2011年06月25日(土)09時02分 - すばる
いやな奴でもいないと案外さみしいもので
キーンコーンカーンコーンと、終了を告げるチャイムが響き渡り、春斗はシャープペンシルを机の上に放り出した。後ろの人から受け取った答案に自分のものを加え、前に回して立ち上がる。定期テストも最後の科目が終了し、喜びと落胆の声がそこかしこで上がっている。春斗は彼らから視線をそらし、窓の外へと目を向ける。朝から降っていた雨はいよいよ本降りとなり、校庭にはいくつもの小さな川ができている。こりゃ明日の朝練は水掃きだな、と他人事のように心の中でつぶやく。サッカー部に所属する春斗もそれに駆り出されるのは間違いあるまい。でもそんなのは明日の話、このまま降りつづけてお流れになるかもしれないし、それよりこれから何をしようか。テスト終わりの日というのは遊びに行くには格好の時なのだが、今日は到底無理そう、例年以上に派手な五月雨の中自転車をこごうなんて度胸はない。
そんなことを考えている間に、担任の山河先生が姿を現す。短いホームルームは浮足立つ生徒に押されてさらに短くなり、終了と同時にガタガタと席を立つ音が響く。
どこのクラスもそんななのか、玄関はごった返していた。押し合いしあいで無理やり進み、傘立てから自分の傘を引っ張り出す。でもそれはよく見てみると、自分のによく似たほかの人の傘で、慌ててそれを突っ込み、何とかして自分の傘を探し出す。女子の傘は色鮮やかで華やかだけど、男子の傘は年々地味な色になっていく。
そのあとはまた同じように無理やり自分の靴入れに進み、壁に押しつけられながらスニーカーを引っ張り出すと、代わりに上履きを突っ込む。そのあとは流れに従っていくだけなので案外楽だ。やがて最前列にたどり着き、後ろから押されながら靴を履き、しぶきをあげながら傘を開く。どうやら、朝濡れたのがまだ残っていたようだ。
先ほどまでの込み具合がうそのように、道を歩く春斗の前後に人の姿はない。それぞれが自分のペースで歩くからだろう。部活などで友達には不憫でない春斗であったが、帰りの方向が同じものは一人もいなかった。それで学校からの帰りはいつも一人だ。雨の音が傘を打ち、足元にもいくらかの水かさがあった。そのせいで、水たまりを避けていても靴の中にしみ込んでくる。その上雨どいから落ちてきた水が足元ではね、上から直接入り込んできた。その下に傘を持っていくと、バラバラと心地よくもある音が鳴る。昔はよくそうやって遊んだものだ。あとは傘回しか、ただ傘をクルクル回すだけなのだが、円を描いて飛び散る水滴は美しくもある。今思うと、あれってすごい迷惑だよな。でも時々、無性にやってみたくなるものだ。せいぜい小学生の遊びだとは分かっていても、ただただ傘を回す。
そんなことをやっていたからか、その小学校が目に映る。二年前まで通っていたそこには、今も弟や妹がいるはずだ。いつもは彼らのほうが帰るのが早いのだが、ここ数日は春斗のほうが早い、雨さえ降っていなければ校庭で子供たちが駆け回っていることだろう。
毎日見ているはずなのに、小学校の脇を春斗はなんだか懐かしく通り過ぎる。ここから先は、七年以上使っている道だ。角の信号を過ぎると道路下からドブ川が現れ、そこからブッロク塀に挟まれた小道に入る。左右に曲がるそれを抜けるとこのあたりじゃ比較的大きな通りだ。どうしてわざわざそんな細い道を通っていくのかはいまだに謎、ほかにいくらでも大きな道があるのに、どうしてそんなところを通るのだろうか。春斗がそのことを何度も疑問に思ったのには、大きな理由がある。カタツムリだ。この時期になるとブロック塀に何匹も張り付いている。面白がって捕まえてみる男子も多かったが、春斗にとってはただただ気持ち悪いだけの存在だった。ヌメヌメしていて、今でも苦手は変わらない。そういえば、最近姿を見てないな。いつからだろう、姿を見なくなったのは。思い返してみると、もう何年もその姿を見ていない。中学に入ってからは定まった通学路なんてものはなく、だからこの道を通るのは本当に久しぶりのことであるけれど、考えてみれば見なくなったのはそれよりももっと前だ。昔はうじゃうじゃといたのに、いつの間にか、消えてしまった。それは、いつからだったか。
感慨にふける間にもその小道を抜け、大通りに出る。大通りといっても駅前を通る道や高速につながる国道とは比べ物にならないくらい小さなもので、本当は大きくもなんともないただの道なんだけども、自動車じゃ通れないくらい細い道を抜けた後では十分大きく見える。それにこれまでの道のりとは比べ物にならないくらい車の通りも多い。学校からこれまでに見た車の数よりも、今見えている車の数のほうが多いくらいだ。
どういうわけか、昔からここまで来ると家まであと少しと思える。確か小学生のころは、行きもここであと少しと感じてたような気がする。そんな、なんか不思議な道に沿ってまっすぐ歩き、緑が視界の端に入ったところでそこを曲がる。このあたりはほとんど住宅地なのだが、どういうわけかここに少しだけ田んぼがある。開発から生き残った貴重なそれは、この時期には青々とした苗が平原のように広がり、その上を歩いて行けるのではないかという錯覚すら起こす。その真ん中にぽつねんと、工事会社のフェンスが立ったのはいつのことだったか。田んぼはコンクリートで固められ、すでに家が形を成していた。とうとうこの場所にも、開発の風が吹いてきたということだ。そういえばここも、いつからか、何かが足りないような気がした。別になくても困らないものだけれども、何かが不足している、そんな気がしていた。それがなんだったか、今日ようやく思い出した。カエルだ。昔は毎年この時期になると、道路に飛び出たカエルが轢かれて潰れるという事故が多発していた。掃除されずに残っていたのかもしれないけれど、日によっては一日で十匹以上ものカエルの死骸に出くわすこともある。通学団がそれを遠巻きに避けていくのはお決まりだ。だけどそれも、いつの間にかいなくなってしまった。いつの季節だったか、小さなカエルが田んぼ脇の溝を列になって進んでいくさまも、長らく見ていない。いや、それだけじゃない。夏にうるさくなくセミも、電線に連なって止まるスズメも、いなくなってしまった。地球温暖化の影響か、環境破壊の弊害か、そんなものは遠い異国の話だと思っていたのに、こんなにすぐ近く、本当に目の前で、こんなことが起こっていたのだ。
私ってやっぱり雨女なのかな
「夏樹、いい加減起きなさい。今日はいつもより早いんでしょ。」母親に起こされた夏樹は、いまだ眠り足りないと目を瞬かせる。普段よりも一時間早い朝、それでも母は、朝ご飯を作って待っていてくれた。少なくとも三十分は前に起きていたのだろう。夏樹はその横で、カーテンの隙間からのぞく外の風景に目をやる。晴れというには程遠いどんよりと濃厚な雲が空一面にわたり、世界そのものがいつもより少しばかり暗い。もしかして、雨?夏樹はカーテンを開け、窓を開いて外の空気を中に入れる。ひんやりした空気が部屋の中に流れる。いびつな庭のくぼみにはもう小さな水たまりができており、アスファルトもいつも以上に黒く見える。手を外に突き出してみれば、ポツンポツンと腕を雨粒が撥ねる。なんで今日に限って雨なんだろ。静かな朝食を食べ、いつもよりもはるかに重く、大きな荷物を持って学校に向かう。もちろん傘はさすのだけれど、何せ大きいので覆いきれずにバックにもどんどん雨が当たる。大丈夫だと信じたいけど、中身が濡れないか心配。特に服なんかが濡れたら大変だ。だけどそんな気持ちをよそに、雨はより一層強くなる。出たときは小雨だったはずなのに、いつの間にか本格的に降り出した。そうじゃなくても、荷物がいつもの三倍くらいあるのだ。その上傘までさすなんて、我ながら見事な芸当だと思う。だけどそれは無茶なラインをギリギリ超えたくらいの芸当で、ベルトが肩に食い込んで、痛くなってきた。それでもしばらく我慢して歩いていたけれど、とても耐えられそうにないので、仕方なく左肩で持つことにする。だけどその付け替えは想像以上に困難な作業で、何せ傘をさしたまま、かばんは重いし、濡れているから地面に置くこともできない。それでも数分間格闘して、何とかバックを持ち帰る。だいぶ濡れてしまった。よくよく考えたら、地面に置かない意味なかったんじゃないかな。それでもまた、肩が痛くなって、今度はまた右に持ち直す。もう面倒くさいからバックは地面にいったんおろして、それから持ち直す。それでも、その間だけでも夏樹自身かなり濡れる。それに当然さっきよりも肩が痛くなるまでの時間は短い。そうなればまた、持ち替えて、そんなことを繰り返しながら進んでいたから、ようやく学校にたどり着いた時には、夏樹もバックもびしょびしょになってしまった。
「ああもう、なんでこんな日に限って雨なのよ。」びしょ濡れなのを見かねて先生が持ってきてくれたタオルで体を拭きながら、夏樹は隣の席に座る李沙に向かって話しかける。窓の外は台風並みの天気で、こんな中では傘なんて役に立たないだろう。後から来る子たちも一様にびしょ濡れだ。こんな天気で、本当に野外学習なんていけるのだろうか。そんな不安が押し寄せてきた。だけどそんな不安はただの杞憂だったみたいで、時間になり、クラスメートも全員が揃ったバスは何事もなかったかのように走り出す。大粒の雨が窓をガンガン叩き、まさに車軸を流したようなどしゃ降りだ。それに負けないようにと、みんな大声を張り上げる。行きのバスの中では歌を歌おうと誰かが言いだしたのは、一週間くらい前のことだ。その声に雨が気圧されたか、あるいは歌の中に皆が引き込まれたのか、外の雨音はどこか遠くのほうへと消えていった。そうしている間にもバスはズンズン進み、気がつけば窓の外の風景は軒並みから林へと変わっていた。
それからほどなくして、バスは林間学校の入り口に止まる。相変わらず雨はひどく、荷台からバッグを降ろすのも、それを中に持っていくのも一苦労だ。「誰のでもいいから、一人一つずつ持って行け。」先生がそう叫ぶ。確かに、この雨の中自分のを探すなんて無理だ。適当に受け取って、中に運び込む。それをひとまずロビーの隅に放置して、床に敷き詰められたオレンジ色のカーペットの上をぞろぞろと二列に並んで歩く。これから定番のカレー作りなんだけど、屋外炊事場が建物の裏手にあり、おかげで建物の中をいろいろとみることができた。森の中にあるのだから、もっと汚いものをイメージしていたけど、建物は意外ときれい、トイレもきちんと掃除されていて、驚いたことに洋式まである。でもそれ以上に驚いたのは、一部屋八人で、二段ベッドが四つあるということだ。もちろん部屋割りもそういう風にやったし、しおりにはベッドメイキングのマニュアルまで載っているのだから当然そうであるのだけど、やっぱりこういう時は大部屋で一緒にまくら投げが普通だと思っていた。それとも、もうそれは古いのかも。
ジャガイモの皮を包丁でむいて、サイコロ状に切る。これが意外と難しい。特に皮むきが大変だ。ジャガイモは形もいびつだし、芽、もしくはそう見えるものが大量にある。たぶん違う何かだとは思うけど、だからってとらないわけにはいかない。それにもっと厄介なのは、そこら辺にあるくぼみだ。それは、本当にただのくぼみ、ただそこにももちろん皮は付いているわけで、それは包丁じゃそげない。仕方がないから芽と同じように抉り出すけど、そうすると結構中身を捨ててしまうことになるし、なによりも時間がかかって面倒くさい。その間にも李沙はニンジンを切り終え、今度はタマネギに取り掛かっている。結果、夏樹がジャガイモを切り終えるころには、それ以外の食材は李沙が全部切り終えてしまった。これからはもう少しお手伝いしようとにわかに誓った夏樹は、沸いたお湯の中にそれらの食材を放り込む。もう後は煮えてからルーを入れて完成だ。男の子たちはちゃんとご飯炊けてるかしらとみてみると、ちょうど窯から飯盒を取り出しているところだった。あとはもう待つだけ、李沙は包丁やまな板を洗い始め、夏樹も皿やスプーンを準備する。ちょうどそれが終わるころにはカレーのほうも出来合あがり、その流れで夏樹が取り分ける。みんなで作ったカレーは、お世辞にもおいしいとは言えなかった。ごはんはいくらなんでも焦げすぎだし、ルーも水っぽい。ただいつも家で食べるのとは少しばかり味が違っていたのと、自分たちで作ったから仕方ないという半ばあきらめの感情によって何とか食べ終え、片づけに取り掛かる。雨はまだやまない。少しは弱くなっているみたいだけど、何せもとが豪雨だったからそれでも十分強い。この分だと、今日のキャンプファイアーと天体観測は中止かなと、夏樹はしぶきをあげて滝のように流れる雨どいの水を見る。
昼ごはんの後はすぐにお風呂に入る。まだ時間的には早いけど、人数が多いから時間もかかるし、一応次にキャンプファイアーの予定があるから仕方ない。でもお風呂から出てもまだ雨は降りやまず、案の定後に控えたキャンプファイアーは中止となり、体育館でレクリエーションのみを行うことになる。レクリエーションというのは、クラスごとに行う催し物ので、初めのうちはあまりやる気が見られなかったけど、やはりすぐにヒートアップする。おかげで夏樹たちのクラスの番が回ってきたときには会場の熱気は最高潮、その勢いに任せ、夏樹たちもまた、力の限りに踊った。
「今日は残念だったね。」李沙がつぶやく。「うん、でもきっと明日は晴れるよ、ほら、強い雨は長続きしないし、そしたらもしかしたら、明日あたり星見れるかもしれないよ。」「うん、でも、やっぱりキャンプファイアーやりたかったな。」「そうよね、私もそう思う。実をいうと私、それが一番楽しみだったりしたのよね。おっきな炎をみんなで囲んで大騒ぎするの、天まで届けってね。」「ふふ、天まで届けはないんじゃないの?」・・・・・・
見回りの先生に見つからないように、ひそひそ声でおしゃべりをする。これもまた、こういう時の醍醐味だろう。長い夜、声は絶えない。野外学習一日目。
みんなには理解できない宝物
多くの子供にとって、冬休み最悪のイベントといえばやはり大掃除だろう。ろくに掃除していない自分の部屋はもちろん、それが済めば今度は家の掃除に駆り出される。
冬美は机の隅やベッドの下やらに散らばったプリントをかき集め、ノート並みの厚さにまとめるとそれを一枚一枚めくって、捨ててよいかどうかチェックする。本当は全部まとめて捨ててしまいたいのだけど、もし大事なプリント、例えば始業式に持っていくもののリストなんかが入っていたらたまらない。だけど出てくるのは、計算の宿題や漢字の書き取りテストみたいないらないものばかり、二つに分けるはずだったプリントの、一方だけが山になり、もう一方はまだ一枚もない。それでもめげずにプリントを一枚一枚めくり、ようやっと書初めのための習字紙を見つけると同時に、一瞬背筋がゾクリとした。危なかった、もしこのまま捨てていたら、大変なことになっていた。ほんと、ちゃんと確かめてよかった。もしかしたらまだあるかもしれない。そう考えた冬美は、またプリントをめくる作業に戻る。最終的に三枚のプリントを発掘して、残りをきれいにまとめて、玄関に置きに行く。入れ替えに夏樹が、雑巾の入ったバケツを持ってきた。まめな夏樹は普段からきちんと片づけているので、掃除の進行も早い。机の上や棚の中の雑巾掛けを始めている。その一方冬美はというと、いまだ机の上に大量のものが乗っていて、それをどうするか考えなくてはいけない。せめて見栄えだけでも良くしなければ、やり直しの宣告を受けてしまう。冬美はひとまずペン入れがわりに使っていた空き瓶の中身をひっくり返して、まだ使えるかどうかチェックする。そのために、さっき捨てたばかりのプリントをもう一度持ってきた。ああ、こんなことなら先にこっちをやっておくんだった。ペンを一本一本キャップから抜き、ぐりぐりと紙をなぞる。まだ書けるものは自分の脇に置き、もう使えないものはゴミ袋の中へと放り込む。でも時々判断に迷うものがあった。色のついたマジックで、書いた文字はかすれているけれど、それでもまだ、確かに書けるもの。それで書くと何度もなぞらなくちゃいけなくて、大変だし見た目も悪いんだけれど、捨てるのはもったいない。そんなのが五本もある。それからあとは、使いすぎてとても短くなってしまった鉛筆。もうしっかりと持つことはできそうにないくらい短い。でも指の先でちょこっと持てば、まだ書ける。そんなのがほこりをかぶって瓶の底のほうにたくさん転がっていたのだ。中には変な、ガムみたいなのがへばりついているものもある。瓶の中にいっしょに入れておいた消しゴムがくっついたらしい。その本体は今も瓶の底に張り付いている。でもそれをとるのはかなり大変そう、というか無理。手は中に入らないし、ペン先で突っついたくらいじゃびくともしない。仕方がないので消しゴムはそのままに、かすれたペンと短い鉛筆を一緒に瓶の中に戻す。
瓶をまた元の場所に戻すと、今度は机の上に目を向ける。かなりごちゃごちゃとしているけど、そこにあるのはみんないるものなので、捨てるわけにはいかないし、引き出しの中もいっぱいで入れるところなんてない。だけどもちろんそのままにしておいたら絶対に片づけるようと言われるだろう。それに机の上を雑巾掛けしなくちゃいけないので、それぞれを分類しつつ、床に並べる。机の上をざっと拭いて、床の上のものをきれいに整頓して机の上に並べる。これなら問題ないだろう。さあ最後は引き出しだ。本当は、引き出しなんて外からは見えないしそのままでもいいんじゃないかとも思うのだけれど、夏樹は窓を拭いていてまだ部屋の中にいるし、あとで引き出しの中を見られたらまずいから一応整頓しておく。とりあえず中身を全部抜き出し、もう一度きちんと入れなおす。普段しまっているんだからほこりも入らないと思うし、雑巾がけは必要ないんじゃないだろうか。
そうやって一段一段制覇していって、いよいよ最後の引き出し。中身をいったん取り出し、大きいものから順に奥に入れる。すると、奥のほうで何かに当たった感触、コツッと、いう音が聞こえた。引き出しの奥のほうに、何かが残っていたのだ。手を伸ばして引っ張り出すと、それは食べ物なんかを入れておくタッパーだった。あれ、おかしいな、なんでこんなものがこんなところにあるんだろ。そう思いながらふたを開ける。中には茶色い物体が詰まっていた。冬美にはそれがなんなのか、一瞬わからなかった。だけどすぐに記憶が呼び起される。「ちょっ、なによあんたそれ、セミの抜け殻じゃない!」後ろからの声に、思わず冬美はビクッとした。振り返ると夏樹が、呆れ顔で覗き込んでいる。「あんた、まだそれとってたの?」夏樹がそう言うのも無理はない。夏休みに、なぜかそれを集めるのがマイブームになっていた冬美は、公園やら学校やらを回って大量にそれを手に入れた。だけどセミの抜け殻は壊れやすく、家に持って帰る間にも何個も粉々になってしまった。それは家に飾っているときも一緒で、ほんの些細なことできちんと並べてあった抜け殻は粉砕し、そのたびにカーペットに落ちた粉を掃除するのに苦労したものだった。「捨てなさい、そんなもの。」と夏樹に迫られ、何とかそれを切り抜けたいのとこれ以上壊されたくないのとで、こっそりと台所から拝借したタッパーに入れて引き出しに隠していた。そしてそのまま今日に至り、またしても夏樹に見つかってしまったというわけだ。夏樹はまたもやそれを捨てるようにと迫る。でも冬美は、それを手放したくなかった。もうそれを取り出して眺めたりなんてことはしないし、正直言って今までその存在自体忘れていたくらいだ。でも捨てるのはもったいなくて、やっぱりこれは冬美にとっては大事なものなのだ。でもそれを夏樹が理解してくれるはずがない。とっておくなんて言っても、絶対に許してくれないだろう。だから今はわかったと言っておいて、あとで夏樹の目を盗んでこっそり引き出しに戻すことにする。でもそんな魂胆、夏樹にだってわかる。「そんなこと言って、本当はあとでこっそり元の場所に戻す気でしょ。」なんて言ってきた。「違うもん。本当にあとで捨てるよ。」「なら今捨てて。別に今捨てても後で捨てても一緒でしょ?」「いいじゃない、あとで捨てるって言ってるんだから、今はまだ掃除中。」「だったらおねえちゃんが捨ててきてあげる。私はもう自分の部屋の掃除は終わったからね。」「いいよ、あとで自分で捨てるから。」「そんなこと言って、どうせ後で戻す気でしょ、今捨てて。」それに冬美はブルンブルンと首を横に振る。「いいから捨てなさい!」夏樹も語気を荒立て、怒鳴る。「いやっ、あとで自分で捨てるって言ってるじゃん、どうして信じてくれないの。」冬美はもはや涙声だ。でも、それで夏樹は一層燃え上がった。春斗にしろ夏樹にしろ、弟妹の涙にはこれまで何度もひどい目にあわされてきているから、そんなもので気後れなどしない、むしろまた泣いて何とかしようとしたと、怒り爆発だ。「いいから渡しなさい!」怒鳴った夏樹は無理やりタッパーを取り上げると、セミの抜け殻をゴミ袋の中に放り込み、足で粉々にした。さらに大声で泣き叫ぶ冬美の前にタッパーを投げつけ、どかどかとその場を離れる。そこで夏樹は、少しばかり後悔した。別に冬美を泣かせて悪かったと思っているわけではない、あれは冬美が悪い。それよりも問題は、今回のことを母親に言いつけやしないかということだ。冬美だってばかじゃない、そうなればどうせ自分に都合のいいようにシナリオを書き換えてくるに違いない。それでまた夏樹が悪者にされ、母親に怒られるんじゃないかと不安だった。勢いに任せてやってしまったけど、もっといい手だってあったはずだと、少しばかり後悔した。
エンエンと泣き腫らしていた冬美だったが、次第にそれにも疲れてきてしまった。だんだん声がしなくなり、最後には静かになった。だんだん周りも見えてくる。だけどもちろん、それですぐに何かしようなんて気は起きない。しばらく座り込んだまま、きょろきょろとあたりを見回す。すると、床に一つだけセミの抜け殻が落ちているのが見える。たぶんさっきふるい落とされたんだろう。でもすぐにそれを取り上げる気にはなれず、それからしばらく黙ってへたり込んだまま、じっとそれを見つめる。夏樹への怒り、守りきれなかったことへの後悔がこみ上げ、冬美は石像のように動かない。それでもしばらくして心が落ち着いてきた冬美は、黙って立ち上がり、ゆっくりとそれを拾い上げる。背中の割れ目以外には傷一つないきれいな抜け殻で、茶色の光沢がかすかにきらめいて見える。だけど、だからなんだというのか。夏樹が捨てた時点で、それは価値を失った。もはやガラクタになり下がったそれに未練なんてない。冬美は、ゆっくりと歩き、ゴミ袋の上でそれを握りつぶした。
雪の日の通学路は戦慄と悔恨の渦
「うー、サブい。」夏樹は白い息を吐きながら、手袋とセーターの間の手首をなるべく中にしまいこむ。夜通し降りつづけた雪は見事に積もり、家の庭どころか地面のアスファルトまでもが雪に埋もれている。その上を歩くと、ザクザクと音が鳴ってなかなか面白いけど、靴下までびしょ濡れになってあとから後悔するのは目に見えている。秋彦と冬美は長靴を履き、大はしゃぎで早々に出て行ったけど、高学年にまでなってそんなものを履くのは恥ずかしい。それにもう、いくら雪が降ったからといってそんな大騒ぎするようなことではない。でも確かに気分は高揚していて、やっぱりザクザクと雪の上を踏みしめる。ところどころは凍っていてツルツル滑り、転びそうで恐いけど、それもまたスケートみたいで面白い。その上をわざと選んで進むところなんて、三人にはとても見せられまい。
ベチャ。不吉な音とともに、額に冷たい塊がクリーンヒットした。「こら、秋!」夏樹が大声で叫ぶ。犯人なんて見なくてもわかるし、見てみれば実際、秋彦はもう第二波を用意しているところだった。でもそれは狙いを大きく外れ、近所の家の壁に衝突した。物を投げるというのは意外と難しい、形がいびつな雪玉ならばなおさらだ。それでもめげずにまた新しい雪玉をこしらえる秋彦は後ろから雪玉にあたる。「不意打ちは卑怯だぞ。」自分のことは棚に上げておいてそんなことを言う秋彦は言葉と共に手に持った雪玉を投げるが、まだしっかり固まっていなかったのか手を離れると同時にばらばらに割れる。それを見て、一目散に逃げていた賢治はまた雪を集める。それを見て秋彦は、雪を思いっきり固く握り、それを自分のポケットの中に入れた。そうしておくと雪が固まって氷になり、ものすごく硬くなるのだ。賢治が投げた雪玉が、秋彦のはるか上空を飛び、そのまま公園のブランコにあたる。いつもなら全員が揃うまで公園の遊具で遊ぶのだけれども、雨や雪の後は座るとお尻がぬれるし、それに雪遊びのほうがずっとおもしろい。
ブランコの向こう側に人影が見えた。ようやく勇喜のお出ましだ。それを見つけた賢治が、「遅い。」と叫びながら雪玉を投げる。だけど思いっきり振りかぶったにもかかわらず全然届かない。その隙に秋彦が賢治めがけて雪を投げ、見事横っ腹に命中した。それで少しは借りを返したけど、まだ返したりない。さっき賢治が投げた雪は秋彦の首の部分に当たり、そこから服の中にまで入り込んできてまだ冷たいのだ。「ほらほら、みんな来たからもう行くよ。雪遊びはおしまい。」班長で六年生の静子が出発の号令とともにたしなめるが、秋彦たちにそんな言葉は届かない。賢治はお返しとばかりに雪だまりを投げ、それは秋彦のランドセルに当たったため命中とは言えないけれども、秋彦とて黙って見過ごすわけにはいかない。すぐわきの塀の上から雪を調達し、すぐに固める。だけれどもその時には賢治も新作を用意しており、二人はそれを同時に投げた。結果秋彦の雪は賢治の足元に落ちたけど、賢治の雪は秋彦の顔面を直撃した。もうだめだ、もう怒った、もう頭に来た、なにがなんでもコテンパンにして、絶対にやっつけてやる。秋彦は雪のある場所を探し、片っ端から雪玉を作っては投げ、作っては投げ、それに対して賢治も無抵抗でいるわけがなく、熾烈な応酬で雪玉があっちへこっちへと飛び交う。そうやって投げまくると当然命中率は下がり、投げることに必死になっているので相手に何発当てたのか、自分が何発当たったのかもわからなくなる。でも秋彦は、自分のほうが絶対に負けていると思い、とにかく投げまくる。そうすると当然コントロールは甘くなり、そのうちの一つが夏樹に直撃した。「秋彦!いい加減にしなさい!賢治君もよ!」夏樹の怒号が響く。その声にビクッとなって、秋彦も賢治も雪合戦を中断する。それでも、なんだよ、賢治のほうが絶対多く投げてたのに、と思った秋彦は、最後にもう一発だけ賢治めがけて雪玉を飛ばす。玉は賢治の右上にそれたが、夏樹は「秋彦!」とまた怒鳴る。仕方がないので秋彦もそれ以上はやめにする。でもそうすると、今度は冷たさが襲ってきた。雪を持っていたので手袋は濡れ、服の中にも雪が入り込んでいる。せっかくの長靴も、上から雪が入り込んでしまっては意味がない。靴下もぐしょぐしょだ。本当はずっと感じていたのだけれど、おとなしくなったからか、ここへきて急にそれがつらくなってきた。それでももちろん、乾かすなんてことはできないわけだから、何とか学校まで我慢するしかない。このまま手袋を着け続けるかどうか考えた結果、結局そのままでいることにした。いつの間にか、周りにはランドセルを背負った子供たちがたくさんいた。すでに校舎の白い屋根は顔をのぞかせている。学校まではあと数分で着く。結局、学校に着いたのはいつもよりも十分ほど遅い時間だった。
下駄箱で長靴を脱いだ秋彦は、そのまま靴下も一緒に脱いだ。べちょべちょに濡れていて冷たく気持ち悪いし、このまま上靴を履いたらそっちまで濡れてしまう。でも濡れた靴下と手袋をどうしようか。ビニール袋を持ってくればよかったのだけれど、忘れてしまった。それにそれじゃあ乾かない。裸足で上靴を履くとざらざらするし、帰りもまた寒いのだ。でも窓の外に置いておいて落ちたら嫌だし、ストーブの前は競争率が高い。もうだれかの手袋や靴下でいっぱいだ。それで結局、机の脇のフックに掛けることにした。
何かを忘れているような気がして、ポケットに手を突っ込んだ秋彦は一瞬ぞっとした。固くするために入れておいた雪玉を忘れていたのだ。だけどもう授業中、もうどうしようもない。ドキドキしながら、ばれないよう平静を装い、それでもやっぱり気になり何度かポケットに手を入れ、授業が終わるのを待った。どんな些細なことでも、秘密を持つというのは気を使う。ばれたらどうにかなるというわけではないとわかっていても、やっぱり絶対にばれちゃいけないと思うものだ。おかげで授業はいつもより余計に長く感じられる。それでも何とか無事に終わり、どうしようかとポケットの中で雪玉を転がす。誰かに当ててやろうか、でも教室の中に雪は持ち込んじゃいけないし、こんなにたくさんいるところで投げたらきっと自分だってばれてしまう。休み時間は五分しかない、もうすぐにでもきめないと、先生が来ちゃう。結局こっそりと窓から外に向かって投げることにした。あんなに頑張って育てたものを捨ててしまうのはもったいないけど、仕方がない。せめて思いっきり強く、思いっきり遠くに向かって投げることにした。もしかしたら誰かに当たるかもしれない。でも、放り投げた雪玉はすぐに周りの景色と区別がつかなくなり、結局どこに落ちたのかもわからなくなってしまった。
何もしないというのは生物にとって一番つらいことだとどこかで聞いたような
長かった練習もようやく残り一回、最後の通し練習だけになった。音楽が好きな夏樹にとっては、歌の練習がたくさんあるのはうれしかったけど、それ以外の練習には飽き飽きしていた。もう何十回繰り返したのかもわからない起立、礼、着席も、ほんの二言三言いうだけの呼びかけも、夏樹は一度も間違えていないのに、何度も誰かが失敗するせいで何度も説教されて、やり直しになる。まったく、なんで卒業式程度でこんなに練習しなくちゃいけないんだろう。しかも六年生との合同練習になれば、黙ってみてるだけのところがたくさんある。しかも今回は、気の遠くなるくらい長いに違いない卒業証書授与まで通してやるなんて言う。いったい何を考えているんだか、その間五年生は黙って見ていなくちゃいけない。ほんと、秋彦や冬美がうらやましく思えてくる。なんでも体育館に入れないとかで一年生から四年生までは学校が休みで、五年生だけが在校生代表として式に出席しなくちゃいけないのだ。去年まではこの日はすごくうれしかったけど、今年はこの日が来るのが恨めしい。なにしろほとんど何もせずに座ったままなのだ。半分以上は黙ってみているだけ、そのくせちょっとでもおしゃべりをしようものなら、耳ざとく注意される。そればかりかかゆいところも掻いちゃダメ、少し顔を動かすのもダメときている。だから、ただ黙ってじっと座り続けるしかないのだ。それはものすごく大変なことで、これまでで一番、時間が流れるのがゆっくりに感じられる。どうして、楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、こういう時間はゆっくり流れるのだろう。先生が時計に何か細工をしているのかもしれない。
それでもここまではまだましなほう、校長先生その他もろもろの話は省略されたからだ。だけど、そっちは省くのに卒業証書の授与はしっかりやるという。もちろん全部完璧にやってほしいわけではない。六年生が、一人ひとり正面の教壇まで歩いていく。一番、青木、から始まって、名前が延々と呼ばれ続ける。それでようやく山田までいったと思ったら、今度はまた今井に逆戻りだ。それが何回も何回も続く。だけどうつらうつらしてはいけない。自分の膝をこっそりとつねり、何とか睡魔をギリギリのところで食い止めていた。
それでようやくそれが終わると、今度は校歌の合唱、だったのだけれど、時間が押しているとかでそれは飛ばして呼びかけ。何を考えているんだか、校歌を飛ばすぐらいなら、ほかに飛ばすところがいくらでもあるのに。まずは五年生が、送辞の言葉を贈る。たぶん、何人かはかなり緊張しているのだろう。夏樹は違ったけど、幾人かの児童は自分一人で言わなければいけない言葉があり、もしこの場でそれを間違ってしまったら大恥だ。だいたい、一年生の時にお世話なったとかいうけれど、そんな昔のことなんて覚えていないし、たぶんそこまで世話にもなっていないだろう。それでも夏樹は、何も言わないでいて注意されたくもないので、黙って台本通りに言葉を紡ぐ。心がこもっているかどうかなんて、どうせ誰にもわかるはずがない。
それが終わると、今度は六年生の答辞の言葉。何度も聞いた文章が、またもや目の前で繰り返される。でも、ここだけは夏樹も驚かされる。六年生には一人ひとりに一人で言うところがある。それを全員が、完璧に述べるのはとてもまねできそうにない、そして何より、全員が一斉にいう言葉には、衝撃波並みの威力がある。本当にすごい。でもそれも、延々と続くのだからいい加減飽きてくる。なんでもう少し短くしないんだろ。じきに言葉の意味も分からなくなってきて、だんだん声が遠くで聞こえてくる。
ハッと夏樹が気付いたのは、六年生の呼びかけが今にも終ろうというときだった。危なかった。もしこのまま居眠りを続けていたら、大恥をかくところだ。それは、考えただけでも鳥肌ものである。ただそのおかげか、呼びかけはあっという間に終わり、次はいよいよ最後の歌である。まずは五年生が「蛍の光」を歌う。夏樹としては、こういうゆっくりした歌よりも、もっとアップテンポな曲のほうが好きなのだが、生憎と卒業式で歌えそうなものは知らないし、この際だから文句を言うのはやめにした。とにかくいよいよもって歌を歌えるというだけで、今は十分幸せである。これまで抑圧された分、一層力を込めてやろうと心に決めて、大きく息を吸い込んだ。
五年生が歌い終わると、今度は六年生が「仰げば尊し」を歌い、あとは閉会式を残すのみとなる。思えば、夏樹はこの歌を今この場で初めて聞く。これまで合同練習は何度もあったけど、歌ったのは校歌だけ、一学年のみの歌はその学年内でしか練習していない。そういう意味で、夏樹も少しばかりドキドキしていた。
何百人にもなる声が、体育館内に響く。圧巻だった。その一言に尽きる。何百人による大合唱は、その一つ一つが層になっていて、重厚に響き渡る。一人一人の歌はお世辞にもうまいとは言えないのだろうけども、そのすべてが大きなうねりとなって、重く、それでいて軽やかだ。思えば夏樹は、これほどまでの大人数で歌う大合唱を聞いたことがない。その中に自分がいたことはあるけれども、歌いながら聞くのとただ聴くだけのとではわけが違う。初めて聴いた大合唱は、天まで届くんじゃないかと思えるくらいに圧倒的な破壊力を持っていた。その旋律に、感動すら覚える。
ようやく体育館から解放されて外に出ると、もう夕暮れ時だった。西に沈む夕焼けのグラデーションが、美しく校舎を照らす。明日はきっと快晴、絶好の卒業式日和だ。
まあ、半日くらい、別にいいか。卒業生を気持ちよく送り出すというのも悪くない。
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泡に出そうともした作品。あげるかどうか迷ったけれど、せっかく書いたので、投稿することにしました。
今から読み返してみると、やはり少し無茶な気がします。