分厚いガラス越しに見た光景。
それはまるでスローモーションのようで。
(――!!)
声にならない声をあげて目を醒ました。
目覚めてから今現在に至るまでの記憶がクランにはなかった。
しかし隊内を熟知した自分の足は、迷うことなくクランの体を一人の男の部屋の前へと運んでくれたらしい。
認証キーを打ち込んでロックを解除するとドアが軽い音をたてて開いた。
廊下の薄明かりが射し込む中にクランは歩を進める。それが再びドアによって遮られると、部屋は全くの暗闇になった。
時刻は深夜。
部屋の暗闇と静けさが示すのは主が就寝中であるか、もしくは不在であるかのどちらかに違いない。
闇に眼を凝らしつつ、クランはベッドの脇まで歩み寄り……そしてペタリとその場に膝をついた。
果たして、目的の人物はそこにいた。
「ミシェル……」
そろそろと手を伸ばす。
その指先が頬に触れる寸前、クランの手はさらに大きな手によって捕えられていた。
「!」
「夜這いにしちゃ、ちと遅すぎやしないか?」
クランの手を掴んだままミシェルは上半身を起こした。そして欠伸をひとつ。
「明日に響くぜ?ましてやお子様の起きてるような時間じゃ……」
「ミシェル!」
語気強く名を呼ばれた。時間帯を考慮してかトーンこそ抑えめだったが、その一言はミシェルの言葉を封じるのに充分だった。
しかし彼女は怒っていたわけではなかった。
顔を真っ赤にして、子供扱いされたことに腹を立てて。いつもならばそうなるはずの展開。
思えばもう最初からおかしいのだ。
クランはミシェルからすれば真面目すぎるくらいの性格で、隊の規則などは自分にも他人にも厳しい。
そんなクランがこのような真夜中に出歩き、あまつさえ幼馴染とはいえ異性の部屋に侵入するなどイレギュラーにも程がある。
だからこそ、ミシェルは普段通りに接してみた。
それでいつも通りに戻るならば良し。戻らないならば――。
ふ、と小さく息を吐く。
「何があった?」
何かあったか?なんて分かり切ってることは訊かなくていい。
幼い頃から時間を共有してきた二人には、言葉少なくとも通じるものがあるのだから。
「……」
しかし当のクランがこんな状態になっている理由。こればかりは本人の口から訊き出すしかなかった。
「クラン?」
無言のままのクランの手を引いてみると、膝立ち状態だった彼女はそのままベッドに乗り上げるような格好になった。
至近距離で視線がぶつかる。
まっすぐな翡翠に射貫かれてクランの大きな瞳が揺らいだ。
「……お前が」
震える唇が漸く言葉を絞り出す。
「お前が……、……いなくなる夢をみたんだ」
不自然な躊躇。まるである単語を口に出すのを嫌って言葉を選び直したような。
それは想像に難くなかった。そしてあえて言及する必要もないものだった。
だからミシェルは無言で先を促す。
「ものすごくリアルだったんだ……夢とは思えないくらい」
「予知夢……みたいな?」
一瞬クランの表情が凍りついたが、すぐに目を伏せると首を横に振った。
「そういうのじゃなくて……もっと。なんていうか……本当にあったこと、みたいに思えて……」
だって夢なのにはっきりと憶えているんだ。
何もできなくて叩いたガラスの冷たさも。
締め付けられるような胸の痛みも。
小さくなっていく「彼」の表情も。
しかし今クランの目の前でどこか優しげな瞳を向けていた彼は、夢の中の「彼」のイメージを掻き消すかのように笑った。
「本当にあったこと、ねぇ?……だったら今のこのオレは幽霊ってワケだ」
「茶化すな!実際にお前の姿を見るまでは本当に不安だったんだ……」
むくれて声を荒げたクランの髪をくしゃくしゃ撫でると、不意にミシェルは真剣な眼差しをしてぼそりと呟いた。
「あながち、間違ってはないのかもな……」
「え?」
「実際に起きたことっていう話」
ミシェルの言わんとすることが分からず、クランは不安げに彼を見上げた。
「並行世界って知ってるか?」
「聞いたことくらいなら……」
「パラレルワールドってやつさ。現実とよく似て非なる世界。もうひとつの現実って言や分かりやすいか?」
「私の夢は、そこで起こったことだと……?」
「さぁね。そういう可能性もなくはないんじゃないかって話さ。……ま、オレはその手のものはあんまり信じちゃいないんだけどな」
こことは異なる現実世界で、自分に起こったことを夢で追体験した。
ミシェルがひとつの解として提示したそれは、あまりにしっくりとクランの心に馴染んでしまった。
だから、視界がぼやけて熱い水滴が頬を濡らしたのはあっという間のことだった。
自分は夢で垣間見ただけだ。でもあの世界の「自分」は?「彼」は?
「……悪い。泣かせるつもりじゃなかった」
バツの悪そうな声がして、長い指先がクランの目元を拭った。
今クランが何を思って、誰を想って泣いているのか。それが分からないほど鈍感ではない。
何か分かりやすい答えがあれば、これ以上夢のことで思い悩むことはないと思ったのだが。逆にそれが仇になったようだ。
自分たちの世界とは関係のないことだと割り切ってしまえば楽なのに。
手も届かないような――それこそ夢の中の世界のことに胸を痛めるようなヤツなのだ、コイツは。
いよいよ止まる気配を見せない涙が見ていられなくて、その小さな体を抱き寄せると堪え切れなくなったのかクランの口から嗚咽が漏れた。
「落ち着くまでこうしててやるから」
返事の代わりに強く掴まれたのは服の裾だった。
結局クランが泣き止んだのは……正しくは泣き疲れて眠ってしまったのは、それから半時間以上経ってからだった。
起こさないようにその体を横たえ、ミシェルはベッドから降りるとその脇に腰を下ろした。
赤くなった目元の腫れはきっと朝になってもひかないだろう。
ミシェルは一人苦笑すると、ベッドに背を預けてぐっと伸びをした。
「夜中に起こされて、ベッドまで占領されて……こりゃ明日は寝不足決定だな」
「……ごめ、ん……」
思わぬ言葉に驚いて振り向くが、クランは変わらず規則正しい寝息をたてていた。
「寝言かよ。……ったく、そう簡単には許してやらないぜ?」
冗談めかして言うミシェルの顔に意地の悪い笑みが浮かぶ。
が、次の瞬間。それは跡形もなく掻き消えていた。
「ホント、許せねぇな」
苛立ちさえ滲ませた低い呟き。
「お前」は「お前」でやるだけのことをやったんだろうさ。
それで「お前」の大事なモノを守れたんなら誇りに思っていい。結果「彼女」が泣いたのだとしても……。
だがな――。
「コイツまで泣かすのはルール違反だろ」
そう言ってまだ涙の痕が残る頬に触れる。
生憎、オレは「お前」とは違うんでね。
コイツも守り切って、オレも生き抜いてみせるさ。
最終更新:2011年09月01日 17:59