2008年 「読書」周辺を振り返る
「世界」「人間」の捉え直し、諦念と熱気(さらに、就活、入院などの体験を経つつ)
「常識」「通念」の捉え直し、視点の転換
「空間」「世界」の生成、真に論理的な言語
「音楽」の歴史的な視点
などなど
悩みます「読書 of the year 2008」は、不本意ながら、、、
「現代人の論語」 呉智英
(不本意な理由
-原典でなく解釈本
-しかも、論理や史実の正確さの欠如
-そもそも、呉氏の思想は少し偏っている(まぁ、偏ってない思想も珍しいが))
選出された理由
- 面白い!
- 「論語」というド古典から、血の通った人間像、そして苦悩する思想家の姿が浮かび上がってくる。
- 「論語」の重要性に、「歴史上初めての思想書である」という明快な事実が挙げられている。
二千五百年前の人類思想史上最初期の思想を知る p34
西欧の思想史がホワイトヘッドの言うが如くプラトンの注釈の一系列であるならば、東アジアの学問・思想の歴史は論語の注釈史ともいえよう」 p273 (みすず書房、宣伝用パンフレットから引用)
- この本から、広大な論語解釈の世界への扉が開かれる。
- かつ、他の解釈本よりも、現代訳と、様々な視点からの解釈に充実している。
- この本から、論語のみではなく、詩経や聖書、さらに白川静、谷崎、中島敦、ワイルドなど、幅広い本へとリンクされる。
※面白いというだけではなく、読書にさらなる広がりを与えるという意味でも、この本が今年の一番だと思った。
孔子の思想
を語るのは恐れ多いけど、目に付く範囲でやってみよう。
力の足りない者なら、進めるだけ進んでそこでやめる。 p182 ※1
出来るとこまでやってみよう!
君子
孔子の思想は、広く「人間」(一般的に人)について語られたわけではない。
君子というものは、どういうものか、主に為政者を目指す人に対する言葉であった。
君子と小人の対比
君子 ①為政者 ②教養人 ③徳の道を歩む理想主義者
小人 ①庶民 ②無教養な人 ③徳の道に外れた人 p81
(オルテガの言う「貴族」と「大衆」との対比に近いと思う。吉川幸次郎は「君子」を「紳士」と訳す。「紳士」だと②と③の印象が際立つように感じる。)
また、現実主義的な思想がとても強い。
(よくイメージされる儒教=厳格主義的な教え--親を敬うげべし、お上に逆らうべからず、みたいな--は、論語にはほとんど出てこない。厳格主義的性質は後の経学儒教、もしくは日本における朱子学でとても強くなった。--おかげで、荻生徂徠みたいな人がでてきたが)
(ついでに、現実主義的で、弟子との対話篇なので、柔軟な思想が「論語」には描かれる。その場その場で言っていることが変わる、とも採れる)
先生の(えてして無意味な抽象論に傾きがちな)人性・天道についてのお話は聞くことができなかった。 p39 ※2
生前のこともわからないのに、どうして死後のことがわかるか。 ※3
不可知の世界の存在を否定はしないが、まず可知の世界に向かって生きよう、という態度である。
礼、楽
文化的なもの。文化の体系(p46)。。。本当によく出てくる言葉。
強圧的な政治による指導を行ない、刑罰による統制で秩序の実現をはかるなら、民衆は抜け穴をくぐることに心を砕くようになる。
徳をもって指導し礼をもって秩序の実現をはかるなら、廉恥心が涵養され民衆は自ずと正しくなる。※4
礼とは、必ずしも煩瑣な礼儀作法のことではない。それも含んだ、豊かで厚みのある文化の成熟である。 p37
魯の国では、朔日(月の初め)を宗廟(祖先の位牌を置く所)に告げる「告朔の礼」が廃れかけていた。それでいて、宗廟に餼羊(犠牲の羊)を供えることだけが形式的に続けられていた。子貢(弟子の名前)は、形式だけのものとなった「告朔の餼羊」をやめさせようとした。しかし、孔子は言う。「子貢よ、お前は羊一頭の無駄を惜しんでいる。しかし私は伝統的な告朔の礼が完全に廃絶してしまう方が惜しいのだ」 p143 ※5
孔子は顔回の死に慟哭したのだ。※6
当時「慟哭」は最近親の者の死にのみ許された悲しみ方であった。その礼の作法を孔子が破ったのである。 p164
礼の作法は、ときに形式主義的だが、孔子は、その形式主義的な礼を必ずしも良しとはしていなかった。
仁
仁もよくでてくるが、僕はイマイチ分かっていません。
白川静によれば、「仁というのは、孔子が発明した語であるらしい」。孔子以前の用例はきわめて少ない。「仁」を「二人」の「人」の会意文字とするのも後世の付会の説で、もとは敷物の上で人がくつろいでいる姿を表わす。これが孔子によって、「人」と「仁」の同音であることから、個々の人間を離れた普遍的・全体的な人間を意味する語として使われるようになった。別言すれば、抽象化された人間が、思想史上初めて登場したのである。
しかし、その仁は、人間からかけはなれたものではなかった。求めさえすれば、そこに現れるような、そういう人間性なのである。 p267 ※7
(孔子が弟子たちに、それぞれの志を聞いた。子路が答えた後)顔回が穏やかに師の問いに答えた。「私は、善いことを自慢することなく、苦労を人に押しつけない、かくありたいと思っています」
孔子は満足そうにうなずいた。子路が聞く、「では、先生の志を聞きたく思います」。
孔子が答えた。「老人には安らぎを、友人には信頼を、若者には敬慕の念を、こういう気持を抱かれるようになりたいものだね」 p128 ※8
中庸
徳の道を歩む理想主義者は「中行」であるのがいい。この言葉は、他に用例はないが、「中庸」と同義である。調和・均衡がとれているという意味だ。中庸というと、我々はえてして、微温的とかどっちつかずとかの印象を受ける。現在はしばしばそのように使われるからだ。しかし、それは中庸ではない。中庸とは、本質を衝いているが故に偏っていないことを言う。譬えてみれば、レンズのピントがぴたりと合い、前後左右にずれていないことである。中庸はしばしば相対立する二項目を均衡よく備えている。例えば、文武両道であり、大胆かつ細心である。 p100
天(中国の思想)
天とは、人間を超えた存在で、孔子だけでなく、古代中国では、天人相関思想が一般的だった。地上で行われる所作は天によって与えられ、天変地異などは天の命を知るヒントとなった。また、天から来た(天命を与えられた?)人を天子と呼び、人を治めるものは天子であることが望ましかった。(遣隋使で「日出る処の天子」から始まる手紙に隋の皇帝が怒ったとされるのは、「日没する処」が屈辱的だったのではなく、東の野蛮な夷国に天子などいるわけがない、と怒ったのである。そもそも中国に太陽信仰は薄い)
諸王は天から命を受けて国を統治し、行いが悪ければ天から罰を当てられる。人は、災害や夢、卜占などによって、天の声を聞こうとしていた。(中国がスゴイのは、強壮な王は天の意思をも捻じ曲げられると考えていたところだと思う。王が怒り狂って天に雷を落とさせたり嵐を呼んだりする描写が古書のなかに出てくる。人は神々をも越える。)
(匡の町で兵士に包囲され、五日間も拘禁された。命を落としそうな危難の中で孔子は言った)周王朝の祖であり文化の創設者でもある文王は既に没して久しいが、その文化はこの我が身に伝わっているではないか。天がもしこの文化を滅ぼそうとするなら、後世の私がこの文化に関与することはできなかったはずだ。天がこの文化を滅ぼそうとしないのなら、匡の連中のごときが私をどうすることができようか。 p117 ※9
顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼせり、天予を滅ぼせり p160 ※10
(聖書の「エリエリレマサバクタニ」と似てる)
五十而知天命(五十歳を迎えると天命の不条理を知ることにもなった。) p240 ※11
キャラクター~孔子と弟子たち
「論語」は他の古典と同様、口頭にて伝わり、さらに対話形式をとっている。そのため、弟子と師匠の姿は、なにかと微笑ましい。孔子は弟子の話を聞いたり、弟子に話をするときに、笑うことが少なくなく、その印象も和やかだ。また、豪胆な弟子はなだめ、気の弱い弟子にはケツを叩いてやるような言葉を掛けている様子もなかなか面白い。
子路が先生に質問した。「聞いたことはすぐ実行すべきでしょうか」。先生がお答えになった。「父や兄がいらっしゃる。聞いただけですぐに実行していいものではない」。別の時、今度は冉有が同じように「聞いたことはすぐ実行すべきでしょうか」と質問した。すると今度は、「聞いたらすぐ実行するがよい」とお答えになった。二人に対する答えがちがうことに疑問を抱いた公西華が先生に尋ねると、こうおっしゃった。「冉有には覇気がないから、すぐ実行せよと言ったのだ。子路は人の倍も覇気がありすぎるから、慎重に実行せよと言ったのだ」 p181 ※12
絵に描いたような聖人ではなく、生きた人間の生生しさが伝わるところが良い。
子曰く、学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。 p28 ※13
謀反人の立てた臨時革命政府の首相として仕えようとしていた。 p20 ※14
学びてときにこれを習う、をクーデターの予行演習と訳す大胆な解釈もある。とりあえず、勉強してときどき復習するは陳腐すぎる…
また呉氏は、人知らずして恨まず、という言葉に、人に知られずに苦悩する孔子の姿を見ている。実は論語の中に一番多くでてくるのは、これと同旨の文章である。
世界を理解すべく思想を持った人を、だが、その世界は理解してくれない。しかもなお、思想は人を魅了し、思想の魔力は人を悩ます。こんな奇妙な「思想なるもの」に人類最初に目覚めた孔子は、目覚めた者の孤独と悲哀を身にしみて感じていたのである。 p32
多分、呉氏は、自分の姿も孔子に重ねているのだろう。
子路
果断、剛直、熱血。男らしいにも程がある。滑稽だが憎めない奴。「論語」に出てくる弟子の中で、一番人気は子路。
魯の卞の游侠の徒、仲由、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人孔丘を辱しめてくれようものと思い立った。似而非賢者何程のことやあらんと、蓬頭突鬢・垂冠・短後の衣という服装で、左手に雄鶏、右手に牡豚を引提げ、勢猛に、孔丘が家を指して出掛ける。鶏を揺り豚を奮い、嗷しい脣吻の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾そうというのである。 中島敦「弟子」冒頭
蓬頭突鬢:よもぎのように乱れた髪とつきでた鬢髪。
脣吻の音:口先だけで実態のない言。
(孔子が弟子たちに、それぞれの志を聞いた。)子路は答えた「自分は、愛用のバイクや革ジャンをツレに貸してやった以上、ボロボロにされて返って来ても文句言うようなちっちゃい漢にはなるまいと思っています」。 ※15
顔回の顔にも孔子の顔にも、いやはや、子路の奴らしいなという微苦笑が浮かんでいたろう。 p127
子貢
頭脳明晰。商売上手。孔子のよき理解者。(孔子の死後、ただ一人6年間、お墓の傍に庵を建て暮らしていた。p154)ただ理論に囚われたしなめられることもしばしば。前出「告朔の礼」で羊を惜しんだのは子貢。
また、歴史認識が素晴らしい。
(子貢が500年前の殷の紂王について言った)紂王の善しからざる悪逆ぶり(酒池肉林)は、いろいろなものが伝えられてはいるが、実はそのように甚だしいものではない。だからこそ、君子たるものは下等な位置にいることを嫌悪するのだ。なぜならば、その社会の全ての悪の責任が、自分のものであろうとなかろうと、ことごとく自分に帰せられるからである」 p147 ※16
怜悧なる子貢は、歴史を客観的に見る目を持ち、しかも歴史から学ぶことも言っていた。下等な位置にいると、水と一緒に汚物も下流に流れ込むように、自分に責任のない悪も自分に帰せられるのである。為政者をはじめとする指導者たる者は、だからこそ下等な位置にいてはいけないのだ、と。 p148
顔回
仁の達成者。亜聖。一を聞いて十を知る。落ち着き方が半端じゃない。
先生がおっしゃった。立派だな、顔回は。一椀の飯、一椀の汁、路地裏暮らしだ。他の人ならそのつらさに耐えられないだろうに、顔回は徳の道に生きる楽しさを改めようとはしない。立派だな、顔回は。 ※17
顔回と一日中話をしても、ただはいはいと聞くだけで、まるで愚か者のようだ。しかし、私の部屋を退いてくつろいださまを見ると、徳の道を生きているとちゃんと思わせる。愚か者のはずがなかろう」
しかし、仁の達成者である顔回は早死にしてしまう。孔子は慟哭する。天は非情なり。
呉氏の思想に対する言及
思想に関する言及は大きく「孔子」「論語」を越えて、ぐいと自分の方へ引き寄せて語っているように感じる。呉氏の強い「思想」への想いがある。
興味深いのは、弟子の学団の間で既に孔子の思想の解釈をめぐって意見が分かれていることだ。思想家の一個の人格を離れたとたん、思想はばらばらに分かれ始める。仏教だろうと、キリスト教だろうと、国学だろうと、マルクス主義だろうと、あらゆる思想が免れ得なかった宿命が、人類最初の思想家である孔子の思想に既に現れているのだ。それは、必ずしも悪意ある後継者による原テキストの改変のためではない。思想家は、自分の前に立ち現れた<不条理としての全世界>を思想の力によって押さえ込んだと思う。しかし、押さえ込んだのは思想の力ではなく、思想家の力である。思想家を思想家たらしめている人格の力である。そうであればこそ、思想家の死後、必然的に、思想はまた元の断片に戻ってゆくのだ。 p201
人知のさかしらを捨てよ、無の中に真実があると悟れ、という老子の思想は、現実に対して絶望した知識人をしばしば魅了してきた。これらの知識人を隠者という。論語の中にも、特に微子篇に多くその姿が描かれる。おそらく、彼らも若い時は理想に燃え現実の変革を志したのだろう。しかし、思想は無力である。現実を変革するどころか、孔子がそうであったように、自分自身の生命さえ危うくする。志は挫折し、屈折した思いは逆説に満ちたニヒリズムに傾斜してゆく。 p270
最後に、呉氏による本書の説明で、このレジュメを〆させていただきます。
本書は、論語の章句を編んだ教訓集・名言集ではない。二千五百年前、人類史の中に初めて登場した思想化孔子の苦悩と自信、使命感と挫折感を、論語の原文に即して紹介したものだ。思想の消費の果てに知の荒廃が進む現在、思想の原典を見つめるきっかけになれば、著者として大きな喜びである。 p279
川の表現
ぼくは、論語の中でも、川の表現が美しいと思う。書き下し文と併せて詠んで欲しい。
先生が川のほとりでいわれた、「すぎゆくものはこの流れのようであろうか。ひるも夜も休まない。」 ※18
春の終わりごろ、春着もすっかり整うと、五、六人の青年と六、七人の少年をともなって、沂水(川の名前)でゆあみをし、雨乞いに舞う台地のあたりで涼みをして、歌いながら帰って参りましょう。 ※19
最終更新:2008年12月20日 15:18