2.
「問おう。そなたがわらわのマスターか?」
――その一言が、
高波夏海を神秘の世界へと導く運命の音だった。
偶然巻き込まれ、ただ捕食される哀れな被害者ではなく。
同様の手段を持って身を守る、その世界の住人として。
自覚は無くともこの瞬間――夏海は聖杯戦争へと引きずりこまれたのだ。
「ます……たぁ……?」
怪物に追われる恐怖。激痛。必死の状況からの救済。
あまりの状況の変化に、思考が追いついていなかった。
ぼんやりとした様子で見上げる夏海の仕草に、女性は優しく微笑みかける。
「大丈夫ですよ。心配することはありんせん」
「あなた、は………」
「わらわの事は、
アサシンと」
「あ、アサシン?」
「一先ずはここまで。お殿様がお待ちですもの」
細い指先が、夏海の唇を抑える。
そうだ。まだ窮地から逃れたわけではない。
「馬鹿めッ! 空中では身動きが取れまい。
着地点さえわかれば、仕留めるのも容易い事よ!」
地上に座す暴君が、上空の二人に向けて咆哮を挙げる。
そして驚愕すべき事に――次の瞬間、何も無かった大地に槍衾が生え揃う。
否、槍ではない。杭だ。
男の言葉通り、空中で身動きが取れないとなれば回避は不可能。
まさしく必死の状況である。
だが、不思議と夏海の心に不安は無かった。
夏海を抱きかかえている女性――アサシンを名乗った彼女は、このような状況でも微笑んでいる。
飄々とした微笑。自然、強張っていた身体が楽になる。
果たして、アサシンは夏海の信頼に応えてくれた。
地面へと迫り、杭に刺さるは決定事項と云わんばかりの状況において―――
――――とん、と杭の上にアサシンは降り立った。
さも当然といった表情のまま、彼女はひらりと地面に立ち、夏海をそっと降ろしてくれた。
対する男の顔は、先にもまして狂気の色が濃い。肌が泡立つほどの敵意。
アサシンが離れたこともあり、自然と夏海は自分の肩を抱きしめる。
「あらあら、せっかちな御人だこと。
殿方を焦らせるのも女性の嗜みとはいえ、
わらわを貫きたいのであれば、睦言の一つや二つは囁いていただかないと。
そのような様では、女人に嫌われてしまいますよ、お殿様?」
「この毒婦めが……。
その様相からして真っ当な者ではあるまい。
或いは――魔女の類か」
「姿形で見抜かれるほど、わらわは底の浅い女じゃありんせん。
お試しになっては如何かしら、殿様?
最も、そなたは
ランサーでしょうね。とても逞しい物をお持ちですもの」
「抜かせッ!」
ぱッと弾けるようにして二人の姿が激突した。
いつの間に取り出したのか、アサシンの手には短刀が閃き――
――次の瞬間にはその刀身が伸び、長刀へと姿を変える。
そして繰り出されるのは、柳の枝のようにしなやかに曲がる変幻自在の剣技。
まさしくそれは芸術の域に達した武術である。
舞踏のように優雅な動きと共に、素早く刀が閃いて、刃が振るわれる。
上下左右から迫り来るそれを迎え撃つのは、ランサーと呼ばれた男の剣だ。
装飾皆無の甲冑と同様、無骨な刃と剣技は、確かに見栄えこそアサシンのそれに劣る。
だが、それは転じて男の恐ろしいまでに積み重ねた、実戦経験の証左でもあった。
剣を振るう度、轟と戦場に吹き荒れる激しい突風。
それはアサシンの刀をも巻き込み、次々にその切っ先を叩き落す。
否、そればかりに留まらない。
最初こそアサシンが攻勢に出ていたが、次第にランサーからの反撃が混じり出し、
ランサーの刃をアサシンが受ける数が上回り――――ついには戦局が逆転する。
「他愛も無い! そも、余と武で競う事が愚かなのだ!」
「殿方を退屈させては無粋の極み。ではこのような趣向は如何かしら?」
次の瞬間、くるりとアサシンが蜻蛉を切ると、その姿が光へと変化した。
字義通りの光速で迫り来る、その光の矢に貫けぬ物は無い。
それが道理だ。
しかしランサーもまた、常識を超越した存在。
そのような物を前に道理が通じる筈も無し!
「小癪也!」
呵呵と笑った暴君の姿が、光の矢に貫かれ、崩れるように夜闇に消えた。
――否、そうではない。
周囲に響き渡る無数の羽音。きぃきぃと甲高い鳴き声。赤い瞳。
蝙蝠だ。
無数の蝙蝠の群れへと転じて、矢を擦り抜けたのだ。
光矢が地面に刺さり、元の娘の姿――アサシンへと戻る。
次の瞬間、機を逸さずにアサシンへと襲い掛かるランサー。
だがしかし、その姿は蝙蝠ではなかった。
瞬きほどの間に蝙蝠は集合し、狼の姿へと変えていたのだ。
牙を剥いて迫り来る巨大な狼。その姿は世に知られるどんな猛獣よりも獰猛である。
逃れる術などありはしない。
だが、その予想をも覆す事ができるのが――彼女だ。
「まったく――少々がっつき過ぎではないかしら」
次の瞬間、とんと地を蹴った女の身体が宙を舞った。
何ら予備動作を伴わない大跳躍。
先ほど夏海を救ったのと同様の驚異的な身体能力の発露である。
くるりと宙を返り、アサシンが夏海の傍らへと降り立つ。
――――尋常ならざる戦い。
とても夏海の理解できるようなものではなかった。
思考が追いつかない。
何が何だかわからない。
自分が何に巻き込まれたのかもわからない。
呆然としたまま様子を見守っていた彼女が我に返ったのは、
不意に空を見上げたランサーが、地を蹴って竹林の中に消えたからだった。
「――――へ?」
「マスターに呼ばれたのでしょうね。あの様子では、相当餓えてらしたようですし。
お怪我はありませんか、マスター?」
あまりにも拍子抜けする戦闘の幕切れ。
呆然としている内に、ぺろりと彼女が夏海のシャツをまくりあげる。
慌てて押さえ込もうと手を伸ばすが、あっさりお腹から胸までを曝け出され、
先ほど蹴られた時にできたのだろう痣が露になった。
我が事ながら痛々しいと夏海は顔をしかめる。
「まったく、あのお殿様ときたら……女人の肌に疵でも残ったらどうするつもりなのやら。
でもこれなら、まあ、肌にも命にも別状はありんせん。わらわが治して進ぜましょう」
「え、あ、ちょ……ちょっと、待って。ごめん。あ、あたし何が何だか……。
その前に、何なの、えっと、アサシンだっけ? 説明してくれないかな?」
「それは良いのですけど――あのお殿様が引き下がった理由が、問題ですわ。
向こうの方から、大きな魔力を持つ者が来られるようで。お迎えします?」
「勘弁してよぉ……もうやだ、うちに帰りたいよぉ……」
泣いたって何にもならないけれど、もうどうしようもなかった。
へたりこんだまま、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
そりゃ、小さい頃に苛められたことくらいはあった。
溺れて死にそうになったこともあった。
お婆ちゃんに怒られるのも怖かった。
でも、こんなにも間近で死の恐怖を感じたのは初めてだった。
我慢の限界だ。もう嫌だ。もう怖いのは嫌だ。
「……でしたら、わらわがお送りしましょう。どちらですの?」
真上から聞えた優しい声。
目尻に浮かんだ涙を、ごしごしと擦る。
――うち。
そういえば随分と前にも、そんな事を言われた気がする。
あの時は――あの時は、誰が言ってくれたんだっけ?
「…………兄さん」
ぽつりと呟いた。
この時間だ。父さんや母さんはまだ帰ってないだろう。
お婆ちゃんは自分の様を見れば凄く心配する筈だ。
でも、兄さんなら。
――兄さんに逢いたかった。
ゆっくりと腕を伸ばして、周囲に散らばったままの本や巻物を鞄に仕舞いこむ。
「……兄さんのお店に、つれてって」
最終更新:2014年11月28日 23:53