海です。
雨がぱらつき、その少女の肩を小刻みに叩いている。
年は十代半ばほどであろうか。
髪は長く、黄昏を思わせるような茜色をしているのが目立つ特徴であるが、それ以外にはなにも特筆すべき容姿が見当たらない。
いや、ちがう。そうではなくて、
(死んでいるみたいに地味な人。ついて回るだけの影のような……)
と、この当時は齢十六の剣客、羽橋鈴音(はねばし りんね)は思った。
ちなみに、今日はずいぶんと妙な天気で、天気雨であった。
雨のみならず、空からは薄ら日も降り落ちている。
或る女剣客の噺 「夢喰」
■■
川面に小雨が降っている。
川と云えどもその彼方にはもう海が視えており、巾(はば)の大きな川で、名を[六郷川]と云う。
夏だというのに、まだ春のような、弱い陽ざしの中で二人は舟に乗っていた。
一人は櫂を使って舟を漕いでいて、もう一人は船べりに腰かけ、うつらうつら "舟を漕いで" いる。
「落ちますよ、儚(はかな)さん」
船頭が半眼で見やる。漆塗りの鞘を提げている剣客、羽橋鈴音である。
眼光には剣客ゆえの隠しきれぬ鋭さがあるが、小柄な背丈や成長しきっていない細い体つきは、まだまだ少女である。身にしているのはスリップドレスという薄着で、上には菅笠をかぶり、むきだしの肩には鈍色の長い髪がかかっている。
「落ちないわよ。だって天気雨なんだから」
「わけの分らないことを云わないでください」
「ふふ、修行が足りない証拠ね」
鈴音は勢いよく舵を切った。
舟が揺られて、鈴音が睨むその女、日下儚(くさか はかな)が落ちそうになる。
「わっ。危ない危ない」
そんなことを云うが、儚は対して慌てた風もない。片手に持つ唐笠をくるりと回し、落ちる雨粒を飛ばして、
「仕返し」
「っ……、鬱陶しい」
「口が悪いわね。教育間違えたかしら、私」
「教育らしいことをしてもらった覚えはありません」
「ほんとに口が悪いわね。この白状者。恩知らず」
ぶつくさと儚は云う。
歳は二十九。体はすらりと締まっており、身にしているのは半袖のシャツにジーンズといった、おしゃれの欠片もない服装もないが、しかしそれがこの人物にはよく似合っている。鈴音いわく、「小ざっぱりした性格っていうか、辺幅を飾らない人。あと、呑気の塊」なのである。
顔は小さい。黒髪は腰に届くほど長く、それをうなじのあたりで紐で括っている。
眉は細く、両(ふた)つの眼は鈴音のそれより遙かに鋭い光を湛えていて、剣を交えるときなどは、
「見られるだけで、殺される……」
と相手に思わせるほどの、ものすごい殺気を放つのだとか。
この日下儚、鈴音の遣う剣術、[心壊流]の第九代継承者にして、羽橋鈴音の師なのである。
彼女らはいま、名目上は武者修行、じっさいはあてのない気ままな旅を続けていた。
鈴音はこの師のことを心の底から尊敬している。だが、そう素直にはなれないらしく、
「どっちが恩知らずですか。剣術以外はてんで駄目な儚さんを世話してるのって、誰でしたっけ」
いつもいつも、妙な反発ばかりしている。
……この反発も、ふつうに聞けばただの皮肉だが、鈴音にとって大切なものの一つは剣術であって、それはすでに儚にも見抜かれているので、"剣術以外"と云っているのを、
(あら、可愛い)
と、儚が思ってしまうのは仕方のないことであろう。
だから儚はすかさずこんなことを云う。
「それもそうね。ありがと、鈴音」
むろん、鈴音は口ごもるほかない。
鈴音は儚の声には気づいていないふりをして、舟を操るのに集中することにした。
さて、まもなくして川岸が近づいてきた。
川の流れは穏やかだが、雨のせいか、いささか泥がまじっている。
舟を岸につけ、鈴音が足を下ろしたとき、儚はまたもとろとろと舟を漕いでいた。
岸から向こうには野が広がっていて、そこを北へ切れ込むと、やがて村が見えてくる。
名を[あんの村]と云って、川だけではなく海にも面しており、主に漁業を生業としている村である。村の北には並の者では越えられぬような険しい山があって、東には海がせまり、そして西と南には六郷川が流れている。
よって、この村へ訪れようと思ったら結果的に、鈴音たちのように川を渡ることになる。村人の数は、二ヶ月まえならば二百はいたが、いまはその半分もいるかどうか……。
この村は、治す手立てのない流行り病に侵されてしまったのである。
ある者は病魔に命を蝕まれ、ある者はそれを恐れて村を去り、村からは生気がなくなってしまった。
病のことまでは分からずとも、生気のない状況は村に入った鈴音と儚にもひしひしと伝わってきた。
村を去った一部の者は、「夜も朝もたまごの殻の上で暮らしてるみたいだった」と、いつ崩れてもおかしくない生活の凄惨さを語っている。
「うーん……」
と儚は唸った。
木立に沿った道を歩く鈴音たちの目先には、村のありさまが広がっている。
遠くの方には、田畑や林に紛れ込むようにして、藁葺きの屋根がちらほらとあり、そして二人のすぐ近くには、小ぢんまりとした寺(名は雲水寺)がある。その隣には墓地があるが、墓地にも寺にも人の気配はない。
それどころか遠くの集落からも、確かに何かをしているらしい、かまどの煙らしきものはゆらゆらと立ちのぼっているが、それだけである。
ふつうならばあるべき、人々の生活の営みだとか活気だとかを、微塵も感じられない。
長らく放置してたけど、一新して再開。
前のやつはやりたいことが二つあってお腹いっぱいになってたので、そのうちのひとつを削ってプロットを再構成。
なにか、妙である。
この場所からでは、まだまだ村の様子は分からない。けれども、
(村が、死んでる)
と、鈴音は直感した。
そんな鈴音のことを知ってか知らずか、のほほんとした調子で儚は、
「どこか、泊めてくれそうな家がないかしら」
「……はい? あの、宿をさがすつもりなんですか?」
「そりゃそうよ。女なのに野宿なんて」
だめよ、だめ、と云った。
(剣客がよごれるのを嫌ってどうする)
と鈴音は思ったが、それよりも、
「この村に滞在するんですか?」
「ええ、そうよ」
いったん儚は言葉を切って、
「だって、面白そうじゃない」
■■
[七十七年 二月]
朝に目を覚ましてみると、今日は、いつもよりも寒いと思った。雪が降っているのかと思い、格子戸から外をのぞいたけれど、そのようなことはない。むしろ、燦々とした……まるで夏のごとき……目がくらむくらいの陽射しが入りこんできている。なるほど、この寒さはまだ体が起き切っていないからか。そのように考えるにとどめて、それから、隣の旦那が目を覚ましているかと気になった。旦那は起きていた。体を起こし、布団をぬいだ体勢でこちらを見ている。……お互いがお互いの異常に気づくのは、旦那の方がはやかったのだ。私はおくれてそれに気づいた。旦那の顔に、虫に刺されたかと思うような、赤い斑点が浮いている。それがひとつやふたつだったのならば、私は虫刺されと思ったにちがいない。それがいくつも、顔だけでなく腕にまでも、ある。私はふと手のひらをながめてみると、やはり、赤い斑点が這っている。寒気が、一際強くなった。それが春の寒さからやってくるものではなく、体が警告する悪寒なのだと理解する頃には、厄神さまのお怒りはもう、はじまっていたのであろう。まもなくして、するどい痛みが骨の随まではしった。
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鈴音と儚は宿をさがすことにした。
雲水寺横の切り通しをまっすぐに行くと、椎の木を境にして道が二手に分かれていて、
「日が沈む頃に、ここに集まりましょ」
と儚が提案して、それらの道を二人で別々に行った。
鈴音は道の北の方へと進んでいる。
さっき通ってきた道とあまり変わり映えはなく、相変わらず木立が先の方まで伸びている。
その木立が切れるあたりにうっすらと、ぽつぽつ見えているのが、
(たぶん、家)
と鈴音は見当をつけた。
そちらに近づくにつれて、儚と別れる前から感じていた異様な雰囲気が、ひしひしと、鈴音の肌に伝わってくる。
然し、それにもかかわらず、
(一軒くらい、泊めてもらえるところも見つからないかな……)
などと思っており、すでに儚を説得するのは諦めて行動している鈴音である。
羽橋鈴音は、どちらかと云えば「触らぬ神に祟りなし」という性格だ。
もうすこしつけ加えると、その神を鈴音の心が"悪である"とみなすならば、
「斬って捨てる」
という、信念の持ちぬしである。
……余談になるが、羽橋鈴音にはその信念に半ばすがっているような節がある。
かつ、本人はそれに気づいていない。あるいは、見て見ぬふりをしている。
自分もそれとは知らぬままに、自分にはこういう信念があるのだと思いこむことで、ある種の安心感を得ているのだ。
悪を斬るというのは、たしかに羽橋鈴音の紛(まご)うことなき信念なのだが――。
悪・即・斬!!!
鈴音ちゃんの大技はガトチュで確定。こればかりは誰にも譲れない。
嘘でした、ごめんなさい。
話を戻そう。
さわらぬ神に云々、また、そんな信念があるのに、
「あの子、なんだかんだで面倒くさがり屋なのよねぇ」
と儚が云うくらいで、だからこの妙な村に逗留することはあまり乗り気ではなかった。
もしも。この村が妙であるということしかなければ、鈴音は儚の説得を続けただろう。
だが、儚の好奇心に触れたのはそれだけではなかった。
別れる前に、二人はこんな会話をしている。
「気になるわねぇ、あの子」
「……そうですか? 私は放っておいていいと思いますけど」
「んー、でもね。気になるのよ」
――二人は村に来る際、一人の少女と出会っている。冒頭でのべた、
(死んでいるみたいに地味な……)
と鈴音が思った、茜色の髪の少女だ。
(頭を垂れて、ひどくうつろな目をしてた。髪はばさばさで、着物なんて干からびてるみたいによれよれで、目も当てられない。絶望をそのまんま人にしたら、ああいう風になるんじゃないだろうか)
なにかあったのか、と少しくらいは鈴音は気になったが、
「たぶん、どうにもならないと思います。あんなのは、放っておくべきです」
「んー……」
「儚さん。同情なんかしない方がいいです」
「同情とはちょっと、ちがうのよねー」
「いいえ、儚さんは同情しているんです。とにかくやめましょう。修行の足しにもならないです」
「あら、めずらしくむきになるわね」
「別に、そんなことは」
「そうかしら? そうねー、そこまで云うんだったら……」
「はい」
「なおさら、あの子を助けたくなっちゃったわ」
「な……」
「ふふっ、私が聞かないことくらい分かってたでしょ? さ、話は終わり。はやく宿をさがしましょう」
そのようなやりとりがあって、結果、いまに至る。
むきになるというのは、かの少女のことを考えると心の奥底の方で、なにかささめくような、鈴音にとっては不快な音がして、それを黙らせようとする方向性のない努力が、ついつい外に表れるのであるが、鈴音にはその正体がよく分かっていない。
歩きながら鈴音は、
(儚さんは、おせっかいだ)
とりあえず、心の中だけで密かに毒づいておいた。
さて、すこし雨が落ちはじめてきた。
といっても勢いは先刻のよりも衰えていて、この程度ならば笠はない方が、
(肌に当たるのが、かえって心地いい)
と、鈴音はかぶっていた笠を脱いで歩いている。
ふと、鈴音は向こうの方から近づいてくる人影に目を留めた。
相手は傘を差しているようで、そのせいで面(おもて)はよくは分からない。
(村の人……?)
やがて相手の方も鈴音に気づき、それからいきなり、ぱあっと笑顔になって鈴音の方に歩みよってきた。
その細い体つきは少女のものだ。
「わあ、めずらしい。旅の人かね?」
「ええ。あなたはこの村の?」
「うん。ちょっと墓参りに行こうかなと思ってたところさ」
少女は手向けの花の入った手桶を持ち上げた。
この頑是ない顔つきの少女、小川びわこと云う。当年十六歳で、肌は浅黒く、髪はうしろで束ねており、狸のような、然し愛くるしい瞳をしている。前髪の垂れる額は大きく、赤みがかった頬にはそばかすが乗り、鼻は小振りで、顎は丸っこく、顔の形は名のとおり、びわの瑞々しい実のよう。首はひょろっとしていて、背丈は小柄な鈴音のそれよりも、もう一つ小さい。身にするのは縦縞の木綿で、その裾を膝の高さまで端折っている。
「いやぁ、でもたまげた。うちの村に来る人がいるなんて。あ、もしかしてお医者さまかい?」
「医者……?」
「あれ、ちがうの?」
向こうの雲水寺のてっぺんのあたりに、もくもくと灰色の雲が湧き立っていて、どうやら地雨となりそうである。
風は幽かで、ほとんど絶えている。
どう見ても剣客のいでたちをしている鈴音をびわこは医者だと勘違いした。
なにか、わけがあるのだ。
「ううん。私は医者じゃないけど、連れの人がそう。私は旅の供を頼まれただけ。一人旅はあぶないからって」
とっさに口に出た嘘に、鈴音自身おどろいた。自ら神にさわろうとしている。
そのことを鈴音は恥じた。
「おお、やっぱり! その人はどこにいるの?」
「宿をさがしに行ってる。夕暮れにあっちの」
鈴音は南の方角を目顔で示し、
「椎の木のところで落ち合うことにしてる」
「ふうん。ん、あっちならちょうどお墓の方向だ。都合がいいや、お墓参りのあとで一緒に待つことにするよ。いいかい?」
へへ、やっと村の救世主さまのお出ましかなぁ、とびわこの顔は隠しきれぬよろこびに満ちている。
羽橋鈴音はその顔を無言で見つめ、
(救世主なんて、ばかみたい)
と、自分の些細な嘘を自然に棚に上げた。好奇心と罪悪感が湧くのをすこしでも避けるためである。
鈴音ちゃんは自分であって、自分ではないようなキャラです。
だからか、書いてるとたまに悲しくなる(
あまりに理不尽な境遇におちいると、かえって恨みようがなくなってしまうものである。
べつに恨もうと思えば恨めるものはいくらでもあるし、それを恨んだところで、逆恨みだ、とか、筋違いだ、とか人が云うこともないであろう。
然し、恨めるものが空に乱れる涙のようにたくさんあるのでは、その矛先はじぶんの目ではとらえることのできぬ混乱の波へと向かってしまう。
茜色の髪をした少女のありさまは、そのようなものであった。
「……」
海を臨める崖の上に、少女はいる。
この海には鈴音たちの渡ってきた六郷川も流れついており、当然、[あんの村]も面している。
少女はさっきまでは、いまは使う者のいない古い井戸の陰でねむっていて、まもなく雨が肌をうち、そのせいで目を覚ました。
それから、蹌踉とした足どりでここまでやってきたのである。
雨はまだ熄んでいない。
雨と波の音が、呼吸のように繰り返しては少女の耳にこだましている。
(あっ……そういえば、流れ星祭りの時季だっけ……)
少女は思い出した。
流れ星祭りとはこの村に遥か昔から伝わる儀式のひとつで、恐ろしい災厄を免れるために厄神を祀るものである。花に火をつけたものを、この崖から皆でいっせいに投げて、海へ流すというのがならわしであった。
「この花は厄神さまの霊力であり、その厄神さまは海の向こうにお住まいなのだよ。だから、厄神さまに花をお返ししなくてはいけないんだ」
と、少女は父から聞いたことがある。
だが、少女はこの儀式をするのをいやがっていた。じっさい、参加するときはできる限り目立たぬようにしていたし、また、花に火をつけるのではなく、じぶんの髪の毛を一本抜いたものを燃やして、海に落としていた。儀式をおこなうのは夜の闇の中だったから、それに気づく者はいなかった。
花もいのちだから、と少女は火をつけることができなかったのだ。
そのまったく罪のないやさしさが、いまや呪いと化して少女に襲いかかっていた。
(私が花を返さなかったから、厄神さまがお怒りになったんだ)
呪いは少女に理性を忘れさせ、罪悪感だけをふるい立たせてしまい、あげく心の中でやまびこのように反響し、呪いはやがて悪夢へと変貌する。
◇
「あ、事情を知らないのか。お供の人だから聞いてないのかな? えっとね、ミサキさまがね、お怒りになっちゃったんだよ」
「は?」
「おとっつぁんとおっかさんも頑張ってるんだけどねぇ……あ、ふたりとも医者なんだ」
雨雲は変わらず空を這っていて、あたりは夕闇の色を迎えることなく夜のとばりを下ろそうとしている。
びわこはいったん墓参りに行ったのち、半刻(約一時間)くらいしてから椎の木のところまでやってきた。
鈴音はびわこには付き添わず、宿さがしを継続しようと思ったのだが、
「宿さがしなら、私が手伝ってあげるよ。そうじゃないと、たぶん話すら聞いてもらえないだろうし。みんな獣みたいにぎすぎすしてるから……」
と、びわこが提案したので、それに随うことにした。
獣みたいなことについては、外の人間は受け入れがたいという村特有の性質のせいだと、このとき鈴音は考えていた。
墓参りには、
(わざわざついていってもしょうがない)
ということでついてはいかず、また、時は酉の上刻(約五時)を過ぎたくらいで、墓へ行って戻る頃には、日暮れに合流するという儚との取り決めの時間を越えてしまいそうだったから、鈴音は木の下で待った。
して、手持ち無沙汰だったから剣の素振りをして待っていたところへ、びわこが戻ってきて、愁嘆のこもった声でミサキという名を口にし、
「おっと、私としたことが。ごめん、分からないか。ミサキさまってのは、村で祀っている厄神さまのことさ」
と締めくくり、それ以上はなにも云わなかった。
鈴音もさすがにその先は求めなかった、というのも、じぶんの勘違いに気づいたからである。
(村人が獣みたいというのは……)
あんの村は、流行り病に襲われているのだ。
思ったけど、どういう風な遺伝子構造になったら髪が茜色になるんだろうか。
……ご都合主義~!
最終更新:2011年09月15日 11:46