2011年07月01日 (金) 22時44分 - すばる
春
およそ二週間ぶりにその道を行く。国道を横切ったあたりから校舎の姿が手前の建物の屋根越しに見え始め、学校全体を取り囲むようにして植えられた桜の花びらが、学校脇の歩道に絨毯を敷いている。俺の通う県立柳沢高校は、地元では進学校として有名で、偏差値もそれなり、卒業後の進路もほぼ全員が進学である。でもそんなものは世間的な考え、現実には、そんなもんかと思えるような感じである。少なくともこの二年間、進学校であると意識したことはない。まあ、それはどこの学校でも大して変わらないのだろうか。ともかく、俺も今年で三年生になってしまった。それはもちろん順当なことであって、留年しなかったと考えるのならばよかったと思うべきなのかもしれないけれど、それでもやっぱり『なってしまった』である。ぶっちゃけてしまえば、留年したほうが楽でよかったのかもしれないとわずかながら思う節すらある。なんてったって今年は受験なのだ。正直まだ何の実感もわかないけれど、それでもやっぱり、それだけで多少憂鬱な気分になるものだ。その、多少陰鬱さを孕んだ心境で校門をくぐり、駐輪場に乗り込む。もうすでに駐輪場は埋まっているけれど、そこに無理やりねじ込んで、鍵をかけた。相変わらずこの学校の駐輪場は狭い。マナーが悪くて入らないというのもあるにはあるが、それでも、どう考えても全員分の自転車を入れるだけのスペースがあるようには見えなかった。それでいつも、無理やり詰め込む形となるわけだ。
校舎に張り出された紙の前には、数メートルに及んで人だかりができていた。一瞬だけ身じろいだけれど、待っていたところで見えるわけでもなし、その群れに加わり、押し合い圧し合いのなか前に進む。どうやら今年は七組になったようだ。だけどそれだけでは大した意味がない。問題は誰と同じクラスになったかである。ざっと眺め、智哉が六組なのを見つけた。それと後は里花についても確認する。見つけたのは、二組の欄だった。文理選択が違うから、当然クラスも違う。だから、別にクラスが違うということに関してがっかりしたとかそういうことはない。そんなことを考えながら自分の教室に入り、席に着く。教室内はすでにざわついた空気にあり、それぞれがおしゃべりをしている。しかし残念ながら、俺が仲のいい友達は、同じクラスにはいない。
ほどなくして、先生が入ってきた。担任も去年から繰り上がっているので、よく知った顔である。彼は挨拶もそこそこ、淡々とした口調で体育館へ行くようにと指示をした。
「大野君、久しぶり。元気してた?」
体育館に入ってすぐに、里花に声をかけられる。それに対し、一瞬、あからさまにいやな顔をしてしまった。そのことをすぐに後悔しつつ、それでもなお、曖昧な返事を返す。里花の顔に、一瞬陰りがよぎったけれど、すぐにいつもの顔に戻った。里花と付き合っていることは、智哉にも話していない。冷やかされるのは目に見えていたし、何となくそういう話題は避けてきた。多分これからも、言うことはないと思う。だから、できることならみんなの前では赤の他人を装っていたいのだけれど、どうやら里花は、それでは納得してくれないらしい。だからみんなの前でも公然と話しかけてくる。俺としては、みんなにそのことがばれるのは恥ずかしいという思いのほうが強い。幸いこれまでは、何とかばれずにすんでいるみたいだが、里花の言動を見ていると、それもややあやしい。
退屈な始業式が終わると、すぐに休み明けのテストが始まる。別に明日でいいじゃん、なんてことはもう考えないようにした。休み明けのテストになると毎回のことながら、やばい勉強してない、という声が何か所かから聞こえてくる。正直言って俺もやっていない。もういい加減受験生なんだから、少しくらいやってもいいと思ったりもしたけれど、残念ながらそこに行動と実感はともなわなかった。それで少し焦っていたけれど、どうやら自分だけじゃないとわかってほっとした。もちろんそれでいいわけではない。そんなことはわかっている。
テスト結果を受け取り、安堵の息を漏らす。もしかしたら順位が下がっているんじゃないかと心配したけれど、何のことはない、いつも通りの結果だ。だけどそれで何もしない、なんてことになったら間違いなく成績も下がるだろう。やるべきことは、きちんとやっておかなければなるまい。これまでは敬遠していたけれど、とりあえず補習でもとってみるか。そんなことを思いながら、昨日配られた紙を眺める。そこには、各科目のリストが並んでいる。去年までは補習なんて数科目あった程度だったけれど、やっぱり受験生にもなるとこういうところに変化があるようだ。そんなことを考えていると、ポケットの中で携帯が震えた。取り出してみると、メールが来ているのがわかる。差出人は里花、内容を確認してみると、今度の休み、久しぶりに遊びに行こうよ。という短い文章と花の絵文字。俺はそれに、じゃあ土曜日でいいか。と返信する。そういえば確かに、ここ最近は彼女と一緒にいる時間も短くなったと思う。俺たちが付き合い始めたのは、一年生の初めのころだったけど、その頃は頻繁にメールのやり取りもしたし、しょっちゅうどこかに遊びに行っていた。まあ今年は受験もあるし、遊んでばかりいられないのも事実、そんなことは里花だってわかっているはず。だからこそ、今のうちにデートの一つも行っておきたいのだろう。その気持ちは、俺だって同じだ。
「大野君って、いっつもギリギリで来るよね。それはそれですごいかも。でも女の子待たせちゃいけないんだよ。大野君、私よりも先に来たことないじゃん」
里花のそんな愚痴を聞くのも、ずいぶんと久しぶりな気がした。
「ごめんごめん、今度から気を付けるよ。それより、早くしないと映画が始まっちゃうよ。さっさと行こう」
「そう思うんだったら、もっと早く来てほしいんだけどな」
里花の言葉を無視して、その手を握る。暖かい感触に安堵を覚えつつ、小走りでチケット販売の列に並んだ。
「大野君て、学校じゃ恥ずかしいとか言ってるくせに、こういうところだと平気で手繋ぐんだね」
里花は冗談めかしくそんなことを言った。それに少し顔が熱るのを感じ、手をほどく。そんなことを言われると、急に恥ずかしくなった。
映画が終わってから、近くのファストフード店で昼食をとった。週末ということもあり、映画館と同様カップルの姿が多くみられる。たぶん俺たちも、そんな風にみられているんだろうな、なんてことを考えながら、二人分の食事をテーブルに運ぶ。あらかじめ里花が取っておいてくれた場所は、窓際の席だった。向かいに腰掛け、彼女の分を差し出す。
「午後からどこ行こっか?」
食べ始めてから少しして、里花のほうが切り出す。映画の予定は決まっていたけれど、昼から何をするかはまだ考えていなかった。
「別に、どこでもいいよ、特に行きたいところとかがあるわけじゃないし」
「そんなこと言わないで、考えてよう。私は、大野君の行きたいところに行きたいな」
そんな里花の言葉に、半ばあきれる。いやいや、それってつまり、俺に決めろってことだろ。遊びに行こうって言い出したのは里花だ。ここは里花が決めるべきじゃないのか。もちろんそんなことを口にするわけにもいかず、何かしら考えることにする。
結局午後からは、ゲームセンターに行った。二人で対戦ゲームやクレーンゲームなんかをしたりしていたら、それなりに時間が経ち、気が付けばもう夕方になっていた。
「ねえ、もういい加減諦めたらどう?」
里花が呆れたような声を出す。俺はクレーンゲームのとある商品を狙い、すでに二千円以上すっていた。最初はほんの軽い気持ちで始めたのに、完全に熱が入ってしまい、やめられなくなってしまっているわけだ。
「じゃあ、あと一回だけ、それでもう終わりにするから」
俺は人差し指を立てて見せ、里花はそれに肩をすくませる。それを、しょうがないな、という意味だととらえ、小銭を投下した。クレーンを操作し、いちばん奥を目指す。ボタンを押すと、ゆっくりと降下し、ターゲットであるくまのぬいぐるみを大きくつかんだ。その時は一瞬、いけるんじゃないかとも思ったけれど、空中でバランスを崩したぬいぐるみは上昇中に落下し、結果先ほどと全く同じ位置に落ち着く。
「はいはい、終了、終了。もう夕方だし、そろそろ帰ろ」
里花が、携帯の時計を確認しながら言う。確かにもうこれで最後と言ったし、仕方がない、もういい加減切り上げないと、本当にやめられなくなりそうだ。そう言い聞かせて、諦めることにする。
早朝補習のため、いつもより一時間早くから登校する。おかげで今日は、眠気が一段とすさまじかった。まだかなり空いている駐輪場に自転車を止め、指定された教室を目指す。いつになく静謐な廊下を進み、目指す場所は視聴覚室。二年以上この学校に通っているのに、その存在自体知らなかった部屋だ。当然場所も昨日確認して初めて知った。通常授業と違い補習は申し込んだ人だけが一つの教室に集まって行うので、当たり前のことながら違うクラスの生徒とも会う。それに今日の補習は英語、文系クラスの生徒の姿もある。まあ里花は取っていないからいないが、かわりに、少々面倒な人間の姿があった。樫木貴斗、昔里花と付き合っていたらしい人物だ。べつにそれだけならまだよかったのだが、どうやら今でも里花に執心だという。要するに俺は、奴にとっては最大の敵ということになる。向こうもこちらに気が付いたみたいで、一瞬目があったが、すぐにそむけた。正直言ってあまりかかわりたくない。樫木は文系だから、もう会うこと自体そうないだろうと思っていたけれど、とんだ落とし穴である。それでも、向こうだってそんな露骨に敵意を表すわけではない。これまでだって、お互い相手を無視してかかわろうとしないだけで済んでいる。多少気疲れすることはあっても、それ以上のことはなかったし、これからもないだろう。
ようやく長い授業が終わり、気が抜けたように欠伸をする。朝早起きをしたせいで、授業中も眠い、居眠りの時間も増えたわけで、まさに本末転倒である。家に帰ったら、本当に昼寝でもしようかな、なんてことを考えたりもする。ともかくとして、もう学校は終わったんだしさっさと家に帰りたい。しかし、それを妨げる最後の障害。駐輪場に止められた自転車が、これでもかというぐらいすし詰め状態である。しかも今日は補習で早く来たから、自転車はかなり奥のほうに止めてある。これを取り出すのは、相当骨が折れそうだ。それでも、立ちつくしていたところで何かが起こるわけではない。何とかして自分の自転車を取り出すための道を作ろうと躍起になる。しかし、ハンドルが籠の網目に引っかかったりしていて、お互いに動きを封じあっている。一人で躍起になっていても、ほとんど何もできやしない。ほかのみんなが出てくるのを待とうかとも考えるが、教室に残っている生徒がいつごろに出てくるのかは定かでないし、部活がある人間だって結構いるだろうから、いつまで待つことになるかもわからない。普段から速攻で変える俺みたいな奴は、たいていは自転車をあらかじめ取り出しやすいところに置いているか、そうでなければ俺みたいに遅くに来るから大してそんな心配をしなくていいかのどちらかだ。つまり、今みたいな状況になることはそうそうない。だからこそ一人で奮闘しているわけだ。そう、思っていた。
「大丈夫ですか」
不意に、声をかけられる。セーラー服を着たその声の主は、さっそく自転車をどかし始めた。男子の顔は大抵覚えたけれど、残念ながら女子の顔はまだよくわからない。どこかで見たことのある顔だな、程度にしか思い出せないが、確かクラスが同じだったはずだ。二人がかりが功を奏し、俺の自転車は間もなく救出された。
「あー、確か同じクラスだったよね、えっと、ごめん、名前なんだったっけ」
「小林結奈です。まあ、わかりませんよね。同じクラスになったことありませんもん」
そういって彼女は、自分の自転車にまたがる。てっきり彼女も自分の自転車を取り出そうとしていたと思っていたけれど、どうやら違ったようだ。彼女の自転車は、いちばん外側にあって、取り出すまでもない。つまり彼女は、自分とは何の関係もないのに、本当に、単なる親切心で俺のことを助けてくれたのだ。そんな天然記念物みたいな人間が、こんなところにいたのかと、感謝する以前にまず驚く。当の本人は、なんでもなかったかのように、そそくさと行ってしまった。その姿が見えなくなって、ようやく我に返る。自転車にまたがり、俺もまた、彼女が通った道を通って校門を出た。そういえば、俺は彼女に、ありがとうの一言も言っていない。それだけが、心の片隅に引っかかった。
確かに、小林結奈は俺と同じクラスだったようだ。教室の隅の席で、一人何やら本を読んでいる。教科書や参考書の類ではないようだ。カバーからして、小説の文庫本か何かだろう。少し迷ったが、彼女に近づく。いまさら遅いと思いながらも、やはり昨日のお礼を言っておくのが筋じゃないかとそんな気がしたのだ。
「あのさ」
とりあえず声をかけてみると、彼女は視線を上げて、なんですか、と聞いてくる。
「あー、昨日はありがとうって、ただ、それだけ」
改まってこんなことを言うのは、結構恥ずかしい。
「ううん、いいよ、あれくらい、別にたいしたことしたわけじゃないし」
そういって彼女はそっぽを向く。気を悪くしたのか、それとも照れているのか、俺には判断ができなかった。まあ別にそこまで問題ではないだろう。俺と彼女とはただのクラスメートで、それ以外の何ものでもないのだから。
やけに静かな廊下を、視聴覚室に向かって早足で歩く。早朝補習二回目にして、早くも遅刻ギリギリ、しかも例によってすごく眠い。補習は業後にもあり、実際はそちらのほうが数も多いのだが、この授業含めいくつかは早朝にある。おかげで生活リズムがずれ、寝坊してしまった。でもどうやら、何とか間に合ったようだ。半ば閉じかけた眼で視聴覚室のドアをくぐると、当然のことながらすでに室内はかなり混んでいた。段々に並んだ三人掛け長机のほとんどが埋まっている。二人しか座っていないところもあるけれど、その間に割り込むほどの度量はない。だが幸運にも、まだ一人しか座っていない机を見つけ、そこに座る。いや、それが運のいいことかどうかは、正直わかりかねる。隣いいですか、と一応確認してみると、どうぞと振り向いたその顔は、小林結奈に他ならなかったからだ。寝ぼけていた頭が、急激に覚醒したのがわかる。こんなことが起こるなんて、普通に考えてありえない。
「あの、どうかしたんですか?」
どうやら驚きのあまり、彼女の顔をじろじろと見ていたようだ。彼女に聞かれて、はじめてそのことに気が付く。ただしそれを正直に口にすることなんて、できるわけがない。
「いや、今回のところ、難しかったけど、小林さんはできたかなって。俺結局さっぱり分かんなかったから、できたらちょっと教えてほしいかな、なんて思って。あ、でもやっぱいいや、なんか悪いし」
そういうも、彼女はかばんから自分のノートを引っ張り出し、ぱらぱらとページをめくる。とっさに吐いた言い訳は、どうやら失敗だったようだ。確かに、テキストを見ても何が書いてあるのかさっぱりわからなかったけれど、彼女に自分の頭の悪さが露呈してしまうのはあまりうれしくない。本当はここで会話が終わる予定だったのだけれど、彼女の人の良さを計算に入れていなかった。その上彼女は、俺に比べてかなり頭もいいようで、結局、先生が来るまでのわずかな時間どころか、授業が始まってからも何かと彼女の助言なり解説なりに助けられることとなった。
突然里花が七組の教室までやってきたとき、ついに来たかと、そう思った。というのも、あれからというもの、早朝補習のときは常に小林結奈の隣に座っていたし、それがどこかから里花に伝わる可能性も、当然考えてはいた。
「これから、時間空いてる?」
そう聞く里花の口調は柔らかだったけれど、全体を包む空気にはやけに気迫がある。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、ここじゃなんだから、どこか静かなところ行かない?」
「いやあ、悪いんだけど、これからまだ補習があるんだ。だから、今からはちょっと無理」
「そう、じゃあ補習が終わるまで待ってる。そのあとなら時間あるのよね?」
「うん、まあ予定はない」
「じゃあ、『バウム』で待ってるから、補習終わったら、すぐ来てね」
そういって里花は、やや足早に去っていった。
こういう展開になること自体、少しくらい予期していた。しかし、いくら予想の範疇だとはいえ、気分が楽なはずがない。このまますっぽかしてしまおうかと、半ば真剣に考えたりもした。しかしそれをしてしまえば、里花との関係は完全に途切れるような気がしたので、それを実行に移すことなどできないのも事実だ。いつも待たせておいてなんだけれども、里花は待つという行為が嫌いなのだ。それだけで、里花がいかに本気なのか思い知ることができる。
補習の間も、里花にいったい何を言われるだろう、そしてそれに対し、なんと言うべきか、そればかり考えてしまい、先生の言葉はほとんど耳に入ってこなかった。とにかく、考えれば考えるほど、いやな予感ばかりが浮かぶ。いつもは早く終わってほしいと思っているのに、今日ばかりは、できれば終わってほしくないと思えてならない。しかしそう思うときほど時間というのは速く進み、しかもこういう時に限って先生が早めに切り上げる。
のろのろと自転車をこぎ、『バウム』を目指す。『バウム』は学校から少し離れたところにある喫茶店で、生徒の間では、知る人ぞ知る隠れ家的な店となっていた。というのもこの店、見た目があまり喫茶店という感じではないのだ。どちらかというと、小物とかそんな感じのものを扱っていそうな雰囲気である。ただしそれは外見の話、中は、ゆったりとした音楽の流れる、クラシックな雰囲気で、柳沢高校生の間では、カップルでここを訪れるのが一種のステータスでもあった。そんなわけだから逆に、この店に一人や同性同士で来るのは引け目に感じられるという空気もある。里花がこの店を選んだ理由の一つもそれだろう。この店に行くイコール恋人同士という暗黙のルールがあるので、ここで一緒にいても誰かに冷やかされたり、噂が立ったりすることはまずない。それを知っているということは自分もこの場所にいたということになるからだ。だから、俺と里花も時々いっしょにここへくる。ただし今日は、これまでのどれとも違う展開になるだろう。その証拠に、里花はこれまでに一度も見たことがないような顔をしている。
「ごめん、待った?」
そう聞きながら、里花の真向かいに座る。彼女の前に置かれた紅茶のカップは、もうすでに半分以上減っている。三時半の授業終了から五時まで補習をしていたので、一時間半ほど待たせたことになる。もちろんそうなることは里花自身わかっているはずなので、何もそれだけの間待ち続ける必要なんてないのだけれども、俺が里花の立場だったなら、この状況で時間までどこかで暇つぶし、なんてことはとてもじゃないができない。彼女の家は学校から一時間くらいはかかるらしいから、いったん帰るというわけにもいかないし、もしかしたら、一時間半もの間、ずっとここにいたのかもしれない。そんな状況だ、普段の里花なら、間違いなく、遅いと怒るはず。だけど今日は何も言わず、それがかえって恐い。ほとんど睨みつけている里花からいったん視線をそらし、コーヒーを注文する。
「ねえ、いつも一緒にいるっていう女の子、だれ?」
コーヒーを持ってきた店員が下がると、里花はすぐさま本題に入る。しかもこの上なくストレートだ。たぶん余計に怒らせるだけだろうと知りながらも、何とかごまかす方法を考えていたのだが、ここまで直球で来られるともはやごまかしようがない。
「同じクラスの小林結奈さん、この前困ってたら助けてくれて、それで知り合った。でもいつも一緒にいるっていうのはうそ」
「でも補習の時、いっつも隣に座っているって言ってたわよ」
「それはそれとってる知り合いが彼女ぐらいしかいないからだよ。だから彼女と一緒に受けて、でも一緒にいるのなんて、その時ぐらいなもんだよ」
「ほんとに?」
「ほんとさ、だから、俺と小林さんとの間には何もないんだ。ただの友達だよ」
「……じゃあまあ、そこまで言うなら、一応は信じる。だけど、もし本当に浮気とかだったら、即バイバイだからね」
一応、ね。つまり、完全には信じてくれないわけだ。それに対して、不安と、それから少しばかりうざったさを覚えるが、とりあえずは何事もなく済みそうだということに安堵する。ただそれと同時に、これまで考えていた疑問がふっと沸いた。だけど里花の中ではすでにこの話は終わったようで、昨日のドラマの話を振ってきた。俺もそれに合わせ、会話は滞りなく進む。だけど、先ほど沸いた疑問は少しずつ増幅し、思いもよらず、口から言葉が漏れる。
「そういえば、小林さんのこと、だれから聞いたの?」
よせばいいのに、自分からその話題に蒸し返したことに気付くも、言ってしまったことはもう取り返しようがない。だが里花は、別にいいじゃない、と言葉を濁し、それ以上は何も言わなかった。だがあからさまにこの話題を避けられると、よかったと思う反面そのことに対する疑問はさらに増していく。もしかして、小林結奈とのことを深く追及されなかったのには、何か理由があるのではないかという嫌な考えが、わずかに脳内をかすめる。だけどそんな考えは一瞬のことで、すぐに忘れ去ると思っていたのに、むしろ逆に、そうなんじゃないかと、より深くこれまでの彼女の言動の中に何か不審なところはなかったかと記憶をまさぐる自身がいる。そんな自分が卑しくて、そんな考えは単なる勘違いだと思いたくて、里花にそのことを、より深く聞いてみる。
「いいじゃんかよ、教えてくれよ。俺、里花の友達とかあんましらないし」
「ううん、友達じゃないの」
「友達じゃない? じゃあ、だれから聞いたの? ていうか、俺と里花が付き合っていること、だれにも言っていないのに、だれが里花にそんなことを言うんだよ」
ということは、もしかしてそれで言いたくなかったのかもしれない。
「もしかして、誰かに俺たちのことしゃべっちゃって、それで、言いづらいとか、そういうこと?」
「ううん、私、大野君のこと誰にも言ってないよ」
「じゃあいったい誰が?」
誰が里花にそんなことを言ったのだろうか、そもそもとしてそれを言える人間がいないではないか。だけど、小林結奈とのことを里花に話した誰かは確実にいて、だから俺は今日こうして、里花に呼び出されたのだ。……いやまてよ、一人だけいる。俺と里花との仲を知っている人間が。果たして、思い浮かんだ名前と、里花の言葉が重なる。
「貴斗君よ」
できれば聞きたくなかった名前だ。だが確かに、そんなことを言うのはあいつしかない。動機もあって、なにより、唯一俺と里花の仲を知っている人物。いつどうやって知ったのかはわからないが、俺を見るたびに嫌味な視線を投げてくる、鬱陶しいやつだ。沸々と、樫木に対する怒りがわく。だがそれと同時に、里花に対しても、怒りを覚えた。どうして、あんな奴の言うことを聞くのか。あいつとはもう終わっていて、それでもあいつは里花にしつこく付きまとってくる、俺からいわせればストーカー一歩手前みたいなやつだ。それに里花は、あいつのことを下の名前で呼んだ。俺のことも、大野君と苗字で呼ぶのにだ。
それらの感情を、一気にぶちまける。その時のおれは、いったいどんな顔をしていたのだろう。めったに起こらない俺の、怒りの形相を見て、里花は表情をゆがませ、やがて俯き、ただ、ごめんなさいと言った。
それが原因でその場の空気は白けたいやなものに変わり、結局そのあとはろくに会話することもなく店を出て別れた。
ああまったく、なんであんなこと言ってしまったのだろう。そう後悔したのは、店を出て、しばらくしてからのことだった。
まだ六月に入ったばかりだというのに、連日のように雨が降りつづけ、そのせいか、世界全体が少しばかり陰鬱に感じられる。『バウム』の件以来、里花とは何やら気まずい雰囲気になり、一度もあっていない。小林結奈とも相変わらずで、早朝補習の時は一緒に受け、それ以外では稀に言葉を交わす程度、もっとも、里花のことを考えればそれぐらいが一番いいのかもしれない。そんなことを考えながら弁当を食べ終えた俺は、暇を持て余し、校内をふらふらと歩きまわっていた。いくら暇だからといって、勉強をしようなどという気にはなれない。もう三年生なんだし、暇じゃなくても勉強をするべきだと心のどこかが訴えたりもしたけれど、受験勉強は夏休みから本格的に始まるというどこかで小耳にはさんだ情報を体良く利用することにした。そんな俺が、放浪の末行き着いたのは、特別教室棟。一番西側にあるこの棟は、その名の通り、パソコンルームや美術室などが集まった棟だ。補習で使う視聴覚室もある。そんな場所なので普通の教室はなく、放課後は各種文化部の生徒でにぎわうのだが、今は閑古鳥が鳴いている状態だ。たぶん今この棟にいるのは、俺一人なのではないだろうか。そう思うと、別に悪いことをしているわけではないのに、妙に後ろめたい気持ちになり、なるべく音を立てまいとしていたりする。しかしその静寂を壊し、何らかの音が廊下に響いた。おそらく俺以外にも誰かがいて、その誰かが何かを落とすかなにかしたのだろう。しかし、そんなものはどうでもいいなどといえるほど俺の好奇心は少なくない。別に必要ないと思いながらもなるべく足音を消すように歩き、音の出どころに近づく。先ほどの音は何度か連続して聞こえた。たぶん、階段を何かが転がり落ちたのだろう。そんなことを考えながら、廊下の角で立ち止まり、階段のほうに目をやる。すると、そこにいたのは、小林結奈だった。階段の上部に腰掛け、弁当をつついている。俺は、彼女の登場に驚きながらも、視線がスカートの中を覗こうとしていることに気づき、慌てて別の方を見る。残念ながら、俺に下心はあったようだ。このままでは、本当に里花の危惧している事態になるかもしれない。
「小林さん、なんでこんなとこいるの?」
そんな不安を掻き消したかったのと、純粋になぜか知りたかったのとで、そう聞いてみる。その質問に対し、彼女は戸惑った顔をして見せた。しかしそれからすこしして、口を開く。
「うーん、ちょっと言いづらいんだけど……実はあたしって、友達とかあんまりいなくて、それでお弁当も一人で食べるんだけど、教室でみんながわいわいやってる中一人で食べるのって、結構さみしくて、だからせめて、人のいないところに行って食べるの。普段は中庭で食べてるんだけど、雨の日は仕方がないからここに、ほら、ここって休み時間はほとんど誰も来ないから」
彼女の言葉は、理解できなくもない。俺も人づきあいが悪いので、友達と呼べる友達は同じパソコン部の智哉ぐらいなものだ。とはいえわざわざ隣のクラスにまで行って一緒に昼食を食べるほどの仲でもない。それに、俺のやっているパソコン部は、そこまで活発に活動しているわけでもなく、大会なんてものもないし、活動も週に一回。その週一回の活動も、補習と重なったためまったく顔を出していない状況にあった。そのことを言うタイミングがなかなかなくて、結局何も言わないまま、幽霊部員状態にある。だから、智哉と最後にあったのだってもう一月以上前、もしかしたら、もう友達ではないのかもしれない。そんなわけで、俺も昼は一人で食べる。なれればどうってことないのだが、確かに教室で一人で食べるのは、さびしいというよりもみじめだ。俺は神経が図太いのでそれぐらいで自分から場所を変えようなどとは思わないのだが、彼女にとっては、逃げ出したくなるほどのことということか。そういえば確かに、早朝補習の時も彼女は一人で座っていた。それだって結局は、俺と同じで、一緒に補習を受けるような友達がいなかったからなのだろう。
夏
「そういえば、もうすぐ夏休みなんだね」
「まあどうせ勉強ばっかで、遊んでいる暇なんてそうそうないんだろうけどな」
「そうよね、補習がたんまりだもんね」
「あー、もうそろそろ本格的に勉強はじめないと、ほんとにまずいよな。今回の期末で成績少し下がったし。いやだなー、受験」
弁当を食べながら、小林結奈と談笑する。場所は特別教室棟の階段。彼女は、晴れの日は中庭で食べたいと言っていたのだが、ここのほうが雰囲気がいいと言って何とか説き伏せた。そんなことをした理由はもちろん、里花にばれたくないからである。お互いそういうことに関しては何も言わないけれど、会う回数も、俺の中での心理的な距離も、明らかに里花よりも上である。このまま、里花との関係が修復不可能なものになってしまうのではないかという危機感はある。でも一方で、俺の気持ちは、すでに小林結奈のほうに向いているのも事実だ。だから、里花との関係が、このまま終わることを望んでいる自分が、どこかにいるということも、認めざるを得ない。いったい俺は、どうすればいいのか、どうしたいのか、正直、俺自身にもわからない。だけど、なんというか、このまま曖昧にして終わらせるのはいけないことだと思う。もう高校生活、最後の一年、これから先、俺が一体どんな決断をして、その結果どんな結末が訪れるのだとしても、今このまま、曖昧なまま終わらせてしまったら、おそらく俺は、そのことを一生後悔する。そんな確信にも似た予感があった。
期末試験から夏休みまでの数日間は、まさに電光石火のごとく過ぎ去った。その間に頭の痛くなる三者面談があり、第一志望にしている大学はかなり厳しいと宣告された。この夏からが本番だと元気づけられたが、逆に頑張らなければ国公立そのものが厳しいと暗に示唆されているような気がした。でも確かに、その通りなのだろう。少なくとも、勉強しないとまずい、という危機感は覚えた。しかしそれ以外は、いたって平和な日々だったと言える。前期の補習が終了し、面談のため授業自体も午前だけで終わるようになったので、小林結奈と会う機会も減った。もちろん、里花とも一度も会わなかった。そしてそのまま夏休みに突入、ただし補習があるので、全然休みという感じはしない。
化学の補習で、久しぶりに智哉を見かけた。しかし智哉とは一瞬目が合っただけで、そのあとすぐに、友人たちとともに行ってしまった。目であとを追おうとしたけれど、人ごみにまぎれ、すぐに見失う。智哉と一緒にいた人たちを、俺は知らない。どこかで見かけたことがある程度だ。もちろん、智哉の知っている人物すべてを俺が知っているなどということはありえないのだが、あれは智哉と仲のいい友達グループで、俺がその中に加わっていないのも事実だ。そんなことは、とっくに知っていた。俺が智哉と一緒にいるのなんて、パソコン部での活動の時ぐらいなもの、俺たちの間に、それ以上の友好関係が築かれることなど、この二年と少しの間、一度たりともなかった。俺と智哉との付き合いは、いわば義理みたいなもの、同じ学年が、俺たち二人しかいなかったから、ほぼ必然的に一緒にいただけで、部活の外において俺たちは、何の関係もない、ただの他人に過ぎないのだ。まして俺はもう部活にも行っていない。智哉がどうなのかは知る由もないけれど、その時点ですでに、俺たちの関係は抹消されたも同然なのだ。俺はそんな智哉のことを忘れ去り、空いている席を探す。結局俺は、視聴覚室の長机を一人で一つ占領することになった。
次の、政治経済の補習で、真っ先に小林結奈の姿を見つける。もしかしたら里花もいるかもしれないと思ったけれどどうやらいないようだ。そのことで正直俺は安心し、喜んで彼女の隣の席に腰掛ける。
「大野君もこれ取ってたんだ」
「ああ、まあ一応国公立目指してるからな、センターで政経はいるだろう」
「でも現代社会で受けるっていう人も結構いるみたいだよ、そのほうが楽らしいし」
ああー、まあ模試の結果とか見ててもそっちのほうが点は取りやすいかもな、でもほら、大学によっては政治経済じゃないとダメなところもあるらしいし」
「それ私も聞いた。だから一応こっちを、ってね。それにもし現社で受けるにしても、そっちの勉強にもなるしね」
そんなことを話していると、先生が入ってきた。
結局、里花と同じ補習は一つもとっていなかったみたいだ。文理選択が違うからというのが大きいのだろうけれど、それでも英語のようにどちらでも必要になる科目はある。だけどどの補習でも里花に会わなかったことに、俺は内心ほっとした。ほとんど毎日補習はあったし、家に帰ってもその予習やら夏休みの課題やらで勉強に多く時間を割かれた。補習は、小林結奈と同じ科目は一緒に受け、それ以外の科目は一人で受けた。今はもう、彼女以外に俺が一緒に補習を受けるような人はいない。そんな日々が続き、それはお盆休みになる直前の、最後の数学の補習の時だった。
「ねえ、今度の日曜日に、うちの近くで夏祭りがあるんだけど、一緒に行かない?」
そう聞かれて、すぐにはどう答えればいいかわからなかった。本当のことを言えば、ぜひ行きたい。だけれどもそれは、里花の言う浮気の一線を越えてしまうんじゃないだろうか。そんな考えが一瞬頭をよぎったのだ。だが、そんなことはない。俺と彼女は、あくまでも友達だし、友達同士でどこかへ遊びに行くことには何の問題もないはずだ。
そう考え直し、彼女の誘いを承諾する。
どうやら彼女は電車で通っているようだ。待ち合わせに彼女が指定したのは、最寄から数個離れた駅だった。日曜夕方ということもあるのか、人の姿はまばら。お祭りだというからもう少し混雑しているのかとも思ったけれど、どうやらそういうことはないらしい。それほど大きな祭りではないのだろうか。もしかしたら、町内会でやるような小さなものかもしれない。そういえば、俺の近所でもそんな祭りがあったはず。ここしばらくいっていないけれど、いつやっていたっけか。……まあいいや、こっちの祭りに出るんだし、そうそう遊んでばかりもいられまい。
ロータリー近くの時計台で小林結奈の姿を見つけた。白いワンピースを着ている。そういえば、彼女の私服を見るのはこれが初めてだ。本当は浴衣姿を期待していたのだけれども、やっぱり着物は大変なんだろうか。そんなことを考えながら、彼女に声をかける。それに気づいた彼女は屈託のない笑みを見せ駆け寄ってきた。
「ごめん、待った?」
「ううん、まだ約束の時間にはまだ十分ぐらいあるもの。私が早く来すぎちゃっただけだよ」
ということはつまり、待ったということだろうか。里花にもさんざん言われたし、やはりもう少し早く来たほうが良かったかもしれない。
「お祭りって言ってたけど、どこでやってるの?」
「十分ぐらい歩いたところにある公園よ。ほんとに小さなお祭りだから、すぐ近くまで行かないとたぶんわからないんじゃないかな。お祭り自体は四時からやっているから、近くまで行けば音楽が聞こえてきてわかると思うけど」
そう言いながら先導する彼女の半歩後ろを歩きながら、周りの景色を見渡す。駅数個分の違いではあるが、このあたりはまだあまり開発が進んでいないらしく、駅前だというのにそこまでの賑わいはない。建物の高さも控えめだ。確か快速だととばされていたはずだが、なるほどそれも納得がいく。俺だってこの駅で降りたのは初めてだったと思う。
祭り会場の公園では、中央に櫓が組まれ、そこから周りの木に向かって提灯が吊るされていた。その下では人々が輪になって、音楽に合わせて踊っている。今流れている曲は大昔に聞いたことがある童歌だ。公園の一角では数件の屋台が建ち並び、主に子供たちがその前に群がっている。
「結構賑わってんじゃん」
ひとり呟き、小林結奈のほうを振り向く。自分のことでもないのに、彼女はなんだか嬉しそうだ。なんだか小っ恥ずかしいので踊る気にはなれず、人々の外円に沿ってぶらぶらと歩く。演目は童歌からポップスに変わっていた。
「この祭りには、毎年来るの?」
「うん、大体毎年来てた。小さいころは家族と来てて、あと近所の友達と一緒に来たり、でも違う高校に進学してから疎遠になって、一人で来る気にはなれなかったから、ちょっと久しぶり」
「そうなんだ。でも、結構来てるほうだと思うよ。俺なんて近所のお祭り、最後に行ったのって小学校低学年の時だよ。だからもうかれこれ、十年近く行ってないんじゃないかな」
「えー、そんなの良くないよ。地元の行事には、ちゃんと参加しなきゃ。そうだ、今度はそっちのお祭りにも連れて行ってよ。いつやるの?」
「おいおい、俺たちゃ受験生だぜ。そうそう遊んでばかりもいられんだろ。それに祭りがいつかもよく覚えてないんだ。まあお盆のいつかだとは思うけど、もしかしたらもう終わってるかもしれない」
「そうなんだ。でもまあ確かに、そんな遊んでばっかもいられないものね。じゃあそっちのお祭りは諦める。でも、そのぶん今日はおもいっきりあそぼ。せっかくお祭りに来たんだし、なんか屋台でも見てまわろっか?」
彼女がそう提案したのは、ちょうどそのあたりに来たころだ。俺たちは相談した末に、二人でそれぞれ綿菓子を買った。棒の先についた白い塊は、改めてみると結構大きい。最初のうちはいいのだけれど、あとになると飽きてくるし、潰れて美味しくなくなってしまう。だからあまり自分から買おうとは思えない。そういうわけで、綿菓子を食べるのなんてずいぶんと久しぶりだ。というよりも、祭りの屋台は高いので昔から何とかケチろうとしていた。ついでに言うと、食べ物は何かと高い、というイメージもある。小さかったころも、祭りのためにもらったお金はなるべく残して他で使うことを考えていた。今に思えば、いやなガキである。
「あ、カップルだ。仲いいわねえ。だけど私たちも、周りの人からはあんなふうに見えてるのかな?」
彼女はそう言って、一組の男女のほうを指差した。その二人は、横に並んでヨーヨー釣りをやっている。しかしそんな状況にもかかわらず互いに手を握りあっているのだから、カップル以外の何ものでもないだろう。見えるのは後姿だけだけど、感じからいって俺たちとそうたいして年は変わるまい。しかしそんなことよりも、彼女の言った言葉のほうがよほど気になった。それは果たして、どういう意味だろう。本当にそうなりたいという願望だろうか。それとも、本当はそうじゃないのにという冗談なのか。その違いは、非常に大きい。それこそ、月とすっぽんくらいの違いはある。そんなことを考えている俺の視線の先には、男女の、繋がれた手がある。その姿は、俺の中の願望そのものだった。
男女が立ち上がり、こちらを向く。途端に、衝撃が走った。手をつないだ二人は、里花と、樫木。いったいどうなっているのか、そんなことを考えるよりも早く、とっさに顔を隠す。二人はこちらに気付かなかったようで、そのままどこかへと行ってしまった。里花は着物を着ていた。去年の夏、一緒に花火大会に行ったときに、着物は面倒くさいから着ないと言っていたのを思い出す。つまり、俺に対してはそこまでする気はないけれど、樫木にだったらするということだ。いったい、いつからだろうか。以前『バウム』に呼び出されたときには、もう二人の仲は戻っていたのだろうか。いや、たぶんそれはない。それならば、あの時別れていたはずだからだ。ならば、そのあと。ということはつまり、それが原因でこんなことになったのだろう。そのあとも俺が一向に態度を改めなかったのもあるかもしれない。樫木との繋がりも、彼女の小林結奈のことを報告した時にできたのだろう。ということは、そもそもの原因は、小林結奈、というよりも俺にあったのだ。
なんだよ、結局自業自得かよ。
心の中でそうつぶやく。だのに俺の中では、里花に対する怒りが沸々と湧いてくる。そんな自分にあさましさを感じながら、どうかしたの? と問う小林結奈に何でもないと返す。煮え切らない感情はあるけれど、わざわざ里花に対して喧嘩を売る必要などない。そんなことをしても、互いにいやな思いをするだけなのはわかりきっている。たぶんもう里花と会うことはないのではなかろうか。ならば何も見なかったことにして、このままお互いに、相手のことを忘れ去ってしまうのが一番いい。
秋
文化祭の出し物と書かれた黒板の前に立ち、実行委員がこちらをにらんでいる。もうかれこれ二十分、メイド喫茶にしようなんて案を出した奴がいたけれど、風紀上の問題どうこう以前に、理系クラスのため女子が少ないという現実的な問題により却下された。それで誰かが、なら女装喫茶にしようなんて案を出したけれども、それはほぼ黙殺された。あるいはギャグととらえられたのかもしれない。しかしそれ以外、何の意見も出てこなかった。たぶん、意見を言うことで自分が何らかの役回りをする羽目になることを恐れているのだろう。一応実行委員はいるものの、彼らは文化祭全体のことをやるのでクラスの代表は別に立てなければならない。誰だってそんな面倒事はやりたくないだろう。俺だっていやだ。その後も五分ほど沈黙が続き、結局それを破ったのは授業終了を告げるチャイムだった。
「じゃあ、明日の帰りにもう一度聞きますので、それまでに何をやりたいか考えておいてください」
実行委員がいかにも投げやりな感じでそういうと、皆ごそごそと帰り支度を始める。今日の授業はこれでもう終了、補習もないので、さっさと帰ることにする。しかし、まさかなにも出てこないとは思わなかったな。俺自身案を出す気はないし、出そうにも何も思い浮かばないわけだけど、例年なら五、六個は何かしらの候補が出るものだ。それだけ、このクラスはやる気のないやつが揃ったということだろうか。
日が当たらず、人通りも少ない特別教室棟の階段はうすら寒い感もあるが、ここで昼食を食べるという習慣がいつの間にか定着していて、もうこんな薄暗いところに来る必要などないとわかっていても場所を変更するなんてことはない。それを言い出したのが自分である手前、俺からそれを提案するのは気が引けるというのも理由の一つだ。そんなところで話す俺たちの話題は、どちらが言い出したのか文化祭のことになっていた。
「何か考えた?」
「いや全然、なんも思い浮かばん」
「そうよね、考えつくのなんて、どれも定番みたいなやつよね。喫茶店とか、お化け屋敷とか」
「そんなのやったら、絶対にどっかとかぶるもんな。まあ何やったとしてもかぶるかもしれないわけだけど。ていうか俺たち、こんなことしてる余裕なんてあるんかな。俺なんて勉強しないとマジでやばいよ。一学期に下がった成績まだ全然挽回出来てないし」
「みんなそんなもんよ。私だって、夏休みの間毎日十時間ぐらい勉強したのに全然成績あがってなかったもん」
「いやでも、夏の勉強って秋になってから成果が出るって聞くぜ。ていうか、一日十時間ってすごいな。俺も頑張ってやろうと思ってたんだけど結局音をあげちまってさ、日五時間ぐらいが限界だったもん。てことはつまり、俺この後さらに成績下がるってことか? うわー、マジやばい。俺これ以上成績下がったら、大学以前に卒業できんのかな。ていうかさ、そもそも俺たちって、なんで勉強してんだろうね。こんな知識、社会に出たら全く使うことなくね、ってずっと思ってんだけど」
「そんなの、私だって何回も思ったわよ。世の中にはいろんな人がいて、それぞれに得意なもの苦手なものがあるのに、勉強だけを指標にするのってなんかおかしくないかなって。だけど、それでも結局やるしかないじゃん。どんなに文句を言おうと、今の日本じゃ学歴重視だし、それが間違っているっていくら叫ぼうが、すぐにそれが変わるなんてことありえない。こんな社会は間違っているから勉強しない、なんていったところで、それで不利益を被るのは自分なんだから、やっぱり勉強するしかない。しょうがないんだって」
そんな風に言われては、もはや反論のしようがない。それとも、彼女ほど開き直ることができれば、俺ももっと勉強時間を増やせるだろうか。そう考えて、しかしすぐにそれはないと思いなおす。少し考えればわかることだ。彼女がどうしてかは知らないが、俺が受験というものに疑問を抱くのは、勉強したくないという思いが半分以上を占めているのだから。
秋になったとはいえ、都会の日差しは強く、まして何十分も歩きっぱなしでは、体全体が熱るのも無理はない。止めどなく流れる汗でシャツが体に引っ付くのが鬱陶しい。五人がかりで押しているとはいえ、段ボール山積みのリアカーはかなり重く、特に上り坂は、たとえわずかなものでも相当しんどい。散々時間をかけた挙句迷路などというマンネリ化したものに落ち着いたクラス発表は、しかしその後の展開は速かった。誰もやりたがらなかった代表は最終的に学級委員長が受け持ち、その直後、壁を段ボールで作るという案が浮上した。すなわち最初の仕事は付近の店から段ボールを大量に集めるということになったのだが、自転車で巨大な段ボールを運ぶのは相当骨が折れ、効率も悪い。そんな中誰かが用務からリアカーを借りてきた。確かにこれならば、一度に大量に運べるのだが、今度は機動力に欠けるという問題があり、その上すぐ近くの店はほかのクラスも合わせてあらかた集めてしまったので、少しばかり遠くに行かなければならない。結果、一時間近くもの間炎天下を歩かなくてはならなくなったのだ。しっかし、なんであの時グーじゃなくてパーを出したかな。このいやな役回りを決めるためのじゃんけんに負けたことを後悔しながらリアカーを引く。最初のうちこそ適当におしゃべりをしながらだったけれど、いつの間にか皆無言で歩くばかりとなっていた。しかし、黙って歩いているといろんなことを考える。受験のこと、里花のこと、そして、小林結奈のこと。彼女は、俺のことを一体どう思っているのだろう。正直言って、俺は彼女のことが好きだ。その感情がいつ芽生えたのかはわからないけれど、どうしようもなく、彼女のことが気になる。だけどそれでいて、どうしても彼女にそのことを言えない。どうしようもなく怖い。そんなことは、これまでにはなかったことだ。里花の時も、その前の彼女の時も、そんなことはなかったはず。
ようやく学校に戻ってくると、教室まで応援を呼びに行く。階段はリアカーでは登れないから、人手がいるのだ。結局最後まで考えはまとまらず、堂々巡りを繰り返していただけの思索を振り切り、階段を一段とばしで駆け上がる。すでに相当疲れていたはず、どこにそんな体力があったのかと、自分でも疑問に思うほどだ。教室ではすでにペンキ塗りの作業が始まっていた。壁に立てかけられた完成品の数を見るに、どうやら作業はかなりの速度で進んでいるようだ。
準備をしていく中で少しずつ増大していく不安。これ本当に間に合うのかな、という疑念がついに表層化したのは文化祭前日のことだった。教室内ではいまだペンキ塗りの作業が終わらず、迷路はその姿の片鱗も見せていなかった。何とかなるだろう、という甘い見込みの結果である。しかも問題はそれだけではなかった。この期に及んでダンボールが足りなくなるという事件が発生し、先ほど数人の生徒がリアカーを引いていったところだ。それでもそれぞれが躍起になり、何とか昼までにすべての壁の下準備が終わった。人間追いつめられれば何とかなるものである。毎年、しかもほとんどのクラスがギリギリで間に合っているのだから、ある意味これも予定通りなのかもしれない。
特別教室棟の階段で、すっかり遅くなってしまった昼食をとる。別に今日は、小林結奈と一緒というわけではない。それぞれが自分の作業に区切りの付いたあたりで食べていたのだが、すっかり取り残されてしまったようだ。しかし教室内はてんやわんやでとても食べられる状況ではなかった。それで思いついたのが、この場所。思った通り、いくらどのクラスもごった返しているとはいっても、ここにはいつもの静けさがある。ただこの静けさは、一人でいるにはさびしい。俺が見つけるまで、小林結奈はこんなさびしい場所で食事をしていたということか。彼女がここで食べていたのは雨の日だけだと言っていたが、雨の日ならばそのわびしさもひとしおだったろう。彼女は、教室で一人で食べるのはさみしいと言っていたけれど、俺にはこんな薄暗いところで、一人でいる方がよほどさびしく思える。少なくとも教室は、こんなに静かではない。自分が加わることができなくても、そこには確かに人の輪があって、それを聞いていると、たとえ錯覚であっても、一人じゃないと思えるのだ。それともそれが、俺と彼女の違いだろうか。俺たちは似ていると、ずっとそう感じてきた。そしてそれは、ある意味本当なのだろう。だけど俺たちは、似ているだけであって、決して同じではない。当然といえば当然のことなのに、ひどく悲しい気がした。
教室に戻ってくるとすでに内部は変貌を遂げ、形だけならすでに迷路の体をなしていた。その後の作業も順調に進み、外の飾りつけも完成する。この分なら明日の朝早くに来る必要はなさそうだ。そんな折、記念写真を撮ろうと言い出したのは誰だったか、今そんなことを言うのも驚きだけど、わざわざデジカメを持ってきた人間が三人もいたことはさらにびっくりだ。近くにいた他クラスの生徒を捕まえて、廊下に並ぶ。教室内にはすでに、とても写真を撮るだけのスペースはない。数の少ない女子を前列中央において、その周りを男子が囲む。俺は最後列一番はじの、一番目立たないところに立った。俺みたいなのがでしゃばるのは空気的にはばかられたのだ。別にそのことに不満はない。ただ、小林結奈の隣にいけなかったことだけが残念だった。
文化祭は二日にわたって行われる。準備には数週間をかけるのだから、かかる時間も労力も、そちらの方がよほど上、そういう意味では準備こそが文化祭なのかもしれない、などと思うのは果たして俺だけだろうか。しかし校内は、活気に満ち溢れていた。普段は存在しない、祭りの雰囲気、校外からの客も来るため人口密度が増したことも相まって、学校全体が騒いでいるようだ。俺たちのクラスの前にも、開始から十数分で順番待ちの列ができる。もともと回転率が悪いのでそこまで忙しくなることはないけれど、それでもゆっくりと休む暇などはない。ようやく一息つけたのは、シフトが交代した時だった。
小林結奈と合流し、どうしようか考えあぐねた結果、とりあえず飯にしようということになった。場所はいつもと違い、日の当たる中庭。一応あそこも通路なので遠慮したのだ。そこには同じように昼食をとるグループがいくつかあって、中にはカップルの姿も見受けられた。たぶん、普段の俺だったら人目をはばかってこんなところで彼女と一緒にいたりはしないだろう。それも特別教室棟から場所を変更しない理由の一つなのだが、今日に限ってそれができたのは、お祭りという普段とは違う雰囲気のためかもしれない。しかし、空はすでに秋の様相で、中庭はもうゆったりと昼をとれる場所ではなかった。風が結構強く、正直寒い。それでも今更場所を変える気にはなれず、さっさと食べ終え、中庭を後にする。
クラス発表はどこもそれなりに込んでいて、並ばずに入れそうなところはなかった。しかし、正直言って並んでまでどこかに入ろうとは思えない。自分で造っておいてなんだけど、少なくとも自分のクラスの出し物には、並んでまで入るほどの値打ちがあるようには思えない。なんていうか、全体的にガキっぽいし、中身も、たいしたものなんてないように思えるのだ。小林結奈がどう思っているのかはわからないが、彼女のほうもこれ入ろうなどとは言わない。結局クラス発表を見るのはやめにして、かわりに部活の発表のほうを見ることにする。クラスの方とは対照的に、部活のほうは閑散としている。毎度のことながらむなしくなるくらい人がいない。自分も去年はパソコン部として発表したし、そういうものだと割り切ってはいても、やはり、その差に拍子抜けする。作品展示では誰かがそこにいる必要もないため、人ひとりいない部屋というのも珍しくなかった。
「そういえば、小林さんは何か部活とかやってたの?」
書道部の展示を見てはいるものの、さっぱりわからず会話できないので、かわりにそんなことを振った。
「吹奏楽部だったんだけど、いろいろあってね。一年生のうちにやめちゃった。そういう大野君はなにやってたの?」
「一応、パソコン部だけど……」
「へえー、パソコン部なんだ。私よく知らないんだけど、パソコン部って、なにするの?」
「あー、まあいろいろパソコンいじったりとか……」
「ふーん、でもそれって、どうやって発表しているの? 確かパソコン部の展示もあったよね」
「あ、まあそれはいろいろと、作品を作って展示してる」
「どんな作品?」
「それはまあ、いろいろと」
「そうなんだ。じゃあ、これからそっち行ってみない?」
いやだとも言えず、彼女が部屋割りの書かれた紙を取り出すのを黙って見守る。やはりそのことは、黙っていたほうがよかっただろうか。いかなければいけないという義務感こそあったものの、それは一人での話であって彼女にパソコン部の展示を見せたくはなかった。しかしそんな願いは届かず、結局パソコン教室に連れて行く。しかしそこの様子は、去年とは少々違った。部屋の外の壁に掛けられた、ゲームという看板。中に入ってみると人がいる。それが誰かはすぐに分かった。部の後輩が教室内で待機していたのだ。こちらに気付いたようで、軽く会釈をする彼に、なにを作ったのかと問う。すると彼は、マクロでゲームを作ったと答えた。それも全員で一つのゲームだという。そしてそれは、実際にやってみるとかなりのクオリティーであることが分かった。去年までとは、もはや比べ物にならない。当然、そこにかけた時間と労力も去年の比ではないのだろう。おかげで彼女にも、見栄を張ることができたようだ。そのことも含めパソコン部のやる気に安心する反面、どうしようもない敗北感、虚無感にも襲われた。聞いたところによると、これだけのものを作るために数か月を要したという。それに対して、俺は去年、いったい何をやっていたんだろう。俺たちは去年、部活などといいながら、その実暇を持て余しおしゃべりをしたりトランプなどのゲームをしたりしていた。それが今年は、これほどまでの作品を作り上げた。しかもそれをやってのけたのは、去年一年ともに活動してきた後輩たちなのだ。これではまるで、俺たちが彼らのやる気を抑圧していたようではないか。それが錯覚なのだとわかっているのに、罪悪感と嫉妬心にとらわれる。
文化祭二日目の午後には、有志による一般発表がある。それは文化祭のメインイベントみたいなもの。自分の持ち場もそっちのけでほとんど全員が体育館に集まるので、校舎全体からほとんど人が消えていなくなる。たいして体育館内はさながらライブ会場のよう、暗がりに色とりどりの光が交錯し、すさまじい音楽のため会話もろくにできない。観客たちは設けられた椅子に座っているのだが、全校生徒の数よりも多い椅子はほとんどが埋まっている。俺と小林結奈も、そんな体育館の一角に腰を落ち着かせていた。正直興味ないし、なにがおもしろいのかもわからないのだがほかにやることがないのだから仕方がない。展示物は昨日のうちにあらかた見てしまったので、文化祭だというのに今日は朝からおしゃべりに興じていた。しかしいい加減話題も尽きてしまった。そんなわけで、別に見たくもない発表を見ている。
そんな一般発表が終わると、皆ぞろぞろと外に出る。小林結奈とは、そこで別れた。彼女のシフトはこれからなのだ。しかしそうなると、本気で何もやることがない。仕方なしに、そこらをぶらぶらと歩きまわる。そんなことをしていると、目の前から歩いてくる里花を見つけた。隣には樫木の姿もある。向こうもこちらに気付いたようで、一瞬にして固まる。そういえば向こうは、俺が関係に気付いていることを知らない。しかしここまできて引き返すのも癪なのであくまでも気づかなかったということにして二人の脇を通り過ぎようとする。だが何にもわかっていない里花は、自ら声を上げた。俺が詰め寄ってきたと誤解したのかもしれない。
「違うの、これは、ただ、偶然会っただけで」
もうそんなことはどうでもいいのだが、彼女は言い訳をする。しかし夏祭りで二人が一緒にいるところを見ているわけで、そもそも俺の中では、里花との縁はとっくに終わっているのだ。ならばもう、いっそのこと突き放してやろう。そういうことはあまりしたくないのだが、里花にはもう樫木がいるし、別に悪いこととは思えない。
「いや、もういいよ、俺なんかより、樫木と一緒になればいい。俺だってもう、里花と一緒にいるのは、なんていうか、疲れたんだ。たぶん、もうずっと前から」
「そんな、ちょっと一緒にいたぐらいでそんなのって……ひどい」
「ちょっとって、夏祭りにも一緒に行ってただろ」
その言葉を聞き、里花の顔が見るからにこわばる。もしかしたら見間違いだったんじゃないかという希望的観測じみたものがわずかに残っていたが、やはりあれは里花と樫木だったらしい。
「どうして、それを?」
「その時、俺も偶然あそこにいたんだ。小林結奈と……わかっただろう。俺たちは、もうとっくの昔に終わっていたんだよ」
そう、終わっていた。今にして思えば、そのことを、もっと早く里花にも言ってやるべきだったのかもしれない。そうすれば、彼女も後ろめたい気持ちなんて持たなくても済んだのではないかと、少しばかり後悔する。
俺はそのまま、彼女のもとから立ち去る。逃げたと言われれば、確かにその通りなのかもしれない。ただ、もうこれ以上あの場に踏みとどまることは耐えられなかった。
打ち上げをやろうという話が出たのは終わってから二日後のことだ。しかもこういうことに関してはやたらと行動が速いらしく、その数日後には店と日取りが決まった。いいのか受験生と思いながらも、参加者リストに名前を書く。別に本気で行きたかったわけじゃない、ただ付き合いとして行っておいた方がいいと考えただけである。去年までは用事があるなどと適当な理由をつけていかなかった。それが今回行く気になったのは、金銭的に余裕があったことと、もちろん小林結奈の存在も大きい。そんなわけだから、こういう学外での集まりに参加するのは今回が初めて、打ち上げの日も、楽しみというよりは憂鬱という感情のほうが大きかった。しかし、そんな感情すらも、日々の中で忙殺されていった。とにかく勉強しないと、という強迫観念がいつもついてまわった。そもそも文化祭の終わった今、勉強をする以外にやることがないのだ。しかし同時に、なぜ勉強するのか、という疑問が消えることもない。人それぞれ得意分野があるのに、なぜ勉強などという社会に出たら全く使わなさそうなカテゴリで評価するのか、その答えらしきものは、どこにも見つからない。もっとも、それに甘えて勉強しないなどという選択肢は捨てることにした。だいたい勉強したくないのなら工業高校なり専門学校なりに行けばよかったのだ。そうすれば少なくとも、大学受験をする必要はない。いくら学歴社会だといっても、大学進学率はせいぜい五割かそこら、なにもいかなければならないわけではない。それでも俺が勉強しているのは、俺自身がそう決めたから、のはず……でも、本当にそうなのだろうか。思えば、俺が本当に、自分自身の考えで決めたことなんて、どれほどあっただろうか。そんなもの、数えるまでもない。俺はただ、示されたように、流れるままに行動していた。俺の進んだ筋道は、常に、親に、教師に、周りの大人たちによって用意されてきたものだ。別にこうしろああしろと命令されたわけではない。彼らは常に、遠回しにさも自然な風を装いながら俺の行く先を決めていった。俺の人生だから自由にしていいんだとか言いながら、その実俺の将来を定めていったんだ。それはまるで、道にあらかじめ道路標示を立てておくようなもの、それによって、自分たちの望むように誘導する。しかし、それを知ったところで俺はいったいどうすればいいのか。小林結奈の言った通りだ。いくらそれに反発しようとしても、進んできた道を戻ることはできない。それでも無理に引き返そうとすれば、それで不利益を被るのは自分だ。足掻こうにも、俺はすでに、見えない糸で雁字搦めなのだ。
打ち上げ会場である焼肉屋の駐輪場は、すでに自転車であふれかえり、自動車のスペースもいくつか占拠していた。その近くをたむろする数十人のクラスメート、無論そのすべてに見覚えがあるのだが、ぶっちゃけ名前までは覚えていない。別に名前がわからなくても、適当に受け答えするぶんにはさして困らないからだ。さして興味もないことなので、そうそう覚えられない。
それからほどなくして予定の時間になり、みなしてぞろぞろと移動する。奥の座敷に案内され、幹事が、じゃあ適当に座ってというも、やはり最初はだれも座ろうとしない。俺は、例えばバスの座席決めなんかの時にも、とにかくすぐに自分の場所を決める。俺には一緒に座るような友達はいないが、あとになれば誰かの隣を選ばなければならなくなる可能性がある。そうなったとき、誰かの隣に勝手に名前を書くのはなんだか気まずい。だから、そうなるよりも早く自分の名前を書き込んでおくのだ。そうすれば、たとえ隣の席にだれが来たとしても、それはそいつの責任、俺の知ったこっちゃない。だから今回も、皆が探り合いをしている間にさっさと隅の席を陣取る。もちろん二番目以降にだ。さすがに一番で座る度胸はない。数人がそうやって席に着くと、それにつられて全員が動き出した。小林結奈は、ほかの女子と一緒のグループになって座った。普段はまったく話したりもしていない面子とだ。要は流れというやつか、一人だけ浮くのを避けるための、簡単な手段だ。
あらかじめコースで予約していたらしく、しばらくしてから料理が運ばれてきた。最初のうちは、適度に話なども交えながらそれらをつつく。それぞれが食べ過ぎないようにと気を配りあっているさまが、実によくわかった。しかししばらくすれば、皆それなりに腹も膨れ、食べるのに飽きたらしい何人かの男子が、ドリンクバーの飲み物で何やら『調合』を始めた。いくつかの飲み物を混ぜ合わせ、それを誰かに勧める。だいぶまずそうだ。もちろん最初は飲むのを嫌がるのだが、何人かからピンポイント攻撃を受け、結局最後には飲み下す。容器が空になると、またしても誰かがそれをドリンクバーに持っていった。そんなことを何度も繰り返すうちにどんどんエスカレートしていき、テーブルに置いてあった七味唐辛子を大量に投入したり、もしくは焼き肉用のたれを流し込んだりする。そんなやり取りを、俺はただ無言で見ていた。こんな馬鹿げたことに付き合う気はさらさらない。しかし一度目をつけられたら高確率で飲まされるになるので、黙って傍観しているのが一番だ。実際、そうやっていた俺は最後まで目をつけられることなく、平穏無事に打ち上げは終了した。
冬
「へえ、こんなところにこんなお店があったんだ」
『バウム』に入るなり、小林結奈は開口一番そう言った。どうやらここから俺の意図を悟ってくれることはないらしい。世間的に言えば、今日はクリスマスイブ、さらに追加するならば、今日は高校が終業式で、明日から冬休みということになる。夏休みと違い冬休みは間に正月を挟むので補習のある日にちの割合は少ない。しかしもちろん、勉強漬けになることには何も変わらない。正月明けにはいよいよセンター試験、これまでやってきたあらゆる努力の目的である『受験』というものの、最初の関門である。とうとうここまできてしまったという思いもあるが、それ以上に、早く終わってほしいという思いの方が強い。直前のこの時期に来て、俺の精神はだいぶ限界が来ていた。しかしそれでも、勉強することをやめるわけにはいかないのだ。もう、なぜ勉強するのかと疑問に思うのはやめにした。小林結奈の言うとおり、やるよりほかにない。ならばいっそのこと、俺たちはその努力をもって試されているのだと思い込むことにしたのだ。しかしそれでも、息抜きは必要だろうし、そして何より、彼女と、曖昧な関係のままでいることに耐えられそうにない。だからこそ、告白しようと思った。決心が揺らがないうちにと、終業式の日に遊ぶ約束をし、そうしてやっと、その日がやってきたのだ。しかしそれまでの間にも、俺の心はぐらぐらと揺れ、幾度となく誘ったことを後悔した。今だって、本当に告白するのかと内心で問答を繰り返している。しかし、センター明けから特別時間割になるので、今この時を逃したら次はいったいいつになるのかもわからない。でもだからといって、そうそう簡単に口にできるはずもなく、向かい合って食事をとる俺たちの間には、いつもと同じような会話しか成り立っていない。それが歯がゆく、それでいて現状に満足する自分がいることも否定できない。
聖夜ということもあり、店内にはほかにも何組か男女の姿が見受けられる。その中で俺たちだけが浮いている感じだ。そんなことを考えてもたもたしているうちに食事は進み、結果、本題に入る前に食べ終わってしまった。そうなった以上長居する気はないようで、小林結奈は伝票をもって席を立つ。それを引き留めるうまい言い訳も浮かばず、結局俺もそれにならうしかなかった。
「ねえ、これからどこ行くつもりなの?」
彼女にそう聞かれ、まったく考えていなかったことに気付く。告白しようという思いで頭がいっぱいで、その後のことについてはまったく頭が回らなかったのだ。彼女のほうはというと、当然俺がこの先のプランも考えていると思っているようだ。結局俺は、とっさにゲームセンターを思い付く。春に、里花と最後のデートで行ったというありがたくない場所だ。それでもそれ以外で思いついたのは、これまた同じ理由でありがたくない映画館のみ、ゲームセンターのほうを選んだのは、あの時そこへ行くと決めたのが俺だからという自分でも意味不明の理由と、どうやら彼女がゲームセンターへ行ったことがないらしいというなんかどこかで聞いたことのある理由のためだ。それでも彼女は初めてのゲームセンターに期待しているようである。それならそれでまあいいか。
とにかく、いろいろとやった。おそらく、受験前に遊ぶのはこれが最後になるだろう。そしてそれは、高校最後であるということとほとんど同義だ。だからこそ、ただひたすらに遊んだのだ。多分もう、この時は戻ってこない、そんな予感がしていた。
そんな風に遊びまわったのだから、財布の中も随分とさみしくなった。もともとそんなに入っていたわけではないし、この手の場所は結構出費がかさむ。そんなわけで、最後に残ったのはたったの二百円、どうせならそれも使ってしまおうと、なにをするか周りを見回す。そんな時、いつか見た例の品が目に飛び込んできた。箱の中に整然とたたずむそれは、以前に、何とか必死にとろうとして、結局取れなかったくまのぬいぐるみだ。あれからもう半年以上経っているというのにまだそこにあるということは、なるほど結局誰もあれを攻略することはできなかったということか。実際俺もあれをとるために二千円以上つぎ込み、結局全くのムダ金に終わったという苦い経験がある。だけど、いまならば、もしかしたらこの難攻不落の城を陥落させることができるかもしれない。そんな何の根拠もない自信が湧き、実に八か月ぶりに、この要塞に挑むことにした。後にして思えば、そんなことは限りなく不可能に近いと認めざるを得ない。前回二千円以上つぎ込み結局どうにもならなかったものが、たった二百円でどうにかなるはずがない。しかし妙な錯覚に陥った俺は、何の疑いもないままなけなしの金を投入した。結果は言うまでもなく惨敗、妙な自信は、疑う余地もなく錯覚であった。しかしそんな行為も、まったくの無駄ではなかったようだ。本当に、人の持つ才能というのはわからないものである。あるいは神様の気まぐれだろうか。俺がやっているのを見て、おそらくはお試し感覚で挑んだのであろう小林結奈が、たった数回で、その難攻不落の城を落としてしまったのだ。ぬいぐるみを抱えて喜ぶ彼女、本当は俺がそれをプレゼントしてやりたかったのだが、どうやらそんな真似は一生無理そうである。俺にクレーンゲームの才能がないことは、もはや疑いようがない。まあそんなことは悔しくもなんともない。それよりも問題なのは、俺が今日のために用意していたクリスマスプレゼント、デパートで買った安物のストラップが、彼女の持つ大きなぬいぐるみに比べてあきらかに見劣りしているということだ。
予定の時間まで余裕があり、なにをするでもなく暇を持て余していた。二月の頭にある私立大学の受験は、一応は滑り止めということになっているが、なにぶん国公立がギリギリのため落とすわけにはいかない。しかしいまさらあくせくしても仕方がないし、今勉強して脳内のエネルギーを使うのはまずいので、結局やることがなくなった。そんな折、母が思い出したように話を切り出した。
「今日お母さん町内会の会合で遅くなるもんで、お金渡すから帰りに何か食べてきてくれない?」
「んー、わかった。ていうか会合って何するの?」
「今回は、町内会でやるお祭りについてなんじゃないかな、あと一か月だし」
「あれ、お祭りって夏休みにやるんじゃなかったっけ」
「何言ってるの、この町の祭りは祈年祭だから、やるのは今月の終わりよ。たしか今年は二十七日じゃなかったかしら。ちょうど受験が終わった直後だし、行ってみたら? ここ数年全然行ってないでしょう」
その提案に、少しばかり思案する。確かに国公立の前期日程は終わっているが、まだ後期が残っている。合格していれば受ける必要はないのだけれども、残念ながら落ちている可能性だって十分にある。とりあえずは、考えとくと言葉を濁らせることにした。どのみちこれから私立の試験なのだ。そんなことを考えている余裕などない。だいたいなんで母さんは今こんな時にそんなことを言うんだ? そういうことは、前もって言ってくれないと、こちらとしても困るんだが。心の中でそう悪態をつきつつ、はていったい何で困るんだと逆に自問する。でもそんなことも、今はどうだっていい、今は何よりも受験に集中しなければならない。もしここで落ちたりなんかしたら、それこそ困ったことになる。しかし、それでいったい、どこをどう困ることになるのだろうか。ここの所押し殺してきた疑問が、再び湧く。これまで幾度となく考えてきたけれども、結局答えは見つかっていない。不利益を被るのは自分だという小林結奈の言葉をその答えとしていたけれど、果たしてその不利益とは、一体何なのだろうか? 将来出世できない? でも俺は、えらくなりたいわけじゃない。将来たくさん金を稼げない? 別に金持ちになりたいわけじゃないし、方法はほかにいくらでもある。結局のところ、受験というものに対する、目的も、理由も、何もない。当然だ。俺はただ、用意された道筋をたどっていたにすぎないのだから。でも、だったら今更やめるのか、と問われたならば、答えは否である。何か将来の夢があるわけではない。特別やりたいこともない。それに仕組まれたとおりに動けばだれかに文句を言われたりしないし、だからその通りに動く……ああそうか。俺がこうしているのは、それが一番楽だからか。こうやって、敷かれたレールを走っていれば、何も考えなくていい。それはとても安易な考えで、だから俺みたいになんとなくで生きてきた人間は、みんなこの道を歩んでいくんだろう。そんなことを思った俺は、無論、だから何をするでもなく、そそくさと準備を始めた。
両側に縁日の並んだ散歩道は、思いのほか込み合っている。祈年祭は穀物の豊作を祈るお祭りのはずだったが、そんな感じは全くせず、雰囲気は夏祭りとたいしして変わらない。夏との違いといえば、歩いている人たちの服装くらいなものか。俺もダウンジャケットを着こんでいるし、隣にいる小林結奈もコート着用だ。彼女を誘ったのはつい昨日のこと。前期日程が終了し、その出来もよかったので久しぶりに行ってみるかとは思ったものの、一人で行くのもさびしいと誘ったのだ。夏祭りの時に行ってみたいと言っていたのを思い出し、電話してみた。俺と彼女は志望する大学も違うので、たとえ結果がどうなろうと会うこと自体少なくなるだろう。だからその前に、今度こそ彼女に告白をするつもりでいた。ポケットの中には、クリスマスの時に結局渡せなかったストラップが入っている。どうしようかと迷ったけれど、これは彼女のために買ったものなので、いまさらながらも彼女にプレゼントしようと考えたのだ。しかしいざ渡そうにも、そのタイミングがなかなか見つからない。彼女とこうやって一緒にいること自体ずいぶんと久しぶりのため、会話自体は普段に比べても弾んでいるものの、やはりそう簡単に言い出すことはできない。そんなことをしている間にも時は流れ、いつしか人もまばらになってきた。もうお祭りも終わりなのだ。俺たちも、駅に向かってゆっくりと歩く。俺の家はその途中にあるのだが、駅まで彼女を送っていくことにした。その間もずっと、何気ない会話を続ける。だけどもしかしたら、これが彼女と一緒に過ごす最後の時間になるかもしれない。そんないやな予感が、ふと脳裏をよぎる。
「今日は楽しかった。ありがとう」
彼女がそう言いつつ立ち止まったのは、駅の構内。ここで引き止めなければ、彼女はもう行ってしまうだろう。
「あの、さ」
「ん、なに?」
「えっと、その、なんていうかな。うん……高校、卒業してもさ、ずっと、一緒にいような」
「うん、ずっと友達でいようね」
彼女はそう言って微笑んだ。その顔は、とてもかわいかったけれど、その言葉は、ひどく俺の心を傷つけた。
しばらく学校にすら行っていないのに、いきなり登校して卒業式だなんて言われても、正直何の実感もわかない。ただ唯一わかっていることは、これでもう、この制服を着ることはないだろうということだ。用意を済ませた俺は、忘れたものはないかと部屋の中を見回してみる。そんな折、ふと目に入ってきたのは例のストラップ。結局渡せずじまいに終わったそれは、もう彼女の手に渡ることはないだろう。すぐに目を離し、階段を駆け下りた。