
「しかし……」
辺りをぐるっと見回してみる。
昨日と相変わらず、このまま呑み込まれてしまうのではないかと思うほど山崎藩の夜は闇のように暗かった。
「かなり寒いな」
しかし今日の夜は昨日よりもかなり冷え込んでいて、たまにぴゅうと吹く北風が着物の袖から中に入り込み肌を直接なでる度に、ぞっとするような感覚に襲われる。
寒さが苦手な私にとってはかなりしんどい。
「夜は寒さにはある程度慣れている。これくらいは造作もない」
一方で、今私と共に倉庫の警備に当たっている冬瑠はどうやらそこまで寒いと感じる訳でもないらしく、肌を突き刺すような空気に頑張って耐えている私の姿をからかっては面白そうに笑っている。
そんな冬瑠の態度に怒りを覚える余裕すらないほど結構厳しい寒さが辺りを包んでいるのだが、この空気は逆に今の私達にとっては僥倖だった。倉庫の前に夜通しでいる暇つぶしに今回の事件の推理を広げようとしている私達にとっては、暖かいよりも寒い方が頭が冴えて都合が良い。
「元々不気味な場所だとは思っていたが、日が暮れるとここまでか……」
しかし冬瑠は冬瑠で寒さではなく辺りの様子が気になるようで、私を一頻りからかう度に周りの闇を見回してしかめ面をしているが。
「なんだ、この暗闇が怖いのか? 市はそうでもない様子だったぞ」
一方的にからかわれてはこちらも面白くない、と思うようになったのは冬瑠からの影響だろうか。
そんなことを考えながら、今までのお返しにと冬瑠を挑発してみた。
「夜は女だ。男と比べられても困る」
そして、拗ねるように言った冬瑠の仕草に挑発した私を誘っているような印象を受ける。
どうやら、冬瑠も勝負に乗り気のようだった。
「女、か……」
「どうした?」
「いや、随分と男勝りな性格の上にその口調だ。他人から女性として見られなかった経験は少なくないのではないか?」
「なっ!?」
そして、恐らく心の底では密かに悩んでいるであろう性別に関して私が少しつついてみると、面白いように冬瑠が顔を真っ赤にしてこちらを振り向いた。
余程自分の性格について何か強く思う所があるらしい。
それにしても、予想していたよりも激しく獲物は餌に食いついてくれた。
後は竿を引き上げれば良い。
「おや、私は言われたことがあるのかと聞いただけだぞ。別に私はお前を男だと見てないし、女性であることを忘れたこともない」
「ぐっ……」
冬瑠が、今度は別の意味で再度顔を真っ赤にした。その様子を見て心の中で密かにほくそ笑む。
ようやく冬瑠の扱い方にも慣れてきたようだった。
「男が女に悪戯をすると罰が当たるとよく言うしな。これぐらいにしておこう」
駄目押し代わりに一言。
「おのれ……」
冬瑠は鋭い目つきでこちらを睨み付け、低く唸った。
「覚えておけよ、重影。近い内にこの借りは返す……」
「それは恐ろしい」
私は少し大袈裟に両手を上げた。
冬瑠はすぐさま手を顎に当てて私を出し抜く策を必死に考え始める。その様子からは苦笑せざるを得ない必死さが滲み出ていたが、冬瑠が感じていた周囲の闇に対する恐怖を吹き飛ばすことには大方成功したようだ。
しかし、必死に頭を働かせる冬瑠の気持ちが分からないでもないが、今私達が考えるべきはそれではなく道化屋の事件についてである。
「冬瑠。そろそろ本題に入りたいんだが」
「まあ、そうだな」
私がそう窘めると、意外にもあっさりと冬瑠は私の言葉に従ってくれた。
人一倍負けず嫌いな性格であると思っていただけに、肩透かしを食らった気分になる。
「そう急ぐでない。焦らずともすぐに貴殿を出し抜いて見せるさ」
それでも、私の心中はとっくにお察しの様子であったが。
私は肩を竦めることで期待と降参の意を示した。
「で、本題だ」
「その本題に入る前に、一つ良いか?」
しかし、やはり冬瑠は油断ならぬ女だ。
いよいよ今回の事件の推理を始めようとした所でいきなり話の腰を折られ、私は思わずえっという間抜けな声を出してしまった。
「よもや、それが私への仕返しではあるまいな」
「ああ、済まない。今のは過失だ」
そう言った割には、頭巾の位置を手で調節しながらだったので、反省しているようには見えない。
少しむっとした。
「ならばどうしたというのだ」
「いや、な……」
冬瑠は、そう言ってもう一度ぐるりと周りを見渡す。
まだこの暗闇が怖いのかと言おうとした時、先に冬瑠が口を開いた。
「気に入ってはいるんだが、如何せん慣れない。周りには人がいないようだし、頭巾を脱いでもいいか?」
今度は私がぽかんとする番だった。
「ふふふ、これで借りは返したな……」
そんな私の様子を見て、獰猛な笑みを顔に浮かべる冬瑠。
聞きたくはなかったが、聞かざるを得なかった。
「もしや、周囲の暗闇への怯えは全て演技か?」
「暗い暗いと泣き叫ぶのは子供までであろう?」
気付けば、思わず何も見えない天を見上げていた。
冬瑠との舌戦に勝利したと確信した私の気持ちすら冬瑠の策に踊らされた一環であったなど、予想して且つ応戦出来る訳がない。
「まあ、夜のことを気にかけてくれたのは嬉しい。礼を言おう」
それだけに止まらず、勝ったのだから黙っていればいいものを、冬瑠は追撃とばかりに笑顔でどんどん私を追いつめる。
降参とばかりに私が両手を挙げると、ようやく冬瑠は攻撃の手を止めた。
「で、いいのか?」
そしてすっと笑顔を引っ込めて、私に勝ったことがさも当然と言いたげな毅然とした態度を見せつけてくるものだから、冬瑠が憎くて仕方がない。
今後はこちらから仕掛けないよう自重しよう、と心に誓った。
「殊勝な心掛けだな」
その決意すらも読まれていたが。
「いいんではないのか? 私達が誰かに監視されている訳でもない」
「そうか。ならお言葉に甘えて」
冬瑠は、ばっと頭に被っていた頭巾を豪快に取った。
すると、どうだろうか。
(……)
そこから、今までずっと窮屈な空間に仕舞われていた冬瑠の紅く長い髪が美しい曲線を描いて流れ落ちる。
そこには何とも形容しがたい美しさが秘められていて、私は思わず彼女の姿に見惚れてしまっていた。
提灯の灯りに照らされた冬瑠の目は、常に髪に感じていた違和感を取り除けた解放感で気持ち良さそうに細められている。
その表情が、何とも艶めかしい。
目の前で見せつけられた予想外の優美さに、息を飲む。
「女性は、男性のそのような反応を喜ぶ。分かってやっているなら末恐ろしい男だ」
すると、冬瑠は私の方を横目で見て口元を穏やかに緩めた。
その微笑みからすら、神秘的な何かを感じる。
「世辞抜きで美しい髪だな」
「ふふっ。その言葉、有り難く頂こう」
私が何とか褒め言葉を口にすると、冬瑠は得意げに肩にかかった髪を手で払った。
「さて、余興はこのぐらいにして……」
ふっと冬瑠の表情が硬くなる。
それだけで、私の頭も瞬時に切り替わった。
「今回の事件だが……」
「まあ、主にあの女であろう」
本題に踏み込むや否や、冬瑠は遠慮もせずに嫌そうな表情を浮かべた。
「まだ犯人とは決まった訳ではない。せめて名前で呼んだらどうだ?」
「良いだろう。気に入らんのは確かだ。それに……」
隣に立っていた冬瑠が、手を顎にあてる。
「右腕の火傷について、あの女は嘘をついている」
「何?」
その予想外の発言に、私は思わず訊き返していた。
私は、えゐは今回の事件に関して大きな鍵を握っていると読んでいる。そんな重要人物に関しての手掛かりは、この事件を解決するにあたり非常に助かる材料になる。
おまけに、それがえゐが犯人であるという仮定を裏付けるものならば尚更だ。
しかし、あくまで冷静な表情を崩さずに冬瑠は淡々と言葉を紡ぐ。
「ああ。確かあの女は火傷について一か月前に負ったものだと言っていたな。だが、あの傷、まだ火傷を負ったときに出来る膿が出切っていなかった。火傷を負ってからそこまで日を経ていないだろう。恐らく……十日、いや、一週間程度しか経っていない筈だ」
「お前がそんな風に自分の意見を断定するなんて珍しいな。何か証拠でも掴んだのか?」
「いや、証拠という程ではないが、夜がまだ殺し屋をしていたときに同業の人間が火傷を負っていた所を何度も見てな。それで傷についてはある程度を学んだ」
確かに冬瑠の過去を考えれば、彼女の意見は信憑性が高いかもしれない。
一考する価値は十分ありそうだった。
「嘘をつくということは、その裏に隠された真実を隠蔽しようという意思の表れでもある。えゐさんが私達に知られると不都合な事情を抱えていることは確かだと見ていいだろう」
火傷は一か月前に負ったものだと言って真実を隠したのならば、真実である一週間前に彼女の身に何かが起きたのかほぼ確実だ。
「だが、その一週間前に何が起きたというのだ……?」
「さぁな。蓬組関係で何か起きたんじゃないのか?」
冬瑠は恐らく投げやりな気持ちでその言葉を吐いたのだろうが、私の頭の中では今まさにえゐと蓬組の繋がりについて考えていた所だった。
今私の中で最も懸念しているのが、えゐと蓬組の関係だ。
嘘をつくことも真実を隠蔽する方法の一つであるが、あの火傷も真実を隠蔽する為に作ったものである可能性があるのだ。
蓬組団員の証でもある、蓬の入れ墨を消す為の、一種の苦肉の策。
しかし、あくまでそれは予測に過ぎないことであって、その推理を軸に新たな推理を展開させていくには少々不安定過ぎる。
「手元にある情報が少なすぎるな……」
結局、推理をするにはより多い情報が必要不可欠になってくるのだ。
「明日、その件について尋ねて回ればよい」
「そうだな。そうしよう」
とは言え、冬瑠から決定的な情報を手に入れることが出来た。これについては喜ぶことにしよう。
「で、話すべきことは他にはないのか?」
「ああ。まだまだ手掛かりの中にはその奥に隠された意図が全く見えないものがある。抹茶が古い物から盗まれている、ということも引っ掛かるな」
「ああ、確かに……」
今回の事件で一番珍妙な手掛かり、それが今言ったことだ。
倉庫の中で最も価値が低い物をわざわざ盗んでいく利点など、絞り出すように考えたとしても全く見つからない。
私が今頭の中で浮かんでいるのは、盗人が余程の馬鹿者なのか、盗人に罪悪感が生まれているのか、誰かに脅されて無理矢理に盗みを働かされているのか、の三つの選択肢だ。
もっとも、最初の選択肢はまず切り捨てて問題ないと思うが。
「冬瑠、お前はどう思う?」
「ふむ……」
私に答えを聞かれた冬瑠は、暫く手を顎に当てて考え込んでいたが、やがて掌を上に向けて肩を竦め降参の意を示した。
「分かることと言えば、尋常の型ではないということだけだ」
「昔、似たことをする奴を見た経験はないか?」
「夜にはないな。連中なら、迷わず一番新しい粉を盗んでいる。それに、一番古いものを好んで盗んでいくような変な奴が犯人なら、もうぼろを出していてもおかしくないさ」
これで、選択肢は二つになった。
「盗みに対して罪悪感を抱きながら、しかし何らかの理由でせざるを得ない環境にいるのか、又は誰かに盗みを強制させられているかのニ択までは絞れたか……」
「ああ……」
そこで、冬瑠は悟ったような表情を見せた。
「なんだ。思いつかなかったのか」
「まあ……そうだな。愉快犯の一種だとしか思っていなかったというか、そうだろうかと思った途端に他の可能性が見えなくなった」
「ほぅ、意外と視野が狭いんだな」
私は特に嫌味を含んだつもりもなくそう言ったのだが、どうやら冬瑠はそれにむっとしたようで、軽く肘で私の脇腹をつついてきた。
それが何を表すか分からないほど私も鈍感ではない。
「失敬」
「今後、そのようなことがないように努力すると良い」
冬瑠も私が過失でそれを発言したことが分かっていたらしく、からかうような笑みを見せてきただけでそれ以上の追求はしなかった。
だが、すぐにその表情が曇る。
どうしたのかと訊こうとした矢先、
「なあ、重影よ」
冬瑠がこちらを見上げてそう呼びかけた。
その瞳は、今まで私に見せていたものと打って変わり、何故かとても不安そうな輝きをしている。
姫路藩の夜に涙を見せて以来、冬瑠は私達の前で弱さを表してこなかった。
縋るような目線は余りに唐突だったものだから、私も真剣になって尋ねた。
「どうした、冬瑠」
「貴殿の目から見て、夜は殺しから足を洗おうと意気込みし過ぎているように見えるか?」
しかし、予想の遙か斜め上をいく問いに、私は思わず目を丸くしてしまった。
「ほう、これはまた冬瑠にしては珍しいな。何故いきなりそう思った?」
その問は軽い気持ちから出てきたものだったが、冬瑠の表情は依然として真剣だ。
もしかしたら冬瑠は答えを濁してくるかと思ったが、意外にも冬瑠は素直に答えを返してきた。
「さっき、夜は重影の考えていた選択肢が思い浮かばず、ただ一つの可能性に固執していたと言ったな」
「ああ、そうだな」
「それはもしかしたら、悪事を働く人間は皆性格が捻れていると夜が思い込んでいるからなのやもしれん、と思ってな」
今度は、純粋に驚いた。
それは、私達が初めて道化屋に訪れたときに私が冬瑠に対して感じた不安と同じものだったからだ。
「遠慮はするな。重影の思うことを言ってくれ」
真剣な態度には、相応の礼儀を持って接しなければならない。
どうすべきか少し逡巡した後、結局私は冬瑠に対して抱いていた不安を包み隠さず話す事にした。
「お前の懸念は、ここに初めて訪れた日、お前がこの事件の犯人に対しての怒りを露わにして國助さんを怖がらせた所で私も思った」
そのときの行動を思い出して改めて反省しているのか、そうかという声は小さかった。
「お前は進んで善行をすることにまだ慣れていないだろうから、少なからず頭の中でそれを強く意識しようと努めている筈だ」
もう間もなく日付が変わる時刻なのだろうか、辺りの温度がまた下がった。
「だから、普段よりも悪事に対する嫌悪感が強い。故に、全ての犯罪者は悪意を持って犯罪を行っていると思い込んでしまう。どうだ?」
話している私をずっと真剣な表情で見ていた冬瑠は、私が話し終えるとはぁと溜め息をついた。
「ここまで洞察力に優れた人間に出会ったのは初めてだ」
「褒め言葉として受け取ってこう」
冬瑠が目で続きを催促してくる。
「その態度は一重に悪いことだと言って切り捨てられるものじゃない。むしろ歓迎されるべき心構えだ」
不意に、頭の中で今の冬瑠と旅を始めたばかりの私達が重なった。
慣れない旅を手探りで続けながら、まだ私達も今の冬瑠と同じように善行を意識的に行っていたときの話である。
一人の女性が、持っていた金銭が盗まれたから犯人を捜してくれ、と私達に頼んできた。
つまり、今回と同じく盗難事件の解決を依頼されたのだ。
あのときは結局、近くの寺子屋に通っていたまだ幼い子供が犯人だということで落ち着いたのだが、私達はてっきり腹黒い大人が犯人だとばかり思っていたから、その結末に目を丸くした。
しかし話を聞いた所、盗みを働いた子供は幼い頃に両親に捨てられ、食べるものを得るのにすら苦しむ生活を強いられて生きてきていたらしい。
まだ働き先もないような子供は、当然金銭を稼いで日々の生活費に充てるということが出来ない。だからと言って食べ物を周りの大人からねだったとしても、せいぜい少量の粟ぐらいしか期待出来ないだろう。
そんな中で、その子供は生きる為に盗むという技を拾得し、それで日々の生活を凌いできたのである。
刈屋藩では貧しい民達への援助が他の藩よりも重視されているので、私達はそこまで貧困な生活を強いられている人間を見てこなかった。だから私達はそんな子供がいるとは思いもせず、その可能性を最初から考慮に入れていなかったのだ。
盗みを働いた子供より私達の方が反省していたことは、今でも鮮明に覚えている。
今の冬瑠は、そのときの私達と全く同じ過ちを繰り返しているような気がした。それに、彼女は殺し屋という過去を持っている。それが逆にその思い込みを私達のものよりもずっと堅いものにしているだろう。
「だが、柔軟性は必要だ。視野を広く持て。そうしなければ、見えるものも見えなくなる」
諭すように人にものを教えるというのは私には似合わないが、それでも伝えるべきことは伝えなければならない。
それは、旅の先輩である私が担う義務と言えよう。
「まだまだ、学ぶべきことは多そうだ」
そこで開き直る性格は、彼女の長所である。
「期待しているぞ」
励ますように笑顔を作ったが、このときは間もなく私の笑みが動揺によって崩されることになろうとは予想だにしていなかった。
「重影は、まるで私の父だな」
冬瑠は、少し俯いて地面を見つめながらこんなことを言ったのである。
「えっ?」
突拍子もない言葉に、思わず訊き返してしまった。
「そうだろう?」
対して、冬瑠は何がおかしいのか分かっていない様子だった。
どうも、冬瑠は一般人と比べて敏感な所と鈍感な所がずれている気がしなくもない。
「うむ……」
何せ、「父」など生まれて初めて呼ばれたのだ。私がどういう風に反応すればよいのか戸惑ってしまうのも当然だろう。
「なぜ、そう思うんだ?」
うんと頭を絞り出して出た発言は、それでもつまらないものになってしまった。
そんな風に困惑する私を見ていた冬瑠は、不意にくすぐったそうに笑った。それは私が初めて見る表情であり、さらに私は動揺してしまう。
「そうだな。色々と世間のことを教えてくれるからだろうか?」
「私に聞かれても困る」
「ふふっ、こう言われるのは初めてか?」
その表情は私の心を読んでいる策士のような顔ではなく、その言葉はもっと純粋な、恐らく訊きたかったからそう訊いただけの質問。
そんな冬瑠を見ていると、困惑している自分が馬鹿なのではないかとさえ思えてきた。
そう考えた途端、心に余裕と落ち着きが生まれてくる。
「ああ」
私も素直に答えると、冬瑠はまたくすりと静かに笑った。
「今、夜の心は満たされている」
「そうなのか?」
「そうだろう? もう今はこんな信頼できる仲間がいる。貴殿だけでなく、市もな」
その嬉しそうな声は、心の底からそう思っている様子を伺わせた。
「こんなに、心は暖かくなるものなのだな」
「そうだな」
「これが……幸せなのかな?」
冬瑠の向けてきた素直な笑顔にはっとして、私は自分の胸に手を当てて心の中を意識してみた。
旅が始まって、もしかすると今最も心が落ち着いているかもしれない。
それに、この満たされているような感覚も。
これは、冬瑠と同じように私も幸せを噛み締めていることになるのだろうか。
「分からないな……」
「ほう……」
私は自分の言葉を頭の中で呟いたつもりだったのだが、知らない間に口から漏れてしまっていたようだ。
しかし、それを否定する気は全く起きなかった。
何となく、本当に何となく。
私は、自分の目の高さ程にある冬瑠の頭にそっと手を置いた。
「まあ、お前が私を父親だと言うのなら、これくらいはしなければならないだろう?」
そんな風に言ってから頭の上の手を動かし始めた私を見て、初めは冬瑠も驚いた表情を浮かべていたが、私が暫く冬瑠の頭を撫でていると、次第に気持ち良さそうに目を細めていった。
「ああ……こんなことをされるのは初めてだ……」
柔らかい笑顔を浮かべながら、ぽつりと一言冬瑠が呟く。
だが、本人にとっては思わず漏れてしまっただけなのであろうその言葉は、私の心に大きく響いた。
(頭を撫でられるのすら、されたことがないのか……)
冬瑠は心の奥底に、恐らくもう完全には癒えることが無いだろう深い傷を負っている。
気丈な冬瑠の本来の性格がそれを言動に表すことを許していないが、私達と旅を共にするようになった前までは、とても人間が過ごすものではない生活を送っていたのだろう。
(癒すのが無理なら、せめて痛み止めぐらいには……)
私は、冬瑠の頭を撫でる手に一層の愛情を込めた。
――――ぽたり
彼女が私に見せた二回目の涙は、とても優しく地に落ちた。
「昨夜の話を全て無かった事にしたいな」
夜が明け、朝になってからの私の第一声は、それは不機嫌に響いただろう。
徹夜に弱いと言っていた市三郎でさえ、朝までしっかりと起きて周りへの警戒を怠る事はなかった。
だが、冬瑠はどうだろうか。
「むぅ……もう少し……」
冬瑠が感動の涙を見せて、場はとても良い雰囲気に包まれたと思ったら、肝心の冬瑠は、少しばかり仮眠をすると言ってから朝になるまで、ずっと寝ていたではないか。
あれだけ心の温まる会話をしておいて、そのまま一人で夢の世界に入るなど、言語道断。
だが最初の方は、放っておけばいつか起きるだろうと冬瑠を信頼していた。
結果としては、それが見事なまでに裏切られた訳だが。
「ふん……」
それでも冬瑠を起こさなかったのには、当然訳がある。
結論から言えば、叩き起こす以外の事で、既に冬瑠に対する憂さを晴らしていたからだ。
冬瑠は泣いてからすぐに寝たので、その目立つ髪を放り投げてそのままでいた訳だが、日が昇って辺りが明るくなってきた今では、その髪を放置しておく訳にもいかなくなった。
そこで私は、冬瑠を起こさない代わりに、半ば乱暴に彼女の髪を頭巾に押し込んで仕舞ったのである。まるで子供がするような下らない悪戯なのだが、そこは何も言うまいと無理矢理目を瞑った。
自分の髪を何度も私に自慢していた彼女にとって、それはとてもお気に入りなのだろうから、憂さ晴らしの対象には持って来いだった。それに、それで怒鳴られてもしっかり言い訳が作れる。
その髪が晒されて、お前が闇之閃だと周りに知られても良かったのか、と。
まあ、どうせ冬瑠はまた朝風呂を浴びて来るとか言い出すだろうし、それに対する腹いせという意味でも、それだけで随分と満足させてもらった。
「さて……」
依然ぐっすりと眠る冬瑠を倉庫の壁にもたれかけさせ、私は扉の方へと向かった。
今日は昨日とは違って、予め國助から倉庫の鍵を借りていた。実は昨日から少し気に掛かる事が一つあり、國助が確認する夕方から朝の間に犯行が行われている可能性があるのではないか、という予想の結果を確認しておきたかった。
昨日の夕方の時点では、粉の量に変動は無かった。
今朝は、どうだろうか。
「っしょっと……」
倉庫の扉に掛けられた特大の南京錠、立派な桧から作られた閂を順に解除していき、その荘厳で重い扉を開ける。
途端に、ぎいという鈍い音と共に抹茶の高貴な香りが瞬時に外に逃げだして来た。
渋い香りを嗅いだだけで、私の頭はすぐに目覚める。
一度深呼吸してから倉庫の中に足を踏み入れ、そこにきっちりと並べて置かれた木綿袋の中身の量を、新しい物から順に一つずつ確認していく。
一つの袋には平均して六合升二十個分程度の抹茶が収められているが、それでもやはり各収穫時毎に多少なりとも量の差があり、それが正確にその年々の気候に比例している様が中々に面白い。
しかし、やはりそれぞれの袋の粉の量には昨日と全く変動が無く、その為順調に測量は進められていき、いよいよ残す袋は一つとなった。
だが、最後に残った一袋が問題。
それには、倉庫の中にある出荷用の粉の内、最も古い物が入れられている。つまり、今まで盗人の標的にされ続けて来た木綿袋だ。
少し緊張して、木綿袋の口を縛る紐を解き、計量を始める。
昨日の段階では、この袋は六合升にして一四杯分だったが……
「三……四……五……」
一回一回数を数えながら、次第に不安を覚えてくる。
早くこの緊張感から解放されたいとする焦燥感のせいか、何故か木綿袋の底が見えるのが早過ぎる気がしたのだ。
まさかと思いながら、気のせいだと言い聞かせながら、それでも計量を続け……
「一二……一三……」
そして、私は愕然とした。
そこからは、六合升一杯分の抹茶粉が無くなっていた。
最終更新:2012年07月01日 22:31