ヤージニャヴァルキヤの哲学

アートマンは客体化することのできない認識主体である。
見ることの背後にある主体を、だれも対象化して見ることはできない。
対象化されたものはもはや真の主体ではない。

したがってアートマンは、把捉(はそく)されないもの、どのような述語によっても
限定されないものである。
ただ「甲に非ず、乙に非ず」という否定的表現を用いる以外に、
それを表示する方法はない。
この「非ず、非ず」neti neti という表現は、ウパニシャッドにおける最も
有名な語の一つである。

このようなアートマンこそは、個体における不滅不死のものであり、
万物に内在する普遍者である。
それは万物を内部から制御する「内制者(アンタルヤーミン)」である。

日常経験は、見る者と見られるもの、聞く者と聞かれるものなどの二元性を前提としている。
しかし万物がその本質においてアートマンにほかならないことを、真に人が知るとき、
彼にとって二元性はなくなり、見ながら見ず、聞きながら聞かないという境地が開ける。

二元性を超えて、彼は「アートマンそのものとなる」のである。
このようにアートマンと合一した解脱の境地を、
ヤージニャヴァルキヤは熟睡状態として説明する。

眠りの浅い状態にあるとき、人はこの世を自ら作り出す。
しかし熟睡状態に進むと、下界は全く消滅して、
彼は完全な安息の境地に達するのである。

このような解脱論をもつヤージニャヴァルキヤにおいて、世界はまた観念的に構成される。
彼においては、認識主体、「叡知の塊」として捉えたアートマンから、
あらゆる客体的な存在が生み出される。

それは「あたかも湿った薪(たきぎ)で火が燃やされたとき、煙が諸方に分かれて
立ち上るように」である。


この観念論的な思想は、『カウシータキ』においていっそう整然と説かれている。









最終更新:2007年07月28日 12:58
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