第ニ篇 緑の団子
道化屋は屋根つきです。ってか、屋内に椅子あります。
「私は茶だけで十分です」
「拙者は抹茶団子に茶をつけてお願いします」
結局、私達は城下町の西部にこぢんまりと建てられた茶屋で一旦一服することにした。
この茶屋は騒々しかった表通りの空気からは離れた位置に建てられており、外に置かれた椅子のすぐ側に流れる小川のちろちろという音が、市場の熱気にあてられた人々の心の奥深くにまで癒しの響きをもたらしてくれる。
だが、そんな優雅な音をじっくりと鑑賞する程の余裕を持っていない者が一人いた。
「冬瑠はどうする?」
「夜は……」
話し合うよりもまず食べましょうという市三郎の提案に従い、まず各々の注文を決定することにしたのだが……
先程からずっと、菓子と茶の名前が書かれた紙を凝視したまま、冬瑠は凍ったかのように動かない。
不安になってどうかしたのかと聞こうとしたとき、ようやく冬瑠の口が動いた。
「この抹茶団子というのは、一体どのようなものなのか?」
「お前、知らないのか?」
悪気は無かったのだが、つい仰天して聞き返してしまった。
茶屋の団子のは子供の頃から食べているものの代表であり、その中でも抹茶団子は人気の高い種類だ。食べたことがない人の方が少ない。と言うより、ほとんどいない。
しかし、私の驚いたような態度に、冬瑠は顔を赤らめて俯いてしまった。
その様子を見て、たった今の自分の失言を悔やむと共に、慌てて私は説明を始める。
「いや、済まない。団子というのは基本的にまず、粒状の米に湯を掛けなからこね、丸めてから茹でて作るだろ」
「ああ、そうだな」
「抹茶団子の場合、その粒状の米の中に抹茶の粉末を混ぜておくのさ。そうすれば、本来の団子の味に抹茶のほろ苦い風味が乗る。西日本の茶屋では定番の団子なんだが……」
ふと、私達が宇治を通った際に、抹茶団子の消費量が原因不明の理由で急増し生産が間に合わないから助けてくれ、と頼まれて、市三郎と共に抹茶団子をいそいそと作った事を、懐かしさと共に思い出した。
あの時は息をつく暇も無く抹茶団子の注文を処理していたものだから、そのお陰で今では団子を作る腕には多少の自信がある。
「西日本定番……なら、東日本では?」
その言葉を聞いて、冬瑠が抹茶団子を食べた事が無い理由の合点がいった。
冬瑠は西日本に来てまだ日が浅い。それに、平民とはかけ離れた生活を送って来た冬瑠が抹茶団子を食べた事が無いという事は、落ち着いて考えれば確かに頷けた。
「東日本ではあまり有名でないな。東日本の茶屋では、米のみで作った団子に何かをつけたりかけたりするのが定番だ。みたらし団子やきなこ団子が主な例だな」
「成程……」
「それに対し、西日本の団子は制作段階で既に味の決め手となる材料を混入させるのが一般的だ。桜団子や草団子、それこそ抹茶団子などはその代表だ」
私の説明に感心の籠った表情を浮かべながら、冬瑠は団子の一覧表を眺めている。
「そうか……。夜は東日本にずっといたからな。少しこれに興味があるな」
「なら実際注文して食べてみるか?」
「だが、これもいいな……」
どうやら冬瑠の頭の中では、色々な種類の団子が凌ぎを削っているらしい。
「まあ、ゆっくり決めればいいさ。時間は制限されていないからな」
その後も冬瑠は団子の一覧表と睨み合いを続け、結局市三郎と同じ緑茶と抹茶団子の組み合わせを頼む事になった。
「さて、次の行き先だが……」
茶屋の旦那に注文を告げた後、私は本題に切り出した。
「冬瑠には言ってなかったが、この旅の終着点は長門国長州藩だ。冬瑠は初耳だろうから、以後頭の隅に置いといてほしい」
「うむ、分かった」
「そして今私達は姫路藩に居る訳だが、まだまだ長州藩は先だ。道のりは長いが、兎に角西の方角へ向かうのは確定事項だ。問題は……」
「真っ直ぐ西へ行けば森に直撃しますね」
姫路藩に足を踏み入れる前に道中で道を間違えてしまい、散々な目に逢った昨日の事は記憶に新しい。
流石に同じ過ちは二度も繰り返したくない。
「だから、まずは姫路藩より伸びる三本の道の内南西の道を利用して、姫路藩の北西に位置する山崎藩に向かおうと私は考えている」
「聞いた事が無い藩だな……」
「町の中心に城は無く、山崎陣屋という藩庁が行政の中心として置かれているだけだからな。聞いた事が無いのも無理はない」
へいおまちどお、という威勢の良い声に目線を上げれば、茶屋の旦那が盆に各々の注文した物を乗せて持って来ていた。
「山崎藩に行くなら陰陽の道は使わんで北に行くと、遠回りにはなるが楽に着けるでぇ」
旦那はそんな事を言いながら机に各の和菓子を置いていく。
「それは興味深い情報ですね。理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「陰陽の道は確かに山崎に近ぇんだけど、道が悪ぃんだ。元々山道を切り崩して作った物だから、でこぼこだわ草はぼうぼうだわであの道を通る旅人は口を揃えて愚痴をこぼしなさる」
確かに、姫路藩から南西に向かうと中国山地の東端にぶつかるから道の具合は悪いかもしれない。
「急ぐってんならそれでもいいけどねぇ、流石に嬢ちゃんには厳しいんじゃないかねぇ。北の道ならちゃんと整備されとるから、だいぶ楽に旅が出来るでぇ」
その旦那の言葉を聞いて、私は旅の連れに女性が増えたことを完全に失念していたことに気づいた。
確かに、今までの旅は市三郎と私の男二人旅だったからかなり乱暴な道も切り進んでこれたが、今後はそういうわけにも行かなくなるだろう。
「夜は別に平気だぞ」
「お前が平気でもこちらが気が引けるのだ。大人しく楽な方を選んでおけ」
「やっぱり男ってのは、べっぴんには弱いもんでさぁ、なぁ?」
先程、冬瑠の着物姿に見ほれてしまった私は、同意を求めてきた旦那に苦笑いで頷くしかない。
「何にせよ、助かる情報を有り難う御座います」
今後は女が旅の仲間にいることも考慮せねばと肝に銘じ、机に置かれた湯呑みを一つ取ってみると、
(ほぅ……これは面白い……)
標準的な茶よりも幾分か濃い香りに驚く。かといって茶を見れば大して緑が濃い訳でもなく、むしろ薄い方だ。
「これはどこから取り寄せた茶で?」
興味をそそられたので、側に座る旦那に聞いてみた。
「ああ、それは明石の方から取り寄せた茶でさあ。ほれ、香りが濃いのに色がかなり薄いだろう? この矛盾が面白くて、うちじゃあ最近になって、尼崎の方の茶からこっちに乗り換えたって訳よ」
「成程。上品な見た目としっかりした香りを両立させる茶とは、大層趣がありますね」
「おお、兄ちゃん、茶の心が分かるかい。流石東海の武士だな」
東海の武士、とは襟の刺繍を見ての事だろう。
「恐縮です」
話が分かる人間と出会えたからだろうか、旦那は目に見えて機嫌を良くしていた。
私は、茶に関しては結構な知識を持っている自負がある。それは確かに、私がかなり茶を好んでいるという理由もあるが、しかし何よりも、市三郎の実家が茶農家であるという事が最も影響しているだろう。
市三郎も、今でさえ目の前で抹茶団子を凄まじい勢いで咀嚼しているが、茶の目利きには大分通じている。
そう言えば、と残りの一人である冬瑠をちらっと見ると……
「……」
何故か、団子の櫛を口に含んだまま、それは見世物に出来る程完璧に硬直していた。
「おい、おい。冬瑠?」
少し不安になってわき腹を肘で軽くつつく。すると、
「……うまい」
ぼそりと、冬瑠はそんな事を呟いた。
その言葉は思わず漏れたというような物だったが、すぐにぱっと冬瑠の表情が輝きに満ち、
「うまい、これはうまい!」
今度は元気良く、心底感動したかのように喜んだ。予想を超える反応に、抹茶団子を作った訳でもないのに思わず私は気分を良くしてしまう。
茶屋の旦那もそんな冬瑠の反応に大層満足したようで、
「そうかい、嬢ちゃん。うちの抹茶団子は宇治の抹茶を使ってるからねぇ。うまくねぇ訳がねぇんだ」
と、満面の笑みを顔に浮かべていた。
冬瑠はと言えば、恍惚とした表情で頬に手を当て、二個三個と抹茶団子を存分に満喫している。
「この主張し過ぎない抹茶の味が何とも言えない。夜が今まで食べた団子の中で一番うまいぞ……」
「そうかい。嬢ちゃんみたいなべっぴんにそう言われると嬉しいねぇ!」
市三郎の方をなんとなく向いてみると、まるで小さな子供を見守るような優しい目つきで冬瑠を見ていたものだから、驚きも余所に小さく吹き出さずにはいられない。
そして、茶屋の旦那には聞こえないように冬瑠に耳打ちしてやった。
「山崎藩にはもっと抹茶団子がうまい茶屋があると評判だ」
「決まりだな、重影」
間髪入れずに返事が返って来たので、私は思わず声に出して笑ってしまった。
山崎藩は播磨国の中で最も西にその領土を持ち、更に西に行けばその地は美作国に属す。
山崎藩は、姫路藩の初代藩主を務めた池田輝政の四男である池田輝澄が、元和元年に山崎陣屋を建てたことにより立藩した。
今現在の山崎藩藩主は、慶安元年に二万石を与えられて児島藩を立藩し、その翌年に山崎藩に入藩した池田恒元である。
兄に、元姫路藩藩主であり現備前国岡山藩藩主の池田光政を持っているが、彼は政治に非常に優れた人物として世間では有名だ。
しかし、恒元も光政に劣らず名君であることもまた広く知れ渡っている。彼が行った地検、治水工事、山林の保護、村落制度の制定は、光政すらをも凌ぐ手際の良さで進められたとされる。
姫路藩の茶屋の旦那が提供してくれた情報に従って、急遽北の道を用いて山崎藩へ向かうことにした私達は、特に面倒な事件に遭遇することもなくすんなりと到着することが出来た。
茶屋の旦那の言う通り、私達の歩いて来た道には砂利が敷かれきちんと整備されており、むしろ楽しんで旅をすることさえ出来た。
更に簡単ではあったが宿屋も道中に何軒か建てられており、ついこの前私達が歩いた山道と比べると、本当に同じ播磨国を歩いているのかと疑いたくなるほどだった。
今度姫路藩を再度訪れる機会があったら、旦那に礼を言うべきだろう。
冬瑠も、元々旅をしていた身だから体力には自信があると言った通り、さほど疲れた様子もなく私や市三郎との会話に花を咲かせていた。
もっとも、市三郎は冬瑠にからかわれてばかりで頬を膨らませていたが。
そうして辿り着いた山崎藩は、こぢんまりとはしていたものの中々綺麗に整理された町だった。
道の両脇に門を構える民家は横一列に綺麗に並んで建てられていて、城が無い為に姫路藩よりも寂れているという感想を持つことは避けられなかったが、しかし山崎藩主池田恒元の治安維持の素晴らしさが窺えた。
ところで、姫路藩の茶屋にて私は冬瑠にここにうまい抹茶団子を出す茶屋があると言ったが、別に山崎藩は抹茶の生産が盛んであるという訳ではない。
むしろ、山崎藩で茶葉を栽培している農家は昔書物で読んだままであるならばたった一世帯のみであり、抹茶産業はあまり重要視されてはいないとすら言える。宇治のような抹茶都市と比べれば、山崎藩の抹茶の生産高は百に割った一つにも遠く及ばないであろう。
だが、「質」という点について見ると、山崎藩の抹茶は全国の上位に一気に食い込んでくる。
山崎藩の中で唯一茶葉を栽培している農家により作られる抹茶それこそが、「至高の茶」と称されるほどの高級品なのである。
貴族の中でも下等な地位の者では目にすることすら出来ず、それを所持している高位の貴族ですら、それを出すのは特別な式などに限られる。
無論、一般の市場に出回ることはまずない。
ではその抹茶の何が他と比べて秀でているのか。
それは、「香り」である。
本来の抹茶には特有の苦みが含まれており、それを味わうのが抹茶の醍醐味と言っても過言ではない。茶道においても、苦みを賞賛するのは礼儀の基本である。
だが、抹茶の苦味には独特の青臭い匂いがついて離れないのが、農家の間では長い間課題とされている。質の良くない抹茶だと、抹茶特有の臭みが粉末として擂り出した後も残り、それを湯に溶かした際に茶に出てきてしまうのだ。
だが、山崎藩の抹茶にはそのような特殊な臭みが全く無いのだという。
何でも、その農家は茶葉の畑の土壌から手を入れて作っているのだそうで、世間的に使用される干鰯や豚の糞は勿論のこと、瀬戸内海で盛んに取られている牡蠣の殻を粉末にして土壌に混ぜる、などといった特殊な配合も行っているらしい。
それを聞いた各地の農家は、牡蠣の殻の主成分である石灰が抹茶の臭み消しの鍵を握っていると踏んで、挙って粒状の牡蠣の殻や石灰を土壌に混ぜた。しかし、どうやら山崎藩の茶葉農家のような土嬢を作るには他にも幾つか鍵が存在するようで、項垂れつつも土壌の配合を諦めたという話は刈谷藩にも以前良く流れていた。
そんな高級な抹茶は当然私も賞味したことはなかったのだが……
「成程! これは美味いぞ重陰!」
冬瑠は、その滅多にお目にかかれない最高級の抹茶がふんだんに使われた団子を一口食べるや否や、そう言って幸せそうな顔を浮かべた。
確かに、今冬瑠と市三郎が目の前で食べている団子から薫る匂いには何処か上品さが感じられる。
そんな上質な抹茶の粉末で練った団子はさぞかし美味いことだろう。冬瑠が感動するのも素直に頷けた。
「うちはこの藩で唯一、そこの農家と契約している茶屋でね。そこの抹茶は全国の茶屋でもうちでしか扱ってないんです」
山崎藩の街並みの角に建てられた茶屋、「道化屋」の店主である國助は、私達、特に興味津々だった冬瑠に、抹茶が畑に植えられてから出荷されるまでの道程を丁寧に説明してくれた。
「殿も緑茶だけじゃ勿体無いですよ。一口どうですか?」
私がじっと見ていることに気が付いたのか、市三郎はまだ手をつけていない団子を楊枝で半分に切り、その片方を皿に載せて差し出してきた。
差し出されている団子は、材料が良いだけでは確実にこんな上品な色は出ないと確信出来るほど綺麗な薄緑色をしている。
國助の団子作りの腕前も確かなのだろう。
「済まないな。じゃあ、一かけ頂くか」
机に乗っている楊枝入れから一本楊枝を手に取り、団子を掬って口に入れる。
抹茶単体では作り上げることの出来ない丁度いい甘味が米粉との絶妙な配分で生み出されていて、成程と唸ってしまうほど美味だった。
「これは美味いな。やはり材料だけでなく店主の腕あってですね」
「大したことないですって、重影さん。あんまり褒められるのには慣れてないもんで」
國助は頭の後ろをぽりぽりと掻きながら、まるで子供のような無邪気な笑みを見せる。
「いや、素晴らしいですよ。団子だけでもなく、この緑茶も丁寧に淹れられているのが香りを嗅いだだけで分かります」
「見習いから数えると、茶屋で働いて三五年を越えるんでね」
そして今度は頭を掻いていた手を開いてぱちんと後頭部を叩き、そのままがっはっはと豪快に笑った。
その手が緑色に薄く染まっているのを見れば、相当の修業を積んでいるであろうことが容易に想像出来る。
「あっしは、餓鬼の頃にお袋に連れられてこの茶屋の団子を一回食いましてね、一目惚れしちまったんです。それから道化屋の当時の主人に弟子入りを申し込んで、今は自分が二代目店主です」
「良いですね。一つの事に没頭するというのは」
「がははは、違いないですわ。あっしは茶よりも団子のほうが作るのが好きでしてね。特にうちの藩の抹茶が日本一と来たら、抹茶団子の道を究めるしかねぇってその時直感しまして、それで今があるんですよ」
私も旅をしていると、たった一つのことを極めている、所謂「職人」に憧れを覚えることも少なくない。
旅という流動的なものを続けていると、どうしても一つのことに没頭する時間が確保することが出来ない。自分が持っていないものを羨むのは、至極当たり前のことなのかもしれなかった。
「例の茶葉農家とはどのような手段を用いて契約したのでしょうか?」
「ああ、あの農家の主人があっしと同い年で、餓鬼の頃からの親友だったんですわ」
そう笑う國助は茶屋の旦那にしては体格がごっつりしていて、背も私を見下ろしてくる程高い。もし國助が鍛冶屋を営んでいると言ってきても、違和感なく受け入れてしまうだろう。
性格もとても商人らしい竹を割ったようなもので、湿っていて大人しいという茶屋の旦那の型を根本から覆すような人物だった。
だからこそ、そんな人の良い國助の前でこうしていることに私は罪悪感を抱いてしまう。
「しかし、このような高価な団子を本当に無料で頂いても良かったのですか?」
実は今、私達は茶を三人分と団子を二人分を無料で食べさせて貰っている。
とはいえ、誤解を生まぬよう予め言っておくが、別に私達は盗賊に成り落ちた訳ではない。
「ああ、構わないですよ。ちゃんと取引したんでね」
そう、私達が抹茶団子を一銭も払わずに食べられているのには、相応の理由がある。
國助と、ある約束をしたのだ。
数刻前の話になるが、日本一の抹茶を使った団子を販売しているのは道化屋しかないことを予め知っていた私は、山崎藩に着いてから迷うことなくこの店へ向かった。
しかし、その時道化屋の暖簾の前には國助が渋い顔をしながら立っていたのである。
どうしたのだろうと怪訝に思って話を聞いてみれば、何でも頼み事があるのだとか。
姫路藩で忠次の願いを断ってから、私はより一層行動指標を守ろうと決意を固いものにした。だから当然私は國助の頼みを快諾したのだが、私達がそれを了承すると國助は途端に顔を明るくさせ、立ち話も何ですから中へと私達を半ば強引に道化屋の中に招いたのだ。
その後、國助は全員分の茶と団子を持ってきて、
『折角ですからどうぞ。いえ、代金は取らないんで心置き無く』
と言って勧めてきて今の流れがある。代わりに頼み事を聞いて協力するとはいえ、流石にただ食いに後ろめたさを感じた私は丁重に断ろうとしたのだが、中々國助も譲らない。
冬瑠が目の前に置かれた抹茶団子を食べてみたそうだったこともあって、私のみ茶だけで良いという条件付きで結局私が折れ、今の状況に至ったのである。
冬瑠と市三郎が団子に舌鼓みを打ち終わるのを見計らい、私は話の核心に一気に踏み込んだ。
「それで、頼みとは一体何でしょう?」
茶屋の旦那から依頼を受けたことは過去にもあった。
宇治を通った時に菓子の製作を手伝ってくれと言われたこともあったし、うちの小僧が逃げ出したと言って捜索を依頼して来た旦那もいた。
だがそれらは極めて特殊な例であって、大抵は材料が底を尽きたがまだ営業時間中だ、手が離せないから材料を調達して来てくれないか、と言ったような内容だった。
だが、その類のことならば私達に団子を食べさせる時間もないほど緊急である筈だ。
依頼内容の予測がつかない。
そしてやはり、國助の口から出てきた言葉は今までの茶屋の旦那が依頼して来た内容とは全く異なるものだった。
「ああ、そうだったですな。実は……」
國助はそう言うと、視線を表通りへ向ける。
そして、数段低くなった声で、ぼそりと、しかし飛んでもないことを言った。
「抹茶団子の材料の粉が、最近盗まれているんでさあ」
「なっ!?」
一際大きく反応したのは市三郎だった。
私を湯呑みを口に運んでいた手を止めってしまったが、激しく驚いて見せた所で何が変わる訳でもない。
一つ息を大きく吸って、努めて平静を保とうと試みた。
「盗まれた……ですか?」
「ええ。これが始まったのは一週間ほど前のことなんですが、倉庫に保管してある抹茶の入った木綿袋の中身が日に日に少なくなっているんですよ」
落ち着いて考えて見れば、それは充分有り得る話だった。
もしここが普通の茶屋だとしたら、盗人絡みの事件は起きない筈だ。何故ならば、もし盗みに失敗したときに被る損害と盗みに成功したときに懐に舞い込む利益が、全く釣り合わないからである。
盗みをするならばそれだけのことをするに値するもっと高価な物を狙うのが普通であり、結果として大した価値のあるものがない茶屋は盗人の視界の外なのだ。
しかし、道化屋においては逆。
日本で一番高級な抹茶の粉末は、盗みの対象として相応しい価値がある。
「心当たりはないのですか?」
「残念ですけど、ないですねぇ」
申し訳なさそうに國助目を伏せた。
そこに、
「盗みか……許されん行為だな」
隣から低い唸り声が聞こえて来た。
凄まじい怒気を感じたので何事かと思って見ると、冬瑠が穏やかに――――しかし目つきと放つ気配だけは怒り心頭のようだった――――外を見つめていた。
冬瑠は、悪事から足を洗って未だに数日しか経っていない。人にとって良いことをする習慣がまだ定着していない彼女は、少なからずそれを意識して考えている筈だ。
だから、悪事を働いている人間が普段よりも増して憎く思えるのだろう。
それは私達にとって非常に良い傾向なのだが、しかし今は場所が悪い。冬瑠の発する本物の怒気に、冬瑠の正体を知らない國助は若干怯えている。
放置しておいて良い状態ではない。
「おい、冬瑠。國助殿が怯えている。少し自重しろ」
國助には聞こえないように、そっと冬瑠に囁いた。
すると、冬瑠ははっとした様な顔をしてすぐに気配を穏やかなものにする。
自分が放っている雰囲気を理解して即座にそれを変えることが出来るあたり、流石日本最強の殺し屋と言われていただけのことはある。
「済まない、國助殿」
そして、心底申し訳無さそうな顔をして冬瑠は國助に謝った。
「あ、ああ。構わないです」
そして國助は首だけで何度か頷く。
しかし、そうは言ったものの、國助の警戒心はあまり解けていない様子である。
堅くなり始めた場の雰囲気を見兼ねた私は、少し手助けすることにした。
結果から言えば、大失敗だったのだが。
「彼女は盗賊に両親を殺されまして、そういうことに敏感なのですよ」
「あ……」
過大に言い過ぎたと思うのは、國助の顔が大きく歪むのを見るもっと前であるべきだったか。
途端に申し訳無いと言わんばかりに唇を噛み締めた國助の目つきは、先程とは打って変わってとても悲しい色をしていた。商人は実に感情的な人間であり、自分の心情を積極的に表そうと試みる。
そして、冬瑠は人から同情されるのを嫌うようなさっぱりした性格をしている。結果として、今度は冬瑠に対して好ましくない状況を作り出してしまった。
國助が冬瑠に対して抱いている警戒心を和らげようとして逆にどんよりとした雰囲気を生み出してしまった自分の発言を、思い切り罵りたい衝動に駆られたことは言うまでもない。
(誇張し過ぎた……。これでは本末転倒ではないか……)
しかし、救いの手は意外な所から差し伸べられた。
「いや、親の顔は覚えていないからあまり記憶にもない。ただ、少し脳裏をかすめただけだ。気にしないで頂けると助かる」
そう言ったのは冬瑠である。
にこりと彼女が作った上品な笑顔を見て國助も自分の態度に反省したようで、場の空気はようやく元に戻った。
冬瑠を助ける筈が結局冬瑠に助けられる羽目になってしまい、非常に情けない。
「ふふっ、借りが出来たな……」
追い打ちとばかりに、今度は冬瑠が私に耳打ちをしてきた。
普段ならここで私も一矢報う所なのだが、今は完全に私の落ち度だったので何も言わず目で冬瑠に礼を言う。
冬瑠は、私の謝罪への返事に軽く笑い返してくれた。
「取り敢えずあっしの方でも盗人への対策は施してみたのですが、どうにも……」
盗難騒動まで話の規模が膨れ上がると、流石に一日や二日でどうこうなる範囲ではなくなる。
じっくりと証拠を炙り出し慎重に吟味した上で犯人を割り当てるまでに、少なくとも三日は必要だろう。推理する側に立たされたとき、最も危惧すべきことは証拠不十分による冤罪だ。
「流石に、今日中に解決という訳にはいかないですね……」
「ああ、いや。そんなすぐにって訳じゃないですよ。ここに泊まって貰って構わないので、ゆっくり調査してくれると助かります」
盗人を捕まえるだけなのに、団子や茶を馳走して貰い、さらに宿まで借りるのは流石に気が引ける。
丁重に断り、近くの安い宿屋の情報を訊こうかとしたときだった。
「なら、ここに泊まって盗人を捕まえようではないか。夜達に任せよ」
礼儀も何も無い発言をしたのはなんと冬瑠だった。
「な……」
予想だにしなかった事態に絶句せざるを得ない。
食べ物を無料で食べさせて貰った上に、こちらから泊まり込みの要請をするなど言語道断。傲慢の代名詞である上流貴族ですら、相当な圧力はかけるものの自分から泊めてくれなどと言う図々しいことは言わない。
「そうですな。後は冬瑠さん達にお願いします」
しかし、國助までも嫌な顔一つせず許可を降ろすのだから、私は慌ててしまった。
「す、少し待って下さい!」
黙っていればそのまま道化屋に泊まることが決定してしまうような流れさえ生まれていた。
ようやく口を挟む機会を得た私は急いで冬瑠と國助の会話に割って入り、議論の決定を中断させてから冬瑠に詰問した。
「お前、何を考えているんだ!」
「夜か? 話を聞いていなかったのか? ここに泊まって盗人を捕まえようとしているのだが?」
「そういう問題では――――」
そこまで言ってから、私は目を疑った。
今までの様子から普通の庶民以上に礼儀作法を身につけていると思っていた冬瑠は、なんと目を丸くして私を見つめているのだ。
まるで、何故私がここまで怒っているか、本当に分かっていないような――――
その瞬間、頭に熱が溜まっていくのを感じた。
「礼儀というものがあるだろう。お前は、人が遠慮もなく他人の家に泊まることに疑問を感じないのか?」
無様に怒鳴り散らさなかったのは、仏様からの僥倖か。
「ああ……」
そして、そこでようやく冬瑠が私の言わんとしていることを理解したようだった。
「だから、夜達はどこかの宿屋で部屋を借りて泊まるべきだ、と?」
「言うまでもない」
すると、どうだろうか。
そう憮然とした態度で言った私に対して、冬瑠はまるで呆れたかのような様子で溜め息をついたのだ。
まるで、私を馬鹿にしているようにさえ見える。
一度冷やされているからこそ、先程よりも頭への熱の溜まり具合は良い。
今度こそ冬瑠に対して怒鳴りつけてやろうかとしたが――――
「まあ落ち着け」
冬瑠は私の顔の前で手をかざし、そう言って私を制した。
「冷静に考えてみよ。重影らしくもない」
「どういうことだ」
「貴殿とは違って、市は分かっているようだが?」
「なに?」
冬瑠に言われて市三郎を見ると、いきなり話を振られてかなり居心地が悪そうな様子だったが、私が目で答えを促すと「え、ええ……。何となくは」とぼそりと小さくそう言った。
「いいか、重影よ」
いよいよ私の頭が迷宮の真ん中で右往左往し始めたとき、私の顔に冬瑠の手が伸びて来てぐっと彼女の方に無理矢理向かされた。
冬瑠がそのまま腰を上げ、私の顔の至近距離まで顔を近づける。
冬瑠の手はそれでも私の頬の上に置かれていて、私が顔を背けようとすると彼女が力を入れて動かすことを許してくれない。
冬瑠の綺麗な目に面と見つめられて、私はかなり狼狽えた。
そして、冬瑠の形の良い唇がゆっくりと動く。
「他の場所で泊まることになったとして、陽が落ちた後はどのように盗人を警戒するのだ?」
「あ……」
しかし、そう冬瑠が言うと頭の中で断片的な何かが繋がった気がした。
冬瑠は私の顔から手を放し、自分の席に座り直す。
「貴殿が言った通りにすれば、確かに私達は國助殿に対する礼儀は果たせるかもしれない。しかし、盗人が一番活動する夜間の間、夜達は現場から離れた位置でのうのうと寝る。これがどれだけ愚かな行動か、重影ほどの男なら分かるだろう?」
「成程……」
冬瑠の言っていることは、確かに正論だった。
盗人は、抹茶を盗む為に今日も虎視眈々と道化屋を観察しているかもしれない。そんな中、盗人が一番活動し易い夜に警備を怠ろうものなら、あっと言う間に粉が盗まれてしまうだろう。
考えてみれば単純だった理屈に気が付かなかった自分を恥じた。
「しかし、良いのですか?」
一応、國助に確認を取ると、
「ええ。当然」
と勢い良く頷いてくれた。やはり彼も、この会話の真意を汲み取っていた人間の一人だったのだろう。
「ふぅ。重影ほどの人間でも、こんなに簡単なことが見えなくなる時があるのだな」
冬瑠はと言えば、私を言いくるめたことが余程気持ち良かったのか、してやったりと言わんばかりの笑顔を私に向けていた。
「では、暫くここに泊めさせて頂く、という事ことでよろしいでしょうか?」
「ええ。お構いなく」
簡単な交渉成立の証として、私は立ち上がって國助と握手を交わした。
その手は、船乗りのような筋肉で隆々とした物ではなく、繊細な作業をこなすために形成された細い指から作られていた。
「っと、ここに泊まるならうちの小僧を紹介しないと、勘ー!」
握手をして互いに椅子に座り直した後、國助は思い出したかのように厨房に向かって誰かの名を叫んだ。
どうやら、道化屋には見習いの小僧が一人いるらしい。
茶の世界のような職人の技が必要とされる業界の中では、見習いの小僧を雇うという話は珍しくない。
果たして勘とはどのような人物なのだろうか、小僧という程だから年は一〇を超えたばかりの子供なのだろうか、などと暫く考えていたら、厨房から一人の少年が現れた。
「何ですか、師匠?」
「おお、ちょっと紹介する方が居るからこっち来い」
勘と呼ばれた少年は、私達の方を怪訝な様子で見ながらこちらに歩いて来た。
國助は近くに寄って来た少年の頭にぽんと手を置き、私達に彼を紹介してくれた。
「こいつが勘一郎。あっしの所で見習いをやってる坊主ですわ」
第一印象は、しっかりした子であるだった。
國助に頭を大胆に撫でつけられている彼は、見た目は今年で一五になる市三郎より一回り幼い。身長も私の胸ぐらいまでしかなく、私がだいたい見当を付けた辺りの年齢で間違っていないだろう。
しかし、子供にしては珍しく実に自立したような印象を勘一郎から受けた。國助に対して失礼だから口が裂けても言えないが、茶屋で小僧をやっているような品格を遙かに上回っているとすら私は思った。
あまりにも予想外な印象に、少々面食らってしまう。
「勘。この方達は、うちにたかってくる盗人をとっ捕まえてくれる人だ。自己紹介しろ」
怪訝な顔で私達を見回していた勘という少年は、そこでようやく理解の念を顔に表して、流暢に自己紹介をした。
「僕は勘一郎いといいまで。勘って呼んで貰えれば嬉しいです」
一度私達に深々とお辞儀した所を見ると、どうやら勘一郎は相当しっかりした教育を叩き込まれているようだ。
「おお。夜は夜智冬瑠という。よろしくな、勘」
「はい!」
そして、丁寧ながら子供特有の純粋さが残る態度を、どうやら冬瑠はかなり気に入ったらしい。國助の手が勘一郎の頭から離れると、すぐさましゃがみ込んで勘一郎を抱き締めた。
まるで犬を可愛がっているかのように勘一郎を撫でている冬瑠を見ると、何故だか心が次第にほんわかとなってくる。
この女性が昔は無敵の殺し屋である闇之閃だっだなど、今の様子を見た人に言ったとしても信じて貰えないだろう。たった二日で随分と変わったものだな、というのがこの時私が感じたことだった。
思わず笑みがこぼれる。
そして、冬瑠に撫でられている勘一郎の元に寄り、試しにと手を差し出してみた。
「私の名は稲垣重影だ。そして彼が連れの市三郎。頭の片隅にでも私達の名を置いてくれ」
「いえ、飛んでもないです」
すると、勘一郎はそう言って期待通りに私の手を握り返してくれた。思わず、おぉと感嘆の声を上げてしまいそうになる。
「言葉遣いと態度だけは、あっしがみっちり叩き込んでやりましたからねぇ。今の時代、役人に刃向かえば無事に済まされるか分かったもんじゃない」
國助は笑いながら言っているが、言っている内容は笑えない冗談だ。役人に気さくに話しかけでもしたら、良くて牢獄行きだろう。
「いえ、彼はしっかりしている。今後の成長が楽しみですよ」
お世辞ではなく、本心から。
私は、冬瑠に抱き締められて僅かに赤面している勘一郎をちらりと見ながら言った。
「本当はこいつには茶屋が向いてないかって、たまに思うんですよ。こういう几帳面な性格だから……」
そこで國助は、はっとなったような顔で咄嗟に口を押さえた。
役人、とは口が裂けても言えない。
幕府が作られ、新たな時代を迎えて早五〇年を迎えたが、その間に役人の横暴ぶりは他に類を見ないほど酷いものになっていた。
父上の話によると、役人が一般市民に対し脅しを行ったという例は枚挙に暇がない上に、彼らが更生の一つもしようとせずに次なる脅しの対象を探し出すという悪循環が、役人が堕落した原因だという。
今や日本において、えた・非人の次に役人というのは民より嫌われる職となってしまった。
「医者などは向いていそうですね。彼」
失言だったと言わんばかりに顔を顰める國助を、言葉で助ける。
國助は何も言わない代わりに、申し訳なさそうに顎を少し引いた。
不必要に媚びない態度は、生粋の商人である証。
だが、この時ばかりは私の助言も失言だった。
「医者など僕には興味ありません。僕は、茶屋の主人になりたいんです」
不意に上がった気丈な声に振り向けば、勘一郎が冬瑠の腕の中から離れて私を見上げていた。
その顔は私が思わず唾を飲み込むほど真剣なものであり、その瞳には若干の怒りが籠められていた。
最初、私には何故勘一郎が怒っているのか分からなかったが、勘一郎が茶に携わる職以外に興味が無いという意志は、その剣呑な態度からすぐに感じ取ることが出来た。
「茶には人の心を落ち着ける不思議な効果があります。それならば、その力を利用して人々の憩いの場を提供するのが茶屋の人間に働く者の使命。僕はそれに誇りを持っています」
「勘!」
よもや食ってかかるのではないかと思わせるような勢いで私にまくしたてていた勘一郎の頭を、ぴしゃりと國助の手が叩いた。
「てめぇ、お客様に説教してんじゃねぇ! 礼儀がなっとらんわ!」
「いや、気にしないで下さい、國助さん」
「しかし……」
更に何か言いたそうだった國助を私は制した。そこで笑顔を浮かべるのも忘れない。
「彼の言う通り、私は少し彼を幼く見ていました。私は旅をする身。一つの事に深く打ち込むことが出来ない者です。茶、という一つのものに真摯になって取り組んでいる彼の姿を認識し切れなかった、私に非があります」
「でも、殿は人助けという一つのものに取り組んでらっしゃるじゃないですか」
「はは、違いない」
一つのことに没頭しているその姿を、多少なりとも羨ましく見たことについては否定しない。
だが、限定された業界の中で頂点を目指す『職人』を志すなら、その道のりは羨ましいなどという生温いことを考えた自分を恥じてしまうほど険しいだろう。
「國助さんに言われていると思うが、茶作りは手順が単純な為に心と手先の繊細さが味を決める。茶道の奥義を自分で考えて一つの答えに辿り着いたとき、初めて茶に自分の味が出る。頑張れよ、勘」
「はい! ありがたきお言葉です! 心にしかと留めて置きます!」
私が勘一郎の頭に手を置きながらそう言うと、道半ばの少年は首が飛んで行ってしまいそうなほど大きく頷いてくれた。
「ははは、やはりあっし如きの町人と上流武士様の言うことは違うな。あっしも教訓として覚えておきます」
「随分と格好の付く事を言うではないか、重影」
國助は単純に賞賛してくれたのだろうが、冬瑠は単純に褒めたのだろうか、それともからかっているのか分からない。
しかし、思わずにやりとしてしまわないよう頬に力を入れていてもまだ口の右端が若干吊り上がっている所を見れば、私をからかっていた方が本当なのだろう。
私が非難するような冷たい目線を冬瑠に向けていると、それに気付かないふりをした冬瑠が勘一郎に質問をした。
「それにしても、勘よ」
「はい、何でしょう」
冬瑠が勘一郎の右手の甲を指差す。
「その痣は一体どうしたんだ?」
私が目線に籠めた言葉を軽く流した冬瑠に少しだけむっとしたが、確かに勘一郎の右手の甲には一つだけ痣がくっきりと残っていた。
もし勘一郎が鍛冶屋の小僧であるならば私も特に追求しないだろうが、繊細な作業が多い茶屋を手伝う勘一郎がそんな大きな痣を作っていることに、冬瑠と同じく少なからず興味を惹かれた。
「ああ、これですか」
すると勘一郎はその痣を見つめ、そして何故か誇らしげな顔をした。
「これは、抹茶の葉を擂るときに使う茶臼という道具で怪我したものです。茶臼とは、乾燥させた茶葉を擂って抹茶を作る石臼の一種なのですが、非常に扱いが難しくて力がいる道具なんです。それで何度も手に打ちつけてしまい……」
「手にそのような痣が残った、という顛末なのか」
確かに、弟子入りした小僧には己の体から叩き込ませろというのは良く聞く文句であり、鍛冶屋の小僧などは手の甲に幾つもの痣を作っていたり、大工の小僧の手には数え切れない程のまめが出来ていたりする。
だが、書物で一通りの手順を読んだことはあったが、抹茶の粉末を作る作業がまさかこんな痣が残るまでの重労働であるとは知らなかった。
「これは、僕の誇りです」
本当に誇らしげに、勘一郎は素直な笑顔をこちらに向けた。
その笑顔は、まさに自分のことを自慢する子供のものだった。
「そうか。なら、もっと精進して更なる高みを目指せよ」
彼の志は、純粋でいてかつ大きい。
その目標に正攻法で挑もうとしている勘一郎を見ていたら、本当に心から彼を応援する気になれた。
「では、少しいいですかね?」
勘一郎を穏やかに見ていた國助が、そう言って一度話を区切った。
「ええ、何でしょう?」
「一応、現場を一目入れて頂きたく思いまして」
「ああ……」
確かに、現場を調査せずに推理をすることは出来ない。
これから推理を進めていくに当たって何か取っかかりを手に入れる為にも、出来るだけ早い段階で盗まれた場所の付近は見ておきたかった。
「そうですね。宜しくお願いします」
「なら、次は倉庫に案内します。ついて来て下さい」
すると、國助は店の前に垂らしておいた暖簾をしまい、割烹着を脱いで外に出た。私達が全員通りに出たのを確認すると、そのまま先頭を歩いていく。
先日断った忠次の分もこの仕事できっちり働いておこうと、私は國助の後を歩きながら自分に活を入れた。
最終更新:2012年07月01日 22:19