体のないようなものだと」
 このとき医者はいきなり患者の言うことを否定したりはしない。そんなことをしたら患者はこう思うだろう。結局この医者もほかのやつらと一緒だ。私の話をまじめに考えていない。だから医者はまず、疑っているわけではないことを示すためにこう聞く。
 「それはたとえば、どのようなときに、そんな風になりますか」
 「別に決まったときがあるわけではなくて、日常生活をしているときでも、何か仕事をしているときでも、関係なしに、そうなります」
 「何か前触れのようなものは」
 「特に何も。何の前触れもなく突然来ます」
 「最近、何か日常生活で変わったことはありましたか」
 「いや、別に何もありませんでしたけど……」
 「なるほど、ふんふん」
 医者が患者の話を聞いてこのように何か考え始めると患者はこう期待する。今までの話で何かわかるのだろうか。もしわかるのなら、今まで誰にも話さなかった、この悩みも解決するのだろうか。この先生なら、信頼してもいいのかもしれない。
 医者は言う。
 「離人症、と呼ばれる症状とよく似ていますね」
 「離人症、ですか」
 すると、こう思う。離人症か、なるほど私の症状は離人症だったのか。いや、まだ喜ぶには早すぎるのだが、なんだか少しだけ安心するような気がする。こんなことならもう少し早くここに来ておけばよかったのではないだろうか。
 さらに、医者はこう言う。
 「もう少し、具体的な話も聞かせてください。偽物という言葉の意味をもうちょっと詳しく話してください。つまり、どのように偽物なのか」
 「と言いますと」
 「えっとですね、たとえばその、偽物と言うからには、どこか別の場所に本物はあるのかどうか、とか、そのようなことをお話ください」
 考えたこともないことを聞くんだな、と患者は考える。しかし言われてみればその通りで、もしこの世界が偽物だったら、どこか別の場所に本物があるのであろうか。自分が普段自然に感じていることを言葉で考え直すのは以外に難しいことだ。自分がどう感じているかなんて普段は当たり前過ぎて、言葉になんか直さないからだ。自分が感じていることは実際にはどういうことなのかを、言葉と格闘しながらこういってみる。
 「えっと、夢を見ているときに、これは夢だと気づくときがあると思うんですけど、そのときには、目の前で起こっていることが夢であることはわかっても、じゃあそれに対して現実はどういうものだ、なんてことは決して考えないじゃないですか。現実は相変わらず失われたままです。それと、もしかしたら似ているのかもしれません。いや、似てないかな?まあ、いいです。えっと、そうだなあ、なんだろう。まるで、今見ている景色は自分の頭が勝手に作っているもので、目を開けると、つまり私は目を開けているつもりで目を瞑っているとしてですが、まったく関係ない景色、たとえば、私は布団の中だったり、床の上だったりして、私の目に映るのは孤独な男の一人住まいだったりして。そんな風に感じると、まるで自分の立っている地面がなくなったみたいな、奇妙な浮遊感みたいなものを感じてしまって……」
 医者は、興味深そうに私の顔を見ていた。そのときだった、私がまたあの妙な感覚を感じたのは。私をじっと見ている医者の顔が、仮面か何かのように見え始め、周りの景色も、診療室なんかにはとても見えなくなり始めたのだ。突然自分の体が異物の様に思え、浮遊感と沈んでいく感覚を同時に感じた。
 しかし、医者はそんな私の変化にはまったく気づいてないようで、なにやら訳知り顔で立ち上がると、こう言った。
 「大体わかりました。もちろんまだ知りたいことはたくさんありますが、それはじきにわかることです。それでは催眠療法を試してみたいので、そのまま座っていてください」
 医者は、私のいすの背もたれを倒すと、私の枕元にいすを引き寄せて座った。私は相変わらず、奇妙な感覚に襲われたままで、恐怖を感じないことはないのだが、まるで映画を見ているように目の前で起こっていることを黙って見守ることしかできなかった。
 「それでは目を瞑ってください。はい、リラックスしてくださいね。体の力を抜いて、するとあなたのまぶたがだんだん重くなっていきます。はい、1,2の3」
 馬鹿らしいと思いながらも、私の体は医者の言うとおりになった。私は目を瞑ってしまった。
 「まぶたの裏に何が見えますか?」
 「な、何も見えませんが」
 私は医者の質問に正直に答えた。何も見えなかった。そこは絶対の闇だった。医者の声だけが、なんだか遠くのほうから響いてくる。
 「本当に何も見えないんですね」
 「はい、本当に何も見えません」
 「それは変ですねぇ」
 医者の声はますます遠くなる。だんだん聞こえなくなるようだ。
 「それでは1,2の3で目をあけてくださいね」
 「ちょっと先生、先生どこに」
 「はい、1,2の3」
 
 
 男は目を開けた。そこは窓がひとつしかない、どちらかと言えば狭い部屋だった。男はそこに独りでいた。男は無精ひげを生やし、髪の毛はぼさぼさだ。その男以外の人物がいたような形跡はまったくない。彼は寝椅子に寝転んでいたのだが、今起き上がって、周りを見渡している。部屋はカーテンで仕切られていてその向こう側は見えない。男は立ち上がって、カーテンを思い切り引いた。そこは彼の部屋だった。診療室でもなんでもなく、彼以外には誰もいない部屋だった。彼は周りを再び見渡す。机の上に、何かが書きこめれた紙が置いてある。それを手にとって見てみたが、でたらめな線の乱舞しか認めることはできなかった。

 

最終更新:2012年11月16日 23:33