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ブラバン所属の俺が、ブラバンについて熱く語ってみる。
まあ、あれだ。音楽分野だけは本物だよう。
これは、パーカッション(俺所属)の王様、ティンパニ。
因みに、女王はドラムスです。あれ? ドラムスの方が男っぽい?
足を、骨折した。
それは、一般人にとっては大ケガの部類に入るんだろうな。
考えられる原因はぱっと探しても沢山ある。例えば、不慮の事故に巻き込まれて車に足を跳ねられた、高い所から落ちて足を打った、とか。
足を折った瞬間は、その痛みに声も出ねぇもんだ。俺も、骨折した時はその場から動けなくて、目の前が真っ暗になったし。
けど、逆に言えばそれだけのこと。
つまり、大ケガで済まされる、ということさ。
普通なら2ヶ月ぐらいで完治するし、その後はごく普通に生活できる。そこに不便なんてあっちゃあいない。
だが、俺の場合は違う。
俺は、この時点で夢を諦めることになった。
『もう前のようには走れません』
2日前に医者から言われた言葉を思い出す。
俺の場合は、走ってる途中で思いっ切りこけたのが原因さ。
この根岸第二病院に入院する前、俺は千駄ヶ谷競技場で高校陸上のインターハイに出場してた。
中学時代から神童と賞されて来た俺は、110mハードルの種目でぶっちぎりの予選1位を記録、順調に準決勝、そして決勝へと駒を進めた。
誰もが俺の優勝を確信しただろ。俺も自分で余裕だなと思ったよ。
けどさぁ、コースには魔物が潜んでいた、とはよく言ったものだぜ。
決勝のレースをスタートの時点でぶっちぎりの1位で飛び出し、あわや大会新記録が出るかと会場が沸いた時、俺は1番最後のハードルで足を引っかけて転倒した。
しまった、と思って俺はすぐに立ち上がろうとしたんだけど、俺は立ちたくても立てないっつー、生まれて初めての感覚に襲われてた。
そのままトラックに倒れながら、俺は17歳で絶望というものを体感した訳さ。
「はぁ……」
ベッドの上から、横浜根岸に広がる森林公園をぼーっと眺める。
当然、結果は失格。決勝レースでは何も結果を残すことが出来なかった。
あの絶望の瞬間から、だいたい1ヶ月ぐらいは経ったかね。日付の感覚が完全にイカレちまってるぜ。
そんでも、俺は陸上馬鹿っつー訳じゃねぇ。それぐらい経てば、心の整理をつけるぐらい出来た。
まだ悔しい気持ちはあるけどな。
「失礼します」
俺の吐息とアナログの時計針ぐらいしか音を立てなかった空間に、突然病室のドアがガラガラと喧しく鳴った。
また看護師が様子を見に来たのかと思ったけど、その正体は違った。
「どう、和毅。調子は?」
ああ、この凛とした声。恋姉だな。恋姉が来るとは思ってなかった。
「ああ。ダイジョブ。もう歩けるようにはなった」
「そう、良かった」
俺の側に近寄って、様子を見るなりほっとしたような表情を浮かべた恋姉の顔をベッドから見上げる。
恋姉――――滝瀬恋は、俺と2人で暮らしてる俺の姉だ。
幼い間に父親が俺達を捨てやがって、1年前に女手一つで俺達を育ててくれてた母親が死んじゃってから、恋姉は俺の面倒をたった1人で見てくれた。
生活費もろもろは叔父が仕送りしてくれてる。それだけで本当にありがてぇ話なんだけど、そんでもあくまでお金だけ。恋姉一人にかかる負担が相当なものだってことは簡単に予想出来る。
毎日毎日、陸上部ですんげぇ量の汗を流してる俺を影で支えてくれて、そんな自分自身も部活に精を出してる恋姉は、文字通り俺の誇りで、尊敬している人物なんだ。
けど、そうやってずっと守られ続けてきた自分の人生にも、嫌気が差してたんだよね、俺。だからこそ、恋姉に恩返しするという意味でもインターハイで優勝をしたかった。その思いを忘れないようにして、恋姉に迷惑をかけながらでも必死に練習を積み重ねてた。
っつーのに、結果的に恋姉にもっと迷惑を掛ける形になっちまった。ホント、情けねぇ。
「そんな暗い顔しないの」
恋姉がポンと俺の肩を叩いたおかげで、俺は現実に引き戻された。
慌てて笑顔を浮かべる。
「俺、そんな顔してたか」
「まあ……和毅が何を考えてたかってことぐらいは分かったわ」
「げ、またか」
「まあ、しょうがないよね……」
楽しそうな笑みを浮かべていた恋姉の表情が、ふっと曇った。なんだろう、また心配かけちゃったかな。
「本当に、悔いはないの?」
でも、恋姉の言葉はそんな類のモンじゃなかった。
恋姉の言う、悔い、っつーのは陸上生活を投げ捨てることに対してのものなんだろう。その質問は、今までも何回か聞かれたしな。
俺はもう踏ん切りがついてるとそのたんびに恋姉に言ったんだけどさぁ、どうも恋姉は俺が気を使っているんだと勘違いしているみたいで、ぜんっぜん俺の言うことを信じてくれない。
また恋姉の心配性が表に出たのかと思ったけど、今日はいつにも増して恋姉の様子が真剣だ。
もしかしたら、これで俺にこの話を聞くのは最後にしようと決めたのかも。
「ああ、仕方ねぇよ。こればっかりは」
恋姉の剣呑な雰囲気を汲み取って、俺はわざと明るくおどけた。恋姉に安心してもらえるように、って。
すると、恋姉は優しくため息をつく。
「はぁ……和毅は本当呑気なんだから」
「それが唯一の取り柄だし」
そう、俺のすっぱり切り替えられる性格は、俺が自慢できる長所だったりする。
俺は、目線を恋姉から窓の外の景色へ向け直した。木々がぶわーって緑色に広がってる先には、桜木町のランドマークタワーが聳えてる。
「これからは、退屈な日々が続きそうだな……」
陸上部でボロボロになるまで練習しまくってた時を思い出しながら、俺はため息と一緒にそう言った。
「無理はしないでね。頼むから、走り込みを始めるとか……」
「ははっ、まさか」
俺はインターハイに出場したけど、優勝まで間近という所で転倒し、結局は棄権扱いされた。
これからも、長い間激しい運動は禁止されるだろう。だから、俺はもう陸上を卒業することになるんだと思う。ちゃんと決めてねぇけど、これからは皆と変わらない。勉強に追われる普通の学園生活を送るんだろうな。
とうとう、休みが来たか。
そう思いながら、俺は恋姉と一緒に窓の外を悠々と飛ぶカラスを見つめてた。
これが、終わりじゃなくて、始まりだったってことも知らねぇで……
「くぅっ! 久々の学校だぜ!」
9月に入ってようやくダリィ熱気から解放されて、俺は夏休みも入れて1ヶ月半ぶりぐらいに嶺蘭学園中高校の校門をくぐった。
学園に復帰しても良い、というお達しを受けたのは昨日のことだったもんだから、俺は超慌てて学園の準備をする羽目になっちまった。もう少し余裕持って連絡しろし。
けど、俺が学園に復帰することをメールで皆に伝えたら、
『おお! ようやくか!』
『待ち詫びたぜ! 神童!』
『授業、お前が休んだ間に大分進んだぜ。これから苦しめ』
みたいに、ホントに超感動するメッセージをたくさん貰ったから、すげー嬉しかった。
恋姉からも、よかったじゃんと言って貰えたし、俺は学校に通えることの幸せに気づいたぜ。なんか、綺麗事のように聞こえちまうかもしれねぇけど。
学園に通ってるときは、こんな事無かったのにな。
「和毅~、あんまり調子に乗ってるとまた病院行きだよ?」
「いいじゃんか。この感動に浸ってたって」
「浸っててもいいけど、見てるあたしがハラハラするのよ」
「恋姉はケガしたこと無いからそういうけどなあ、これ結構胸がぐっとくるぜ」
「足がぐっと来ないかの方が気がかりだわ」
ぐっ、そこ突っ込まれると何も言えねぇぜ。
結局その一言で撃沈された俺は、へいへいと大人しく従うことにした。あーあ、女に言いくるめられるなんて、マジなさけねぇ。
根岸ん中だとたった一つしかない中高一貫校である嶺蘭学園は校舎が三つに分かれていて、西校舎、通称西棟は中学生の教室、あと体育館と講堂、食堂や図書室とか全校生徒が使う施設が入ってる。
そして、俺達がA棟っつー風に呼んでる東A校舎には、高校生の教室と、理科室や音楽室みたいな特別教室がある。んで、おんなじ風にB棟と呼んでる東B校舎はよーするに部室棟で、何だかよくわかんねーけど職員室と資料室もそこにあったりする。
高ニの恋姉と高一の俺は、教室が二人ともA棟にあっから、靴を履きかえてから一緒にA棟にいった。
そんで、夏休みだ入院だで暫く学校に来てなかったし、このタイミングで起こるサイアクな罠に対する警戒をきれーさっぱり忘れてたから、後が大変だったったら、もう。
あ、やべ、忘れてた、って気づいたのは、俺と恋姉が話をしながら廊下を歩いてる時に、ドドドドドとかいう、異様なっつーかマンガの中でしか出てこないような効果音が聞こえたときだったし。
「和毅、覚悟しときな」
恋姉の笑ってねぇ笑顔が、もっとこの状態を語ってた。もう腹くくるしかねぇのかなあ。ってか、恋姉の顔が超怖いんだけど、マジで。
んで、俺の抵抗むなしく、その予感は的中しやがった。
「滝瀬君、発見!」
「キャー、かっこいい!」
「前から憧れてたの!」
「怪我、大丈夫だったの!?」
俺の前の方からドドドド音鳴らして走っていたのは、やっぱ何人もの上級生達だった。
すぐに俺は上級生達にびっしり包囲され、身動きを封じられる。
そして、あれやこれやと俺は女の上級生達にもみくちゃにされはじめた。ああ、もう、勘弁してくれ。あ、コノヤロ、そんなとこ触んじゃねぇ!
俺はこの学園に入学する前から陸上をやってて、その影響で中学時代からよく陸上大会で優勝とかしてたんだ。そしたら、俺の知らない間に、俺は気づいたら学園内でかなりの有名人になってたんだよ。
まあ、インターハイの110mハードル決勝に残ったって言ったら、流石に校内には名前が知られちまうか。陸上部にとっては、南関東大会進出の時点で初だっつってたし。
でも、名前が知れ渡る程度ならまだ全然よかった。むしろ、なんか俺がスターみたいな気分になれてよかったかもな。
けど、俺はどうも名前の知名度を上げる代わりにこの学園の女子の票も知らぬ間に集めてちまったみたいで、今日は俺の久々の登校日つーこともあってか、めちゃくちゃ女子の集まりが激しい。
避けられるよりは100倍マシなんだが、度が過ぎると何事も良くないって言うぜ……
「人気じゃない、和毅。よかったね、女の子に囲まれて」
恋姉もなんかジト目で見てくるし……。ってか、声のトーン低っ!
「好きでやってる訳じゃねぇんだって。お、おいこら、押すな!」
「ふん、どーだか」
俺が必死に言い訳しても、周りがぐわーって俺に押し寄せてくるもんだから全く声が届かない。おまけに、恋姉にはぷいっとそっぽを向かれちまった。ちょっと待ってよ~……
嶺蘭学園はスポーツが特段強いわけじゃない。
むしろ、ここは進学校、それも神奈川で3本の指に入るぐらいの名門校で、毎日冷徹な鬼教師らがこれまた鬼みてぇな宿題を俺達に平気で出してくるような、勉強第一の学校だ。
勉強すんのはいいけどさ、俺も進学校だってわかって入ったんだし。でもさぁ、程度も考慮した方がいいと思うんだ、俺。
そんな勉強しまくりの学園にスポーツが強い俺が入ったもんだから、インターハイに出た直後なんてもう昔流行ったウーパールーパー状態だった。
それこそ、俺がストレスでぶっ倒れたほど。
今はもう落ち着いてきたけど、たまに沸いてくる過激派(つまり今日みたいな連中)に出会うと、もう俺はお手上げだよ。降参、降参。
だけど、過激派だって学園の一生徒だし、学校のシステムの前には塵にも劣るさ。
キーンコーン
俺を中心にして黄色い歓声がこだましてた空間に、めっちゃ重い鐘の音が鳴り響いた。よく教会とかで使われる、例のあの鐘だ。
タイミングとか考えれば、これは予鈴かな。
「あー、もう予鈴か」
「しょうがないわね」
「和毅君、また昼休み会いに行くからね!」
「ちょっと、抜け駆けは許さないわよ!」
「そうよ、一等賞はあたしのものよ!」
おい。いつ俺はくじ引きの賞にされたんだよ。
と突っ込む気力がある訳もなく、俺がはぁってため息ついてたらがやがやと語り合いながら上級生達は俺から離れていった。
「お疲れさま」
俺の周りに人間がいなくなって、恋姉はぽんと俺の肩を叩いた。なんだかんだいって俺のこと心配してくれてんだ、やっぱホント恋姉っていい人だ。
「もういい加減こんなの勘弁だぜ……」
「いいじゃない。人気者は将来苦労しないわよ」
「将来はいいから今苦労したくない……」
マジのこと言うともう座り込んで休みてぇって思ってたけど、んなことが出来る程学園も終わっちゃいねぇ。予鈴もなってるし、俺と恋姉はちょっと急いで階段を上ってった。
「ところでさあ」
階段で足の感覚確かめてながら、またどーせ湧いてくる過激派にどうやってお引き取り願おうか結構マジで考えてたら、それじゃないことがふっと浮かんできた。
「ん? なに?」
「恋姉って、今日部活か?」
「あ~……」
恋姉は携帯を出して、すぐにスケジュール表を開いた。
「あるね。6時半まで」
「じゃあ、待ってた方がいいか?」
忘れてた、俺って部活辞めてんだった……
さっきも言ったけど、うちの学園は進学校ってことになってる。んなもんだから、最終部活終了時刻は6時半ってちゃんと決められてる。丁度陸上部とブラバンって部活のある日が同じだったから、俺達は今まで二人の部活が終わってから一緒に帰ってたんだ。
けども、俺は部活を辞めちまったし、6校時は終わっと暇になる俺と部活をやる恋姉じゃ、帰れる時間がめっちゃずれる。
「あ、そっか……」
恋姉もそれに気が付いたみたいで、困ったような顔になっちゃった。
「取りあえず、食堂で待っていようか? どうせ暇だし」
っていっても、俺は家帰ってすることなんてねぇ。あっても、モンハンの続きをするぐらいだから困ったもんだ。
「いいの、和毅?」
「ああ、俺のことは気にしないで」
「そう? じゃあお願いしようかな」
因みに、恋姉の所属はブラバンだ。なんか、前夕飯の時にサックスを担当してるのって言ってた気がする。
うちの吹奏楽は大して上手いわけじゃない。コンクールでも、なんかよう分からんところの大会で銀賞、とかそんなレベル。
けど、どうもこの学園が出来てからずっと存続してるむっちゃ古い部みたいで、学園ん中の部活で一番アットホームな雰囲気だっちゅーところがウリでかなり人気が高ぇ。
高3は受験体制に入るんだっつー名目で、夏休みの最後で強制的に部活を辞める決まりになってる。だから、今恋姉の学年がブラバンじゃ最高学年で、恋姉もサックスのパートリーダーやってるみたい。
まあ、恋姉はしっかりしてるしなあ。パートリーダーとか、まさにって感じだ。
「ふぅ。じゃ、ここで。頑張ってね、和毅」
そんなこんなしてる間に俺たちはA棟4階に到着してた。ここには高1の教室がズラっと並んでる。
もう一コ上の階に教室がある恋姉とは、いつもここで別れる。
「ああ、じゃあまた放課後に」
俺は恋姉に手を振り、俺の教室――――A組に入った。
ああ、このドアを開ける感触、超懐かしいな。
嶺蘭学園は、横浜の根岸にある高校だとはさっき言った。
京浜東北線で横浜から大船方面に5ついくとある根岸駅が最寄り駅である学園は、神奈川屈指の進学校ということで首都圏各地から生徒が通ってくる。
俺と恋姉みたいに歩いて通ってる連中なんて、1%いるかいないかだ。
「しかし、よく戻ってきましたね」
今目の前で静かに、しかしもの凄い早さでハンバーグを食すこいつ――――権田玲二は、高1では最も遠い、大宮から通っている。
湘南新宿ラインで通う玲二は、電車の遅延以外で遅刻することがない優等生なんだが、肝心の湘南新宿ラインがよくダイヤを乱すので、HRには出席していないことがよくある。
「貴方が陸上引退という噂が流れた時は、比喩ではなく学園中が揺れましたよ。どれほどの大ケガをしたのか、と」
「迷惑かけたな。足の骨折っただけなんだけど」
「いや、良かったです、本当に。それぐらいで済んでくれて」
ハンバーグの残りひと欠片を口に入れながら、玲二がしきりに頷く。
俺がまだかけそばを1/3しか食っていない間に、こいつはハンバーク(大)を完食しやがった。
「心の友、権田玲二様が応援してくれなければ、俺は復活できていなかっただろうさ」
「ふふっ、光栄です」
しかも、にこりと好青年の笑みを浮かべながら、玲二はさらに空いた皿の隣にあったカレーに手を付け始める。
こいつ、相変わらず鬼みたいな胃袋してやがるな。
玲二は、中学時代からの俺の親友だ。学園内で一番最初に友達になって以来、玲二は俺の中で最高の友達の座に座っている。
大人びた堅い口調とか、几帳面そうな顔立ち(鋭く尖った眼鏡、スリムに細いラインを描く頬と顎のラインは、結構学年の中でも人気を集めている)から結構絡みづらい奴に思われがちだが、本当はめちゃくちゃ気が利く奴だ。俺だけでなく、クラスメートからも厚い信頼を置かれている。
俺が骨折したと聞いたとき、恋姉よりも玲二の方が先に病室に駆けつけてくれたほど。
因みに、こいつも所属部活はブラバンだ。担当は確かトロンボーンだったか?
トロンボーンパートには高2がいないから今年から僕がパートリーダーです、と言っていたことがあったな。
「でも、陸上部は辞めたんでしょう? 今後、何か部活に入る予定は?」
「ああ、今んとこないな。まず遅れた勉強分を取り返す予定だ」
「そうですか。何かあったらなんでも聞いてくださいね」
そう言いながら眼鏡の位置を直すこいつは、学力が学年トップクラスだ。高1の段階で東大理ⅠがA判定という強者である。
俺も、テスト前になると分からない問題をこいつに聞くのだが、玲二はそれをイヤな顔ひとつせず受け、それに分かりやすく教えてくれる。
恋姉だけじゃなく、玲二にも迷惑をかけることになりそうだが、勉強に遅れる方が問題だ。ありがたくお教えを受けよう。
俺? 俺の学力は中の上ぐらいだ。一番影が薄いところだな。
「恩に着るぜ」
「任せてください。ところで……」
かちゃり、と玲二がスプーンを器の上に置いた。みると、そこに山となって盛られていたはずのカレーは消えている。
あれだけ食って、よくまあそのスリムな体格を維持できるよなあ、お前。
「恋先輩とは?」
「ん? ああ、食堂で恋姉を待つことになった」
「そうですか。なら、ご一緒してもよろしいですか?」
食後の緑茶を啜りながら、玲二がそう尋ねてくる。
俺と恋姉はいつも一緒に帰っているのだが、よくその中に玲二が入ってくることがある。
俺と玲二は親友同士だし、玲二と恋姉は同じ部活の先輩後輩だから、別に問題ないだろ、と俺が誘ったのが最初だった気がする。
「とーぜん。恋姉と2人で来なよ」
「ええ、お言葉に甘えて」
俺は、残っていたかけそばのつゆを一気に飲み干した。
陸上から卒業しても、あまり周りの環境が変わらない。
ごくごく普通の日常。
玲二の笑顔を見ながら、俺は普通というものののありがたさを感じていた。
放課後になった。
水曜日最後の授業、学園の有名鬼教師、多田が担当する化学じゃあシーンと静まり返っていた教室は、一瞬にして騒然とした空気に飲み込まれた。
俺は、その中で学校生活復帰の一日目を終えた余韻に浸っていた。
前は授業が終わると喜び勇んで陸上部の部室へ向かっていたのに、今では終わってしまった授業に名残惜しささえ感じる。
多田は、俺がついていけてないことを知りながら、それでも馬鹿みたいなスピードで授業を進めてたんだけど。
俺がノートを鞄にしまっていると、横井と相川が声をかけてきた。
「よぉ和毅。お前陸上やめたんだろ? 横浜のゲーセン行こうぜ」
「久々でしょ? 遠慮しないでさ」
こいつらはクラスメートのダチ達だ。
クラスメートの連中とは、陸上部時代でも部活の休みの日にはよく横浜駅西口にあるゲーセンで遊びに行っていた。
横浜の南西口には相鉄線の改札があり、そこからさらに進むと所狭しとゲーセンが軒を並べている。しかも、憎いことに店舗ごとに設置してある筐体の種類や性能ににばらつきがあるもんだから、客引き争いが起きることもない。
「わりぃ。今日は遠慮する」
けど、俺は二人の誘いを断った。
今日一日授業を受けてわかったんだが、シャレにならんぐらい俺は勉強に追いつけていない。
化学なんか、俺が知らない間にテトラヒドロキソアルミン酸ナトリウムという、唱えるとヒール魔法が使えそうな得体の知らない物質の生成方法なんだかどうだかの話まで進んでいたようで、多田の授業中、周りにバレないように一人で頭を抱えてた程。
ゲーセンで遊んでいる場合じゃねぇ。
「勉強しなきゃならんから」
「あー、そっか」
「大丈夫か? 教えた方がいいか?」
「いや、平気だ。一人でやる」
じゃあな、と行って出ていった横井と相川を見送ってから、俺も鞄を背負って食堂へ向かうことにした。
うちの学校の食堂は、メニューの数は少ないけれど椅子の数なら膨大にある。机上の空論にはなるが、一応全校生徒が食堂に来ても全員着席できる程なのだとか。
金かける場所間違ってるだろ。
まあ、食堂は放課後でも軽食だけは売ってくれるから、そのシステムからは結構恩恵を預かっていたりする。放課後限定のサイドメニューも存在していて、放課後でも食堂にはそこそこの人数が集まる。
筈なのだが。
フライドポテトでもつまみながら微積を勉強しようかと考えながら食堂に入ると、気味が悪いことに人が一人としていなかった。
バックも見当たらないところから考えると、誰かがどこかへ退席したという訳でもないみたいだ。
(あっれ……?)
食堂の入り口で、一人で首を傾げる。
今日は別になにか行事が迫っているような期間じゃないし、俺が行事をすっぽかしているということも絶対ない。
厨房の方から聞こえてくる食器のぶつかる音と従業員の声以外には、音がなにも聞こえなかった。
(ま、好都合か)
奇妙な状況なのに変わりはないけど、俺はポジティブに考えることにした。
俺は食堂にわいわいと騒ぐために来たわけじゃない。遅れていた分の勉強を取り返しに来たんだ。
騒々しい空間よりも、俄然この方が助かるぜ。
俺は、最初の予定通り食堂のカウンターで暇そうに頬杖をついていたおばちゃんからフライドポテトを一つ買うと、食堂の奥の方の席に着いた。
鞄を机の上に置き、ポテトを早速一本口に放りこんでから数学の参考書を取り出そうとする。
けど、その前に前ポケットから俺はウォークマンを取り出した。
本気で勉強をするときでもない限り、俺はいつも何かしら音楽を聞きながら勉強する癖がある。というか、俺は静かな空間っつーのが苦手で、常に何かしら生活臭のする音が鳴ってないと落ち着かない質なんだ。
普段なら談笑する声をBGMにしながら勉強を進めていくんだけど、今日は食堂が閑静なものだから、音楽でも聞きながら勉強することにしたのさ。
イヤホンを耳に装着してから、メニュー画面を操作してある曲を再生する。
ELLEGARDEN――――10~20代の若者から絶大の人気を博し、2008年に活動を休止した邦楽ロックバンド――――のSupernovaという曲だ。
細美と生形の二本の厚いギターによるパワーコードメロディーから繰り出されるパワフルなイントロから、静かに滑り出すAメロのヴォーカル。
サビにはいる前の強烈な刻みから、そのまま猛烈な疾走感を伴うサビにはいる。
サビが1番、2番と続くと、しっかりと落ち着いたフレーズを持ってきてギャップを生み出す。かと思えば、それが終われば再び激しいサビのメロディが脳内を全速力でかけずり回る。
アップテンポ調の定石を丁寧に追っていった良曲だ。
だがなによりもこの曲で最大のポイントは、この爽やかな疾走感の元である、高橋の作り出す強烈かつ繊細なドラムスのリズム。
ブラストビート調の激しいビートで曲を盛り上げたと思いきや、唐突に三拍目にスネアドラムが入るスローリズムを挟み込む。
思わず首を振りたくなるようなサウンドがたまんねぇったらねぇ。
俺は周りに人がいないのをいいことに、体でサビのリズムを取りながら微積の問題を解く準備をした。
本当は、後ろに人がいた事も知らずに。
「ねぇ、あなた。滝瀬君って言ったっけ」
激しくオーバードライブの掛かったギターサウンドを聞きながらでも、脳に直接響きわたるような凜とした声。
「ん?」
イヤフォンを耳からはずしながら、声をかけてきた人物の方へ振り向く。
そこには、一人の女子生徒が毅然とした様子で立っていた。
綺麗に膝あたりまで長く伸ばされた黒く艶やかな髪。きりっと引き締まった顔のラインに乗っている薄い唇、小さくまとまった鼻、形の良い眉の直線がバランスよく整えられている。
何より印象的なのは、そのつり上がった目だ。
目尻が上がったその目には黒く光る瞳があり、捉えた相手を萎縮させてしまうような高圧的な印象を受ける。そんな漆黒の瞳には、俺の顔が浮かんでいた。
「違うの?」
端正な口から放たれる声は、同世代の女子と比べるとトーンが低くて大人っぽい。
でも、凜とした外見と併せて考えれば、これ以上ないくらいイメージにぴったりだった。
「質問に答えて」
女子生徒が少し苛立ちを見せながら机を指でタップしたところで、俺はようやく自分の中の世界から抜け出す。
「あ、わりぃ。俺が滝瀬和毅だ」
「良かった。合ってたみたいね」
女子生徒は、腕組みしていた手を解きながら、ふぅと息を吐いた。なんだか良く分からないけど、マイペースな子でこっちの調子が狂うな。
「前、いいかしら」
「あ、あぁ」
うろたえる俺を余所に、優雅な仕草で着席する女子生徒。
「私の名前は矢月春薫。学園の高1D組よ」
組んだ両手の甲に顎を乗せ、彼女はそう名乗った。
ヤヅキバル……はて、そんな珍しい名字の女の子居ただろうか。
「あ、えっと、俺はさっきも言ったように滝瀬和毅。所属は高1Aだ」
「ええ。知っているわ」
「それで、矢月春さんは――――」
「薫、でいいわ」
思わずうっと唸ってしまうようなキツメの口調で、矢月春さん――――薫はそう言い放った。
何か、矢月春という名字に恨みでも持っているのだろうか。矢月春なんてそうそう聞く名字じゃないし、もしかするとどこかの名家のお嬢様なのかも。
「そういうことを考えられるのが嫌だから、私はそう呼ぶなと言っているのだけれど」
正直に言えば、はっとした。
(俺、今口に出していったっけ?)
「あ、いや……その……」
「いいの。初対面だもの。仕方がないわ」
何でだ?
薫は初対面の人間と話をしているとは思えないぐらい冷たい対応をし続けている。なのに彼女からは、偉そうに振る舞っている器の小さい女だという印象が全く持てない。
強いて言うなら、薫は本物のカリスマ。
「で、何の用件だったんだ?」
「ええ。ちょっと、さっきの貴方の様子を見ていて思ったことがあって」
「思ったこと?」
「そう」
ちょっと席を外すわね、と一言言ってから、薫は食堂に設置されている自動販売機に向かい、伊右衛門の濃いめを手に持って戻ってきた。
キャップを外し、軽くペットボトルのキャップに口を付ける薫。かすかに動いている喉が艶めかしい。
……って、何考えてんだ俺は!
「ふぅ、失礼したわ。でも、まず順番に話さないとだめね」
少しだけ伊右衛門を飲んだ薫は、キャップを閉めながらそう切り出した。その目はキャップではなく俺を捉える。
「あなた、確か陸上のインターハイで怪我を負ったわよね」
「あ、あぁ」
急に陸上部に入っていた頃の話を持ち出され、俺は正直いって戸惑った。
(いきなり何を言い出すんだ。こいつは)
「当然ながら、今後陸上に参加できる見込みは?」
「ない」
「そう。じゃあ、聞くけど」
薫は、最初に俺に苛立ちを見せてきた時と同じように、机の表面を人差し指でタップしていた。
しかし、今回は違う。
静かな空間にコツコツと響く硬質な音。聞くけど、と微妙な所で話を止めた薫は、まだ話を始めず、静かに机を叩く。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ
(……なんだ、これ)
その音を聞いている間に、俺は自分の感覚が狂いだし始めたことに気がついた。
もう1分以上はこの状態が続いているだろうか。それなのに、薫の生み出す音に狂いはない。
音量、テンポ、響き。そのどれもかもが一定。まるで一人だけの空間で静かにメトロノームを聞いているような錯覚。
「……おい」
俺は耐えきれなくなってとうとう言葉を発した。
いつの間にか出てきた汗を袖でぐっと拭う。
「まあ、合格かしら」
すると、意味の分からない言葉を発して薫はタッピングを中止した。
「なんのつもりだよ」
いくら何でも、初対面の相手にこんな気分にされては黙っていられない。
俺が薫を睨みつけていると、薫は臆した様子もなく、さらりとこんなことを言ったのだった。
「貴方、吹奏楽部に入らない?」
最終更新:2011年06月01日 18:32