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山崎藩のイメージイラストです。

城が無いから、結構さびしめ?



「ははっ……これは夢だ……。そうだろう……なぁ……」
 ――――ガタン
 自分の体を両腕で抱きその場に真っ直ぐ立っていられないという様子だった冬瑠は、少しずつその場から後ずさりをし、とうとう倉庫の壁に激しく体をぶつけた。
 それでも、冬瑠は取り乱した自分を正気に戻そうともしない。
 余程事実が彼女に与えた衝撃が大きかったのだろう。
 先程冬瑠が足下に落とした硝子玉は、近くの床板の隙間に引っ掛かり、錯乱した彼女を静かに見つめている。
 一瞬外から入ってきた光を反射して、きらりと悲しげに輝いた。
「そうであることを願いたいが、世の中はそんなに上手くいってくれない」
 そんな冬瑠に何か言葉をかけてやりたかったが、しかし私は心を鬼にして冬瑠に同情せず、恐らく私しか予想出来ていなかっただろう現実の結果を冷静に見つめていた。
 確かに、勘一郎とは暫く生活を共にしてきて親交もかなり深まった仲ではあるが、だからといって盗みの罪が見逃される訳ではない。
 一度犯してしまった罪はしっかりと償わければならないのが、世の理だ。
 私達に盗みがばれた勘一郎はというと、私に見つかった瞬間さえこの世の終わりに直面したかのような強烈な絶望を顔に浮かべていたものの、今では唇が白くなる程噛みしめてその場にじっと座っている。
 その表情は、見たこともないほど険しいながらもどこか腹を括っている様子を伺わせた。
 覚悟は、十分出来ているようだった。
 私は勘一郎の近くまで歩み寄り、一つ溜め息をついた。
「非常に、私は残念だ」
 その言葉で私が持っていた感情の全てを吐き出し、代わりにこれで全ての私情を捨て切った。
 もう目の前に座る人間は、元服前の子供ではなく立派な盗人。
「一つだけ、良いですか?」
 顔は下に向けたまま、震える声で勘一郎がそう言った。
「いいだろう。何だ?」
「何故……僕がやったと分かったのですか……」
「成程。それは――――」
 そこまで言って、私はあることに気がついて逡巡した。
 捨て切ったと思い込んでいた私情が、また少しだけ湧いてきてしまったのである。
 ただ、それは勘一郎に対してのものではなく、今後ろで錯乱状態になっている冬瑠へのものだった。
(冬瑠が更に錯乱する危険はないだろうか……)
 今、冬瑠は勘一郎が犯人だという事実を認めたくないと必死になり、その結果激しく取り乱してしまっている。そこに、私の推理を聞かせて冬瑠に否応なくそれを認識させてしまったとき、冬瑠が発狂してしまう可能性は果たして捨て切れるだろうか。
 発狂するだけならまだ救いようがある。しかし、冬瑠の場合は衝動で闇之閃になってしまうという恐ろしい可能性があるのだ。もし最悪の事態が起きてしまった場合、本当に取り返しがつかないことになるのは確実だ。
 だが、その危険性に怯えていては勘一郎の犯した罪に触れること自体が出来なくなる。
 どうするべきか迷った私は、市三郎に目配せをして冬瑠が闇之閃になってしまわぬよう注意してもらい、結局私は冬瑠を含めたこの場にいる人間全員に自分の推理を披露することにした。
「まず、その粉が盗まれた時間帯だ」
 倉庫内の空気が緊張する。
「昨日の夕方に國助さんがこの倉庫に向かわれたとき、袋から抹茶の粉末は減っていなかった訳だが、今日明け方に私が確認したときは、粉が減っていた。これは、犯人が昨日夕方から今日の朝までの間のどこかで犯行をしたことを示している。だが、夜の間は私と冬瑠が警備をしていたから、粉を盗むことは出来ない。すると犯行時刻は、國助さんが倉庫を去ってから、私達が倉庫の警備に当たるまでの間であると予想がつく」
 背後から、市三郎が冬瑠を心配する声が聞こえる。話の内容までは聞こえないが、冬瑠が大人しくしている所を見ると、市三郎は上手く彼女の心情を抑えてくれているようだ。
 私の緊張が少しだけ解かれる。
「その僅かな時間の中で倉庫に足を踏み入れたのは、私達が知る中ではお前だけ」
「……確かに……」
 蚊が鳴くような声で、勘一郎が同意した。
「その時点で仮にお前が犯人だったと仮定したとき、あることが証拠として上がる」
 勘一郎がゆっくりと顔を上げた。
 そこにはいつもの賢そうな表情はない。
 えゐと話をしているときの、無邪気で純粋な笑みもそこにはない。
 絶望と後悔の入り交じった、罪人の表情。
 だがその目は気丈にも、勿体ぶって話を止めた私に続きを催促させるような強い力を秘めていた。
 わざと大きな深呼吸を一回挟んでから、私はその答えを口にする。
「それが、倉庫までの道に敷かれている砂利に、薄く抹茶の粉がかかっていたことだ」
「なぬ、それは本当ですか?」
 すると、険しい表情をして腕を組んでいた國助が驚いた顔で私に訊き返してきた。
 この事を既に知っていたのは、早朝それに気付いた私とその時側にいた冬瑠だけだ。初耳である筈の國助が驚くのも当然である。
「ええ。良ければ確認してみて下さい。幸い、日はまだ出ています」
 百聞は一見に如かず、私は國助に己の目で確認するように勧めた。
 「何度も倉庫の周りは確認したんだが……」と首を捻りながらも國助は一度倉庫から出ていき、暫く経つと先程よりも更に険しい顔をして戻ってきた。
 何も喋らなかったことが、肯定を表す。
「あれは運搬中に粉をこぼした、という解釈が出来るものではない。こぼさないように慎重に運んでいて、尚且つ気が付かない内に少しずつ漏れてしまっていた、と考えるのが妥当だ」
 そこまで私が言うと、勘一郎ははっとしたように腰から提げていたものを見た。
 流石、鋭い子供だ。
「そう、麻袋だ」
 背後から「ああ、成程……」という市三郎の声が聞こえた。
「麻の生地は、木綿の生地と比較するとその目がとても粗い。お前が抹茶の粉をどれだけ慎重に運んでいたとしても、麻袋の目から粉はどんどん漏れていってしまったことだろう」
 だからこそ、抹茶が袋から漏れないようにする為に、保存用の袋には目が細かい木綿の生地を使っているというのは、一昨日國助と井戸端で湯呑みを洗っていたときに聞いた話だった。
「それにお前が今腰から提げている袋、無くなった粉六合分を入れたら丁度良く一杯になりそうではないか。違うか?」
 本当に悔しそうに、勘一郎は力なく頷いた。
「お前は、抹茶粉をその腰から提げた麻袋に入れ、盗みを働いた。そして――――」
「もう止めろ!」
 不意に、聞いたこともないような甲高く大きい声が、広いとは言えない倉庫に激しく響いた。
「こんなの……おかしいじゃないか……」
 突然だったので心臓が痛くなるほど驚いたが、誰が叫んだのかを認識してすぐに落ち着きを取り戻し、私は声を出した人間の方へ向き直る。
 声を上げた主――――冬瑠は、叫んだ後、暫く黙るとそのまま膝から崩れ落ちた。慌てて、側にいた市三郎がその体を支える。
「違うだろ、こんなの……」
 非難するような激しい目つきは、体勢を崩しても尚私に向けられている。
 その瞳には、憤りと悲しみと情けなさが滅茶苦茶に入り交じっていた。きっと、冬瑠の心はそれ以上に様々な心情が混ざり合い、混沌とした状態になっていることだろう。
「貴殿はあの日、夜に誇らしげに言ったではないか……。弱きを助け、強きを習え、と……」
 しかし、その言葉を聞いて思わず私は目を丸くした。
 今は少し落ち着きを取り戻しているように見えるが、それでもまだ冬瑠は錯乱していると言えるだろう。そんな状態の彼女から私達の旅の指標が聞けるとは、私も全く予想していなかった。
 少しだけだが、嬉しさがこみ上がってくる。
 ただ、冬瑠はその言葉に関して大きな勘違いをしているようであった。
「冬瑠。弱き者と犯罪者は違う。その二つの意味を履き違えてはならない」
 しっかりその言葉を覚えてくれていたことを誉めたくなったが、それでも教えておくべきことは教えておかねばならない。
 怒りと悲しみで顔をぐちゃぐちゃにさせている冬瑠に、私は静かにそう告げた。
「弱き者とは、この世界の理についていけずに社会から脱落しかけている人間のことを指す。それに対して犯罪者とは、この世界の理に反抗しそれに逆流する人間を言うのだ」
 冬瑠は私の言葉にいよいよその顔を歪めた。勘一郎が犯罪者だということ、そしてその勘一郎を容赦なく攻撃する私が、本当に許せないのだろう。
 ちらりと勘一郎を見ると、正座をしたその膝元は点々と濡れ始めていた。
 泣いてしまう程自分で行いを反省している、という証。
 ここまで己を戒めているなら、もう十分だろうと思った。
(さて……)
「だが、私の推理は終わっていない」
 私は、そう言って今までの自分の推理を切り替えした。
 ここからがこの事件の真髄である。
「もし、この事件の真相が今の推理で正しいと仮定すると、一つだけ私達が入手した手掛かりと照合したときに違和感が発生するものがある」
 この一連の事件で最も犯人の意図を予想しづらかった手掛かりが、今まさに真相の最深部の扉の鍵になろうとしていた。
 当然のことながら、その場にいる勘一郎以外の人間は唐突にそう話を始めた私を怪訝な目で見る。
 だが、私は構わず続きを説いた。
「その手掛かりとは、盗まれていく抹茶の粉はこの倉庫の中で一番古いものであるということだ」
「どういうことですか、殿?」
「つまり、私の推理が正しかった場合、勘一郎はわざわざ損をしながら盗みを働き続けていたことになる。同じ環境下、盗めばもっと高価になっていたものがありながら」
 ここまで言って私は口を閉じ、代わりにもう怒りではなくきょとんとした表情を浮かべている冬瑠に目線を投げかけた。
 ここから先は、彼女に考えて貰い答えを出して欲しかった。己の手で、勘一郎を犯罪者という汚泥から救い出して貰いたかったのだ。
「それは……」
 私の目線に気が付いて、冬瑠は顎に手を当てて思案顔になる。
 そして暫くの沈黙の後、その体に電流が流れたかのようにその表情をはっとさせた。
「盗みに罪悪感を感じているか、又は誰かに無理矢理盗みを強制させられているか……」
「その通り!」
 私は、大きく首を縦に振った。
 真相の隠蔽というからくりが仕組まれた扉を開けた先には、昨夜の冬瑠との話に出てきたことがあったのだ。
『ああ、盗みに対して罪悪感を抱きながら、しかし何らかの理由でせざるを得ない環境にいるのか、又は誰かに盗みを強制させられているかのニ択までは絞れた』
「盗みを働き始めたときから古い粉を標的にしていたことや、勘が手に痣が出来るまで茶の修行に励んでいたことを考えると、誰かに強制されて盗みを働いたと考えるのが妥当だろう」
 真実を聞くために、勘一郎に笑顔を向ける。
 これで、今まで非道な盗人の役をさせられていた勘一郎は、弱き人間にその地位を変えた。
 後は、いつものように手を差し伸べるだけ。
「どうだ? 盗みを能動的にやっていないのなら、私達に事実を教えて欲しい」
 賢い勘一郎なら、盗みを命令した人間を養護するなどという無駄なこともしないだろう。
 どうするべきか迷っていたのか目を泳がせていた勘一郎は、やがて弱々しくその人物の名前を挙げた。
「えゐさん……です……」
 全く、私の予想通りだった。
 思わず溜め息が出てしまう。
 これでえゐが蓬組の団員、さらには分裂した内の消極組の方の人間であることは確立されたも同然になった。
 後は、その理由と彼女の居場所だ。
 だが、勘一郎が涙を流しながら口にした消極組の手口は、私の頭に血を昇らせるには十分過ぎる程非道だった。
「どのように頼まれたのだ?」
「えゐさんは……母親が病気で、でも家が貧乏だから日々の食糧も確保出来ないそうなんです。それで頼まれて……その……僕はえゐさんが好きだったので……少しは助けになるかと……」
 途端、後頭部を鉄の棒で殴られたような衝撃が私の脳内で駆けずり回った。
 えゐは、暴力や金銭などで勘一郎を脅した訳ではない。ましてや、勘一郎を雇っていたという訳でもない。
 少年の純粋な恋心を、利用したのだ。
「それは、本当なんだな」
 隠そうとしても、怒りのせいでどうしても声が震えてしまう。今恐らく、私は誰にも見せたくないような酷い表情をしているだろう。
「え、ええ……」
 急に態度を変えた私に怯えながらも、明確に肯定する勘一郎。
 そして更に、私は昨日の夕方にえゐと交わした会話を思い出していた。
『……ええ、一人暮らしですので、時間的には問題ありません。私に出来ることでしたら……』
 あの時、確かにえゐは私にそう言った。
 勘一郎の話が本当なら、私に一人暮らしと話した所と、勘一郎に母が病気だと言った所に、明らかな矛盾が生じている。
 間違いは無かった。
「今、えゐさんの居場所は分かるか」
 自分でも分かるほど、その声は低かった。
「えっと……陣屋の向かい――――」
「失礼!」
 そして、勘一郎がそう言うや否や、私は勘一郎の話が終わる事を待たずに四人を置いて倉庫を飛び出した。
 出来るだけ急いがなければ、理性の歯止めが利かなくなり、終いには怒りに任せて人を殺めてしまうかもしれなかったから。




(はぁ……)
 何故ああまで感情的な行動をとってしまったのだろうか。蓬組の拠点と勘一郎が言った建物の前で、私は自分のとった行動に激しく反省していた。
 確かに、えゐが勘一郎にしたことは怒るに値するものだが、それにしても全員を倉庫内に置いて一人で勝手に飛び出すというのはあまりにも浅慮な行動であった。
 だが、後悔はしていない。そんな自分の行動もまた、正しいと思うからだ。
 兎に角、これでえゐが蓬組に所属していることは勘一郎の発言ではっきりとされた。また今日の権左衛門の話から考えて、えゐは蓬組から分裂した消極組の一員と見て問題ないだろう。
 えゐを取り押さえる理由は十分揃えられた。もしここで私が力ずくで押し切ったとしても、後で私が咎められる恐れはない。
 ただ、えゐがどれほど強い女なのかが気掛かりではある。
 もし彼女が大して凶器の扱いに慣れていないのならば話は早いが、現在活発に活動している犯罪団体の一員が凶器を扱えないと考えるのは、流石に楽観視し過ぎであろう。
 だからと言ってえゐが手強かった場合に打つ具体的な策があるのかと問われれば、その答えは否である。
(強行突破しかないか……)
 強行突破は予想される被害が大きくあまり好きな方法ではない。しかし、それしか選択肢がないならば不本意だが決行するしかない。
 私は自分の身に喝を入れ、その建物の扉を開けた。
「あ……勘……」
 扉を開けると土間の先はすぐに大広間になっていて、その奥の方に件のえゐがいた。えゐの手前には蓬組、更にはえゐと思われる二人の女も足を崩して座っている。
 えゐはてっきり勘一郎が現れるものだと思っていたのか、私の方に振り向くとそのまま固まってしまった。
「話は、全て聞いた」
 だが、私がそう切り出すとえゐの顔が動き出す。
 その表情は、道化屋で見せていた温和なものとは全く違う、まさに罪人が浮かべる狡猾な笑み。闇之閃となったときの冬瑠とはまた違う、犯罪を心から楽しく思っている連中が浮かべる顏だった。
 ふっと昨日の夕方の光景を思い出した。
 今私に見せている笑顔は、あの時一度だけ見せた獰猛なそれと全く同じだった。
 あの時の私の勘は、どうやら当たっていたようだ。
「あらあら……もう気付かれちゃったの……」
 くすくすと、声だけは上品にえゐが笑う。
 本性を表したえゐは雰囲気を含めて全て今までのえゐとは違っていたが、どうやら穏やかな口調だけは表と裏で変わらないようで、狂気に満ちた表情と全然似合っていない。
 それがさらに私の不快感を掻き立てた。
「私としては、やっとという気持ちなんだがね」
 気持ちが表に出てこないように私がわざと大袈裟に肩を竦めておどけると、えゐの口の端がさらに吊り上がった。
 この緊張した状況が心底楽しいらしい。
 しかし、裏返せば私はえゐに完璧になめられていることになる。
 心底不愉快だった。
「一応名乗っておこうか。私は三河国刈屋藩士、稲垣重影だ」
「ふふっ……蓬組副組長のえゐよ……」
「やはり蓬組だったか」
 私は、右腕を上に挙げて左手でそれを指さした。
 その意図を汲み取ったえゐが、包帯に巻かれた右腕を晒す。
「お前は蓬組から抜け出した派閥の一員である、と見て良いんだな?」
 えゐは、歪んだ笑顔を崩さない。そのせいで、全く彼女の心情が読みとれなかった。
「あら……? あなたは、蓬組が分裂したのが一週間前だとご存じでしょう? 私は、あなたには火傷したのは一月前と申したけれども……」
(っ……!)
 私が権左衛門から蓬組が分裂したという話を聞いたのは今日の朝のことである。だというのに、何故私がその件を把握していることをもう既に知っているのか。そのあまりにも不気味な話に背筋に悪寒が走りかけた。
 しかし私が動揺したことを知られる前に、えゐが私の表情を注意深く伺っていた所から、幸運にもえゐはかまをかけだだけだと悟ることが出来た。
「勘が鋭い私の連れのおかげで、それを見破ることが出来たのさ」
 動揺を隠すように、もう一度おどけたような様子を見せながら言う。
 すると、えゐはまたくすくすと笑い出した。
「本当に……貴方って、面白いわ……」
「ご期待に応えられたようで、なによりだ」
 軽い挑発を狙って、少し皮肉を織り交ぜながら笑顔で言い返す。
 しかし、お互いの緊張は依然として緩むことはなかった。
 とは言っても、えゐの場合、本人自体は警戒心など放り捨てて今この場に張り巡らされた緊張を楽しんでいる。が、厄介なのはそのえゐの周りに侍っている二人の女だった。
 あからさまに、私を警戒している。
 私が大広間に姿を見せてからというもの、二人はずっと右手に剥き身の短刀を握りしめ、私の手が刀の側を通る度に今にも飛びかからんとする勢いでこちらを睨みつけてくる。
 この状態ではいつまで経ってもえゐに攻撃を仕掛けられない。かといってこちらから勝負を仕掛けるにしても、抜刀している間に間合いを詰められて殺されてしまうだろう。
 何かこの状況を変えるほどの事が起きてくれなければ、私に勝ち目はないと断言できた。
 しかし、幸運にも転機は唐突にやってきた。
「それにしても、お前が蓬組の副長とは驚いたもの――――っ!」
 少しえゐを挑発して理性を削ろうと私が大きく両手を広げたとき、突如耳元で何かが空気を切り裂く音が聞こえた。
 本能が危険を悟り咄嗟に体勢を低くすると、案の定頭上を刃が通り過ぎていった。もしもう少し反応が遅かったならば確実に首が飛んでいた斬撃だった為に、肝を冷やす。
 えゐの新しい仲間が、私の後ろから新たに姿を現したのだった。
「っ――――!」
 新たに入って来た刀使いの女は、すぐに二撃目の構えを取る。
 しかし、そこには当然隙が出来る上、元々この場にいた二人にとっても彼女の出現は意外なものだったらしく飛び出しが若干遅れていた。その機を見逃さなかった私はすぐに刀を抜き、三人を迎え打つ体勢を整えた。
 だが、三対一は流石に分が悪い。
(まずいな……)
 攻撃した隙を誰かに突かれたら終わりなので仕方なく防御に徹するが、流石に複数人相手の手合いは集中力の消耗が激しい。自分の死角から何度も出される斬撃を読んでかわしながら、一人ずつ制圧していくしか選択肢は残されていない。
 しかし、そんな中でも光明はあった。
 繰り出される攻撃をいなしながら観察してみると、彼女らから繰り出される斬撃の軌道は直線的で実に単純だった。故に、彼女らの攻撃がかなり読みやすい。数で圧倒的不利に立たされていた私でも、その弱点を突いていけば何とか場を制圧出来る望みがあった。
「っ――――!」
 暫く打ち合いをしていると、後から現れた刀使いの女が私の目の前で大きく切り上げの体勢に入った。
 力任せに刀を持ち上げている為か、幸運にも女の正面ががら空きになっている。
(逃がさん!)
 その瞬間が好機だと判断した私は、すぐに刀を持っていない左手で腰から鞘を抜き、剥き出しになっていた顎にその先を叩き込んだ。
 すると、刀使いの女は鋭く短い悲鳴を上げて簡単に後方に倒れ込み、そして意識を失う。
 攻撃だけに重点を置き防御を捨てた戦い方は、反撃されることがまずない民衆を狙う罪人の中では珍しくない。それは他の二人にも当てはまることだった。
 ただ、残った短刀使いの二人は、まるで予め打ち合わせでもしたのかと疑いたくなる程息が合っていてなかなか手強かった。片方が一通り攻撃をして隙が出来た所を、まるで埋めるかのようにもう一人が短刀を振るう。
 それでも、私が虚をついて刀を振り降ろす機を少しはずすと簡単に二人の上体は崩れた。そこを見逃さずに首の後ろに刀の背を叩き込むと、大人しく倒れるまでになる。
「ふぅ」
 三人が完全に意識を失っていることを目で確認してから、私は溜め込んだ息を一気に吐き出した。
 いくら罪人相手とは言え、三人を相手にたった一人で立ち回りをしたのだ。体に溜まっていた疲れは、私が思っていた以上に多かった。
 それが、致命傷だった。
 その疲れが原因だったのか、その時私は襲いかかってきた三人を始末した事で満足してしまい、彼女らの親玉であるえゐの存在を完璧に忘れてしまっていた。
(……しまった!)
 脳に酸素が届くようになってその事にようやく気が付き、慌てて大広間をぐるりと見渡すと――――
 ――――ドスン。
 急に、背中に激しい打撃を食らった。
「がっ……!」
 肺の中に収められていた空気が、その一撃で一気に口から漏れる。
 それでも何とか踏み止まって倒れそうになるのを堪えたのだが、間髪入れずに膝裏に更なる攻撃を食らったことで、私はとうとう体勢を崩して床の上にうつ伏せに倒れ込んでしまった。
 すぐに上にのし掛かられ、動きを封じられてしまう。
 捻り上げられている左腕が、痛みで悲鳴を上げていた。
「……油断したわね……」
(不覚……っ!)
 額を床につけながら、私は自分の愚かさを呪った。
 私が三人との打ち合いに気を取られている隙に、私の背後をえゐに取られていたらしい。
 完璧に、私が迂闊だった。
 蹴られた腰に体重がかけられるが、痛みで声が出ないよう奥歯を噛みしめる。
「……随分強い人のようでしたけど、もう無駄よ……」
 そのえゐの声からは、勝利を確信している様子が伺えた
 ただ、これでそう易々と殺られる訳にはいかない。東海の上流武士の意地があった。
 しかし――――
(何っ……!)
 私は持てる気力を総動員し右手に持つ刀をえゐに向けようとしたのだが、何故か腕が思うように動いてくれない。
 腕だけではない。体のどの部分も思うようには動かせなくなっていた。
 背中を蹴られた際、脊髄の辺りに通っている神経を痛め付けられたようだ。
(なんという……!)
 しかし、背骨に通る神経を攻撃しようものなら、力任せになってはいけない絶妙な力加減と一度も許されない角度が必要になるはずだ。
 それを一発で簡単にやってのけたえゐの実力に、私は戦慄した。
「あらあら……」
 精一杯腕を動かそうと試みるが、神業めいた腕をもつえゐの前では無駄な足掻き。
 意地でも放しはしまいと踏ん張ってはみたものの体が言うことを聞いてくれず、結局えゐに簡単に刀を取り上げられてしまった。
「随分、小癪なことをしてくれるじゃないか……っ!」
 武器を取られてしまったのだから、後は体術でどうにかするしかないのだが……
 先程の攻撃が余程効いているのか、いまだに体に全く力が入らない。
「犯罪者は……いつでも小癪よ……」
 私は、先程の自分の考えを悔やんだ。
 えゐは武具の扱いに長けている可能性もあると考えていたが、これは長けているという次元ではない。
 まるで体術の師範のように、人間の弱点を知り尽くしている。
「残念だったわね……。それじゃあ、さようなら……」
 必死に体を捻っても、一向に抜け出せる気配がない。
 これ以上ないぐらい邪悪な笑みを浮かべながら短刀を降りおろすえゐを見て、いよいよ死を覚悟した時。



 場が、凍った。



 えゐの、短刀を降り下ろす手が止まる。
 私も、その途轍もない悪寒に思考が一度停止した。
 えゐに押さえ付けられている為顔が地面から上げられず、詳しい場の状況は見えないのだが、視界の端に紅い着物の裾が見えていることから、来訪者が誰であるかはすぐに分かった。
 冬瑠である。
(ふぅ……)
 取り敢えず、冬瑠が姿を現したことで私は一命を取り留めた。
 私の背中で短刀を振りかざしていたであろうえゐの注意は新たなる来訪者に完全に向けられ、えゐから感じられた殺気ももう霧散している。
 このことについては、後で礼を言わなければならないだろう。
 礼が言えれば、の話だが。
(この気配は……っ!)
 喜んでいられる状況ではない。
 むしろ、私が最も恐れていた事態が発生していた。
 先程から見えている紅い着物の裾の他に、また新たに視界に入ってきたものがあった。
 紅く長い、髪の毛である。
 普段は頭巾の中に仕舞われている長い髪を放り投げていること。冬瑠がこの場に入ってきた途端に、寒気にも似た殺気が辺りを占めたこと。
 それらが表す答えは、一つしかない。
 身が凍えるような沈黙が暫く大広間に流れ、やがてえゐが震えた声でその名を言った。
「闇之……閃……」
(そんな……まさか……)
 冬瑠が、闇之閃になってしまったのだ。
 ――――ミシリ
 畳が軋む音が。、静まった大広間に響く。視界の端に見える冬瑠の足取りは、私が初めて見たときのようにふらふらと覚束なかった。
 その道の先には、確実に私とえゐ。
 えゐは、突然の来訪者に呆然としている。
 かくいう私も、この時ばかりは放心せざるを得なかった。
 冬瑠が闇之閃になってしまった理由は、私でも簡単に思い浮かぶ。
 自分が気に入っていた勘一郎に犯罪の片棒を担がせたえゐが、本当に許せなかったのだろう。
 しかし、姫路藩で私達に涙を見せた冬瑠の為にも、このまま冬瑠にえゐを殺させる訳にはいかなかった。
 だが、私は闇之閃になってしまった冬瑠をどうすれば止められるのかを知らない。故に、ただ怯えるしか術がない。
 ――――ミシリ
「う……嘘……」
 とうとう、えゐは私の上から離れ、大広間の隅まで後ずさってしまった。
 その表情は、蒼白そのもの。
「な……なんで……なんで私なの……」
(……まずいな)
 あの様子を見る限り、えゐが正気を保てていないのは確かだろう。
 一方で、歯をがちがちと鳴らしながらぶるぶると震えるえゐを見て、私は逆に次第に落ち着きを取り戻し始めていた。
 一度この殺気を経験しているというのも大きい。
 しかし、落ち着きを取り戻したからと言って何が出来るという訳でもなかった。
 えゐから解放され、唯一麻痺していない首だけを冬瑠の方へ向けると、案の上冬瑠は闇之閃に成り変わっていた。
 普段私達にいろんな表情を見せてくれる顔は、紅の前髪に隠されて見えない。その手には、若干刃渡りの長い抜き身の刀。
 初めてその姿を見たときは、一瞬で心が恐怖一色に染められた。
 今でも、抱いている心情の大半は冬瑠の放つ殺気に対する怯えだ。
 しかし、その中でも、今回は何とか理性は逃げ出さないでいてくれた。
「冬瑠!」
 踏み留まった理性がとにかく叫んでいるのは、これを止めさせなければならないということ。
 私は、焦燥感に任せて冬瑠の名を呼んだ。
 やはり冬瑠は返事をしない。顔すらこちらに向けてはくれない。それは、呼ぶ前から大方予想できていた。
 それでも、それしか出来ないことに情けなさを感じながら、私は冬瑠に向かって大声で話しかけた。
「止めるんだ! 彼女を殺しても何にもならない!」
 冬瑠はゆらり、ゆらりと、怯えて錯乱しているえゐとの距離を縮めていく。
 とうとうえゐの眼は焦点を結べなくなってきていた。
 状況は、確実に悪化してきている。
「今までの決意を無駄にする気か!」
 うつ伏せでは大した声が出せないものの、冬瑠の心に響いてくれと願いながら叫ぶ。
 それでも、冬瑠は歩みを止めない。
 とうとう、冬瑠はえゐの真正面に到着してしまった。
 時間はいくらも残されていない。
 いつしか私の心の中にこの殺気に対する怯えは無くなり、代わりに焦燥感が私を早く早くと催促していた。
「止めろ! 欲求に負けるな! 耐えてくれ!」
 私も心の焦燥感の為すままに叫び続けるが、冬瑠はそれでも答えてくれない。
 すぐに立ち上がって後ろから冬瑠を止めようと思ったが、えゐの攻撃の影響がまだ続いているらしく体が全く言うことを聞いてくれない。
 涙が出る程、情けない気持ちで一杯になった。
「冬瑠! 聞こえているんだろ! 返事をしてくれ!」
 音が聞こえてきそうなぐらいに全身を恐怖で震わせるえゐに、冬瑠が静かに刀を振りかざした。
 このままでは、えゐが斬られてしまう。
 冬瑠が、また殺しに手を染めてしまう。
「冬瑠! 冬瑠!」
 叫びながら、動かない自分の体に渇を入れる。
 それでも冬瑠は何も答えず、その顔を前髪に隠したまま、えゐに向かって刀を勢い良く降り下ろし……
 私はぐっと目を瞑り、全力でその名を叫んだ。
「冬瑠――――っ!」



 ――――バシィィイイン



 そして、人が斬られたときの音とはかけ離れた打撃音が、大広間に喧しく響いた。
「……え?」
 全く予想していなかった音に、思わず耳を疑ってしまう。
 念の為少し黙って待ってみたが、やはり何時まで経っても噎せ返るような血の匂いが鼻に届いてこない。
(どういうことだ……?)
 冬瑠がえゐを斬ったという自分の認識にどこか決定的な間違いがあることは確実だった。
 確認の為、ゆっくり目を開けて周囲を観察してみる。
 どうやら本当に冬瑠はえゐを切り捨てた訳ではないようで、大広間のどこを見ても赤い血は見当たらない。
 えゐはどうなっているのかと思って見ても、怪我は一切負っていない様子だった。
 ――――バサリ
 だがその代わり気を失っていたようで、暫くするとその場に倒れたが。
 そして、件の冬瑠は刀を中段に構えたまま、気絶したえゐの足下に立っていた。
 その肩は、荒く上下することを繰り返している。
「冬瑠……?」
 先程までの異常とも言える殺気は、もう微塵も感じることが出来ない。
 それでも、冬瑠は私に背を向けて抜き身の刀を構えていた。
(構えている……?)
 ふと、自分でそう思って強烈な違和感を感じる。
 構えている、という表現は間違っている。冬瑠はたった今上段から刀を振り下ろしたのだから、普通なら振り切った体勢でいなければおかしい。
 ならば、何故冬瑠は刀を中段に持っているのか。
 事の顛末に全く筋を通せず私が混乱していると、
「峰打ちで……許してやる……」
 息も絶え絶えな、冬瑠の声が微かに聞こえた。
 冬瑠が何を言ったのか、私は瞬時には理解出来なかった。
 冬瑠は闇之閃に成り変わり、えゐを上段から切り捨てたのではなかったのか。本来なら、この大広間はえゐの死体から噴き出される血で赤く染め上げられ、噎せ返るような臭いが充満している筈ではないのか。
 しかし、混乱する私の頭の中にある一つの答えが浮かんだ。
 刀を振り降ろしていた途中で、冬瑠が本当の自分を取り戻したのではないか。
 瞬間、私の心にどっと喜びが湧いた。
 確かに、冬瑠は一度闇之閃という過去の自分に呑み込まれた。しかし、そうなってしまっても本来の性格が完全に隠れることはなく、心の中で殺しを求めるもう一人の自分と葛藤した末に普段の自分を取り戻すことが出来た。
 それは、冬瑠が過去の自分、つまり闇之閃に勝ったということに他ならない。
 冬瑠が真に殺し屋から抜け出した瞬間であった。
「冬瑠……」
 先程までとは全く異なる感情を込めて、私はその名前を小さく呼ぶ。
 すると、紅い女武士はようやくこちらを向いた。
 その目の端には、大きな涙の粒が溜まっている。
(ああ、本当に……)
 体も小刻みに震えている所を見ると、本当に必死で闇之閃の人格を押さえ込もうと頑張っていたことが伺えた。
「重陰……」
 ゆっくりと冬瑠が私に歩み寄ってくる。
 その姿は、たった今自分の過去に打ち勝ったのにも関わらず、とても脆く感じた。
 やがて私の側まで歩み寄ると、冬瑠は力尽きたかのように膝から崩れ落ちた。
 咄嗟にその体を支えようとしたが、体が麻痺していて腕が動かない。
 冬瑠は当然私に体を支えられるだろうと思っていたらしく、あわや顔面から倒れ込むかという所で慌てて手を床に突く。
 涙で濡れた抗議の目は、予想外に破壊力が大きかった。
「いや、気を悪くしないでくれ。えゐに動きを封じられてしまったのだ」
「ふん……一人でこんな所に突っ込むからだ」
 普段の策士のような笑みを作ろうと思ったのか、冬瑠の顔が少しだけ歪む。
 しかしすぐにそれが無理だと悟ったのか、また怯えたような表情に戻ってしまった。
 実際、怖かったのだろう。新しい決意が過去の自分に呑み込まれてしまいそうになったことが。
「頑張ったよ、お前は。強くなった」
 私は心からそう思った。本当に、たった数日で冬瑠は真の意味で強くなった。
 腕が思い通りに動くのなら、怖がっている冬瑠を安心させようとその体を抱き締めていたかもしれない。
 しかし、それでも尚体は動かない。
 こんな場面で思うように体を動かせない自分に、情けなさを通り越して思わず笑ってしまいそうになっていたときだった。
「ありがとう……」
 なんと、冬瑠の方から私の体を抱き締め、それでだけでなくその整った顔を私の胸に埋めてきたのだ。
(なっ!?)
 するのとされるのでは、随分と心情が変わるもの。私は冬瑠の突然の行動に心臓が止まってしまうのではないかと思うほど驚いた。
しかしそれも初めの中だけの話で、冬瑠の柔らかい髪に頬を撫でられている間に動揺した心が落ち着いてきたのが分かった。
「重陰がいなかったら……また人を殺す所だった」
 冬瑠の声は、震えて消え去ってしまいそうである。
 私は冬瑠を抱き締めてやる代わりに、言葉で冬瑠を励ましてやった。
「お前の意志が全てだった。私は何もしていない」
「そんなことは……っ!」
 冬瑠が私の胸から顔を上げた。
 その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
 過去の自分に寸前まで支配されかかっていたことが、本当に怖かったのだろう。
「お前は、本当に良くやったよ」
 私は、そう言って出来るだけ穏やかな笑みを浮かべた。
 すると冬瑠は、堤が決壊した川のようにその瞳から涙をぽろぽろとこぼし、やがて私の胸にまた顔を埋め、声を殺して泣き始めた。
 三度目の涙は、冬瑠の新しい人生の始まりを祝福するかのように綺麗に輝いた。








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最終更新:2012年07月01日 22:33