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彼らの頭の上には、こんな感じの月が…




(ば……馬鹿な……)
 一瞬にして頭が動揺で真っ白になる。
 闇之閃は、本拠地のある東日本から西日本であるこの地に訪れる。そして、相当の情報量を持っている筈の姫路藩藩主ですら困惑していたのだから、闇之閃が西日本に来たのはこれが最初に違いない。
 だとしたら、闇之閃は姫路藩の東側からこの地に到着する筈ではないのか。
 しかし今、闇之閃は西に延びる街道の入り口に立っている。それは、彼女は西から来たことを意味していた。
(そんな……何故だ……)
 地理的に、明らかに、おかしかった。
 しかし、現実としてこうなってしまった以上理屈は何の意味も持たない。私が何を考えていたとしても、それによって闇之閃が目の前にいるという事実が変わることなどないのだ。
 落とした提灯に照らされている彼女の足が、一歩前に進められた。
 ――――ジャリ
 張り詰めた沈黙の中に響く、踏まれた砂利の音。それが場にさらなる緊張感をもたらす。
 ――――ユラリ
 そして、上体をよろめかせながら、さらにゆっくりと一歩。
 まるで魂の抜けた人間のようにゆらゆらと、しかし確実に闇之閃は私達との距離を詰めてくる。その無機質さが、私達にさらなる恐怖を掻き立てる。
 出来るものなら、市三郎のように完全に竦み上がりたかった。必死になって自分を御している方が何十倍も辛い。
「その方、闇之閃で相違ないな」
 しかし、二人共殺気に金縛りにされていては、やられる一方になってしまう。
 本能的に怯える自分を叱咤して闇之閃に声をかける勇気を振り絞るが、答えは返ってこなかった。紐の切れた操り人形のように、ただゆらりゆらりと歩むだけ。
「お、お前、な、なんか、言ったら、どうなんだ……っ!」
 市三郎の叫びにも、無言。
 だが進める足は止まらない。故に、徐々に私達二人と闇之閃の距離が縮まっていく。
 そしてとうとう、闇之閃が私達に手を触れるまであと十歩という所まで彼女が来た。
 私が腰に提げた刀の柄に手を添えた時――――
 ふっと、闇之閃は砂利の踏み鳴らす音と共に立ち止った。
 彼女が来る前のものとは比べ物にならないほど、重い沈黙。
 いつの間にか凪いでいた風が、思い出したかのようにまた三人の間を吹き抜けて行った。
 静寂。
 やがて、闇之閃が口を開いた。
「……殺す……」
 それが始まりの合図。
 そうぼそりと呟くと、全く予備動作を見せずに闇之閃が刀を大上段に掲げた。それを見て、私も咄嗟に刀を鞘から引き抜く。
「ここまで来たら、やるしかない。上手くいなしながら隙を見て逃げるぞ」
「何とか、死なないようにして下さいよ、殿!」
 闇之閃に竦み上がっていた市三郎も、あくまで武士だ。危機的な状況を察知して恐慌状態から何とか脱出し、しゃんという気持ちの良い音を出して刀を抜く。
 私は、先程までのふらついた歩みからは考えられないほど凄まじい速さでこちらに駆ける闇之閃を迎撃するべく、刀を構えた。
 そして、
 ――――ギィィィン
 闇之閃の刀と私の刀が打ち合わされた高い音が、夜の戦いの火蓋を切って落とした。
 闇之閃は、私の喉元を斬り裂こうと、或いは貫こうと、手に持つ刃渡りが長めの刀で攻撃を仕掛けてくる。
 その精度は、例えるなら虎が鹿を捕らえるかのような獰猛さ、そして熊が鮭を捕まえるかのような速さを兼ね備えていた。尚且つ、その一つ一つは正確だ。
 私は闇之閃の隙につけ込もうと全神経を集めて彼女の立ち筋を観察するが、それが徒となって防戦一方に追い込まれる。
 一つ間違えれば、即死。
 手に汗が滲む程張り詰めた打ち合いは、次第に過激になっていった。それに伴い、足元を掬いに来た攻撃を宙に跳んで避ける、地面を転がり横に流れた斬撃を躱す、というように手合いの形すらも崩れていく。
 形を意識して相手をしていては確実に斬られる相手なのだから、野性的な動きを強制されたとしても止むを得ない。
 だが、常識の額に収まらない刀の扱いをするのは、私だけでなく闇之閃にも当てはまることだった。
「……」
 無言で刀を振るうその姿は、まるで死神そのもの。電光石火の速度で繰り出される斬撃は、人間の為せる範囲を優に超えている。
 ―――――ザン
 闇之閃が刀を大きく横に振り、鋭い斬撃を私に仕掛けてくる。刀では受けきれないと判断した私は、咄嗟にしゃがみ込んでその刃をやり過ごす。
 頭上で空気の切り裂かれる音が響き、刀を振り切ったことで生まれた闇之閃の隙に反撃を叩き込もうと、曲げていた膝を一気に伸ばした時だった。
 ―――――シュッ
 闇之閃の刀が振り切られ、そのひっ先が私の後ろに建っていた民家の屋根に僅かに触れた途端、信じられないことにその屋根の瓦が音もなく切り落とされて私の頭上に降ってきた。
「くっ……」
 全く予想していなかった展開に慌て、本能的にその場から飛び退くことで何とか瓦の下敷きになることは免れる。
 切られた瓦が鈍い音を立てて地面に落ちる。その不吉な音を聞いた途端、恐怖で体が震えた。
(無茶苦茶だ……)
 幾ら振るう刀の切れ味が良くても、石で作られた瓦を切断するのは至難だ。それを、まるで豆腐を切るかのような鮮やかさを伴って可能にしているのは、計り知れない冬瑠の速度と膂力であるとしか考えられなかった。
 人間業ではない。まるで攻城兵器だ。
 しかし、闇之閃はそのことを気にも留めていない様子で、刀を振り切った体勢から更なる斬撃の予備動作に入る。
 急いで再度迎撃の構えを取った時であった。
「うわああああああ!」
 屋根が崩れた民家より、一人の藩民が飛び出してきた。
 自らの家の屋根が唐突に壊れたことに恐れをなしたか、私達の存在に気付いた様子もなく、叫びながらその場を右往左往している。
 恐慌状態に陥ってしまっているのは一目瞭然である。
 そして、それがこの手合いの終止符を打つことになる。
 踏み込みの姿勢を取っていた闇之閃が突然構えを変えて、私達ではない――――藩民に向かって猛進したのだ。
 殺気は本物だ。
 表に出てきた藩民を邪魔だから殺してしまおう、という魂胆だろう。
「させん!」
 それに気が付いた途端、一瞬だけ闇之閃への恐怖が姿を隠し、代わりに正義感が大きく私の感情を占めた。
 ただの一般人である藩民を見殺しにすることなど、旅の指南云々の前に三河武士としてあるまじき行為。混乱して闇之閃の接近にも気付いていない藩民を助ける為、闇之閃に負けじと全力で藩民の方へ走った。
「と、殿ぉ!」
 が、それが罠だった。
 全身に活を入れて地を蹴り、全力で走り出した途端、私の後方で市三郎が金切り声を上げた。
「どうした、市!」
 そのあまりにも切羽詰まった市三郎の声に只ならぬ不安を覚え、私は首が捻じ切れるほど勢い良く振り返り――――
 そして愕然とした。
 藩民の方へ踏み込んだ闇之閃の行為は、囮だった。
 私には藩民に向かって走っていったように見えた闇之閃は、いつの間にか市三郎の後ろに回り込み、喉元に刃を突き付けて市三郎の動きを封じていた。
 彼女の本当の目的は先に下級武士である市三郎を始末することにあり、偶然表に出て来た藩民を利用して私の注意を逸らした隙に、市三郎の背後に回り込んだということだろうか。
「市!」
 私は市三郎を助けようと、すぐさま刀を振りかぶって闇之閃に斬りかかろうとしたが、僅かでも私が闇之閃に向かって足を踏み出せば闇之閃は市三郎の首に刃を食い込ませる。
 既に、闇之閃の手に握られた刀は市三郎の首に僅かに食い込んでいて、そこから少しだけ血が流れていた。
 近づけばその分市三郎の首が侵食されるならば、足を止めるしかない。罠に引っかかった自分の単純さを情けなく思いつつ、止むを得ずその場に立ち尽くした。
(まずい……)
 足止めを食らいながら、頭の中であらゆる現状の打開策を考える。
 せめて飛び道具でも持っていればと考えたが、今さら無い物ねだりをしても仕方がない。それに、例え持っていたとしても、闇之閃なら容易に刀で弾き飛ばすだろう。
 市三郎が自力で闇之閃の刃から抜け出すというのも絶望的だ。相手は日本中に名を知られる殺し屋である。一筋縄にあの手から逃れることなど出来る筈がない。
 だからと言って、市三郎を犠牲にして冬瑠に突進するなど、下策にも程がある。
 どうすれば――――
 ――――カラーン
 不意に、何か金属が地面に落ちた音。
 それは、刀と刀が交差し合う打ち合いの場においてはあまりにも異質な音だった。
 何事かと思って音が鳴った方――――市三郎の方を見ると、市三郎と闇之閃の足元には一本の刀が無造作に転がっていた。
 その刀には僅かに血が付いていて、それは紛れもなく市三郎の血であり、
(闇之閃の刀……?)
 刃渡りが少し長いその刀は、見間違いようがない。先程まで猛威を奮っていた、闇之閃の業物だった。
 不審に思って闇之閃を見れば、彼女は手に刀を持っておらず、代わりに市三郎の両肩を両手で掴んで俯いていた。
 市三郎が、先程とは違う感情から目を丸くしている。
 そして、闇之閃の足下が点々と濡れ始めた。
(む……?)
 始めは闇之閃が額から流した汗かと思ったが、
「う……ひっく……」
 闇之閃が嗚咽を漏らしたところからそれが彼女の涙と分かり、その途端、
(……!?)
 私の頭の中は混乱で真っ白になった。
 手合いの途中で、刀を手放して泣き始めるなど考えられない。ましてや相手は日本最強の殺し屋なのだ。
 もしかすれば罠かもしれないと闇之閃を警戒していたら、私の耳に更にこんな呟きが聞こえた。


「……もう……殺しは嫌だ……」


「なに?」
 正直に言えば、自分の耳を疑った。
 恐怖など遥か彼方に飛んで行ってしまうぐらいに突拍子もない言葉に、私は緊張を忘れ思わず訊き返してしまった。
 始めにこれは空耳だろうかと本気で疑ったが、流石に今の場の状況を見てそう考えるのには無理がある。
 次に私は、これは彼女の張った罠なのかと警戒した。しかし、やがて闇之閃がその場に膝を折り嗚咽を上げて本格的に泣き出したのを見て、とうとう訳が分からなくなってしまう。
(ぬぅ……弱ったな……)
 次にこみ上げてきたのは、疑いでも警戒でもなく、気まずさ。
 知らない間に藩民はどこかに行ってしまったので、この場には、混乱している私、顔面蒼白になって首を何度もさすっている市三郎、そして泣き崩れている闇之閃の三人しかいなかった。
 居づらい事この上ない。
「本当は……ぐすっ……」
 しかし彼女は刀を手放して泣き、迎撃の構えを解いて自然体になった私に攻撃を仕掛けようとすらしてこない。警戒ぐらいは解いても平気かもしれない。
 そうして私の中の緊張が緩んでいくにつれ、気まずさの他にもだんだんと哀れみの感情が込み上がってきた。
 内容は全く想像もつかないが、闇之閃は何か深い事情を抱えているのかもしれない。そう考えると、先程まで心から恐れていた闇之閃が、途端に私の目に脆い存在として映り始めた。
 だから、嗚咽を上げながらも言葉を続けようとした闇之閃を、私は手で制した。
「失礼しました。無理して話を続けなくても大丈夫ですよ。まずは落ち着くまで泣くと良いでしょう」
 闇之閃の警戒心を和らげる為、刀を腰の鞘に仕舞う。三人のみの空間に刃が鞘に収まる音が静かに響く。
 私はゆっくりと闇之閃の元へ歩み寄り、そして蹲る肩にそっと手を添えてやった。
 それが彼女の我慢を崩壊させたのか、闇之閃は手で顔を覆うといよいよ声を上げて泣き出した。
 わんわんと、わんわんと。




「失礼した」
 それからどれくらい時間が経ったろうか。
 暫く思い切り泣いていた闇之閃は次第に落ち着きを取り戻したようで、涙の跡を着物の袖でぐっと拭くとようやく言葉を発した。
 すっと静かに立ち上がり、裾を軽く払ってから顔を上げる。垂れていた前髪は既に簪で上げていたので、今度はその容貌がはっきりと見て取れた。
 思わず、息を呑む。
 先程まで髪で隠されていた闇之閃の顔は、作り物ではないかと疑ってしまう程の美しさを持っていた。綺麗に整った顔に乗せられた瞳は、殺し屋とは思えないような綺麗な黒に澄んでいる。
 目元は適度に吊り上っていて、それが少し調の低い凛とした声質にも非常に似合っている。
 下手をすると、今まで見てきたどの美人よりも美しいかもしれない。
 そんな女性に微笑と共に見られたのだから、私の胸が跳ねてしまったのも仕方がないことだったろう。
「夜がここまで人前で涙を見せたのは久々だった」
 柔らかい笑みを浮かべる口元は、それだけでも世の男達を一瞬で虜にするであろう魅力があった。
「夜、と?」
「ああ、夜は一人称をそう呼んでいる。もし不快なら一般的なものに直すが」
「いや。私は特に気には致しません。お気遣いなく」
「そうか……」
 ふぅ、と一つ大きく溜め息をついた闇之閃。
 先程威勢良く泣き過ぎて、苦しみの次に疲労が襲ってきているのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
 しかし、私が何処か休める場所をと言う前に、闇之閃は静かに首を横に振った。
「心配ない。夜は大丈夫だ。あと……」
 不意に、彼女の目線が私の後ろに投げられた。振り向けば、闇之閃が泣いている間に普段の調子を取り戻した市三郎が怪訝な顔をして己の顔面を指差している。
「夜に敬語は使うな。敬語で話されるのは慣れていない。それこそ、そこの……さて……」
「市三郎といいます」
「そう、市三郎に接するかのような態度で構わない」
「飛ん――――」
 私が飛んでもないと言おうとした途端、闇之閃はすぐに私に目線を戻し、途轍もない勢いで凄んできた。
 余程丁寧に話しかけられるのが嫌なようだ。
 しかし闇之閃も本気ではなかったようで、私が慌てて「承知した」と言い直すと「うむ」と満足そうに頷いた。
 しかし、その後の会話が続かない。
 闇之閃は私達への敵対心さえ解いてくれたものの、まだ何となく両者の間に距離がある感じがする。
 私は、闇之閃との距離を縮める為に、あえて頭を下げずに堂々と名を名乗った。
「お前にどんな事情があるかは全く知らないが、私達に対する敵意を収めてくれたことに感謝する。私は稲垣重陰と申す者だ」
「……」
 闇之閃は、突然名を名乗った私を驚いた様子で見つめてきた。日本一と名の知れた殺し屋を目の前にして、全く警戒せずに自己紹介をする私の無防備さに、唖然としているのかもしれない。
 しかし、私の意図に気づいてくれたのか、やがてその顔にとても嬉しそうな明るい笑顔が広がる。
「こちらこそ、見苦しいところを見せて申し訳なかった。夜は世間から闇之閃と呼ばれているそうだが、一応夜智冬瑠という本名がある。これも何かの縁だ。頭の片隅にでも入れておいてくれ」
「なんと、名字を持つ地位か」
「あ、いや、これは夜が勝手に付けた仮に名前だ。幼い時に親を亡くしたから、本名は夜も知らない。ただ、長い間使っている名前だから、そう呼んでくれると嬉しい」
「ああ。了解した」
 ふっと、また会話が途切れる。しかし、そうして流れた沈黙は、先程のとは違い決して嫌なものではなかった。
「さて、なぜ夜が泣き出したかということだったな。それは……」
 しかし、何故彼女は手合いの最中で唐突に泣き出したのか。何故殺しを止めたいと言い出したのか。その真相には何か深い事情があるに違いない。興味がないといったら、それは嘘になる。
 闇之閃――――夜智冬瑠は、溜め息交じりにそう言って話題を戻し、遠くに輝く星を見つめながら語りだした。




 聞けば、殺しに嫌気が差したのはつい最近のことなのだという。殺し屋を始めた当時は、己の手によって人が絶叫して死んでいく光景を、むしろ恍惚として眺めてさえいたそうだ。
 元々刀を扱う腕が確かであった上に、喜んでこなしていった殺しの任務の数は他の者の追随を許さず、その上一度もしくじらない。その世界の中でも一際強い存在として、冬瑠の名は瞬く間に業界の域を超えて知られていった。
 彼女が殺しの世界において最強の座を獲得したのは、それを考えると時間の問題だったのかもしれない。『闇之閃』という二つ名も、世間で最強と謳われ始めた頃に付けられたそうだ。
 だが、冬瑠に転機が訪れる。
 きっかけは、一つの任務だった。
 依頼主はとある村から追い出された人間で、任務内容はその村の人間への復讐名義として提示された。
 ――――村の壊滅。
 人口は僅か三〇〇人程度の小規模な村だったそうだが、されど三〇〇人である。冬瑠はこれまでに経験したことのない規模の快楽を求め村に赴き、緑覆い茂った長閑な村を、紅く染められたがらくたの散乱地に悉く変貌させた。
 そこで、冬瑠は貴重な経験をすることになる。
 村には、当然大人だけでなく幼い子供もいた。
 転機とも言える経験の鍵となった子供は、冬瑠の記憶する限りその任務で最後に斬った人間だという。つまり、その子が一番最後に生き残った村人だったということだ。
 彼女はどんな気持ちで、最後の目標であるその子供に向かって刀を振りかぶったのだろうか。殺す時に感じる快楽への期待? 任務が終わってしまう事への無念? 快楽を求めひたすらに焦燥感?
 しかし、例え彼女がどんな気持ちであったとしても、子供が取った行動には動揺を隠し切れなかっただろう。
 その子供は、その刀を見て泣き叫んだのでもなく、ただただ震えてその場に蹲ったのでもなく、涙を流しながら全てを諦めたように笑ったのでもなかった。
 その子は、ただただ純粋に――――


「お姉ちゃん、遊ぼ!」
 彼女に向かって、笑いながら手を伸ばしたのだ。


 その子供は、冬瑠が自分を殺しに来たとは夢にも思わなかったのだろう。手持ちぶさただった状態に飽いて、ただ単に目の前にいた冬瑠と一緒に遊んで欲しかっただけだったに違いない。
 当然ながら、物心がついたばかりの小さい子供は「殺す」という言葉を理解できない。普通の大人なら、冬瑠が手に握っていた刀や血の海と化した周りの惨状を見て恐れを抱けるが、子供の目には刀はただの棒、周囲の状況も突然村が赤くなった程度の認識しか持てない。
 人間が人間の命を奪うという一種奇怪じみた行動が人間に出来ることにすら、子供達は気付いていないのだ。
 無垢な心を持つ故の弱点だった。
 だが、人を殺すことが快感の引き金だった冬瑠にその無垢な願いが通じたか否かは、言うまでもない。
 子供の甘えを鋭い睨みで一蹴し、冬瑠は何のためらいもなくその子の肩から脇腹までを一気に切り捨てた。
 そして、その顔を見てしまったのが全ての終わりであり始まりであった、と彼女は言った。
 子供というのは、言うまでもないことではあるが大人よりもとても脆い。成人した男の腕に刃を突き刺しても死までは至らないが、子供は死んでしまう。それは、肉体的な損傷が死因ではなく「刺された」という行為が子供の脳にはあまりにも衝撃的過ぎるからだ。
 それに、そういう理屈を余所にしても、体を二つにされた人間など老若男女問わず誰でも即死だ。
 故に、痛覚を感じる前にその命を止める。
 つまり――――


 その子供は、苦痛に顔を歪める暇もなく、純粋な笑みを小さな丸顔満面に敷き詰めたまま息絶えたのだ。


 冬瑠の心は大きく揺れた。
 下半身からずれ落ちる顔面は、死体である為にその表情を崩さない。あどけない笑みに彼女の母性が反応してしまい、冬瑠は刀を手から放して子供の崩れる上半身を受け止めようと手を伸ばした。
 しかし、その子供の上半身を受け止めて再度目で捉えた時には、崩れ去った下半身から噴射する血で顔は真っ赤に染まり、笑顔は赤に埋もれて消えていた。 
 本能が自分の行動をなじり、そして冬瑠の歯車は完全に狂い出した。
 村の壊滅の任務を最後に、それより先は人を殺す依頼を一切拒否するようになった。二度とあのような苦しい場面に出会いたくない。依頼を拒む理由としては、それだけで十分だった。
 しかし、日本最強の殺し屋という立場が冬瑠に与える束縛は、それくらいの私情でどうとなるものではなかった。その座を降りて殺し屋としての生活を辞めることは、周りの人間達が当然と言って許さなかったのである。
 依頼に殺しの話が持ち込まれないようにはなったが、それでもすることは依然として悪事に変わりない。任務の邪魔をする者は必然的に前に立ち塞がり、その度に冬瑠は人を斬った。
 そして、そうする毎に殺し屋を辞めたいという切実な願いは強まっていき、過去に感じていた快楽は、その時点ではもはや苦痛に変わっていた。
 そこで冬瑠はある結論に至る。それは、東日本で駄目なら拠点から大きく離れた西日本ではどうだろうかという、安易だが確かに効果的な考え。
 しかし、彼女が思っていたよりも闇之閃の名は日本全国に知れ渡っていたのである。西日本に向かっても、そこで待っていたのは殺しから離れた新しい生活ではなく、姫路藩の宝刀の奪取という依頼だった。
 生きる為には金銭は不可欠だ。そして、今の彼女は悪事をこなすことでしか稼げない。
 仕方無しに姫路藩に向かったは良いものの、彼女の我慢は既に限界を超えていた。
 そして――――




「市三郎の首に刀を当てた時に、その我慢が爆発してしまったのだ」
 一通り話し終えると、冬瑠は大きく溜め息をついた。
 最初に冬瑠が市三郎を殺さずに泣き出したのを見た時は、正直に言えば戸惑った。
 私には幾人かの殺人犯を縛り上げた経験があるが、彼らは例外なく人を斬ることに一種中毒じみたものを抱いていた。特に伊勢国の南で捉えた男は、牢獄に入れられ殺しを禁止されると、なんと禁断症状を起こしてそのまま息絶えてしまった。
 何故そこまで彼らの心が殺しという悪事に蝕まれてしまうのか、その理由は分からない。
 しかし、私は今までの見聞や経験からとある仮説を作り上げていた。
 彼らは、殺しが尊敬される世界こそが自分が最も輝ける場所だと信じて疑わないから、壊れてしまうのではないか。
「はっきり言うと、夜は殺しなどというふざけた真似をもう金輪際したくないのだ。心からそう思っている」
 しかし冬瑠は、そんな私の仮説を根本から崩壊させるほど、他の殺人犯とは異なる考えを持っていた。
 彼女は、自分が普通の世界よりもかなり捻じれ曲がった場所にいたということを、皮肉にも罪を犯すことで気が付いた。そして、その間違った世界から抜け出そうと必死で足掻いた。
 つまり、殺しに対して徹底的に否定的な考えを抱いていたのである。
「馬鹿馬鹿しいな……。日本最強と謳われる殺し屋が、このような戯言を口にするなんて」
 ふっと、彼女は自嘲の念を含んだ、まるで諦めたかのような笑みを浮かべた。
 時に笑みは、心の弱さを表すことがある。
 私は背中を預けていた民家の壁から離れ、冬瑠の傍へ歩み寄った。
 気が付いて、尚その間違いを修正しようと必死に足掻いて苦しんでいるならば、私達はそれを見逃せない。
 今まで間違った世界にいた彼女は、ずっと正しい世界にいた私達から見ればずっと弱く、とても脆い存在に他ならない。
 そして、その弱さを克服して元の正常な世界に戻ろうともがいているのならば、彼女もまた、今まで私達二人が手を差し伸べて来た弱き者の一人なのだ。
 なら、する事は一つだけだ。
 すっと自分の手を彼女へ向けた。



「なら、その願いを叶える為、私達二人と共に旅をしないか?」
 私達は、弱き者に手を差し伸べるだけだ。



「え?」
 冬瑠は、きょとんとした顔で私の顔と手を交互に見ている。
 構わず、私は話を続けた。
「今、私達はこの日本を旅し、一人では立ち向かうことが出来ない壁に突き当たり、その道半ばにおいて足踏みしてしまった人間を助けて回っている」
 同意を求めるように市三郎に視線を流すと、「殿の言う通りです」と威勢良く答えてくれた。
「お前は過去に人を殺め、苦痛と罪悪感にもがき、苦しみ続けてきた。それが己の肩に圧し掛かり、とうとう限界を超えた」
 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔はそのままに、冬瑠が一つ頷く。
「なら、これからは殺しとは逆のことをすればいい。つまり、人の為になることをするのだ。そうして私達と共に人助けを続けていけば、人を助けて得られる心の温かさに気付いて、殺しという行為と縁を切れるだろう」
 冬瑠が殺し屋としてこれまで積んできた罪は、即刻打ち首に処されてもおかしくない程のものである。人助けで人を殺した罪を贖おうとするなら、この旅を生涯続けたとしても償い切れないだろう。
 しかし、彼女は自分の過ちに気付き、殺し屋を辞めて普通の生活を送る「将来」を目指しているのである。未来に馳せたその願いを叶える為なら、過去は一切関係ない。
「成程……」
 私の話を驚いたような表情で聞いていた冬瑠は、まるで悟りを開いた僧のような晴れ晴れとした顔を浮かべて、ぽつりと呟いた。
「夜には、そのような考えは頭に浮かばなかった……」
「殺しや悪事とは正反対の行動とは何か。私達がしてきたようなことはまさにその問いにぴったり当てはまる答えだと、私は確信している」
 当然、何の保証もない旅なのだから危険もいろいろある。女性には辛い道も、幾度も乗り越えて行かねばならないだろう。
 しかし、冬瑠ならばそれを乗り越えてくれると、根拠はないが何故か信じることが出来た。
 しかし、急に彼女の表情が陰る。
「それでも、夜は罪の深い殺し屋だ。夜の身勝手な願いに貴殿らのようなとても優しい心を持つ人に付き合って貰うなど、申し訳が立たず胸が痛い」
 彼女は笑顔でその言葉を言ったが、その笑顔が含む意味は喜びではなく自嘲であることは簡単に分かった。
 心から殺し屋を辞めたいと願ってはいるが、今までずっと決して軽くはない罪を積み重ねてきた自分に、果たしてそんなことを願う権利があるのだろうか、というようなことを悩んでいるのだろう。
 しかし、私が口を開く前に、予想外にも市三郎がその問いに答えた。
「それを手助けするのが、拙者らの役目ですよ」
 そして、私ではなく市三郎が言ったということが、冬瑠の感情を良い方向へ向けた。
 市三郎の瞳は、私よりずっとずっと澄んでいるのだから。
「さっきも言ったと思うんですけど、拙者らは困ってる人に手を差し伸べるのが旅の内容で……」
 私と冬瑠に真面目な顔で聞き入られてやりづらいのか、困ったように後頭部をかりかりと掻きつつも、市三郎は丁寧に言葉を選択し途切れ途切れに紡いでいく。
「その……冬瑠さんも、拙者らから見れば困ってる人なんですよ……」
 思わず感動してしまった。
 お互い立場も育ちも全く違う環境の中で幼少期を過ごしたが、流石に一年も二人で旅をしていれば考え方も似るものなのだろうか。
 冬瑠も、始めさえきょとんとしていたが、市三郎が恥ずかしそうに小声で「言うんじゃなかった……」と言うのを聞くと、自然と声を押し殺して笑うまでになった。
 私と目が合えば、私までつられて笑顔になる。
 場の雰囲気が一気に柔らかくなった。
 市三郎には、後で褒美に団子でも馳走しなければならないだろう。
「そうか、貴殿らには夜が困っている人間に見えるか……。夜にもまだ人間性が残っていたか……」
 安堵したようにそう呟くと、冬瑠は清々しい表情を浮かべて私の方を向いた。
「貴殿らは、夜が殺そうとしたのにも関わらずその人間の願いを真摯に受け止め、更に協力してくれるとまで言ってくれた。夜にそのような協力的なことを言ってくれたのは貴殿らが初めてだ。だから、夜は貴殿らを信用したい」
 私は、始めにしたようにもう一回冬瑠に手を差し出し、
「もう一度聞こう。私達と共に、この国を旅して回ってみないか?」
 と聞いた。
 今度は、明確に答えが返って来た。
「そうさせて貰おう」
 冬瑠は、私の手をしっかりと握り、これまでで一番晴れやかな笑顔を見せた。
「改めて名乗ろう。夜の名は夜智冬瑠。冬瑠とでも呼んでくれたまえ」
「私の名は稲垣重影。重影と呼んで貰って構わない」
 市三郎が、私達の握り合った手の上に己の掌を重ねた。
「拙者は、さっき言った通り市三郎といいます。親しい人には市って呼んで貰ってます」
「そうか。なら、夜も市と呼ばせて貰おう」
 そう冬瑠が言うと、始めて彼女と邂逅した時には全く予想していなかった展開がおかしく思えて、結局三人で笑い合った。
 三河の武士とそれに仕える下級武士の二人旅に、こうして新たに日本最強の殺し屋が加わった。




「塩の仕入れが足りねぇぞ! どうなってやがる!」
「この酒は伊勢から取り入れた上品でね。こくの効いた辛みが特徴なんだよ」
「今日は珍しく博多織の帯が入荷されたぞ! 是非手にとってその独特の肌触りを実感してくれい!」
 空を見上げると、澄み切った空にどんと居座った太陽がぎらぎらを光を発している。もう冬だというのに、何故だか暑いと錯覚してしまうような光景だ。
 そして、無駄に元気な太陽の下、こちらも負けぬと言った様子で所々にいる商人達が顔を真っ赤にしながら商談に熱くなっている。
 闇之閃の襲撃が結局無かった夜が明け、姫路藩の活気は一日でその勢いを取り戻した。
 この日常は、警戒対象だった闇之閃が訪れなかったことで迎えられた訳だが、そんな姫路藩の中に当の本人である冬瑠がいるというのだから何とも皮肉めいた話である。
 しかし、姫路藩が取り戻した日常は、平和に茶を飲んで過ごすという平穏なものとは全く違うのであった。
 市場が凄いことになっているのである。
 まず驚くべきは、その市場の規模だ。
 通りの角などに飲食店や日用品店が目に入るのは何処の藩も同じだが、そんな小さな小売店を脅しているかのように、大都市でしか見られないような大きい屋敷を持つ呉服店や金貸しの店までもが共に軒を連ねている光景は、大坂や江戸に引けを取らぬものであった。
 五〇〇人は入ろうかという大きな屋敷を持つ名古屋の松坂屋、銀の凝った装飾が門に散りばめられた日本橋の柳屋など、子供でも知っているような店舗の支店も堂々と門を構え、客の出入りが全く途絶えない。
 そして何よりも目を見張るのは、大規模な市場の中で必死になって利益を生み出そうとする商人、そして何とかうまく買い物をしようと計算する客の熱気だった。
 朝に藩民が揃って浮かべていた安堵の表情は何処へやら、もうそろそろ正午になろうかという今では、慎重に効率と損得を天秤にかける客が道に溢れ、商談で熱くなった店主と顧客の大声が晴れ渡った空に響いている。
 普段の私なら、この熱気に便乗して少し商談に挑戦してみたいという気持ちが生まれていたかも知れない。
(大丈夫だろうか……)
 しかし、注意していても近くの人間と肩がぶつかってしまうほど混み合った街道を歩きながら、私は売買とは全く関係のないことで一人気を揉めていた。
 理由は、一重に冬瑠にある。
 今、私は冬瑠らと別れて一人で行動していた。
 今日の午前中に冬瑠の話を聞いてみたところ、昨日までずっと普通の人間とは全く違う生活を送ってきた彼女の持ち物では、到底旅らしい旅など出来やしないことが分かった。
 冬瑠の持ち物を聞いて、今まで彼女がどんな旅をしてきたのか物凄く気になったのだが、飛んでもない答えが返ってくる可能性も否めなかったので、触らぬ神に祟りなし、結局それは未知のまま放っておくことにした。
 そこで折角のこの市場を使わない手はなく、私は風呂敷やら巾着やらの実用的な用品を調達しに姫路藩を回り、その間冬瑠と市三郎には女性用の動きやすい着物を見繕ってもらうことにした。
 彼女の唯一しか持ってないという着物は正直目も当てられないほど裾がぼろぼろになっていて、見苦しい状態になっていた。 
 それに、旅をするのならば一枚か二枚着物の予備が欲しいところ。
 本人がいなければ見繕って貰うなど不可能なので市三郎と冬瑠を呉服屋へ向かわせた訳だが……
(本当に、うまくやっているだろうな……?)
 姫路藩のこの活気を見ていると、次第に二人がぼろを出していないかが不安になってきてしまった。
(あの髪を見られたら、飛んでもないことになる……)
 一応周りに悟られないよう、長い髪がすっぽり隠れるような頭巾を被っておくよう釘を差したのだが、それでも心配を完全には拭えない。
 なるべく早急に買い物を終えた私は、二人がいる小さい呉服屋に急いで向かった。
 結果としては杞憂に終わってくれたのだが。
「お、殿だ。殿ー!」
 なるべく早歩きで人混みをかき分けていくと、一軒の小さな呉服屋の外に付けられた長椅子に二人の姿を見つけた。
 向こうも私に気が付いたのか、市三郎が椅子から立ち上がってこちらに手を振る。
 あの暢気な様子を見ている限り、冬瑠の正体を巡る騒ぎは起こらないで済んでくれたようだ。
「済まない。待たせたな」
 ふぅと安堵の溜め息をついてから、その声に答える為に右手を挙げようとした。
 しかし、市三郎の隣に目が行った途端、手が止まる。
「遅かったな、重影」
 市三郎の隣に、飛んでもない美人がいたのである。
 そして、その麗しき女性が冬瑠だと分かった途端、呆然としていた私は驚きで「えっ」と声を漏らしてしまった。
 後ろの店で見繕って貰ったのだろう着物は、端整な顔立ちを持つ彼女を更に際立たせていた。
 冬瑠の髪の色と同じ赤色が着物全体の基調であるが、かなり色は淡く、上品な雰囲気を優しく漂わせている。所々に散りばめられた桃色の桜の花弁が、更に服に優雅さを与えている。
 対照的に燃えるような鮮やかな赤色の帯と下駄が、仕立てられた着物の中で強烈な印象をもたらしていた。
「どうした重影? 夜をそんな見つめて?」
 首を小さく傾げてこちらの顔をのぞき込む目は、私の心を直接射抜いていくような純粋さがあった。
 冬瑠に見惚れている自分に気付いても尚、心の動揺は収まる様子を見せてくれない。
「ああ、申し訳ない。ただ、あまりに似合っていたものでつい……」
 そして、動揺しながらも面と向かって褒め言葉が言えるほど、私はまだ男が出来ていない。
 何とか絞り出した言葉は、それでも尻すぼみに小さくなっていってしまった。
 しかし冬瑠の耳にはしっかりと入ったようで、きょとんとしたような顔になってから次第に頬を紅く染めていく。
(うっ……)
 そんな怒ったように照れた冬瑠の顔が更に私の胸を騒がせ、結局恥ずかしくなった私は冬瑠から目を逸らしてしまった。
 まるで、周りの人間が見たら苦笑してしまうような、絵に描いたような初々しい恋人同士のようである。
 実際、側にいた市三郎は照れた私をにやにやした顔で眺めていた。
「さ、さて、重影よ」
 若干上付いた声で誤魔化すと、冬瑠は着物の裾に付いていた若干の砂埃を払いながら、着物屋の椅子から立ちあがる。
「次は何処の藩へ向かうつもりだ?」
「そうだな……」
 予定通り西に進むつもりだ、と続けようとしたとき、不意に、ぐぎゅるるるという大きな音が三人の空間に響いた。
 市三郎が顔を真っ赤にして固まっている所を見れば、それが何を表す音だったかは一目瞭然だ。
 私と冬瑠は顔を見合わせ、そしてくすくすと笑った。
「姫路藩を立つより前に腹ごしらえだな。何処かの茶屋に寄ろう」
 三人での旅が始まるのは、もう少し先になりそうだ。








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最終更新:2012年07月01日 22:20