2011年06月27日(月)22時32分 - 苗之 季雨
まだ十月だというのに、今日はやたら寒いらしい。ひんやりとした灰色の壁に背を預けながら、治季(はるき)は出がけに確認した天気予報を思い出していた。
らしい、というのはあくまであのキャスターが言っていたことを反復しただけだからだ。治季自身は全くそんな感覚はない。むしろ、身体が火照って暑いくらいだ。それが予備に一枚着込んだ上着のせいなのか、それともまだ見ぬ待ち人を想っての緊張なのかは分からないが。
手帳を開き、蛍光ペンでしっかりマークしてある今日の予定欄を見る。午前十時、間中駅西改札前。治季の記憶そっくりそのままの字が並んでいる。間違いない。
「黒川君!」
優しいソプラノの声が耳朶に届き、治季は一つ呼吸を整えてからそちらに顔を向けた。思ったとおり、可愛らしいハンドバッグを手にした少女がこちらに駆けてくる。足元を見るとややヒールの高いサンダルで、治季はちょっとだけひやりとした。
幸い、治季が危惧したように彼女が転ぶことはなかった。その少女、郁香は治季の正面に近づくと、申し訳なさそうに訊いてくる。
「ごめんね、待った?」
「いや、俺もいま来たとこ」
さりげなさを装いつつ柔和な表情で返すと、郁香は見るからにホッとした様子で良かった、と呟いた。それから細い手首に巻きついた腕時計を睨み、不思議そうに小首をかしげる。
「おかしいなー、いつも待たせちゃってるから、今日は早めに来たのに。まだ五分前だよ?」
それもそのはず、治季は待ち合わせ時刻の三十分前にはここに到着していた。五分十分の範囲で動いている郁香に先を越されるはずがない。
そんなことも知らず、郁香はむう、と眉を寄せて見上げてくる。
「何か申し訳ないなー。ほんのちょっとの差のはずなのに」
「まあ、気にすることないから」
そ知らぬ顔で宥め、治季はふっと微笑みかけた。
「本山さんのこと待ってる時間も、俺は好きだし」
その言葉に郁香は瞬きを繰り返し、それからえへへ、と笑い返す。
郁香より遅れていくなんてあるはずがない。どうせ、約束の日はどんなに夜遅く寝ても早々に目が覚めてしまうし、無駄に家で過ごすよりは早く外出したほうがいいに決まっている。万一遅れて郁香を手持ち無沙汰なまま放置するのも申し訳ないし、そもそも彼女を待たせるということはそれだけ、彼女と会っている時間が短くなってしまうではないか。そんな間抜けな真似なんてできるわけがない。
これでも、付き合い始めた頃よりはだいぶマシになった。なんせ当初は、郁香が時間を勘違いしている可能性まで考慮して一時間半前には待ち合わせ場所に着いていたのだ。何回か会っているうちに、郁香がそういったたぐいの勘違いをやらかさないと確信して、ようやくこの状態に落ち着いたけれど。
「黒川君? 早く行こう」
なかなか動こうとしない治季に焦れたように、上目遣いで顔を覗き込んでくる郁香。その表情を見ていられなくて、治季はすいっと視線を逸らしながらも首肯した。
郁香はきっと、思ってもないのだろう。彼女がこちらに駆け寄ったとき、ふわりと風になびいた髪。ほのかに香ったシャンプーの匂い。真新しいレモンイエローのワンピース。何より、真っ直ぐに向けられた笑顔。その一つ一つが、どれだけ治季の心を刺激しているのか。
容姿はごくごく人並みで、身体つきも年齢の割に幼いが、そんなことは関係ない。どんな欠点すらも郁香のことなら魅力に思えた。恋は盲目なんて、他人から指摘されるまでもない。
小さな手に切符を握り締めた郁香は、軽いステップを刻んでホームへの階段を下っていく。相変わらず危なっかしい足取りだ。
電車に乗り込むと、郁香は無邪気にからっぽの座席へと飛び込んだ。その隣、こぶし一つ分の隙間を空け、治季も腰を下ろす。それから、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「……そのサンダル」
「あ、これ? 由夏里ちゃんと一緒に買いに行ったの」
堀田由夏里は二人の同級生で、郁香とは特に仲がいい。楽しげにそのときのことを話し出す郁香に相槌を打ちながら、治季は疑問を投げかける。
「でも本山さん、前にかかとの高い靴は苦手だって言ってなかった?」
彼女がこんな靴を履いてくるのは珍しい。現に、慣れていないのが丸分かりで先ほどから何度も躓きそうになっている。
「うん、でも私って背が低いし……ちょっとでも黒川君の視線に近づきたいかなって」
そこまで言うと、郁香は照れ隠しのようにあはは、とごまかし笑いを浮かべる。その言葉に絶句することしばし、治季は咄嗟に返事が思いつかずに固まった。ややあって、ためらいながらもくぐもった声を絞り出す。
「その気持ちは嬉しいけど……俺としては、本山さんが転ばないか心配だからさ」
そこから先は言わなくても伝わった。視線だけで郁香に向き直ると、彼女は嬉しそうに、それでもどこか寂しげに首を縦に振る。
「……分かったっ」
治季と郁香の身長差は二十センチ以上ある。今日のハンデを含めて、ようやく十五センチ差だろうか。ぼんやりと治季はそんなことを考え、しかしそれ以上深く思いを巡らせることはしなかった。
目的地の駅に着いた。まだ完全には停止していないというのに、郁香は慌しく立ち上がろうとする。それを素早く察知し、寸前に治季は呼びかけた。
「ほら、足元。きちんと手すりにつかまって」
「う、うん」
注意に従いながらも何故か物足りなさそうな顔つきの郁香だったが、すぐにいつもの笑顔を取り戻して振り返った。
「見て、黒川君。海が見えるよ! 綺麗ー」
郁香の顔が眩しいのは、降り注ぐ陽光のせいだけではない。
歯がゆくないといえば嘘になる。車両内での握りこぶし一個分の空白。危ないからと自然に差し出すことができない手のひら。一度たりとして埋められたことのない、身長差。
さらさらの髪は、手櫛でもすっと通ってしまうに違いない。色白な手は、きっとほんのりと温かいのだろう。幅の狭い肩に顔をうずめたら、苦しい思いをさせてしまうかも知れない。柔らかそうな唇に触れたら、一体どんな反応が返ってくるのだろうか。――いっそ欲求に身を任せて一晩中抱き締めれば、この身にくすぶる想いを遂げてしまえば楽になれるのだろうか。
隣を歩く郁香の手を、さりげなく握ることは簡単だ。でも、治季はそれだけで自分を抑えられる自信がない。この境界線を越えたら、どこまでで踏みとどまれるか分からないから。
何かを求めるような表情の郁香は、ちっとも分かってなどいない。この切迫した、ある種の偏執的な感情の行き場を持て余し、治季がどれほどの苦しみを抱えているのか。
「どうしたの?」
どことなく不安そうに瞳を揺らす郁香に、治季は作り慣れた、それでも偽りのない笑い顔で、何でもない、と囁いた。
《終》
望むだけ望んでも出来に反映されないこの哀しさ/(^0^)\
「ボディタッチ皆無で頑張るぜ!」という自分ルールを設けたがためにこうなりました。もっと変態くさい話にしたかったのに治季君がただのヘタレチキンになった感が否めない…。
「主人公気持ち悪い」はこの話に限って言えば私にとって褒め言葉です。
ところで、ラシックのCMの「あの人の目線に近づけるこのハイヒールが好き」という台詞はとっても可愛いと思うんですよね。
郁香ちゃん視点と並行して書こうと思ったのですが、無駄に文章が長くなるだけかと思い直してやめました。
読んで下さった方、どうもありがとうございました!