一人の放浪武士と、殺し屋をやめたい最凶の殺し屋と、愉快な下級武士の三人旅を描きます。
まあ、あまり期待しないで見守ってやってくだせぇ。
森は、いつまで経っても開ける気配を感じさせない。
泥で茶色になっている小川を超えたところで、後ろから市三郎の声がした。
「殿、あとどれくらいで村が見えますかね?」
「悪いが、ここまでくると私にも分からない。これだけ見当をはずすと、もう……」
「えぇっ、もうへとへとですよぉ」
市三郎が不服そうに言うのも仕方がなかった。なにせ、陽が昇る前に摂津国尼崎藩を出発してから今まで、もうかれこれ相当な距離を歩いてきた。
しかし、無情にも私達の目指している目的地は未だにその姿を見せてくれない。
「もう少し我慢してくれ。そろそろ到着する頃合の筈なんだが……」
私の記憶によれば、こんなにも大変な思いをしながらの道では決してなかった筈。となれば、私達がどこかで道を間違えてしまったのは明らかだ。
(これは弱ったな……)
足下に生えるしだを踏み越えながら、思わず私は深い溜息をついた。
この山道が果たしていつまで続くのか、半ば遭難している私たちには皆目見当がつかない。それに対する不安の為か、市三郎だけでなく私自身も、既に心身共に疲弊し切っていた。
道を間違えた場所の心当たりなら、ある。
暗いうちに尼崎藩の宿屋を出て、そのまま山陽道を歩いて西に向かった所までは良かった。だが、その道中にあった標識がない分かれ道で、恐らく選択を誤ってしまったのだろう。
そのまま一本道を進んだところで、本来なら突き当たることのない筈の六甲山地にぶつかってしまい、私達は移動時間の大半を六甲の山々を越える為に費やす羽目になったのだ。
当然ながら、六甲山地はあくまで山地。なんとか山を越えることには成功したものの、流石にあれだけの距離の山道を歩くのは足腰に応えた。
しかし、六甲の山を越えて安堵の息をついた私達に、更なる問題が降りかかる。
やっとの思いで山を越えたにも関わらず、その先に続く道は未だに、いや六甲山地以上に木が鬱蒼と茂っていたのだ。
木だけではない。どうやらこの道には人の手が全く加えられていないようで、地面からも背丈が不揃いな野草が茫々と生えていた。
ただかき分けるだけでは到底避け切れない量の草は、私達に刀で野草を切って進ませることを強制した。にも関わらず、私の草履は地面に落ちていた木の葉やら雑草やらでぼろぼろになってしまい、着物にも刈った草の一部がくっついて中々剥がれない。
市三郎に当たっては目も当てられないほどだ。
おまけに、まだ陽は出ているというのに森の中は宵の刻を思わせる暗さ。この状態では、どこから熊が出てくるか分かったものではない。とてもじゃないが、そんな危険がある森の中で、疲れたからと言って途中で野宿をして休むことなど出来なかった。
方角だけを頼りに深い森の只中を進み、今日中に目的地に到達しなければならない。
流石に無理難題な気がしてきた。
「先程の小川で汲み取った水は、まだ残してあるな」
「ええ。ばっちりと」
とはいえ、小休憩はこまめに取っておかないと力尽きてしまう。
私がそう尋ねると、市三郎が背負っていた木綿袋を掲げた。ちゃぽんと音がしたのを聞く限り、まだ量には余裕があるようだ。
天を見上げると、かなり西方に傾いてはいたが幸いなことにまだ陽は沈んでいなかった。
少し足を止めても大丈夫だろう。
「お前も疲れたろう。少しばかり休むとするか」
「助かります、殿」
私がそう言うと市三郎もほっとした様子で頷いたので、私達は少し休息を取ることにした。
お互い座るのに都合のいい石を探して腰掛けると、これまでの疲れが溜め息に変わって表れた。しかし、市三郎から手渡された木綿袋に口をつけると、心地良く冷えた水が疲れ切った体の内側から快感を与えてくれる。
その感覚をじっくり味わってから木綿袋を返すと、市三郎も私と同じように袋の端に口をつけて喉を鳴らしてから、かーっと威勢のいい声を出した。疲れていたからか、冷えた水が余程うまく感じたのだろう。
「おや?」
ふと狐が出ないだろうかと心配になって森を振り返ったとき、私の首筋を何かが掠めた。何だろうと思って見てみると、それは着物の首元に付着していた葉の先端だった。
淡い青色の着物に、その濃い緑の葉は不自然に目立っている。
思わず苦笑してから中々剥がれない襟元の葉に苦戦していると、光を反射してきらりと襟に付けられた鷹の刺繍が誇らしげに光った。
町を歩いていると、私達、特に私が首の襟に付けているこの刺繍――――これは東海三国の間で決められた条例に基づくものであり、上級武士はその証として身に付けることを義務付けられている――――を見て、どうして武士が旅をしているのか、と聞いてくる人に稀に会う。
その時、答えとして私達が最初に言っておくのが、私達は浪人ではないということだ。
現在の最高権力組織である徳川幕府は誕生してからまだ五三年しか経っておらず、その力は未だに強大だ。そんな時世で浪人を名乗ろうものなら、すぐに幕府の役人が飛んできてたちまちの内に縛り上げられてしまうだろう。
いつの時代も、倒幕の中心にいたのは幕府の支配下にいなかった人間だ。幕府の支配体制の一種である「藩」から離脱した人間は、幕府にとって目の上のこぶだ。
まあそんな論理を並べずとも、私達は正式な戸籍を所持する立派な三河国津山藩士だから問題ないのだが。
私達が西日本を旅して回っている理由。それは、三河国津山藩の藩主――――父上にとある使いを頼まれているからである。
その内容は簡単で、私の父上であり津山藩主でもある稲垣重綱より、長門国長州藩の藩主、毛利元就に書状を届けて欲しいということで手紙を預かっているのだ。
そして、私達は名目上その手紙を届ける為に長州藩を目指して進んでいる訳なのだが、それとは別に私と市三郎の間で決定した真の目的がこの旅には存在する。
それは、「弱きを助け、強きを習え」という言葉だ。
『人生の壁に遭遇したたらを踏む者がいれば、黙って己の腕を差し出せ。不遇をも撥ね退ける強靱な者がいたら、敬い、これを習え』
この言葉はかつて父上が師事していた国学者の口癖だったそうで、父上は大層これを気に入っていた。その為、自分だけに止まらず、刈屋藩では誰もが暗唱出来るようになるまでこの言葉を普及させ、現在では刈屋藩の教育理念としてこの名言が君臨している。
父上の座右の銘、と言っても過言ではないかもしれない。
私達は、この言葉に少なからず感銘を受けた。そして、どうせ旅をするならこれに従って旅をしようではないか、という私の提案を市三郎は快く了承してくれた。
そして、現在私達は訪れた各地で人助けをしながら旅をしている。これが、私達の旅の本当の目的だ。
「あ、殿。大分日が暮れて来ましたよ」
市三郎の指差した方に従って空を見上げると、成程先刻までの美しい朱はとうに消え、夜の紫色がだんだんと空を支配し始めていた。辺りの森を見渡しても、光が無くなってきたせいか、かなり見通しが悪くなってきている。
日没までの時間はあまり残されていない。
「まずいな……。先を急ぐか」
私がそう言うと、市三郎は御意と答えてすぐに立ち上がった。私も腰を上げる。
話を戻そう。
では、なぜ私達は早急に長州藩へ行って書状を届けずに、人助けをするという余計なことを決めてだらだらと道中を楽しんでいるのか。
それは、ただ単に刈谷藩に帰りたくないという、私の願いというよりは我が儘のせいである。
先程も言った通り私は刈谷藩藩主の息子であり、更に一八という異例の若さで東海の上流武士にも任命された。その御蔭で、私は二〇歳も過ぎていない内に刈屋藩でそこそこの地位を確保していた。
すると当然、そんな私を見て面白くないと思う人間がいる。刈谷藩が誕生して以来仕えてきた藩の重臣らである。
私も刈谷藩の灌漑工事を監督したりして民衆からある程度の支持を得、彼らに対してそれなりの抵抗はしてみたのだが、どうも老人の嫌がらせというのは必要以上に陰湿で、藩内部での風当たりに幼い私はとうとう耐え切れなくなった。
そこに、まるで計ったように今回の仕事が舞い込んできたのである。
この機を逃すまいとした私は、父上に長くなると断っておいてから、長い間私に仕えていた市三郎と共に刈谷藩を後にし、暫く近畿の道のりを楽しんでいた。だが、その内に気が付けば一年の月日が流れ去っており、流石に長居し過ぎたと反省したのが昨日の話だ。
そして、それなら気持ちも改めて早速長州藩へ向かおうではないかと尼崎藩を出発したのが、今日の朝である。
しかし、決意を新たにして一日も経たずに、私達はこのような過酷な試練に立ち向かわねばならなくなったのである。八百万の神は大半が悪戯好きなのかと思わず疑ってしまった。
だが、森はいつか必ず開けるものであり――――
「殿! 殿! 町ですよ!」
「おお……ようやく着いたか……」
建物の姿を遠目に確認した私は、安堵の言葉を漏らした。
辺りが完全に暗くなる前に到着出来たことに関しては、素直に喜ぶことにしよう。
――――播磨国姫路藩である。
現在の姫路藩の藩主は、榊原忠次という人物だ。
祖父に徳川四天王である榊原康政を持つ忠次は、母がかの有名な徳川家康の姪であることが幸いして、忠次一代に限って譜代大名の中で最大勢力を誇る松平の姓を名乗ることを許されている。
藩政においても新田の開発を軸に様々な事業を展開し、松平の姓に恥じぬ功績を立てている。五二万石時代に建てられた姫路城を、たった一五万石の財政で何とか管理しているその執政の柔軟さには、舌を巻かざるを得ない。
そんな優秀な人間が治めているのだから、姫路藩は平和と安心に包まれ、住民達は騒動とはかけ離れた生活を送っているだろうとばかり思っていたのだが……
「殿、これは何ですかね?」
「さあ? ただ……」
やっとの思いで姫路藩に到着した私達は、その様子に少し面喰らってしまった。
城下町の様子は私の予想を見事に裏切り、思わずここが目的地であることを疑ってしまいたくなるほど町が騒然としていた。
藩の役人であろう男らが、藩民に何かを呼び掛けている声が途切れ途切れに聞こえてくる。その度に藩民達は皆顔を真っ青にして、慌てふためくなり家に駆け戻るなり、誰一人として落ち着いていられた者はいなかった。
その様子は、今日が姫路藩の消滅する日なのではないかという錯覚さえ起こさせる。
「何か事件が起きたのか……?」
しかし、実際には消滅するなどという馬鹿なことが起きる筈もない。すると、真っ先に思いつく仮説がそれだった。
しかしそうは言ってみたものの、自分の言葉に違和感を抱く。
このように藩民が揃って錯乱状態に陥るなどという大混乱が起きた場合、本来なら藩主代理、場合によっては藩主自らが町を練り歩いて静粛を言い渡すものである。私も父上から命ぜられて、過去に何度か騒動が起きた地域に静粛を呼び掛けて回ったことがあった。
しかし、今は藩主はおろか藩の武士も城下町には見あたらず、本来最も早い段階で動くべきである姫路藩の主軸は未だに動いていないように見えた。
「妙だな……」
たとえ一時的であっても騒動などであまりに治安が乱れていれば、それを知った幕府が藩の解体を敢行するという事態も起こり得る。姫路藩ほどの大藩がそんな常識とも言えることを見逃しているとは考えにくいが、果たして他に別の事情があるのだろうか。
「市、お前はこの状況をどう見る?」
横で怪訝な表情を浮かべていた市三郎に答えを振ってみた。
「せ、拙者ですか? そうですね……」
うーんと一頻り唸って、ようやく絞り出したと見える答えをおずおずと口にする。
「近い内に、この辺りで戦が起きるんじゃないですか?」
市三郎の意見も選択肢の一つではある。
例えば近隣にいた山賊が謀反を起こした、などという藩内で機密にしていた情報が民衆に漏れたと考えるなら、この騒ぎにも頷ける。
「まあ、確かにその可能性が皆無だとは言えない。ただ……」
その説にも、引っかかる所がないと言えば嘘になる。
藩の周辺で戦が起きた時、普通の藩ならまず藩民より武器を徴収せんと動く。
群雄割拠する戦国時代が終わった今では武器の供給力が衰退し、その為に現在では藩が所持している武器の量が減少している。ましてや姫路藩は財政に苦しんでいる藩だ。予備の武器までも所有しているとは考えにくい。
それが、今は役人が数名城下町を走り回って何事かを告げているだけであり、何かを収集しようといった動きは見受けられない。
「どういう事だ……?」
兎に角、この藩に何か特殊な事態が迫っていることは間違いないだろう。
そこに、
「お前、東海の上流武士で間違いないか?」
私は唐突に背後から声を掛けられた。
振り向いてみれば、姫路藩の役人と思われる人間が私達に走ってくるのが見えた。
「ええ」
私は顎に手を当てたまま頷いた。「拙者も一応武士ですよ」と市三郎も続く。
すると、役人はかなり差し迫ったような表情を浮かべ、私達に頭を下げた。
「良かった……。悪いのだが、すこし頼みがある。共に姫路城へ来てくれないだろうか?」
役人はかなり焦っているのか、飛び散る唾も構わずにそうまくし立てる。
(ほう……)
その様子を見て、私はまた驚いていた。
普通、他の藩から訪れた武士を己の城に上げる藩主は滅多にいない。自分の管轄している藩の情報がその武士によって持ち出されてしまう可能性があるからだ。
しかし、それはとある場合を除く。
(戦……か)
市三郎の考えは、あながち間違っていないのかもしれない。
ますます姫路藩に何が起きているのか気になってきた。
「いいでしょう。私共に出来ることがあるならば何なりと」
「おお、それは助かる!」
私の答えにようやく顔を輝かせた役人を見て、一悶着に巻き込まる予感がして、私の心に一抹の不安が広がった。
「急に呼びつけてしまって済まぬな」
場所は変わって姫路城の大広間。
姫路城は外見が立派な城であることで有名で、刈谷藩にいた時よりその噂は幾度となく聞いていた。その為か、姫路藩を見たときはその白さに感動こそすれ、あまり驚きはしなかった。
だが内装も外見に劣ることはなく、大広間のみでどれだけ装飾に拘っているかが容易に伺えたことには驚いた。
そして、今そんな豪勢な大広間の両脇に姫路藩の家臣達がずらりと姿勢良く正座して並び、手前に私、奥に姫路藩藩主の榊原忠次が座っている。
「いえ、忠次殿のお役に立てるならば光栄です」
相手は、普通なら私のような部外者には絶対に顔を見せない姫路藩という大藩の藩主。
相応の礼儀を心掛け、畳に手を突いて普段より丁寧に頭を下げた。
もし忠次という人間を一言で表現するなら、風流人というのが一番しっくりくるだろう。
外見、言動、雰囲気全てから只ならぬ品格が溢れ出ている忠次は実際和歌を非常に好むようで、幼い時から百人一首を嗜んでいたらしいというのは、道中で耳にした話だ。
戦国時代が終わってまだ時を経ていない今は、昔は戦場で数々の戦功を立てていた武将が藩主になることも多く、忠次のような貴族風の男が藩主を務めている所は少数派だ。
性格も、風流人の名に違わぬ繊細な心を持ち、その上私に対しても礼儀正しかった。
「三河の上流武士が、そう軽々しく頭を下げなさるな」
「では、失礼ながら」
しかし一つだけ、今まで出会った貴族とは比べ物にならない忠次の要素があった。
威厳、である。
先程から忠次は壇上に座って私と言葉を交わしているだけで、特別なことは何一つしていない。だというのに、私は彼の言葉に相槌を打つのにさえ緊張していた。
「そなたには少々落ち着かない場であろうが、一時だけ私共の下らない話に付き合って欲しい」
驕らず、かといって媚びない忠次の貫禄に、舌を巻かざるを得ない。
藩民から絶大な支持を受けているというのも頷ける。
「して、恐縮ですが早速本題に入らせていただきますと、用件というのは一体どのような内容で御座いましょうか?」
こんな体のあちこちが固まった状態では、世間話ですら精神力を消耗してしまうに違いない。
自分の体力が持つ間に話を終えようと、互いの挨拶を終えると私はすぐに話の核心に迫った。
「ああ。しかし、なんと言ったらよいものか……」
しかし、それに対する忠次の答えは何とも歯切れが悪い。もしやと思い、私は恐る恐るその先を口にしてみた。
「戦……でしょうか?」
言ってから失礼だったかと後悔したが、しかし忠次は腹を立てることもなく静かに首を横に振った。
「そなたの言う通り、他の藩から来た武者を我が城に呼びよせる理由など戦以外にないだろう。しかし、用件はそれではない」
「では、どのような?」
先を促すと、忠次の表情が強ばった。
事態は予断を許さない状況になっていることを、私はその様子から悟る。
「しかし、大きく捉えるなら戦なのかもしれない。なにせ、相手はただ一人なのである」
「ただ一人、と言いますと?」
「聞けばそなたも合点がいくだろう。今回の私達の敵は……」
そこまで言うと、まるで勿体ぶるかのように忠次は額に手を当てて首を振った。
そして一つ深い溜め息をつくと額から手を離して顔を上げ、緊張した表情を崩さないまま敵の名前を宣言した。
「殺し屋、『闇之閃』」
闇之閃という、苦虫を噛み潰したような顔を思わず浮かべてしまう名前は、しかし私も刈谷藩にいた時から時折耳にしていた。
闇之閃――――武蔵国北部を拠点にし、主に東日本の各地で数多の人間を手にかけている殺し屋。
曰く、殺しの腕において、日本で彼の右に出る者はいないのだとか。
彼の絶対的な強さは「その燃えるよう紅い髪を見た人間は、生き延びてその事の顛末を人に話して聞かせられない」という噂までも生み出している。初めてそれを聞いた人間はたいていがまさかと笑い飛ばすが、闇之閃が出現した現場に居合わせた者は皆殺しにされているという真実を知ると、誰もが誰も恐怖と共に見解を改める。
幕府の役人を困らせるには闇之閃の名を言えと冗談で口にした大坂の商人が、江戸でさらし首にされたという実話が存在するほどだから、幕府も彼に対してかなり警戒していることが手に取るように分かる。
「闇之閃、ですか……」
その名を聞いて微塵も動じない者がいれば、それは余程の傑物か、或いは緊張感の無い愚か者か。
とにかく、取り返しのつかない事件に巻き込まれたことだけは確かだった。
知らず、口内に溜まっていた唾をゆっくりと飲み込む。
「そう、闇之閃が私達の元へ書状を寄越してきたのである」
厳しい表情を崩さないまま、忠次は着物の懐から一通の手紙を取り出す。
白がとても眩しく光るそれは、恐らく近畿の黒谷和紙だろう。かなりの高級品であり、正式な書状をしたためる際などに利用する紙として世間では広く知られている。
そんな黒谷和紙を盗みの予告状に使うなど、皮肉としか考えられない。
おまけに、綺麗に畳まれた手紙の表には、呆れるほど綺麗に「姫路藩藩主 榊原忠次殿へ」と綴られていた。祝詞と言っても通じるかもしれない馬鹿丁寧さに、思わずうんざりする。
(ん……?)
しかい、すぐに私は小さな違和感を抱いた。
よくよく見てみれば、表に書かれている文字は止め跳ねが曖昧な、俗に言う丸文字のようになっていることが解った。それは、まるで女性が書いた字のようである。
闇之閃の性別はその残忍さから世間が男と勝手に仮定しただけに過ぎず、正確な所は未だに解っていない。そんな馬鹿な話は無いだろうと思うかもしれないが、その姿を見た者は誰も生き延びられていないことを考えれば、そのことにも頷ける筈だ。
その手紙の文字に関しては、誰かが代筆したとも、闇之閃が女性なのかもしれないとも、どうとでも言えた。
「『今夜丑の刻に、榊原家に伝わる宝刀を頂戴しに参る』と、書状には記されていた」
「成程、闇之閃が現れる時間としては最も考えられる時刻ですね」
「うむ。だが、貴奴は東日本にいた筈であろう。一体何故、急に私達の所まで足を伸ばしてきたのであるか……」
忠次はそう言ってまた溜め息をつく。
疲れたように唸る忠次の顔からは、本当にその宝刀が不安で堪らないのだろうことが容易に見て取れた。
余談だが、闇之閃は殺し屋としてその名を知らしめているが、正確に言うと彼は「殺し屋」ではない。
確かに、殺しの技術に関しては日本に比肩する者がいない。しかし奇妙なことに、今まで闇之閃が犯した罪を見直してみると、彼は一度も殺人を最終的な目的にしたことがない。つまり、例えば放火や破壊、それこそ今回のような盗みといった、人の死とは関係を持たない仕事のみを遂行しているだけに過ぎないのだ。
その点のみに注目して見れば何の変哲もない雇われ犯罪者なのだが、任務中に数多の人間を殺めているのなら彼は殺し屋と何ら変わりがない、というのが世間の見解だ。
「つまり、私はその宝刀の護衛を手伝えばよろしいのでしょうか?」
「情けない話で申し訳ないが、詰まる所そういうことだ」
忠次は、自嘲を含んだ苦笑いでそう言った。
闇之閃と相対するということは、要するに死ぬということに他ならない。
刈谷藩を出発した時はどのようなことが起きたとしても冷静沈着に対処しようと心に誓ったが、流石に結末で死が待っていると予め分かっているなら話は変わる。私はまだ今年でようやく二十歳の身だ。やり残していることなど探し出せばきりが無い。
確かに、「弱きを助け、強きを習え」の言葉に従うなら、私達は忠次のその問いかけに頷かなければならないだろう。忠次は闇之閃の襲撃に頭を悩ませているのであるが、かと言って腐らずに闇之閃に立ち向かわんとする態度はまさに強靱な心の表れでもある。私の行動指標に照らし合わせると、二重に合致している。
しかし困ったことに、同時に私達は父上より書状を預かっているのである。人助けをすることはあくまで私と市三郎の二人だけの中で最優先の目的であり、他の人にとっては長州藩に向かって手紙を渡すことが最優先なのだ。
自分の仕える藩主の命も達成できずに死ぬことは、武士としては不名誉極まりない話。
「私は自分の藩主から長門国長州藩へ書状を届けることを命じられています。ですが、ここで死んではその命を果たすことが出来なくなってしまいます。申し訳御座いませんが、この件についてはお断りさせて頂きたいと存じます」
なるべく脇に座る姫路藩の重臣を刺激しないように、丁寧に言葉を選んでから額を床に付けて深く頭を下げた。
暫くの、沈黙。
その沈黙を破ったのは忠次だった。
「……仕方がない。先に仕事があるならば、無理強いは出来まい」
「誠に申し訳御座いません」
「気に病むな。元はと言えば私が勝手に請うたこと。私達に構わず、先の道を急いでくれたまえ」
自ら決めた旅の指南を自分で曲げ忠次を見捨てることに相当の罪悪感を感じるが、今回に至っては止むを得ない。
何とも言えない複雑な気持ちを抱きながら、頭を下げたまま忠次の言葉に返事をした。
月は、まだ東の空にその姿を見せない。
だが、もう日付は変わっているだろう。
今日は、一日中山の中を歩き続けたと言っても過言ではなかった。山道とすら言えない険しい茂みを突き進んでここに到着してから大分たったとはいえ、未だに体中に疲れが残っている。
だから、せめて一泊ぐらいは姫路藩でして、疲れをある程度癒してから出発しようと考えたのだが、闇之閃の襲撃に町全体が怯えている中、それでも仕事をしているような人などいる訳もなく、とうとう営業している宿屋を見つけることは叶わなかった。
山の中で野宿をするのは辛いが、町中で野宿をするのも別の意味で辛い。藩民が見当たらないとはいえ、流石に町の道端で寝転がることには抵抗を感じる。結局私達は、仕方なく姫路藩を今晩中に旅立つことにした。
「しかし、静かだな」
「落とした針の音が、本当に聞こえてきそうです」
闇之閃の来襲に怯えて家の中で震えているのだろうか、道には人の姿が全くない。それどころか、真夜中だというのに家屋に灯火の一つ灯されていないものだから、町の中であるとは考えられないほど辺りは暗かった。
今日私達がここに到着した時に藩内を走り回っていた役人は、「本日の夜に闇之閃が来るので、家から一歩も出るな」と藩民に伝えていたそうだから、夜になった今のこの様子にも頷けるのだが、それでも異様だと感じずにはいられない。
闇之閃という人物がどれだけ怖るるに足るかというのを、まざまざと見せつけられた心地になった。
しかし、私の気持ちが晴れないのにはもう一つ理由がある。
「本当に忠次さんの話を断っちゃっても、良かったんですか?」
「今回の場合、状況が余りにも特殊すぎる。流石に命までは懸けられないさ」
姫路城にて忠次の頼みを断ってから、私は心に蟠るもやの存在を強く感じていた。
今日の件で、私は初めて旅の行動指南に背を向けた。闇之閃と対峙するという行為はあまりにも無謀過ぎる、それで死んでは元も子もない、というのが理由だ。
しかし、それは仕方がないことなのだと言い聞かせれば聞かせるほど、心のもやは密度を増していく。蟻地獄のように沈んでいく自分のこの心情をどう処理すればいいか分からず、結局私はこれを持て余している状態だった。
「今更どうこう言っても仕方がない。忠次殿の宝刀が盗まれないように、私達も心の中で願っていよう」
「……はい」
晴れない心を払拭する為に努めて明るく言ったつもりだったが、そんなことで長年ずっといた市三郎の心までもごまかせる訳がなく、返ってきた言葉は浮かないものだった。
その事が、さらに私の心の傷を広げる。
姫路藩から西へ続く道を目指しながら、このことを忘れようと無理矢理今後の予定を考えてみた。
もしこのまま姫路藩を西に向かっていくのならば、次に到着するのは山崎藩という、播磨国で最も西に位置する藩になる。
山崎藩は姫路藩のように活発な藩ではなく、特にこれといった名所があるという訳でもないが、ただ一つだけ、特殊な抹茶があるということで有名だ。
山崎藩の抹茶。ごく一握りの上流貴族のみがごく一握りの祝い事で飲むことが出来る、幻の抹茶。
その抹茶は――――
――――ドン
「おっと」
私が現実から逃避するようにどっぷりと思考に浸っていると、前を歩いていた市三郎が急に足を止めた。自分の考えに没頭して前に注意していなかった為、私は反応し切れずに市三郎の背中にぶつかってしまう。
「どうした、市?」
「……」
一歩下がって体勢を立て直し、私は市三郎にそう問いかけた。
しかし奇妙なことに、市三郎は唐突に立ち止まってから、まるで凍ってしまったかのように硬直してその場から動かない。
当然、返事も返ってこない。
「市? おい、市?」
無邪気で素直な市三郎にしては、あまりにも不可思議な行動。
しかし、よく見ると市三郎は更に妙な状態に陥っていた。
市三郎が、まるで何かに怯えているように、小刻みに震えているのである。
熱でも出したのだろうかと私がその様子を訝しんでいると、やはり唇を震わせながら、市三郎がようやく言葉を口にした。
「と、殿……ま、前に……」
市三郎の視力は本人の自慢でもあるらしく、私と比べても遙かに良い。私には暗闇しか見えない前方の空間に、市三郎は何かを見つけたようだった。
前方を睨む。そこには、市三郎をこんな状態にさせた何かがいる筈だった。
当然、確認する必要がある。
ゆっくりと、手に持っていた旅提灯を持ち上げていった。
それにつられて、前方の視界がうっすらと明るくなる。
まず、はっきりしたのはその輪郭だった。
(……人?)
それは、遠くから見ても簡単に判別できた。
他の動物には見られないあの特徴的な体の外見は、間違えようがない。前にいるのは人間だ。
しかし、すぐにそこで強烈な矛盾に気付く。
(姫路藩の役人の忠告はどうしたのだ?)
もし夕刻にふれ回った役人の忠告が行き届いているのなら、目の前に立つ人間は藩民である訳がない。それに、もし仮に前にいるのが藩民だとしても、ただの一般民に市三郎が怯える理由が分からない。
考えられる可能性としては警備中の姫路藩の武士ということであるが、それも市三郎が怯える理由にはなり得ない。
混乱したまま、さらに前方を照らす。
すると、次に見えたのは刀だった。
右手に刀を握るその姿は、一般民ではないことをはっきりと表す。ということは、前方にいるのは武士である、と見るのが妥当だろう。
しかし、それでも奇妙なことがあった。
(何故、刀を抜いている?)
前方にいる人間は、刀を鞘に収めているのではなく、奇妙なことに抜き身のまま右手に持っていた。腰の辺りにも目を凝らしてみるが、特に鞘とおぼしき物は見あたらない。
鞘を捨てるほど激しく打ち合った直後なのだろうかとも考えたが、私達の耳にそう思える金属音は全く聞こえなかった。
これほどまでの静寂の中、そんな分かりやすい音を聞き逃すとは思えない。
(おかしい……)
前にいるのが誰なのか、てんで予想がつかない。
その答えを知るため、さらに提灯を上に掲げた。
――――ガシャン
その姿が見えたのは、一瞬だった。
その顔が一瞬だけ灯りで照らし出された途端、辺りがふっと暗くなり、続いて地面に何かが落ちる音が響く。
それが、今さっきまで私が持っていた提灯が地面に落ちた音であったということに、すぐには気付けなかった。
「な……ッ!?」
続いて、自分のものとは到底思えないような引きつった声。
目の前の人間は、女だった。
わざと垂らしているのであろう不自然に伸びた前髪の為に目は隠れていたが、僅かに見える唇と顎の輪郭のみで女だと判断出来るぐらいに、それらは綺麗に整っていた。
そして――――
腰まである長さの髪が、突如吹いた風にふわりと靡き、落ちた提灯が照らす範囲に入って明るく輝いた。
――――紅く。
この場の何よりも、紅く。
その髪は、提灯の明かりの中で無駄なくらいに映えた。
燃えるように紅い髪を持つ者など、この日本を隈なく探したとてあの人間の他にはいない。
漠然と、姫路藩での出来事を思い出した。
あの時に忠次が取り出した書状の字体は、確かに女性のものだった。
女だったのは驚いたが、間違いない。
「闇之……閃……」
その姿を見た者は抹殺されると囁かれた殺し屋が、なんと私達の前にその姿を現した。
最終更新:2012年07月01日 22:21