FateMINASABA 23th 00ver
セツリ酋長からおかしな命令が軍に下された。
まず、全軍を集めて大酒宴を開き、捕った鳥を残らず食べず、半分をそれぞれの小屋の前に置き、
最初に全部の鳥を、次に食べた鳥の頭を陣営の周囲に幾重にも並べ終えたあと、
セツリ酋長の小屋の周囲には三重に置くようにと、不思議な命令だ。
「酋長、酋長どちらへおられますか?」
辺りを忙しなく給仕しているのはセツリの世話役の少女だ。
他の給仕とは異なる奇妙な紋章をあしらった装束を身に纏い
酒宴であちらこちら騒いでいた皆の中をちょこちょこ仕事している。
「酋長、うえーん。助けてください~。
ほんとにほんとに泣いちゃいますよ。うう、ぐすっ、ひっく。」
ふらふらと歩いては、盛り上がりをみせる泥酔した男たちの目を惹きつけたその可愛らしい顔も
今はどうしたことか忙しそうに目を廻して周っている。
多くの人々は、夜になると飲みに集まり、各軍の噂話に興じていた。
「町には変わった魔物が住んでるんだってね?」
酔っ払った男が、少女に声をかけた。
「何でもそいつに襲われれば、聾と唖になって、さらにただの一本腕と一本足で平気で歩き回るらしいじゃないか?
しかも生きている人間にじゃあない。もうあの世に行っちまった人間もさ」
「へぇ、そりゃホントかい?」
男の隣で飲んでいた、年輩の女性が口を挟む。
「本当に本当さ!」
酔漢はドンと胸を叩いてみせた。
「北西の丘には石舞台がある。そこに鳥骨を置いて、この人にもう一度会いたいと願かけをする。
すると――どこからか声が聞こえるんだそうだ」
男は俯き、地を這うような低い声で呻いた。
「願いは、なんだ~?」
聞いていた少女がひゃあ! と声を上げる。怖がっていると言うよりは、面白がっているようだった。
気付いているのかいないのか、酔っぱらい男はさらに低い声で続ける。
「お前が贄を差し出せば、私はお前に愛した者を返してやろ~」
「もうそのへんにしといて下さいよ」
話を聞いていた青年は、困ったように顔をしかめた。
「そいつは本当の話なんですよ」
「え?」
酔った男も年輩の女も驚き顔になった。
「本当にいるのかい?」
「ええ、あたしの友達が実際にそいつに会ったらしいですわ」
青年はやれやれと言うように、首を横に振った。
「けどねぇ、関わったヤツはみんな阿呆になる。喜ぶモンはいるけど
いつまでも死んだ者のことを引きずってちゃ、生きていけねぇですよ?」
「それもそうだ」
主人の言葉に、酔っぱらい客は頷いた。
「魔物ってのは人を喰う化けモンだって聞いてたけど、変わった魔物もいたもんだなぁ?」
そんな彼らの話を、熱心に聞いていた者がいた。それは十代半ばの少年――先ほどからせっせと戦支度をしている年若い少年だった。
彼は、若輩ながら血気盛んで、誰よりも勇壮な戦士になろうと大人たちに混じって狩りに出ていた。
しかし、無鉄砲でプライドが高い彼は、武勲をたてようと早まり、大人たちにこっぴどく叱られたばかりだった。
魔物の話を聞いた少年は、その夜のうちに真偽を確かめようと思った。
見返してやる。
そして、俺がお前たちのような無能とは違い、勇敢で選りすぐれた戦士なのだということを知らしめてやる。
向かったのは石舞台があるという北西の丘だった。
季節は夏。海からの風が咲き乱れる花を揺らしている。
真夜中近くになって、ようやく丘の頂にたどり着いた。
そこで少年は首から提げていた小さな布袋を取り出した。口紐を緩め、中に入っていたものを手の平に取り出す。
それは骨だった。古びた小さな鳥の骨の欠片(かけら)だった。少年は迷うことなく、それを石舞台に置いた。
「おい!出て来い魔物め!!」
ほどなく夜風の音と共に悲鳴が鳴り響いた。
大酒宴が終わり、陣営が沈み果てると、こっそりとセツリは小屋から出て入口の幕の後ろへ身を隠す。
手はずどおり、陣営の周囲と酋長の小屋の周囲に鳥の残骸が置き並べられてている。
そして小屋の周囲には細い真っ黒な輪が、月明かりに照らし出されたていたが、魔法力で輪の中にあるものは、
外からは見えないようになっていた。
ほどなく真夜中となり静かな大地のどこからか、何かが近づいてくるような、忍ぶ怪しい足音と恐ろしい響きが聞こえて来ると、
大きな黒い影がぽつりと立ち現われた。
魔物は怪しい脚付きで小屋から小屋へと飛び回っては、 鳥を食べてやろうと、欲深そうな眼で、じろじろ眺め始める。
その姿は一本脚と一本腕の巨体で、大きな投槍を持ち、一目見ただけでも身の毛が逆立つような、
この世で見たこともない凄い顔は、双の眼は二つに分かれ、一眼は前額に、一眼は後頭部でぎらぎらと光り、
さすがにその面貌を見た大胆不敵なセツリも、思わずぎくりとする。
セツリ酋長の小屋の前にどっかりと腰を下ろし、鳥の御馳走を掴むために、
一本腕に手にしていた槍を入口の幕の前に置くと、セツリは素早くその槍を掴み取り、物も言わせず、
魔物の咽喉元を真一文字に貫き通す。
「はあ――はあ――」
倒した。
手ごたえはあった。
魔物はゆっくりとその身を倒すと、うめき声一つあげずに沈黙した。
「はあ――はあ――はあ――」
槍をズぶりと引き抜き、ゆっくりと息を吐く。
終わった――そう確信したセツリはゆるりと背を向け立ち去ろうとする。
すると、舞台を支えている大きな石と石の間から、黒い腕がにゅうっと伸びてきた。
それは長い爪の先で骨をつまんだかと思うと、今度はしゅるりと岩間に消えた。
石の隙間、目をこらしても何も見えない暗闇から、ポリポリと骨を囓る音が聞こえてくる。
その様子を、セツリは息を飲んで見守っていた。魔物の動く気配にとんと気づかなかったのだ。
戦慄に喉をごくりと鳴らしながら、槍を正面に構えてじっと辺りを見渡す。
ややあってから、低い嗄れた声が聞こえてきた。
「ひどいね。私の大切な仮面、真っ二つに割っちまうなんてさ」
それはまさしく、骨の主の声だった。
「魔物――?」
「願いは、なんだ?」
声音が変わった。低い、男の声だ。
「お前が贄を差し出せば、私はお前に愛した者を返してやろう」
「そんなのはいらない」
臆することなく、セツリは言い返した。
「もうすぐ戦争が始まる。その前に、オレはもっともっと強くならなきゃならないんだ」
セツリは石の隙間に身を乗り出した。
「お前、魔物だろう?」
「正体を知って、怯えないとはなかなかの度胸――」と言いかけ、魔物はふむと唸った。
「なるほど、臆さぬはずだ。お前、愛を知らないな?」
「どうしてそれを――?」
セツリは目を真ん丸にして驚いた。が、すぐに納得したというように大きく頷く。
「そうか、魔物は喰った人間の記憶を受け継ぐんだな。死んだ人が帰ってくるわけじゃない。
死んだ者の記憶を受け継いだお前が、彼らに会いに行っていたんだ」
「賢いな、七番目の子」
魔物は暗がりで笑った。
「この私に怯えず問い応えたのはオマエが“二人目“だ。
面白い骨を喰わせて貰った礼に、一つだけ質問に答えてやろう。さあ、何が訊きたい?」
セツリは考え込んだ。訊きたいことは山ほどある。が、訊けるのは一つだけ。となれば、一番知りたいことを聞くしかない。
「愛はなぜ生まれてくるんだ?」
セツリの問いに、魔物は答えた。
「思いを伝えるためにだ」
「思い? なんの?」
「質問は一つだけといったはずだ」
「答えが理解出来なきゃ、答えてくれたことにはならないだろ?」
セツリは口を尖らせた。フフ……と魔物は低い声で笑った。小さな語り部との問答を、楽しんでいるかのようだった。
「お前は賢い。きっとわかる時が来る。だが、どうしてもわからなければ、八年後にここに来い。その時には答えを聞かせてやろう」
「そいつは、たぶん無理だ」
セツリは少し寂しそうに笑った。
「言ったろ、もうじき戦争になるって。八年後なんて――オレはどこにいるか、生き延びているかどうかもわからない」
「嵐の到来を予期しているのならば、その間は身を隠し、嵐が過ぎ去るのを待てばよいではないか?」
「そうもいかない。敵国の長の正体がオレの予想通りなら、放っておくわけにはいかない」
「なぜだ? 限りある人の身で、何故(なにゆえ)そんなに生き急ぐ?」
「限りある人の身だからさ。魔物と違って人には寿命がある。
オレは兄に、必ず立派になると約束をした。それを果たすためには、このオレの命、一秒だって無駄には使えないんだよ」
魔物は沈黙した。セツリの言葉の意味を考えているようだった。次に口を開いた時、魔物の声には悲しみが滲んでいた。
「ならばこそ、約束だ」
「だから――」
「なぜワシはお前を喰わなかったのか、知りたいだろう?」
セツリはうっ……と言葉を詰まらせた。
「どうだ、知りたいだろう?」
魔物はさらにたたみかけた。セツリは散々迷ったあげく、小さな声で嘯(うそぶ)いた。
「知りたくなんか、ない」
そう言ってから、ようやく子供らしく頷く。「ホントに教えてくれるのか?」
「無論だ」
「じゃあ、戻ってくる」
勝ち気な笑い。
「たとえ魂だけになっても、必ず答えを聞きに戻ってくる」
「うむ、約束したぞ」
「じゃ、八年後にまた会おう」
槍を返し、魔物が程なくその場を後にすると
「起きろ! 起きろ!」と嬉しそうなセツリ酋長の呼び声がけたたましく暁近い闇の中に響き、
「セツリ酋長万歳! セツリ酋長万歳!」と狭い谷に溢れんばかりの歓呼の声も響き渡る。
そして暁の清々しい中、陣営を取り払った軍勢が足並み勇ましく町へと攻め入ると、
魔物の魔法にかけられていた町の人々が、魔物を退治されたことで元の人間の姿に戻っており、
人々は戦うどころか、呪いから救ったセツリ酋長を迎え、お伴に加えてくれるように頼む。
長き戦の旅が始まる。
あるときは鬼と戦い、あるときは大きな部落を戦うことなく治めた。
敵国の魔に堕ちた長との戦いも終わり
敵部落の人々はセツリ酋長の前にひれ伏し、長く苦しかった進軍がここに終わる。
一生を楽しむことの出来る楽土で、セツリを始め、全ての人々が楽しく平和に暮らした。
そして約束の八年。
目覚めて一番最初に見たのは一人の女だった。まっすぐに伸びた白い髪。透き通るような青い目。
「私は■■。翡翠(かわせみ)と呼んでね」
女はその顔を美しい翡翠の仮面で隠していた。
「おいで、黒猫さん。世界を見せてあげるよ」
その言葉通り、彼女はセツリを外へと連れだした。
翡翠は木の枝で地面に輪を描きながら、セツリに説明してくれた。
「久しぶりね。どう?答えは見つかった?」
そこで翡翠は悪戯な微笑みを浮かべる。
「ふふ。こうして姿を変えるのも久しぶり。まるで鳥みたいに自由な気分」
――?
「ああ、ごめん」
翡翠は少し寂しそうに肩をすくめた。
「いいんだ、あなたに魔物に気持ちがわからなくても」
◇◇◇
……蕭。
雨の中、囁くように鈴が鳴る。
……蕭。
かつて、この鈴の音と共にあった笑顔。同じ響きを耳にすれば、今も瞼の裏に蘇る。
この世に二つとなく尊く、愛おしかった……彼女の笑顔。
鈴の音の響きは轟々たる雨音に呑み込まれ、追想の幻視もまた儚く消える。
重く、憂鬱を押し込めるように四方から迫る雨の音。立ちこめる水煙に、虚ろな輪郭を切り抜く人影が、ふたつ。
雨の上を好きこのんで出歩くような手合いが他にいようはずもなく、彼らの姿を目に留める者は一人としていない。
かたや痩躯の外套姿。隣には、その肩元まで至るかどうかという矮躯。
痩躯は……一目見れば幽鬼と見紛う男だった。落ち窪んだ昏い眼差し。削ぎ落としたように窶れた頬。
聳(そび)やかす肩に纏った豪奢な衣は、名のある部族の長だった頃の名残だろう。
とうに機能を失っているのは見るまでもない。今となっては肌のぬくもりを守るだけの効果もあるのかどうか。
そんな出で姿は、男の乞食同然の風体にはあまりにそぐわない。
……蕭。鈴の息吹が、またひとつ。
ささやかな響きが拡がって消える一刹那、その刹那だけ、また優しい追憶が男の脳裏に去来する。
打ち据える水音に黄昏れながら、男……セツリは痩せこけた手に握った彼女の手を凝視する。
視線が横に逸れるまで、どれほどの時が経っただろうか。その眼は雨降る空よりなお昏い。
「……おい」
セツリは抑揚のない声で、抱きかかえるひとつの人影……華奢な矮躯に声をかける。
この場に居合わせる上で、その容姿はある意味で彼以上に異質なものだった。
降り注ぐ豪雨の近くで、少女は寒気に震えることも、嘆くこともない。
ひたと虚空に据えたきり、微塵も動かぬ無機質な視線。見る者が見れば一目で看破できる。彼女は、もう手遅れだった。
呼びかけに遅れて反応し、彼女はゆるゆるとセツリを見上げる。
仕草、視線の動き……一挙手一動作が機械的でぎこちない。
明らかに彼女には、生気がなかった。
「……」
そしてセツリは何度目かの詫びを繰り返す。
「済まない。おまえを助けてやれなかった……」
「私の命を救ってくれたのは、酋長ですよ。あなたとの思い出さえあれば、どこでも生きていけます」
彼女は儚い笑顔で応えた。里に置き去りにしていくものは多かったが、それでも足枷を取っ払ったような清々した気分だった。
セツリと少女は戦いの後も旅を続けた。世界中を旅しながら、いろんな土地で見聞を広め、それを別の土地に持って行った。
にぎわう市場で、集落の片隅で、セツリと少女は様々な話を披露した。
人々はその物語に耳を傾け、見知らぬ土地での出来事に目を輝かせた。
セツリはその傍らに座り、彼女のことを見守っていた。彼女との旅は楽しかった。
彼女という伴侶を得て、セツリはとても幸せだった。
だがそんなセツリにも、ひとつ気がかりなことがあった。
それは決まって満月の夜。少女は一晩中、何かに魅入られたように、白く輝く月を見つめ続けるのだった。
その頬に流れる涙を見て、セツリはついに問いかけた。
――何故(なにゆえ)、泣く?
「あそこには父様と母様がいるんだ」
懐かしそうな、悲しそうな顔で彼女は月を見上げた。
彼女は静かに涙を流しながら、小さな声で呟いた。
「もう一度、両親に会いたい」
セツリは悲しくなった。彼女には自分がいる。
こんなに傍にいるのに、彼女はどうして泣くのだろう。
彼女にとって、両親はどういう存在なのだろう。
それをセツリが尋ねても、彼女は寂しそうに笑うばかりで、答えてはくれなかった。
二人の旅は続いた。旅の空の下、ゆっくりと――だが確実に年月は流れていった。
少女は驚くほど大きくなり、彼女は美しくなった。もとから細かった体はたわわに実って、熟れた果実のようになった。
そしてついに病を得て、彼女は寝込んでしまった。
「私が死んだら、私をお食べ」
セツリの頭をなぜながら彼女は言った。
「そうしたら、いつまでも一緒にいられる。寂しくはないよ」
――そして、よく晴れた夏の朝。彼女は眠るように死んだ。
その顔は穏やかで、微笑んでいるようにも見えた。
それは人生を全うした者だけが浮かべ得る、誇らしげな微笑みだった。
セツリは彼女の骨を少し食べた。
そして、彼女が胸に秘めていた思いを知った。
それを伝えなければならないと思った。
かつて兄の墓にやってくる人々の声。愛する者の死を嘆く声。セツリはその骨を喰い、嘆き悲しむ人に言った。
「みんなは愛する者たちを覚えているか?」
ほとんどの人間は、愛する者のことをあまり覚えていなかった。
セツリは失望した。人の心は移ろいやすい。
皆もきっと兄や彼女のことなどいずれ忘れてしまっていくだろう。
受け取る者がいないのであれば、彼女の記憶を覚えていることに意味はない。自分が存在している意味はない。
そんな彼の考えを、彼女と出会い、愛を育み、そして別れて、改めさせる出来事が起きた。
そしていつぞやに魔物に出会い、問いを投げたことに気付いた。
永遠の命を持つ魔物とは異なり、人の命は有限だ。だからこそ人は思い出を懐かしみつつも、それを忘れる。
そして、今この時を懸命に生きる。まるで夜空を横切る流星の如く、命を刹那に輝かせる。
その一瞬の輝きを思い出として留めること。それが永遠を生きる者として生まれた、
自分の運命(さだめ)なのではないだろうか――
答えを伝えに行こう。
なに、どうせもう失うものなどなにもない。
怖いものなど何一つない。
自分はもう、真実の愛を知ることができたのだから――
◇◇◇
「お前も闇に住まいし者ならわかるであろう? 人の刹那の生き様が、無限の闇に住む者の目に、いかに美しく煌めいて見えるか」
セツリの問いに、翡翠は頷いた。
「ええ――わかります」
約束の前日、セツリは彼女の遺骨と鳥骨を丘の石舞台に置いて、彼女にもう一度会いたいと願かけをして
そのまま眠りについた。
そして目の前にいる、もう一度だけ会いたいと切望した彼女の姿に、何度も声を詰まらせていると、彼女は言った。
「私も人に教えられました。なぜ私のような者が存在しているのか。
これから私は何をすべきなのか。何のために生きていくのか。すべては――人が教えてくれました」
「ああ――」
セツリは満足そうに頷いた。
「我らは人のようには生きられぬ。我らにとって時は無限です。永遠に続く暗闇なのです。
だけど約束はそれを区切る。無限を有限にしてくれる。だからこそ、私は君と八年の約束をした。
約束は絶望しかけた人に希望を与え、永遠の闇を生きていく私に、一瞬の光を投げかけてくれる」
翡翠は夜空を見上げた。セツリも空を見上げた。皓々(こうこう)と輝く月が、二人の語り部を静かに見守っている。
「貴方との約束を、忘れてはいませんでしたよ」
翡翠は静かな声で言った。
「あの人は私に言いました。
『もし酋長が待ちくたびれて、すべてを終わりにしたいと願っているのなら、彼を食べてやってくれないか?』と。
私はそのために、ここにやって来たのです」
翡翠はゴロゴロと喉を鳴らした。
どうやら笑ったらしい。
「実にあの子らしい気遣いだが――」
「杞憂だったようですね?」
「そのようだ」
翡翠は再び愉快そうに喉を鳴らした。
「俺はもう年だ。もう世界を回ることは出来ぬ。ゆえに俺はここで待つ。
死後、俺が再会を約束した者と出会うために。俺の思いを伝えるために。俺はここで約束の時を待つ」
「では私は――この話を各地に伝え歩きましょう」
翡翠は詰めていた息を吐き出した。
語り部は、その形のよい唇に不可思議な笑みを浮かべた。
彼女の顔を隠しているのは、翡翠の仮面――古びた頭蓋骨の仮面であった。
「その仮面、どこで手に入れたんだ?」
「仮面は受け継がれていくものです。同じ仮面を被っていても、同じ者とは限りません」
「じゃ、お前にその仮面を譲った奴は死んだのかい?」
彼女は黙したまま答えない。
セツリは自分の失態に気付いた。
「いや、いいんだ。今のは忘れとくれ。魔物の正体を詮索するなんて、野暮天のすることさ」
女は塞いだように黙りこんだ。しばらくの間、彼女は指と指を弄(もてあそ)んでいた。
が、セツリは沈黙についに耐えかねて、その口を開く。
「あんたと同じ仮面を被っていた魔法使いを知ってるんだよ」
あの人が初めて話を披露した時のことを覚えている。つたない語りながらも、とにかく一生懸命だった。
彼が何者なのか。俺も集落のみんなも薄々感づいていたが――誰も何も言わなかった。
「あのころは楽しかった」
けれど先の大戦で多くの人々が命を落とした。
「温かく優しい人だった。たとえ本当に魔物だったとしてもかまわなかった。
ただ、あの人にずっと恩返しがしたかった。
なのに何も返せずに出て行きやがってさ。今までの行いに悔やみはしないが、一言ぐらい文句を言わせろってんだ」
「貴方がそこまで惚れ込むなんて、きっと素晴らしい御仁だったのでしょうね?」
「う……」
セツリは喉の奥で唸った。その顔が赤いのは、愛する彼女の面貌のせいばかりではないだろう。
余計なことを話してしまったと言わんばかりに、彼は乱暴に右手を振った。
二人の語り部はどちらともなく立ち上がった。翡翠は焚き火に砂をかけ、火を消した。
あたりを照らすのは月明かりだけになったが、彼らには闇を見通す眼があった。
「最後にあなたに伝えておく事があります」
別れ際、翡翠は言った。
「なぜ魔物があなたを食べなかったか。それは彼女の言葉があったから。
あなたのやせっぽちの手足と聾と唖なる――あなたの身上に同情し、
私と対話し、この身と姿を与えてくれた唯一人の彼女の言葉があったからなの」
セツリは頷いた。彼にはわかっていた。
だからこそ彼女は奇妙な紋章をあしらった装束しか被らなかった。
奇妙だ、面妖だと嘲笑されながらも、装束を被り続けたのだ。
あの――妖精の紋章の装束を。
「気が向いたら、また立ち寄ってくれ」とセツリは言った。
「ではいずれまた、この槍と仮面はお守りとして貴方に差し上げます」
と彼女は答えた。
俺は背を向けて、ゆっくりと目を閉じて、昔の楽しかった思い出を振り返った。
すると
「弟よ、よくぞ立派になったな」
背後から懐かしい声が聞こえた。
驚いて振り返った。いくら眺めても、声の主は見あたらない。かつて愛した美しい彼女が一人、静かに佇むばかりだ。
「あんた……今、なんか言ったかい?」
俺の問いに、彼女はかすかに微笑んだ。
「いいえ、何も」
柄にもなく昔話なんかしたせいだと、俺は思った。でなければ、この魔物に毒されたに違いない。
「また花々の咲く頃に参ります」
そして二人の語り部は、再会の約束をして別れた。
もうすぐ夜が明ける。明るくなる前に寝てしまうに限る。
そう思いはしても、なかなか眠りは訪れてくれなかった。
冷たい草原の中、目を閉じて身を縮めていると、瞼(まぶた)の裏に懐かしい面々が蘇ってくる。
その面影に、俺は心の中で呼びかけた。
みんな、どこへいっちまったんだい?
俺を置いてきぼりにして、みんな、どこへ消えちまったんだい?
ずるいよな。思い出の中のあんた達はちっとも年を取らないのに、俺だけ、こんなおっさんになっちまった。
ああ本当に……どうして思い出ってやつは、いつまでたっても色褪せないのかねぇ――
鳥の王は愛を知り、静かにその生涯を丘で過ごした。
今でも丘には石舞台がある。そこに愛しい人の骨を持ってくる者は跡を絶たないという。
いずれ、彼らは聞くだろう。忙しさに追われ、忘れかけていた者の懐かしい声を。
『今でもお前を愛しているよ』と囁く、愛しい者の声を。
そして彼らは悟るのだ。時は流れ、人は変わっても、愛しい思い出だけは決して色褪せないということを――
そして石舞台のそこにはたくさんの羽根が置いてあった。
それは、様々な鳥の羽根と玉状の頭飾りだった。
最終更新:2011年01月15日 15:49