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かれらの頭上でh(ry
山崎藩の本通りに面していた道化屋から盗まれた抹茶がある倉庫までの道のりは意外にも長く、倉庫に向かう途中私達は國助に山崎藩の建物を紹介して貰っていった。
そして、山崎藩の行政が行われている山崎陣屋という建物の隣で、國助は脇にほっそりと伸びていた脇道の方へ曲がった。
とは言っても、大人が二人並んで歩いてもまだ余裕があるぐらいの道幅はあり、あまり脇道という印象は受けなかった。
しかし、國助の後に続いてその道に足を踏み入れた私達は、そのあまりにも色がない風景に驚いた。
そこから伸びる道は、土を固めたものでは無く、踏みしめる度にじゃりじゃりと音を立てる砂利道だった。それも、砂利の粒がこれでもかと言うほど揃っているものだから、なんとなく無機質な印象を受ける。
おまけに道の脇には植物が一つも生息しておらず、灰色の石垣がずっと続いているだけだった。左右を見ても下を見ても灰色、更には今日は空を雲が覆っている為上を見ても灰色だ。
なんと殺風景なことか。
だがそんな無機質な風景にも理由があるようで、國助曰く、
『抹茶の粉は湿り気が天敵なんですよ。湿気が多ければ、それだけ空気中に多くの水分を含む。抹茶の粉っていうのは本来水に溶かして賞味するものだって事は重陰さんもご存じでしょう。だから、保存している抹茶の粉も湿ってしまえば保存が利かなくなり、その分品質が落ちる。植物は水分を発しますからね。倉庫の周りに生やしておくのはいかんのですわ』
だそうだ。
確かに植物は多くの水分を葉から蒸発させる。水に濡れる事を禁忌とする抹茶粉にとっては、それは都合が悪い訳だ。
だから当然、到着した倉庫の周りはこれまで以上に殺伐としていた。周りには切り株すらかなりの数あるが、緑色をした生物は全く生息してない。強いて言うならば、木製の倉庫の閂が抹茶色に薄く染まっている事だけだろうか。
「何とも趣の無い風景だな」
冬瑠は、半ば呆れたようにその情景を端的に表した。余談だが、彼女の手は道化屋を出た時より勘一郎の頭の上に置かれている。
冬瑠は、本当に勘一郎が気に入ったようだった。しかもそれだけではなく、頭を撫でられる勘一郎も目を細くして気持ち良さそうにしている。
冬瑠は誰の目から見ても絶世の美女に映る事だろう。そんな女性に優しく微笑みかけられながら頭を撫でられているのだから、まだ子供な勘一郎が終始頬を赤く染めているのは無理もない事。
「抹茶というのはそれだけ細部まで気を配らなければならないのさ」
「特に、この抹茶粉は最高級品なんでね。ぞんざいな扱いは出来ないんですわ」
「そうなのか……」
慣れた手つきで扉の閂に取り付けられた巨大な南京錠を取り外した後、國助はその大きな木の棒に手を掛けた。
「よいしょっ」
がこん、という気持ちの良い音を立てて閂が抜かれ、木製の扉がぎぎぎという音を立てながら開く。
扉が開いたその瞬間から既に匂っていたが、やはり中に入ればより一層抹茶の上品な香りが鼻腔をくすぐった。
最高級品と賞される物品が保管されているこの倉庫は、中の仕組みもそれは厳重なのだろうと予想していたのだが、意外な事に倉庫の中は至って単純な造りをしており、倉庫自体は一般的な物と言って差し支えがない。
ただ唯一、その倉庫の床に藁が多量に敷き詰められている事が特徴的だった。
國助によると、これは倉庫内の湿気を抑える為だけではなく、抹茶粉が保管された木綿の袋が、桜の木で作られた倉庫の床で傷つかないようにする為でもあるそうだ。
私と國助が入った後残りの三人も続いて倉庫の中に足を踏み入れたが、倉庫内に充満する抹茶の香りを嗅いだ反応は皆それぞれだった。
市三郎にとってはこの強さの匂いは流石に堪えるらしく、驚きの余り目を瞬いている。
反対に、つい先日抹茶団子を好物に認定した冬瑠の機嫌は上々だった。彼女は彼女で倉庫の中を見回し、側にいる勘一郎に何やらいろいろと聞いている。気になる事が多々あるのだろう。
私も冬瑠に習ってざっと周りを見渡してみれば、倉庫の中に安置されている木綿の袋は数えてざっと五〇はあるだろうか。そのほとんどが口を麻縄で縛られており、その横に立て掛けてある板には何かの日付が書かれている。
「失礼ながら、あの板に記されている日付はどのような意味が?」
「あ、ああ。あれは契約農家から送られた時の日付です」
成程、一件無秩序に放置されているように見える袋も、板の日付を見てみればそれが順に並んでいる事が分かる。
「抹茶を粉にしてからは、人々が思っているよりも結構長く持つんですよ。それこそ一ヶ月と半分はね。でも、それはあくまで湿気の要因となる物を可能な限り排除して作ったこの空間で測った物ですから、出荷して家庭に持ち込まれるとなれば当然寿命は縮みます」
「一ヶ月半? ならば、その一ヶ月半でこの五〇の袋をすべて消費するのですか?」
「ああ、その木綿布で保管された物は出荷する抹茶菓子の材料です。立て掛けてある板が白いでしょう? あれは、その袋は出荷しますよ、という目印です。店で使う物はあいつですよ」
國助が指をさした方を見れば、そこには木の箱が三個積み上げられていた。不覚にも、壁に模様が完全に一致していて全く気が付かなかった。
近づいて見れば、それは果物の出荷などに良く使われる蓋の無い木箱だった。桧の板を被せて蓋の代わりにしているようだが。
箱の容量は丁度米俵に入った米が一杯に入る程度で、抹茶の粉がその箱の五割程度を占める量入っていた。
「それが店で使用する用の粉です。その粉でしたら出荷する訳じゃないんで触ってみてもいいですよ」
折角の機会だ。最上級の抹茶を五感で感じてみるのもいいだろう。
私は國助の言葉に甘える事にした。
とは言え、抹茶の粉末を指の間から落としただけでその価値が分かる程、私の感覚は熟練されていない。さらさらと流れ落ちる度合いも、どちらかと言えばどれだけ丁寧に擂ったかに比例するのであり、大して味には関係が無い。
だが、私でさえ指の間から粉を落とすだけでその価値が手に取るように分かった。
それ程香りが強いのである。
抹茶の良し悪しは、粉末にした時のその香りでほぼ決まる。良い物ならば手を顔に近づけるだけで上品な香りが漂うのだが、悪ければそこで苦い匂いが混ざる。
それがどうだろうか。
指から粉を落とすだけで、抹茶の優雅な芳香が一気に私を包み込むではないか。その匂いは決して過激ではなく、しかし確実であり、その粉は強さと上品さの二つの度合いの微妙な境界線上に、ほぼ完璧な具合で香った。
「おお……」
私は思わず感嘆の声を上げてしまう。
「宇治の抹茶は高級品として知られていますが、正直な話、宇治よりうちの抹茶の方がうまいと思いますよ」
宇治の抹茶団子騒動の時も粉を拝見させて貰い感動したが、これは次元が違う。何をどうすればこうも繊細な香りを作り出す事が出来るのか。
だが、それに感動してばかりもいられない。
今回は抹茶の香りを楽しむ為にこの倉庫に来た訳ではないのだ。抹茶の粉が盗まれている痕跡を見つける事が目的である。
「ところで、盗まれているという抹茶は?」
「それが……」
遠回りしても時間の無駄なので単刀直入に聞いてみると、何故か國助は複雑な表情をして腕を組んだ。
「何か引っ掛かる事でも?」
「ええ……盗人は、何故か入荷してから一番時間が経っている袋から抹茶の粉を盗んで行くんですよね」
「何と……」
それは私にも予想外の情報だった。
もし私が盗人の立場に置かれたとしたら、一番高級な値がつく、最も新しい抹茶が入った木綿袋のみから粉を盗んでいくだろう。何も、そう考えるのは私だけには限らず、恐らく大勢がそう思う筈。
しかし、入荷されて最も日が経っている木綿袋の中身を見てみれば、確かに他の袋のよりも内容量が少ない。
これはかなり奇妙だ。古い粉が新しい粉に勝っている要素など、私には一つも思い当たらない。新しければ新しい方が日持ちもするし値段も高くつく事は、言うまでもない。
「犯人は、何らかの意図があってこうしている筈なんですが……」
頭の中でありとあらゆる可能性が浮かんでは消えてゆく。そのような逡巡の中で確固たる想像にはとうとう至らなかった。
「暫く、様子を見るしかありませんかね……」
私は小さく溜め息を漏らした。
敵は中々曲者である様子だった。
盗人を捕まえると言っても、当然私達はそれだけが仕事ではない。道化屋の仕事も全力で手伝いをするつもりだ。
倉庫から道化屋に戻る途中、私はその事を冬瑠と市三郎に伝えると、二人もそういう気持ちを持ってくれた。
と言っても、倉庫に向かった時は既に茶屋の営業時間は過ぎており、倉庫から帰った後は閉店後の後片付けに追われるだけであった。私達も微力ながらに手伝い、日が完全に落ちる前には暖簾を店内に仕舞う段階まで進んだ。
余談だが、予想外にも茶屋の片付けというのは中々やり応えがある物だった。
一日に消費された湯呑を冷えた井戸水で洗いながら、湯呑について國助と交わした話も結構面白かった。國助の話によれば、湯呑は形、色合い、制作者だけでなく、その重み、そして何よりも扱い易さで価値が決まるという。陶器屋で陳列された湯呑を見物する事のみでその価値を楽しんでいた私にとっては、とても興味をそそられる話題であった。
冬瑠も店の片付けの手伝いを彼女なりに頑張っていた様子であったが、手助けをしていたというよりは勘一郎に付きっきりだったと言う方が正しい気もした。余程勘一郎が気に入った様子である。
行く先々まで冬瑠に付き添われ、あれでは勘一郎も迷惑であろうにと思ったのだが、しかし勘一郎は勘一郎で、非常に頭が切れる事に、冬瑠を有効に使役して片付けを円滑に進めていた様子だった。あの年でそんな器用な事が出来るとは末恐ろしい小僧だ、と改めて舌を巻いた。
一方、市三郎は一人で放置していても充分役に立っていたようである。実家の茶屋とあまり変わらないですね、などと言いながら、椅子の上に敷かれていた赤い布を綺麗に折り畳んで、きちんと棚の所定の場所に仕舞う所を見れば、それはもはや武士ではなく茶屋旦那そのものであった。
ところで、本物の茶屋旦那はというと、その時は倉庫に抹茶粉の被害状況を確認しに向かっていた。盗難被害を受けてからは、毎日夕方に被害状況を確認しているのだそうだ。
帰ってきた國助によれば、今日は抹茶粉が盗まれた痕跡は無かったそうだった。取り敢えず、私はほっと胸を撫で降ろした。
その後國助は、店に持って来ていた抹茶の粉末の内少量を取って、残りを勘一郎に仕舞いに行かせた。抹茶の粉末を運ばせるのは小僧の役目と、茶屋の世界では相場が決まっているのだという。
そして、勘一郎が倉庫から帰って来た後に、國助は仕事上がりにと言って、予め取っておいた抹茶で五人分の茶と団子を作ってくれた。
茶と団子を振る舞われて一番興奮するのは当然冬瑠であり、まるでざらめのたっぷり付いた煎餅を渡された子供のようにはしゃいだ事は言うまでもない。
私達はと言えば、冬瑠が興奮した姿をからかう事でとても盛り上がり、当人の冬瑠は表面上膨れっ面を通しながらも楽しそうに団子を頬張っていた。
しかし、私達は机を囲んでのんびり話をする為にここにいる訳ではない。國助の遠慮を押し切り、今から夜が明けるまで倉庫の付近で盗人の警備をする事にした。
冬瑠が言っていたように、盗人は夜になってから活発に活動を開始する。夜間の方が辺りが暗い為に人目に気付かれずに悪事を働けるからだ。
だが、それを言い出した本人である冬瑠は一日で体力をかなり消費してしまったらしく、先に寝ると言って茶屋の椅子に筵を敷いてすぐに寝てしまった。
仕事もしないでただ寝るだけとはけしからん、ましてや自分で言い出した事ではないかと問答無用で起こそうと思ったのだが、良く良く考えてみれば、冬瑠が私達と旅をするようになってまだ数日しか経っていない。新鮮な刺激をひたすらに受け続け、彼女なりにいろいろと疲れたのだろうと気を遣い、結局私と市三郎で倉庫へ向かう事にした。
無論、明日の見張りには冬瑠を連行するつもりだが。
そして、市三郎と共に倉庫へ向かい……
「かなり暗いな……」
目的地に到着した時にまず思ったのがそれだった。
倉庫の周りには植物という植物が退去させられているから、視界を遮る木々も無く、月が姿を現せばさぞ明るくなるだろう事は想像がついた。だが、今はまだ月が姿を見せないので、それまでは提灯で照らしている私達の周辺以外は漆黒の闇に包まれる事になる。
「確かに不気味ですね」
市三郎も同じ事を感じていたようだった。
「だが、こんな夜も悪くないな」
「暗いのが怖い子供なら、泣き出しちゃうんじゃないでしょうか?」
「ははっ、三河の幼子は夜になると泣き出すからな。ここに来たら大変だぞ」
「殿はどうだったんですか?」
「残念ながら、物心がついたのが常人より大分遅かった為にその頃の事は覚えていない」
「何だ、久々に殿をからかえると思っていたのに……」
「へぇ……」
小生意気な、と思って市三郎の頭をぽくりと軽く殴る。
大して痛い筈もないのだが、頭を押さえて大袈裟に痛がるのだから小さく笑ってしまう。
「それにしても……」
私は何も見えない空を見上げた。
これだけ視界が開けていれば、空に浮かぶ月の様子がよく分かるに違いない。月の周期が狂っていなければ、今宵は二十七日月である。姿を見せるのは夜明け時の直前だ。
思い出してみれば、今まで月を注視する機会があまり無かった事に気が付いた。折角の機会だから、じっくり月を鑑賞してみるのも悪くないだろう。
「月がどう見えるか、楽しみだな」
心情が素直に口から洩れた。
「ええ、そうですね……」
暫くの間、市三郎と二人で何も見えない空を見上げる。
だが、黙って上を見て月を待っていても埒が明かないので、くしゅんと市三郎が小さくくしゃみをした所で、違う話題を振ってみる事にした。
「ところで、道化屋の抹茶、かなり美味だったな」
そう言いながら、口の中であの抹茶団子の味を思い出す。
印象が強く残っていて今でも簡単に思い出せるその甘みは、確かに食べた人間を病み付きにさせるには充分過ぎる魅力を持っていた。
私自身も、今後不味い団子は食べられなくなってしまうのではないかと不安になっていたりする。
「ええ。団子の甘みと苦みの具合が絶品でした。どうすればあんな上品な味が出るんですかね?」
市三郎も、私の感想に賛成した。
しかし、そこはさすが茶農家の息子である。味だけに留まらない市三郎の思考に、面白いと思った私は付き合う事にした。
「土の配合が特殊という事以外は、ごく一般的な栽培法をしているのだそうだ」
「そうなんですか? てっきり拙者は栽培法から特殊な方法をしているのかと……」
市三郎は驚いた様子でそう語ったが、実の所私もそう思っていた。いや、もしかしたら國助の言ったことを疑って、今でもそう思っている部分があるのかもしれない。
土に手を加えるだけで他の物とは一線を画した抹茶を作る事が出来るなど、聞いただけでは中々信じ難い。
あの抹茶を飲んだ時に感じた香りは、そんな簡単な事だけで作り出せるとは到底思えないからだ。
「私も、栽培法から一般的な物とは異なる方法で育てているのだと思った。しかし、どうやらそういう訳ではないようなのだよ」
「農作物を育てるに当たってどれだけ土が大切か、に注目したんですかね?」
「確かに植物は土から栄養分を吸収して育っていく。土が命だと主張する農家の人も居るという話だしな」
途中で訪れた近畿の国々にも、藩の農業活性化促進の為に、自分の領土の農家に土に灰を配合させる事を勧めていた藩が幾つかあった。
「でも、同じ物を違う土から作るだけで、あそこまで変るものなんですか?」
「分からない。ただ、お前の食べた抹茶団子の甘さは、抹茶だけのお陰では無い」
これは確実に言える事。
団子は、いくら混ぜ合わせる抹茶の粉が良くても、混ぜてこねて蒸す手際が悪ければどんどん味は落ちていく。
宇治で団子を作った時に思い知らされた事だ。
やはり、職人の人が作った団子の方が、私の作った団子よりも遙かに美味だ。その他のことに関しても、私の物は色の濃さにむらがあった上、食べた時に感じる餅のような食感を生み出す事が出来なかった。それが職人の物はどうだろうか。職人、と呼ばれる人の技の巧みさに改めて舌を巻いた事は、今でも鮮明に覚えている。
「國助さんの腕、でしょう?」
流石にこれは市でも分かったようだ。
「そうだ。彼はかなりの修業を積んでいる筈だ。そうでなければ、あそこまで高級な抹茶は使えさせて貰えない。本人は農家の人と旧知の仲だからと言っていたが、それだけでは扱う事が出来ない程の物だ、あれは」
「確かに、食べた時のもちっとした触感は、今まで食べて来たどの団子よりも絶妙でしたね」
至高の材料に、巧みな技。
この二つが融合して出来た団子は、それはうまい事必至である。
「あれが二個目の抹茶団子なら、冬瑠はもう他の店の物は食べられないだろうな」
「ははっ、違いないです」
そして、偶然ふっと二人同時に黙りこんでしまう。
根拠は無かったが、何となく二人共同じ事を考えている気がした。市三郎の表情は見えないが、感覚的にそれが分かった。
上空は未だに光明を見せない。真っ黒な闇が頭上を覆っているだけだ。
冬瑠が私達と初めて会った時刻では、もう既に月が姿を見せていた。あの時に見た下弦の月は、今考えてみると普通よりも暗く輝いていた気がする。いや、冬瑠に対する緊張感でそう錯覚していただけなのだろうか。
暫く二人で黙りこんだ後、市三郎が沈黙を破った。
「冬瑠さん……楽しそうでしたね」
やはり全く同じ事を考えていたものだから、思わず吹き出してしまう。
「な、どうして笑うんですか!」
当然市三郎は顔を真っ赤にして抗議の弁を振るうが、私はまだ収まらない笑いを堪えながら市三郎を手で制した。
「いや、悪い。私も同じ事を考えていたのさ」
「殿も?」
「ああ……」
今日の冬瑠は、終日笑っていた。
何も今日に限った事では無い。姫路藩で初めて抹茶団子を食べた時もそう。道中で私達と話をしていた時もそう。道化屋で団子を食べていた時もそう。勘一郎にくっついていた時もそう。
冬瑠が浮かべていたのは、経験を積んでいない小さな子供が新しい事を試している時のような、素直で純粋な笑顔だった。
私も、今日だけで冬瑠につられて何回口の端が上がってしまった事か。
「新鮮だったのだろう、色々な事が。ずっと一人で隠れるように旅していたのだからな」
「羨ましいですね。あれだけ笑える程拙者も刺激を味わいたい」
「まったくだ。だが……」
私と市三郎の二人旅に、新しい仲間、夜智冬瑠が入ってきた事で、私達の旅の雰囲気も少なからず変わった事は確かだ。
私達も感じているのだ。この変化が良い方向に向かっている事を。
「私も、この前よりは旅を楽しんでいる」
市三郎が、優しい溜め息を吐いた。
「そうですね……。少なくとも、先が見えなかった旅に不安を感じる事は無くなりましたよ。それに――――」
「山賊には襲われない」
言いたかったのであろう冗談を先回りして言えば、市三郎は手の平を額に当て大仰に空を見上げた。
大方当たっていたらしい。
出会いは偶然の産物だったが、そこから冬瑠が旅の仲間になるなど、姫路藩に入る前には微塵も思っていなかった。
運命とは、こうも予測がつかない物なのか。
「でも、本当に不思議ですよね」
だから、市三郎がそう切り出した時には、自分の心が読まれたかと少しばかり動揺した。
もっとも、事実はそうではなかったが。
「彼女、本当に良い人じゃないですか。何で人殺しなんて始めたんですかね……」
他に誰が居るという訳でもないのに、私にだけしか聞こえない程の小さい声で市三郎はそう言った。
確かに、冬瑠は根が素直な女子だ。人の話には笑顔で相槌を打ち、まるで上流貴族の娘が振るような高貴な話題を持ち出してくる事もある。かと思えば、目に入る様々な物に対する好奇心を隠そうともせず、それこそ子供のように私に聞いてくる事もある。
短い期間で、冬瑠は様々な顔を私達に見せてくれた。
だからこそ、殺し屋として働いた罪を贖おうと必死になるその姿は、とても痛々しく、哀れでならない。
「分からないな……」
だが、自分から率先して殺し屋を始めるような人間ではない事は確かだ。殺し屋を営む人間の割合は、心が壊れ、自制という本能を忘れた者が大半を占める。
なら、可能性は二つ。
一つは、家の職業が殺し屋であった場合。子供は将来親の職業を継いで働く、という習慣は世間の常識だ。そして、常識外ればかりの殺し屋業界でも、何故かその点だけは常識に従っているという話も聞いた事がある。
幼少期から人を殺める術を叩き込まれ、また凶器と共に一日中、そして三六五日生活させられた子供は、その中にいくら純粋な心を持っていたとしても、それは破壊され、罪にまみれた殺し屋の心を強制的に持たされる。
同じ人間として生まれたとしても、狼に育てられれば、手と足で地を走り、獣の生肉を食いちぎって食料にし、そして狼と同じ寿命で力尽きる。同じ事だ。
そしてもう一つは、殺しをしなければ生活が出来ない環境下に育った可能性だ。
まだ幼い時に親から捨てられ、食料を自分で調達しなければならなくなった時、子供は金銭を持っていない為に食べ物をどこかから買う事は出来ない。そうすれば、必然的に強盗という手段に手が伸びる。
手が伸びた先が己の拳ならただの強盗犯で済むが、その手が凶器に到着すれば、物事の善悪の判断すらおぼつかない子供なら、当然殺して奪うという方法を取るだろう。
もしそうだと仮定すれば、殺したくないと叫ぶ良心が心の中に存在したとしても、それを押し殺さざるを得なくなるし、何回も何回も繰り返してそこに快感を覚え始めるとしたら、冬瑠が辿って来た半生にも頷ける。
「もしかしたら、今いる殺し屋の中にも、冬瑠さんのような人はいるのかもしれませんね」
その言葉には、迂闊に返事が出来なかった。
私の推測が正しいとするならば、市三郎の言う通り他にもそのような境遇に立たされている者は多いのかもしれない。何も冬瑠だけが特別ではない筈だ。
日本は広い。探せば数十人はいるだろう。
だが、いやだからこそ、市三郎の言葉にはっきりと肯定する事も出来ない。
もし肯定してしまえば、そんな人を全員助けなければならなくなるような気がしたのだ。
言うまでも無く、私もそのような者達全員に手を差し伸べたいと思っている。善行は、される方はもちろん、する方にも心が晴れるような心地にさせる物だ。殺し屋の業界の中で苦しんでいる者にも、この快感を味わって貰いたいという気持ちがある。
しかし、あくまで業界から逃げたいと考える殺し屋は少数派である。大半が、血に染まっていく己の凶器を見て狂ったように笑い、更に赤く染めようとする狂人であるという現実を、念頭に置いておかなければならない。私達のような一般人と同じように考えるのは過ちの他に無い。
冬瑠の印象があまりに良いせいで忘れかけているが、殺しの業界は本当に危険だ。だが、市三郎はその事を忘れているような、清々しい顔をしている。
だから私は、
「そうなのかもしれないな……」
と曖昧に流す事しか出来なかった。
市三郎は私から賛同の声が聞けると期待していたのか、少しその顔を曇らせる。
「ただ、冬瑠は間違いないだろうな」
だから、そう言ってやった。
他の人の事は分からないが、冬瑠に関しては絶対だ。
「冬瑠は、自分の罪を贖う為に、本当に真摯な態度で善行をしようと決意している。その心構えが、周りにいる私達にも活気を与えているのだろう」
「確かに、冬瑠さんに負けまいとする気持ちはあります」
「だから、私は彼女を全力で手助けするつもりだ。彼女は私達が助けるべき対象であると共に、貴重な旅の仲間だ」
これまでにも、旅の供として数日間旅路を共にした者が数人いたが、冬瑠の場合は訳が違う。共に旅をする期間は無制限だ。
ならば、気負いは無用。
「冬瑠を手助けする代わり、彼女にも私達を助けて貰う。お互いを助け合うのが仲間という物だろう?」
市三郎に答を振ってみる。返事は当然の内容であった。
「ええ。そうですね」
新しい旅の章が幕開けした事を、私は改めて実感した。
偶然か、はたまた必然か、刈谷藩を旅立った瞬間の気持ちを思い出した。
「おはようございます……」
だが、結局強盗が姿を見せることはなく、倉庫の中の粉も夜の間に盗まれた痕跡は無かった。結果、私達は無意味に倉庫の前で徹夜をする羽目になってしまっていた。
市三郎との会話も弾んでいたのは夜も入った頃までの話であって、日が明ける頃には互いの睡魔と格闘する事に必死で、会話らしい会話は全く交わされなかった。
市三郎においては、眼さえ全く開けられておらず、倉庫から道化屋に戻るまでの道のりで何回石に躓いていた事か。
共に徹夜をして足下がおぼつかない私が言える事ではないのかもしれないが。
「ありゃりゃ」
それでも國助に愛想笑いを向ける程の元気は残っていたのだが、流石に徹夜をしていない時の私を完璧に再現する事は出来ず、道化屋で顔を合わせるなり國助にそう言われてしまった。
「これはお見苦しい所を」
「いえいえ。しかし、本当に徹夜なさったんですかい?」
「ええ。この通り」
そう言ってから本当に欠伸が出てきたのには、私自身も驚いた。
「ははは、随分と大変でしたでしょう」
國助は大声で勘一郎を呼んで、店を開ける準備をさせた。どうやら、店を開ける作業も見習い小僧の仕事らしい。
因みに、勘一郎は私の顔を見てぎょっとしたような顔をしたのだが、果たして私の顔はそんなにやつれているのだろうか。
「さて」
國助は、勘一郎が動き出したのを見届けてから私に向き直った。
「取り敢えず、今日の朝は勘を倉庫に向かわせますが、昼はどうしましょうか?」
当然、盗人は夜の間だけではなく昼でも虎視眈々と倉庫を狙っている筈。それを防ぐ為にも、朝や昼の間も倉庫を監視する人間を置いておかなければならないだろう。
しかし、だからと言って道化屋を閉め切って盗人相手に全面的な臨戦態勢を取る、という訳にもいかない。生活資金を賄う為にも茶屋の運営は警備と同時に行わないといけないので、あくまで小僧である勘一郎に任せるのは申し訳なかった。
「いえ、朝は冬瑠に行かせます。午後は……市三郎に任せるかもしれません」
「いや、重陰さん」
それでは面目ない、と続けたそうな國助を笑顔で止めた。
「これくらいはさせて下さい。私達はその為に居るんですから」
その後も暫く両者ぶつかっていたが、やはり茶屋の経営も考えるとその方が妥当だと考えたのか、結局國助が折れた。
「ところで、冬瑠は?」
ふと道化屋の店内を見渡して、彼女の姿が見えない事に気付く。
昨日冬瑠が寝台の代わりに使っていた椅子は、今は勘一郎が棚から出した赤い布で覆われていて、彼女が寝た痕跡は見当たらない。
それを聞いてみると、國助は茶器を棚から取り出しながらああ、と言った。
「彼女なら、今そこの近くの貸し切り銭湯で湯を被っていますよ」
貸し切りとは何という贅沢な女だ、と思わず口にしてしまいそうになる。
しかし、落ち着いて考えてみれば、貸し切りでなければ冬瑠の紅い髪が他人に見られてしまう危険がある事に気が付いた。普通の銭湯に行った、と言われる方が肝が冷える。
ただ何となく、髪が紅い事を都合良く利用している気がしない訳でもないのだが。
「今重影さんが何を考えているかが、私でも分かるような顔をしていますよ」
労るような國助の表情を見て慌てて頬に手を当てると、そこはかなり引き攣っていた。
「まあ、銭湯に行く事自体が贅沢な訳じゃない。お二人も後で行きますか?」
「そうですね、お言葉に甘えて」
本来ならここは断わっておくべきなのかもしれないが、今はなりふり構ってはいられない。銭湯に行って特別熱い湯を被らない限り、この糸を引くような睡魔は逃げてくれないだろう。
無駄に意地を張って、途中で倒れようものならそれこそ一大事だ。
「朝の一浴び程、頭が切り替わる物はありませんからねぇ」
「それでも程々にしておかなければ、体が慣れてしまって頭が覚めませんよ」
「ははは、違いない。道理で、毎日湯を浴びている貴族は朝に弱いのか」
「貴族の方達も、一時はむきになって早起きを試みたそうですけど、それも三日坊主ですよ。今では開き直っているという話もあるそうです」
そして、私と國助は――――勘一郎は店開けの準備をしているし、市三郎は机に突っ伏して爆睡している――――店の外に出て、門前に散る落ち葉の掃除を始める。
暫くすると、道化屋が面している大通りの向こうから冬瑠がやって来た。
「やぁ。おはよう」
私は箒を動かす手を休め、冬瑠に向かって手を挙げる。
冬瑠もそれに応えて手を振ってはくれたが、
「おはよ――――ぷっ」
どこかで買ったのだろう白い手拭いを手に持っていた冬瑠は、こともあろうに私の姿を見るや否や小さく吹き出したのだから、むっとせずにはいられない。
「昨日の夜間の話を全て無かった事にしたい気分だな」
少し皮肉を込めて言ったつもりなのだが、その話の内容を知らない冬瑠には無意味だった。
「いやいや、貴殿もそのような顔をするのだな」
腹を抱えて笑う冬瑠の目尻には、涙すら浮かんでいる。
「昨日一人だけ早々に寝た奴には言われたくない」
「ああ、それは済まなかったと思っている」
「済まないと思っているのなら、笑いながら言わない方がいいぞ」
「まあ、貴殿も早めにそのしょぼくれた目をどうにかした方が良い」
刀の鞘を頭巾のてっぺんにぶち込んでやろうかと思ったが、冬瑠はまるですばしっこい兎のようにすっと私を交わし、私に手を振りながら道化屋に入って行ってしまった。
「火に油を注ぐ訳じゃありませんが、重影さん、本当に眼力が弱いですよ」
御冗談を、というつもりだったのだが、実際に口から出て来たのは盛大な欠伸だった。
國助は、堪え切れなくなったように笑い出した。
私は自分の体を責める事しか出来なかった。
最終更新:2012年07月01日 22:23