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甘いだけの小説は書けるのか (雪緒)

2011年07月04日 (月) 08時38分 - 雪緒

 

幸せだった、君の傍らにこうしていられることがこんなにも幸福だと知った。血に乾いた日々では知らなかった充足感、己の身の内にまだ鬼ではない人らしさが確かに存在しているという衝撃にも似た感動。
手を伸ばせばいつでも触れ合えるわたしと君の距離、あの人が雨の中で失ったぬくもりを今わたしは確かに抱いている。
ゆめゆめ他言するな―
愛していたのでしょう、土方さん。なぜあの女を連れて逃げなかったのですか。
あんな恋だけはしたくなかった。こどもじみた思いだと笑われることにも慣れていた。あいした人を失って、それでも立っていられる勇気など私は欲しくなかった。
ただ幸せになりたいだなんておこがましい願いだろうか。たとえそうでも、それでいい。それでもわたしはまだ君を忘れたくない、君とともに居たいと心が疼いている。だから、君を失う時の悲しみがせめてこれ以上深くならないように、命を張ってわたしをあいしていたと刻み付けてよ。

呼吸ではなく唄だと音にならずともわかる。唇の動き、君の表情、君の声を全部知っているよ。君を誰よりもあいしてる。不意に胸にしみいる旋律に涙がこぼれそうになって息を止める。涙はこぼれないけれど視界を覆って君の姿をにじませた。君はそれでも綺麗だった。
しあわせなのだと思う。しあわせゆえに涙した。
「楓」
君がわたしを少しでもあいしてくれるならばどうかわたしに刻み付けて。
唄が止んで君は眠たそうに瞼を上げた。わたしを探してさまよった瞳はやがてわたしを映し出して止まった。ほころぶように君は笑う。日焼けを知らぬ白い肌、緑の黒髪と紅い櫛、赤い唇。唇が開いてわたしを呼んだ。喉が渇きましたとかすれた声で囁いた君のくちびるの間にわたしは水を流し込んだ。白い喉が揺れて水が通り抜けたのだと知る。
「何の唄を歌っていたの」
子守唄ですと君は眠っているように答える。呼吸さえも唄っているように聞こえて無性に愛しかった。わたしは君に口づけをしない。君の吐息をふさぐよりも、君の声をすっと聴いていたいんだ。
総ちゃんが少しでも安心して眠れますように、と願っているのですよ。江戸の姉のように君は得意そうに笑った。
「わたしはこどもじゃぁありませんよ」
わたしがふてくされたようなそぶりを見せると君はくすくすと笑った。こどもですよ、と君は私の頬に手を添える。手にできた竹刀たこが頬をくすぐり、ああこれで私と同じ人斬りなのだという事実に驚く。甘いものが好きだとか、稽古が嫌いだとか、一緒に祭りに行って隊務をさぼっただとか、こうしてともにいるだけで満たされてしまうこととか。それは似ていて構わないけれど、君の戦いに臨む姿はとても綺麗だけど、できれば戦場で私の背中を守るよりこうしてわたしの膝で眠ってほしい。
「ねぇ楓、一緒に寝てください」
ほら、甘えん坊と君はからかった。甘えていいでしょう、あなたの全てが愛おしいのだから。
「わたしをあいしてください」
君はわたしの背中に手をまわして幼子にするように撫でた。触れた場所が熱を持っているようだった。君が再び目を閉じる前に、耳元で囁くようにわたしは乞うた。
「あいして」
喉が渇いたとか、おなかがすいたとか動物的本能のように君のあいを求める。君の居たしるしがわたしの中でいつまでも疼くように願っている。君をあいしたことを後悔させないように最期の瞬間までわたしに君を刻み付けて、焼き付けて。そうしたらわたしはその痛みで君を失った日々を埋めて過ごすから、君のもとに逝くまで君のことをあいしつづけるから。
「君が生きている限り」
わたしは君をいつまでも抱きしめていた。君の唄声がいつまでも小さな部屋の中に響いていた。
 


るりさんがゆっくり書いてくれといったのでゆっくり書きました。熟年の老夫婦のようにのんびりとした物語になってしましましたね。精神年齢にあっていますから書きやすかったです。
一応「泡」の「雨」のスピンオフです。これから頑張って楓と総ちゃんの物語を書いていきたいです。よろしく御叱正願います。

 

最終更新:2012年12月01日 11:19