リレー小説 5ページ目
ようやく設定の説明が終わって、軌道に乗ってきた感があるね
己を視ろ。
おまえは己しか識ることができないのだから。
ユーア・ユンゲ著作『安定のしくみ』(進明館)
「季節は巡り六月。雨と蛙の絶妙なハーモニーが響く時候だぜ」
「くせぇよ、カズ。それはさておき早いもんだな。もうそろそろ中間の考査様とやらが待っているが」
「ふん。凡人だなユウキ君よ。そんなものはどうだっていいだろうさ。俺はね、もっと和の世界、すなわち一期一会を大事にしているわけでしてね」
「なるほど。バスケに振られたな。で、今度は別の女にうつつを抜かしてると」
「表に出ろ」
……ほんとうに。
時間の流れとは怖いものだ、とつくづく思う。
学年が上がってからというもの、およそ現実とはかけ離れた幻想世界に迷い込んでいる俺だが、生まれたときからずっとこなしてきた日常、ルーチンワークというのはすっかり身に染み付いてしまっているらしく。
「冗談はいいとしてだ。あの剣道部……いいとは思わないか?」
「どうだかね」
状況が状況でないにもかかわらず、くだらない雑談なんぞを平気でこなしてしまっている。
此処は学校の教室。
窓から差し込む午後の光。
並ぶ机。変わらない生徒たちの喧騒。
恐ろしいものだ。
どう幻想が足掻いたところで、現実には勝てないということなのか。
ちょっと日常を侵食してきた病魔がいようとも、現実という奴は有無を言わさず抗生物質を放ってしまうらしい。
――まぁ、ただの痛み止めかもしれないが。
「しっかしおまえはいいよな。小日向がいてさ」
「ははは。隣の芝はなんとやらだよ。付き合ってみれば分かるさ」
「ふん。いやみな奴め。いいや、ちょっくら俺は剣道でも探しにいってくるぜ」
「それはストーカーともいうがな。ま、達者でな」
がたがたと、忙しげに駆けていく足音を見送る。
隣の芝はなんとやら。カズ、俺はおまえが羨ましいよ。その平凡を俺にも分けてくれ。
言ってみても、意味の無い感傷だけどな。
……うん。俺も帰るとするか。
ほら、さ。
痛みなんてのはさ、忘れておくのが一番だと思うんだよ。
一人で歩く帰り道。
あの瑞乃の一件以来、彩菜とはいわゆる”そういう会話”はしていない。話すことはあるにすれ、あくまで普通の会話ばっかりだ。
『おはよう、ユウ君』
『あ、猫だ。おいでー』
『あれあれ? もしかして宿題忘れたの? もう、忘れっぽいなユウ君は』
あぁ、不気味なくらいに日常な。
周りも何も変わっていない。
今こうして歩いている道だって、昨夜の雨で湿っていることやアジサイが咲き始めたこととかを抜いて見てみれば、以前と何も変わっていない。
そう、世の中はとにかく忘れっぽいのだ。
知ってみればどうということはない、当たり前過ぎる真実。
「は。莫迦みたいだな」
世界というのは莫迦野郎だ。
だからなんだろう。
瑞乃の存在を、世界がとうに忘れてしまっているのも。
「―――」
住宅街を歩く。すたすたと、変わらない歩調で歩く。
どうしてだかは分らない。むしろ、分りたくもない。俺は普通に生きたいのに、そこは曲がりなりにも俺が社長の一人息子だからかこの星というやつは俺に試練を与えてくる。
……面白いくらいに。
きれいさっぱり、「瑞乃」というカタチが消えていた。
霜月にはじまり、それから周りにも聞いてみたが。
誰一人として瑞乃のことを覚えていないのだ。
いや、違う。覚えていないのではなく。最初から存在すらしていない。
無論、おれは気が狂いそうになったさ。無性に叫びたくもなったさ。
「はい? みずの? えっと…間違いでは。たしかに私たち結婚してもう十九年になりますので子はいてもおかしくはないのですが。
……我が家に娘なんていませんよ?」
あいつの両親ですら、その存在を知らないなんてのはどうかしてる。
何が起きたのか。
つまりは単純なことだ。
「瑞乃はいない。」
あぁ、分りやすい。
……痛ぇな、ほんと。痛ぇ。
彩菜の方も何なんだろうな、あれは。あいつはよく分かんねぇや。
あぁ、分らない。
時計? なんだそれは。それは俺たちがいつもみているものだろう?それ以外に何があるという。当たり前のように存在する針のことさ。かっちん、こっちん。
しかしそもそも不思議だよな。
時計って確かに便利だけどさ、仮にあれの針をちょっといじくったりしたらそれだけでもう「時間が狂った」ってことになるんだよな。別に世界の時間なんて何も変わっちゃいないのにさ。
時計依存社会。はは、無駄に的を射てるなこれ。
昔の人なら太陽をみて時間を知ることもできたとかいうけどな。てことは雲がかかってたりしたらどうやって判断したんだろうな。明るさか? 雲間にわずかに見えた太陽で時間を知るとか?
それだったらすごいな。あぁ、昔の人はすげぇ。
ぶーん。
車が制限速度を無視して飛ばしていく音。
「あら? おい、ボケたか俺」
何を考えてるんだか。途中から派手に脱線してるぞ。
まったく、これだから困る。
やっぱ、痛みなんてのは考えない方がいいんだな。そうだ、やめておこう。
人間ってのはよくできたいきものだからな。
よく言うじゃないか。時間が解決してくれるさ。
……気付いてみると、そこは既に自宅の門前だった。
梶岡ユウキは家をみている。
大きな黒い門。連なる外壁。時代にでも迷い込んだような古い趣の洋館。
音はない。とてもしずかだ。ハトの一匹ですらいない。虫の鳴き声なんてのも聞こえてはこない。
いつもと同じように、ユウキは門を開いて我が家へ帰宅する。
庭を歩く。
門を開けばすぐにみえる、松でいっぱいの光景だ。
誰かが言うには、松とは長寿の証。ミムラクロックの前社長、すなわちユウキの祖父が自分の健康と会社の繁栄を願って植えたのだとか何とか。
(験担ぎ。そういうのは好きだな)
風はそより。煽られて、松のささめき。
さわ……さわ………。
音はないと思っていたが、どうやらこいつだけはあるようだ。
心地の良い音を奏でる松はひしめき合うこともなく、また寂しすぎることもなく、程よい仕立て、バランスにて整えられている。
放っておけば勝手に育って景観が乱れる可能性というのもあるが、そこはそれ。
ちゃんと梶岡家にはお抱えの庭師が数人いる。時折であるが館に出入りしているのもユウキは見かけたことがある。
そんな彼らのおかげもありこの家は庭と後ろの館を含めて、絶妙な和洋折衷の風景となっているのだ。
だから、そいつはおそらく庭師だろう。
松の他にも池があり、そこには鯉をはなしている。
その池の前に、男がいた。
ぱちゃん、と鯉は小気味のよい音を立て泳ぐ。また音がひとつ。
(……ん?)
見知っている?
いや、思っては見たがそうではない。記憶にあんな顔はない。
ただ、風景のような男だった。
もしくは、容易く忘れてしまう永遠。時間のような男だ。
服装、背丈の程もよく分らない。あまりに当たり前すぎるのだ。
(しかし、だ)
まぁ、おそらくあれは庭師だろう。それに一応俺はここの一人息子。
声くらいはかけるべきだよな。
よし。さてと。第一声は「こんにちは」とでも、
…
風が松と松とを通り抜ける音。さわ。
梶岡ユウキは池の方を見て突っ立っていた。
泳ぐ鯉は満足げに餌を食べている。
(さて、さっさと部屋に行くか)
何をしていたのだろう。何か、記憶がひとつすっぽ抜けているような。
こりゃ、疲れてるんだろうな。あぁ、こいつも忘れてしまえ。
色々ありすぎたんだな。きっと。
そう結論をつけ、何となく目頭を押さえようとして、
――くしゃ。
「あん?」
なにか、妙な音が聴こえたような。
強いて言うならからだの付属品の一部、更に言うなら右肩口より生え五体のうちのひとつとなっているパーツの先より。
手をみると。
おかしな幻覚が見えてきた。
……むぅ。これはいくらなんでも疲れすぎだな俺は。
あぁ、寝るのがいいな。うん。深く考えるだけ無駄だ。
――幻覚のくせして、そいつはざらざらした感覚がある。
どこをどうみても、それは手紙であった。
封筒の類はなく、丁寧に折りたたまれている。うっかり握りつぶしてしまったのでその丁寧さが少々損なわれることとなったが。
どこをどうみても、それは手紙であった。
いつ持っていたのか、などということを考える前に条件反射で手紙を開いてみる。
そうして、俺はまた愉快な幻想(げんじつ)を味わうこととなった。
前略 梶岡ユウキ様
時計塔へお連れします。
草々
超展開にしてくれと書いてあったので。
…いや、ほら。こうすれば決定者とか具現者とかの設定が決めやすくなるかなー、なんて思ったり思わなかったり。てへへ。
久々の参加だぜ!
「時は曖昧だ。実に曖昧。多義的、とでも言えばいいのだろうか」
「ええ、曖昧。そうね。その通りよ」
「或る人間の認識など、世界の常識からみれば些細なこと」
「ええ、些細。一人がどうなった所で、世界の定義が揺るぎはしないわ」
「だが、忘れてならないのは、この世界はただ一つの世界にすぎないという事」
「ええ、この世界は並行世界の一つ」
「他の世界など、数え出したら限が無い」
「ならば、その数ほど時の定義があってもおかしくは無いわね」
「ああ。実に歪みあった現実だ」
「歪んだ事は、直さなければならないわね」
「是正の白地はいくらでもある。ならば、私達はそれを敢行しなければならない」
「誰もしないのなら、私達がやりましょう」
「ならば、定義の統一の暁にはどの世界を融合させよう?」
「ねぇ、面白い遊びを思いついたわ」
「む?」
「貴方と私がそれぞれ、まず消滅させるべき並行世界の所有者を同時に言ってみてはどうかしら?」
「よく分からない。だが、それ故に否定する理由が見当たらない」
「うふふ。それじゃあ、せーの…」
「「梶岡ユウキ」ちゃん」
「うふふ、うふふふふふ」
「奇遇だな」
「愉快だわ。実に愉快だわ」
「ならば、始めようか」
「ええ。最初の贄となる少年には、招待状をよろしく、夜醒」
「いいだろう。手を打っておく」
「ふふふ…、楽しみだわ。時計塔の来訪者の顔が…」
「はぁ…」
公園の奥の地平線に沈む夕日にため息をついた。
「また来ちまったな…」
公園の中心にあるジャングルジムには、子供たちがわいわいと騒いでいた。
近くのベンチで、彼らの保護者であろう女性達が世間話で盛り上がっている。
本当に、日常の代名詞のような風景だ。
だが、俺を取り巻く環境は確実に日常のそれとはかけ離れていた。
「…」
そっと、胸に手を置いた。そして、改めて子供達を見る。
子供達の時刻は「4:00」。丁度放課後を表す時刻だ。
――――ズキン
「くそっ…」
瑞乃が消滅してから、針が大きく曲がるといったような事は無くなった。お陰で周りから異物を見るようなまなざしで見られる事は無くなったが…
しかし、全ての人間の胸に浮かぶ時計だけは、鬱陶しく視界に入りこんでいた。
この時計を見ると、毎回感じる痛み。
「瑞乃…」
仮にも数日間、恋人であった瑞乃に対する感情で胸がいっぱいになってしまう。
やっぱり、忘れられない痛みだってあるさ。
右腕に付けた腕時計を見る。
『5:41』
彩菜の衝撃的な告白を受けたベンチにたそがれる日々が、最近多くなってきていた。
なんだかんだいって、自分の中であの出来事が割り切れないでいた。
<決定者>と名乗った彩菜、<具現者>と命名された俺。
彩菜は言った。殺し合いをすると。
あれ以来、その話は影を潜めたと言っても、全く安心できた訳ではない。
むしろ、日に日に警戒心は高まっていくばかりだ。
「5:45」という時刻に敏感になっていくのは、自然なことなのだろう。
「5:45」という時刻が表していたことは、結局未知のまま、あの事件はひと段落をした。
杞憂かもしれない、と俺が言う。
あれは。単に瑞乃の死んでしまった時刻を予言していただけではないか。
油断するな、と俺が言う。
尋常とは決して言える事のない空間で、むしろそんな楽観的な事が起こりうるわけが無い。
逃げてしまえ、と俺が言う。
こんな夢とも現実とも見分けがつかない事態から。
立ち向かえ、と俺が言う。
お前は選ばれた人間だ。ならば、その責任を負う義務がある。
…
……
「ふぅ…」
事態は、好転するでも悪化するでもなく、ただ空中に浮遊しているだけ。
飲み終わったブラックコーヒーの缶を放り投げたら、綺麗な放物線を描いてごみ箱に入って行った。
それすらも普通と思えない。
ちょっと張り詰め過ぎているのかな…
知らない間に、少しヒステリックになってしまったのかもしれない。
「55、56、57……」
そうこうしている間に、時間は5分ほど過ぎていた。
俺は小声でカウントダウンを始めた。
その運命の時刻、「5:45」が迫って来て…
「58、59…」
今日、6月17日の「5:45」に、また新たな事件が起きる事は、まったく予想していなかった。
「0」
ガコン
…
……
「…え?」
咄嗟に、身体の中の違和感がぞわぞわと騒ぎだす。
なにかとなにかが嵌り込んだような音。
気のせい、という一言で片づけるには、ここ最近の状況が許さなかった。
まさか、と思いながら顔を上げた。
確かに、そこは普通の風景が広がっていた。
地平線の奥には、沈みかけた夕日。橙色に輝いていて実に綺麗だ。
何も変わらない。
不変の景色は、激動の事件の渦中に放り込まれた俺の心に、何の抵抗もなくしみ込んできた。
まるで、一つの絵画に迷い込んだような心地。
だが、心が落ち着かないのは、さっきから肌にひしひしと感じる異質な空気。
少なくとも、俺が知っている世界のそれでは無い。
そこで、
「――――――――ッ!」
違和感の正体に気が付いた。
その瞬間、いままで違和感として体内に蟠っていた者は、怖気として一気に背中を駆け上がっていった。
俺が知っている風景。公園の風景。夕暮れの風景。
俺は、直感的に自分の時計を見、そしてすぐさま公園の時計を確認した。
「嘘だろ……」
人が誰もいなくなった事と、時計が止まった事を除けば、確かに何も変わらない風景が目の前にあった。
俺さあ、こんなシリアス展開になるって思ってなかったよ。一番最初始めた時。
何回超展開を繰り広げればこうなったのか…
とにかく、時計の概念をリレー小説に叩き出して来た人は天才だと思う。
ごーん……。
教会を思わせる、どこか荘厳な音が店内に鳴り響く。夜の六時を告げる鐘だ。
その音が六度繰り返されるのを耳にしながら、私は熱い紅茶を飲む。
処はデパートの喫茶店。彩菜と霜月は二人でティータイムを楽しんでいた。
今日は土曜日で人はごった返しており、この喫茶店も荷物を抱えた様々な客で埋まっている。
その様々な客のご多分にもれず、私たちの傍らにも色とりどりの紙袋(どれも服ばっかり)がずらりとある。私も霜月さんも、目についたものは買ってしまうタイプなのだ。
「むぅ、私が淹れるジャスミンティの方がおいしい。思いませんかね、彩ちゃん」
霜月さんがぼやく。
「そりゃあそうですよ、かかっているお金が違うんですから」
「ほほう。私にかかっているお金はすごいですからねぇ」
「違います、茶葉にです」
「あら、私の一ヶ月の給料を聞いたらたまげますよ? 零の数がちょいと違いまして……。彩ちゃんとユウ君の一ヶ月のデートにかかる費用の何倍もでかい額なんですよ、はい」
「へぇ、そうなんですかぁ」
「そんな季の抜けた返事じゃなくて、聞く耳を持ってくださいよ彩ちゃん」
そう言って霜月さんはころころと笑う。
普通に笑っているんだろうけど、この人の笑い方はなんだか表情だけで笑っているように見えて少し怖い。
これが主に忠実に、私情を一切に挟まずに仕えるメイドの顔なのだろうか。
「もしかして、ユウ君の事でも考えてる?」
人の喧騒は止むことなく、カウンターにて店員が忙しく注文を受ける声が聴こえる。
ご注文は何にしますか。はい。ジャスミンティ一つですね。かしこまりました。お次のお客様……。
そちらの方に、私はつい目をやってしまった。
無論、図星だったからだ。
「はぁ。同じ女同士だから分っちゃうのかなぁ」
私はジャスミンティに口をつける。
憎いくらいに熱くて、うっかりしてると舌を火傷しそうだ。
「ふふふ。幸せ者ですねぇ彩ちゃん。私も懐かしい青春時代に戻りたいものですよ、えぇ」
「いえいえ、これはこれで悩みもあるんですよ?」
「何を。どうせ羨ましい悩みのくせに」
しばらくして、私は霜月さんと別れた。
もう6月だからか、空にはまだ薄い夕闇が取り残されている。
――さて。
時刻は「5:45」だったかな。ユウ君の身に何かが起きたのは。
肌をそよ風がなぞる。
赤子をあやす母親の手のような、優しく、あたたかい風……。
なんと静かな場所なんだろうか。
此処なら、いつまでだって眠っていられる。
「――ん」
意に反して、梶岡ユウキは目覚めた。
……どこだろうか、此処は。
さっきは夕暮れ。そして公園にいたような。
俺は横になったまま、辺りを見回してみる。
先ず分るのは、芝の香(にお)い。頬に芝の先端が当たっている。
緑一色の芝が、地面に寸分の乱れもなく敷き詰められているのだ。その緑の錦が微風に煽られて、一斉にささめく。葉と葉の擦れる音がなんだかくすぐったくて、でもすごく落ち着く。
他にも音が聴こえている。ちゃぱちゃぱ、と云った水音。
体を起こして、俺は音の聴こえる方角に向けて目を細める。
「うわ、高っ」
それは噴水だ。
溢れでる清らかな水が、透明な塔を形作り、その塔は天辺を貫かん勢いで吹き上がっている。
ゆっくりと、俺は立ち上がった。
(なんだ、此処は)
上を仰ぐ。清々しい青が広がっている。
なるほど、此処は外なのか。いや、そうではない。
理性や直感が云う。此処は塔の中だと。
(塔?)
さて、何のことか。
記憶に引っかかるものはあるのだが、どうにも思い出せない。
きっと、目の前に広がる風景があんまりに綺麗だからだろう。酔ってしまうくらいに綺麗だから、他のことを考えようだなんて、とてもじゃないが思わない。
何故だろう。この空間にすごく、違和感を感じる。
違う、逆だ。
(違和感が、ない?)
アゲハチョウが俺の足元を抜けていく。どうやら、この中には生き物がいるらしい。
――。
気づくと、噴水の前にいた。
あれ、歩いていたのか、俺。
「あぁ、君、新入りかい?」
聴こえてきたのは女性の声。
「あっはは、なんて格好してるんだい。世の中の若人はそんなのが好きなのか。やれやれ」
その女は鋭利な瞳で俺を視た。
なるほど、云われてみれば俺は妙な格好をしている。服を何も身につけていないのだ。……それがどうしたと云うのか。こんなに素晴らしい空気なんだ、服なんて邪魔なものがあったら、この色めく空気を思う存分に楽しめないじゃないか。
「少年。こっちを視な」
女は、骨のような白さの羽織と、紫陽花の文様が入った黒い小袖を纏い、小さな足には高下駄を履いている。髪は後ろで結い上げ、頬は真っ白、顎は尖り鼻は縦に整った、という風采。
「もう一度云うかね。こっちを視な」
刺すような声音で女は云う。
それは抗がうことのできない響きを含んでいて、直に俺の意識を浸透していって……、
「うわあ!」
何かがすっぽ抜けたような感覚がした。
気づいてみると、俺は素っ裸だ。おいちょっと待て、俺はなんでこんな格好をしている?!
「あっはは。気づいたかい」
聴こえてきたのは女性の声。
――しかも目の前に女性がいる? 加えて美人? 本当に俺は何をやった!
「……」
口をぱくぱくさせながら、俺はその女性を呆けたように視た。というより、そうするしかできなかった。
俺は高速で思考を展開する。いくら何でもこれはおかしい。公衆の面前で服を脱ぐとは、まともな理性があるならまずやらない。俺なら絶対にやらない。だが現にやっている。えぇい、思い出せ! いくら感覚が鈍っているとはいえ思い出せ。うん、感覚が鈍る? まぁいい。あぁそうだ、確か俺は公園にいた。夕暮れだ。ちょっと前には時計塔に案内するとか云うきちがいじみた手紙。そう、あの公園で急に世界が暗転したんだっけ。それから――、
…
「理想的な監獄(クロック・タワー)へようこそ、梶岡ユウキどの」
聞こえてきたのは男の声。ひどくのっぺりとしている。
「誰だ、あんた」
処は噴水の前。
濁りきった水が暗褐色の空に、ぬう、と天を穿たんばかりに伸びている。
俺はさっきは公園にいた。そして急に此処に来た。
服は制服そのまんまで傷一つないから体は無事なようだが、公園から此処にいるのは、おそらく――
「えぇ、私の仕業です。驚きまして?」
どうやら心を読まれたらしい。
「そりゃ、心くらい読めますよ。だって視えるんですから。あなたにだって視えているんでしょう、梶岡ユウキどの」
……この男の話し方は気持ちが悪い。薄い壁を一枚隔てているような。その壁のせいで俺は相手が視えないのに、男は俺のことを凝(じっ)、と壁越しに観察している。
「観察だなんて。誰だって気になるものですよ。目の前の人間がそれほどにうっとりした目をしていればね」
うっとり?
「はい。ほら、あなたのその時計仕掛けの眼で、よく視てみなさい。――此処の時間は、真実でしょう?」
――。
「知っています。生きているあなたは、此処ではあなただけだ」
あぁ、ほんとうだ。此処には時間が一つしかない。
今までいた世界には無数の時間があったっていうのに、この時計塔には一つだけしかないのだ。
なんということか。
この世界では俺は、こんなにも生きている。
「あぁ……」
梶岡ユウキは恍惚とした息を漏らした。
その様子を、男は無感動な眼差しで視ていた。
(これで、落ちた)
男は思う。まさに此処は理想的な監獄だ。
何故ならば、囚人はこの塔から出たくないと思っているのだから。
(後は、あの決定者のみ。あれは、おそらくこの少年を助けに来るだろう)
まったくに、容易くて困る。
時計塔だし、同じ時間に同じ人が別々のことやっててもいいよね。
然しこれ、強調するルビとか振れたらいいんだけど。「、、、」ってやつ。
振れないおかげで所々分かりにくいよ……。
最終更新:2011年06月02日 20:56