事の発端はコイツ
モノノ怪「鵺」より生まれた話なのです。なのでぬゑとの共通点多。
〔開〕
花の如きに極彩香る、紅碧翠(あかあおみどり)の万花の鏡景色。
湖は有るモノ。池は佇むモノ。川は流れるモノ。滝は落ちるモノ。
桜は咲き乱れ、梅は香り、桃は揺れ、そして椛は紅に染まりゆく。
真に、万(よろず)とは美しい、な。
この世の果てまで往かずとも、こんなに近くに美しきは有る。
天を駆け、地を驅り、海をもぐり、山河を越える。
そんなに面倒なことをせずとも、これほどまでに己の手が届くに有ると云うのに。
――ヒ、ヒヒ。
まぁ、近過ぎるも人と云ういきものにとっては、それはもはや美しきにあらず、抗いがたき誘惑、小さく狭くモノがあまりに視えないその心より、
ふつ、ふつ、沸(ふつ)りと顕る衝動と云ういきものに、なるであろぅのか?
処は十一谷(といちのたに)。屋敷。
∽∞∽
時移り。
「コーヒーがなくなった。注いでくれ、彰(あきら)」
「私もお願いします、彰さん。緑茶を」
「……サイはともかく、いつの間にか晴子さんまで俺を顎で使うようになったね」
「すみません」
「私は顎というより足で使ってるが?」
「はいはい。
……そして俺は紅茶と。まったく、あとジャスミンティでもあれば全世界を旅できてしまうな。
で、うん。そうだな……そんな言葉でいうのもなにか変だが」
「確かに…あそこは美女屋敷だったよ」
時戻り。
『私はお美しいですか?』
……君は、なんだ?
蝶?鳥?
『私はお美しいでしょう?』
よく、視えない。
白色と黒色を焚いて、流して、溶かすようにつくった灰色の靄、香い(におい)に邪魔されてしまって、
『ほら、貴方のその目に映るでしょう?』
――――。
『此のきらり、きらり、と耀いていて、まるで落ちるお星様や、流れるお星様みたいな簪(かんざし)が。
こち風に揺らされて、向日葵のようにお陽様のまばゆいばかりの光を浴びて、紅葉のように色を幾重にも鮮やかな、ともすれば雪化粧を被りふ、と泡沫に儚く朧ろに幻化してしまう、まるで四季を彩るかのような振袖が』
『――でも、その中で一番にお美しいのは私』
『私はお美しい』
『私がお美しい』
『私だからお美しい』
『私こそお美しい』
『ほら。もっとよく、御覧になすりなさい。もっとよく視て、そして』
プツン。
香いがしなくなる。靄は祓う。
「――――あ」
唐突に、七瀬彰の意識は現実へと引き戻された。
瞑っていた眼を、見開く。――瞑っていたことにもよく気付かなかった。
「 」
傍らの死に神が呟く声。
透いた生きの香い(におい)に、
さらり、と。
抄(す)いた霊の香いが移りし。
「七瀬。何が、聴こえた?」
「……サイ」
七瀬と問われたその男、保険会社で働く歳は二十七のサラリーマンであり、容貌はあまりに形通りのスーツ姿に赤いネクタイを締めている。
ちなみに、そのネクタイはこの飾り気のない髪、温和な眼、繊細でありそうな口元、顔、至ってシンプルな、筋肉の付き具合もそこそこに茶道でもやっているのかという明らかにインドアな体、まさに人畜無害の塊であるかのようなこの男には、あまり似合ってはいない。
「いや……」
七瀬彰は辺りを見回す。
此処は、山、正確には谷の一角。名を十一谷という。
ケモノはしずかに止んでいて、木立は、立ち並ぶ振袖の如く緑を囲う。
鼻腔を捉えるのは、抄きに透いた、自然と春光と静謐を包み込んだ香い。
靄はない。木漏れ日。
七瀬は歩きつつ、
「なんていえばいいか…心を撫でるような、触るような、つつくような…とはちょっと違うな。
叩くような、握るような、鷲掴むような……」
どうにも、どれもしっくりとこない。七瀬彰は眼を彷徨わせる。
「興奮するような?」
「……そうじゃなくて、いや、あれ?そうなのか?」
要領を得ない、ふやふやとした七瀬の言であるが、死に神は納得したようで、
――楽しげに嗤っている。
「なるほど。男心をくすぐる声、ね」
これから”奴”という呼称をよく使います。
奴といえば奴。
この物語最大の間違いであり最大のエンターテインメント性を兼ね備えた奴。
つまり語り手の奴。
さてに、酒がなくなった。
この盃、さぁて…どうしたものか。
どれ、視るか。
ふうむ……。
薄墨を刷毛で流した空、か。真に、墨痕淋漓(ぼっこんりんり)としている。
立ち昇る香は…なんだ、此の死に神の香い(におい)か。つまらん、つまらん。
その、幽暗い(くらい)、ケモノの迷い路とも云える深いつるの樹林(はやし)の径を、七瀬彰と云う若人と死に神の女は歩行(ある)いている。
二つの歩行き、まるで風の亡き世、シャン、と波を立たせるしか識らぬ海のようだ。
ズ、ズ、、ズ、、、とな。ヒ、ヒ。
「しずかだな…此処は。何にも音がしない」
「いや。音はしてるよ」
答えたその女、サイの風貌(すがた)は、ヤミとあやめを焚き染めたが如き色、ゆたり、としたローブ。
「と云ってみても、私にも聴こえてないけどね。さっきお前に聴こえたのは生きの香いがしてたからだな。いまじゃ霊の香いだけだから聴こえるわけもない。
――ふふ、同族嫌悪ってやつだ」
瞳は相も変わらずの金色。此の色は、どう云えばいいか。ふうむ。
……すこし、おもしろきことを思い出した。いつぞやに、確か若人が斯様なことを云っていたな。
「……硫黄の色?」
ヒヒヒヒヒ。そうだ、いっていた、云っていた。なんとよきに好き比喩(たと)えか。
そのメの色は――濁っているから、な。
そしてからに、立ち昇る香は死の香い。
「同族嫌悪、ね。よく分からないな、そういうのは。
……まぁ、できる限りなら仲良くしたくはないけど」
「私も一種ではその同族に当たるんだが?あぁ、残念。こんな奴とは仲良くしたくない、と」
「……ごめん。切り返せないから、やめてもらえると助かるよ」
「私はお前が折れやすくて助かった。これ以上やってたら腹が捩れるくらいに笑ってしまいそうだしな」
まっこと、なんとも莫迦な会話(はなし)をしている。つまらん、つまらん。
我が手に傾けては曲げる、この御酒の肴にすら、
――おんや?
ふ、と視てみれば二人の者は足の動かすを止(や)めているではないか。
鼻に嗅ぐわしきは、ほ、香いが渦を巻いている。
桃色の香いと、墨染の香い。その生きと霊の混じり、三途の川の香いに似ている。濁り。
さてさて。視えた、か。
この若人にも、死に神にも、その視界に入っているであろぅよ。
その、忘れられ取り残されし古城の如き、屋敷が。
「――残響してる」
構えている朽ちず軋む厚木の門戸の前にて、死に神は呟いている。
――――鈴(リン)。
香いは濁り、澄み、腐れ切って、ヒ、ヒヒ。
死に神を取り巻き萃まっているは思念。漂う幽かなる死のカタマリ。
そのいきものどもは、何時、何故に、どうやって、死んだのだろう、な?
「ん……大きいな」
七瀬彰はその門戸、天辺に飾っている真黒き鳥のツクリモノを視上げながらに、斯様な事を云った。
――まぁ、確かにだな。
合戦へ向う田舎侍どもが前夜、ここへ集まり、歌い踊り騒ぎ、飲み明かしていてもおかしくないくらいに、大きな、大きな屋敷だ。
いや。それほどでもないか。
武家で云うなら、外様大名ほど、か。
然しにして私が云うには、ちぃと向かぬが……ふぅむ。その異質さときたら。
「雪景色に観る桜みたいだ、この屋敷。思わないか、七瀬?」
――ほ。死に神と思うことが同調した。ヒヒ。
「確かに、なにか歪(いびつ)に思える。……というか」
「うん?」
「このとびら、開くのか?随分と重そうに見えるけど」
この若人の云うとおり、なかを囲う石壁を伸ばすその闔(トビラ)は、ズ、とあまりに狭い蝸牛 (かたつむり) の角を圧縮し、してからに凝縮させた、空気を纏い、桜の幹をもへし折る巨大ないきもののように、視る若人と死に神の眼前に凝、として、とても開きはしなさそうだ。
石壁を囲っているのは、うね、うね、うねり、と絡まる蔦、更にそれを囲うは、ジ、ジ、ジン、と幾重も幾重も、札を連ねて重ね合った結界の如き、みどりとくろい木立の数々(カズカズ)。ヒ。
――あぁ、真に鈍き(おもき)ことに有る景色だ。
そうは、思わぬか?
眺めてみてもそのトビラ、一寸(ちょっと)の隙間も有りやしない。
「さぁて、ね」
云ってからに死に神、つい、とその闔(トビラ)の前へと立つ。
ふうむ……白い項(うなじ)にて括り、ローブのうえより流れる髪、そのうすい紫はこの幽暗い(くらい)眼下に、実に、よく溶けている。
ヒ、ヒ。さぁてこの死に神、何を、するか?
「七瀬。おまえ、占いは信じるか?」
屋敷の一寸先はヤミ。闇。春色のこの天空も、光沢をもつ晴れの円も、その恋いヤミには抗いきれないようだ、な。
雲などひとつも亡いと云うのに、これほどまでにこの空の間は鈍色だ。
鼻をつく香いも鈍い。実に、濁っている。
その、あまりに少な過ぎて叶わぬ生きの香いが、あまりに霏々とあまねいては遍く八卦と霊と死の香いに毒されているからだ。
「……藪から棒に。まぁ、君がいると知ってからは多少は信じるようになったかな。当たった試しはないけどね」
「何を莫迦な。信じる者は救われる、という言葉があるだろうに」
――香いは包んでいる。その屋敷を。いびつ、イビツ。
然しに、それを物ともせずに臆さぬは、流石は死に神か。
「子を産むときにお守りをもったり、妖がいると云って破邪の祈祷をしたり、豊作を願い雨乞いの儀をする。
今じゃそんな風潮は殆どないけど、元々私達いきものはね、信じてしまえば何も彼もを成せるんだよ。催眠の術法や暗示で思い込ませてみてもいい。――あぁ、此方の場合はそれが似合いだろう。
だから、私は私に暗示をかける。こうやって――ね」
そのうごき、屋敷のささくれ立つ闔に、指より尖、闇色の爪で実にあだやかな。
そのまま、すぅ、と闔を爪にてなぞり、その手の平を――ぴたり、と札を張るが如く死に神は合わせている。
「開けゴマ」
ヒ、 ヒヒ、
――――ヒ。
ズ、ブゥン、ギィィ、
――ズシリ。
開 い た 。
「女の腕一本で開く戸とは、ちゃちな屋敷だね。ほら七瀬、入れ」
「……雪景色に桜を観てしまった気分だ」
シャン、と。ゆっくり、ゆっくりに。
両つの影は、その屋敷の框(がまち)を俯瞰した。
――たのしみだ、愉しみだ。
どれ、私がその八卦、魂の緒に変わって云ってみるか。
ようこそ、美女屋敷へ。
もちろんのこと、サイとはあのサイです。
毛角の生えたあの猛々しい動物ではなく、鍵の旦那が考案したあのお方です。
容姿もまったく一緒。THE・スピンアウト!
∽∞∽
時移り。
「思い出したら臭くなってきた。彰、窓を」
「……君の身体は何のためにあるんだ?」
「どんな屋敷、だったのですか?」
「うん。確か……えっと、なんだっけな」
「おまえの頭は何のためにあるんだ?」
「…髪を生やすためじゃないかな。あ、門をくぐってすぐに、確か石の外灯みたいなのがいくつかあったと思う」
「燈籠、ですか」
「それ。流石に晴子さんはよく知ってるね。すす汚れてたけど、俺はああいうのは好きだな」
「臭いだけのモノの何がいいんだか。
……ま、あそこの枯れた池は美しいと思ったけどね」
「サイ」
「うん?なに、晴子?」
「貴方が『美しい』と云うことばを使うとは、今日は死人(しびと)が出る日みたいです」
「そういうのは無表情で云うものじゃないよ。
それに、その占いは外れてもいるし、当たってもいるな。死人が出た日が正しい。ほら、いま其処にいる」
「…死人を弔うのが死に神(きみ)の仕事じゃなかったか?」
「まさか。私が云ったら笑えるが、弔うのは日常の範囲(できごと)じゃない。そうだろう?
死人にとって一番に厭なのは、自分の死を非日常(いじょう)だと扱われることだよ」
…
その亡骸は、さながら降り積もる雪。
その脆さと柔らかさは散る花にも似ている。
初雪の脆さと、桜の花びらめいた柔らかさ。
折り重なる八重桜のように、雪消しの雨を浴びまいとする雨傘のように。
――座敷牢。死体は八つ。
∽∞∽
時戻り。
「なにか……狭い道を無理やり歩いてるみたいな」
屋敷の径(みち)、燈籠。静寂を引きつれている水の池。
風はゆるりと花色の香いを纏う。
シャラン…シャラン……。
七瀬彰を先にして、後に付きサイは屋敷の廊下を歩いている。
サイはローブを垂らし悠然と歩いているが、七瀬は大層歩きにくそうである。
革靴を進める一歩一歩が非常に重い。
「ん、ああ。此処はもう外れてる世だからね」
歩を一歩。
七瀬が進める度に、軋(ギシ)リ、と床が鳴る。
此処に音はなく、ただ鳴るという事実のみ。とてもしずかな伽藍の空間である。
「置き捨てられた粗大ゴミ、とでも云うか。既に終わってる処を歩くんだ、
そりゃあ――気持ちが悪いだろうね」
死に神はくっく、と笑っている。
七瀬彰は鈍そうに、見様によっては捻れた空間に身を沈めまいとするかのように体を進めつつ、呆れて笑った。
「…うん。分かってるよ。
何故俺を先に歩かせたか、なんて野暮なことは聞かない」
襖に仕切られた間を通り過ぎた。両側には庭。その先には静謐を湛える木立。
渡り廊下に差し掛かり、天井(うえ)を支える対の古びた柱をくぐり、
「うん。七瀬らしい、」
壊れた両側、欄干越しを視れば、一人眠るように咲く月季花(ちょうしゅんか)。
その花、この廃れている屋敷においてなお、雨をもはじくかのように、鮮血めいて赫(アカ)い。
――――鈴、
軋リ。
「――――」
七瀬彰は瞠目する。
月季花が、庭一面に咲いている。左をみても、右をみても。合一を許さぬ赤。
春の疾風を受けて、花びらは紅雨のようにあっちにこっちに吹き荒ぶ。
続いて、その単(ひとつ)の色の独占を許さぬとばかりに、碧海(うみ)を呼ぶ瑠璃草、翡翠のような鈴ふり花、稲光(ひか)る山吹、橙の火を萌やす雛芥子、藍色のはるりんどう、紫の菖蒲(あやめ)。
耳に澄む音は、鏡のように水面を張る湖の音、朱色の鯉が、ぱしゃり、と跳ねる池の音。
春の息吹を待ち、雪解けを喜びせせらぐ川の音、花の嵐と共に落ちる滝の音。
この百花繚乱の香いに包まれた屋敷、まるで凱風快晴の絵画のよう。
七瀬彰の瞳(め)にも光りが宿る。生き生きとしている。
そのスーツ姿は、今にも新たな道を行(ゆ)かんとし、未来にはただ希望だけを見る若い新入社員に戻った頃を思い出させる。
春。春とは始まり。
縁(えにし)もまた、春にたくさんの出会いを見る。
袖振り合うも多生の縁、という言葉があったな、と七瀬は思い出す。
『私はお美しいですか?』
――眼に映るは。麗しきひとりの美女。簪(かんざし)は日光にきらり、とかがやく。
屋敷の花いっぱいに囲まれた渡り廊下、七瀬彰と振袖を纏う女は対面している。サイの姿はない。
「――――」
その問いかけに、七瀬は答えようとする。
なぜだか夢に微睡(まどろ)むかのような、不思議な心地。
そんな七瀬彰という男を視てからに、その美女は宝石めいた瞳をうちかかる髪にて隠し、
口を三日月の形にひん曲げ、
「うん。七瀬らしい、」
軋(ギシ)リ、
――――鈴。
此処は十一谷(といちのたに)。朽ちた屋敷の渡り廊下。
空は暗澹として日光は垣間にも視えない。
「実にいい判断だ。頑張って私のために道をつくれよ?」
花の色は廃れた赫い一輪。
死に神は、その月季花(ちょうしゅんげ)を眺めながらに云った。
「はいはい。歩兵は黙って王将に」
従いますよ。
――――鈴、
軋リ。
『私(わたくし)に、ついて来てくださる?』
口を三日月の形にひん曲げ、
美女は、身を朧月のように揺らめかせ、
「従いますよ」
「それは有り難いが、どちらかと云うと私は王将より飛車のが似合ってるよ」
軋(ギシ)リ、
――――鈴。
設定。
本来ならこの小説はあえて分かりにくく書いてるので設定は明かさないのが普通だが、赤雪は自分の原点といいますか、本拠地なわけなので、このあとがき欄にてちょくちょくと明かしていくことにします。
誰得とかいうな。
最終更新:2010年06月22日 20:53